国鉄時代

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小学校の2年から、大学の2年まで住んでいた、家は、国鉄(JR)の線路から40メートルほどの所にありました。今は、繋ぎ目のない一本の鉄路になっていますが、そのころは、その繋ぎ目があったり、本線から貨物作業場への切り替え線があって、そこを通過する車輪が、"ゴトゴトゴト!"と音を立て、時々、汽笛が聞こえていました。家からも聞こえる音で、ちょっと「子守唄」の様でもありました。

駅も近くにありましたから、低速で電車が行き来していたので、"ゴーッ!"という騒音ではありませんでした。首都圏への通勤通学の路線でもありました。それでも甲府や松本への急行電車も走っていたのです。しかも子どもの頃の遠距離の汽車は、蒸気機関車が牽引していました。手動の遮断機の開閉式の踏切もあって、『邪魔だから、あっちに行って!』などと言われないで、上下開閉の作業を手伝わせてもらえたのです。そう言ったことが許され、できた時代でした。

その駅の近くに、「保線区」があって、線路の補修点検が行われていて、その土間の作業上にも入れてもらって、様々な作業道具を触らせてくれたのです。どうして、それができたのかと言うと、同級生のお父さんが、国鉄の保線区の作業員だったから、出入り自由だったのです。ただ改札は、駅の最前部にあって、最後部に踏切があったのです。父は、この踏切番のおじさんに、よく食べ物の付け届けをしていて、弟がその当番をしていました。そこから、父は近道でホームに入るための算段だったのです。

小学校の音楽の授業で、"ドイツ民謡"を「唱歌」として歌った「夜汽車」がありました。

1 いつもいつも とおる夜汽車
静かな 
ひびききけば
遠い町を 思い出す

2 やみの中に つづくあかり
夜汽車の 
窓のあかり
はるかはるか 消えてゆく

こう言った、上野と秋田や青森や新潟を結ぶ遠距離の鉄路を走る、「夜汽車」の情緒はなかったのですが、竹製の遮断機の重さを、まだ手に覚えています。踏み切り番のおじさんは、弟を可愛がっていて、ご自分の家に遊びに招いてくれるほどでした。昔は、そんな専門職が、子どもたちに優しい眼差しを向けてくれていたのを思い出します。

(富山地方鉄道の始発・電鉄富山駅の近くの「手動踏切 」です)
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保土ヶ谷あたりまで

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一度挑戦してみたい事の一つは、東海道を歩いて走破してみたいのです。『その年で?』と、声が聞こえそうです。日本橋から「五十三次」で、京都の三条大橋まで、この年齢で、何日かかるでしょうか。旧街道ではなく、国道1号線を、草鞋をウオーキングシューズに換え、「振り下げ荷物」をザックに換えて、「旅籠」ではなくビジネスホテルに泊まりながら、その土地、その土地の名物で外食しながらだです。そうすると、"百万円"ほどかかってしまうかも知れませんね。

箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川

それだったらザックにテントや寝袋を入れて、それを背負いながら歩いて、野宿しながら、「のり弁」や「シャケ弁」でも食べて歩けるでしょうか。野良犬や蚊に攻められる心配もありそうです。着替えなど、江戸時代の旅人は、どうしていたのでしょうか。何やら、難しそうな事ばかりがありそうです。もう多摩川を渡ったあたりで、靴擦れができてしまって、"ベソ"をかいていそうですね。

学校に行ってた頃、友人が仲間を引き連れて、「高下駄(朴葉/ホオバ、朴の木で作った下駄)」で、「東海道中膝栗毛(ひざくりげ)」をした事がありました。「二十歳の奇行(!?)」だと思って、笑っていましたが、羨ましさで彼の姿を見ていました。それ以来、心の中に仕舞い込んでおいた願いが、数年前からフツフツと湧き上がってきているのです。

「老いの戯れ言」でしょうか。結構出来そうにも思うのですが。でも便利さの中にトップリと浸かって生きて来ましたから、弱音を吐きそうです。でも、「思い立ったら吉日」と言いますから、失敗覚悟で、日本橋のたもとから始めてみましょうか。そうそう、日本に引き上げてからにしましょう。少なくとも2ヶ月はかかるかも知れませんから。

赤チンに包帯、下痢止めや痒み止め、栄養ドリンクやチョコレート、ビタミン剤なども必要でしょうか。そんな事言ってたら、江戸の旅人に馬鹿にされ、笑われてしまう事でしょう。箱根は、大学駅伝を観戦するだけで、上り坂では息切れしそうです。大井川も天竜川も「川止め」はないのですが。これをお読みの方は、もう初めから、『できっこない!』と言っていそうですね。では、取り敢えず保土ヶ谷あたりまでやってみましょう。
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甲州街道も中山道も日光街道も奥羽街道も、山道が多くあって大変そうですが、一番短いのは日光街道でしょうか。昔の人は、足が強かったのでしょうね。こちらの女性の歩き方が早いのには驚かされます。こちらが遅すぎるのかも知れませんが、いつも追い越されてしまいます。『すぐそこ!』を間に受けてると、驚くほど遠いのです。車に乗り慣れて、こちらに参りましたから、歩き専門です。感覚の"ズレ"があって、困らせられる事が多いのです。でも、ここも車社会になりつつありますから、みなさん、脚力が落ちてしまうかも知れません。
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最善

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『私はほんとうぬ死ぬつもりなんだぞ!』と言い続けた方が、先日、多摩川で入水自殺をしたと、ニュースが伝えていました。この方のお話を、私は聞いた事があって、こう言った人生の締め括りをする事に驚いたのです。それが人として最善だとは思えないからです。「自裁死」と言う最期(さいご)が、この方の考えを高く評価してきた若い人たちに、よい事の様に思われなければいいなと感じたのです。

イスラエル民族に伝えられた故事の中に、一人の自殺者の話があります。ダビデ王の顧問で、驚くほどに知恵のある人でした。ある時、ダビデの子が謀反を起こすのですが、その時、アヒトヘルは、仕えてきたダビデを見捨てて、そのアブシャロムの助言者となり、主君を裏切るのです。

日の昇る勢いのアブシャロムに加担する道を、彼は選んだわけです。こう言った生き方をする彼が、挫折を経験するのです。イスラエル人の心を盗んだアブシャロムを支持する民が増え、彼らの心がアブシャロムになびいてるのを知って、ダビデは、王宮から逃げ出したのです。

ダビデの家来で、もう一人の助言者が密命を受けて、アブシャロムに仕えるのです。アブシャロムがダビデ討伐を考えていた時に、アヒトヘルは、驚くほどの知恵で助言をしました。ところが、そのフシャイにも、アブシャロムは意見を求めたのです。彼は『この度のアヒトヘルの助言はよくありません!』と言って、自分の策略を、アブシャロムに提言したのです。何とアブシャロムは、天から託宣を受けて助言するかに見えたアヒトヘルの進言を退けてしまいました。

その人生初めての拒絶体験に、アヒトヘルは耐えられなかったのです。彼は、故郷に帰って、家の整理をして、あっけなく死んでしまいました。それが潔い死なのでしょうか。そう言った死に方を選んだ、このアヒトヘルの考え方や生き方に、決定的な弱さがあったのです。挫折や失敗で、自らの命を断とうとする代わりに、知恵者の知恵が、その事態で役に立たなかった事になります。

それで命拾いをしたダビデの家来が、アブシャロムを打つのです。この国の戦国時代の物語は、日本のそれに似ているのですが、21世紀の今日でも、「下剋上(げこくじょう)」もあり、挫折も失敗もあります。ところが、ダビデの家族間に抗争や多くの問題をもたらした原因が、ダビデ自身にありました。部下の妻に横恋慕し、子を宿らせてしまいます。さらに部下を戦いの最前線で戦死するように画策して、死なせたのです。ダビデは、《人の道》を踏み外してしまいます。

そんなダビデが老齢になって、「冷え性」で寝られなくなった時、部下が、乙女に添い寝するように段取りをするのですが、ダビデは、この娘に触れようとしなかったのです。最晩年に、ダビデは,《賢王の生き方》を取り戻していたわけです。そしてダビデは老いて、弱って、人の世話を受けて死んで行きました。

西部邁氏は、そう言った《老いゆく惨めさ》を嫌い、《病んで人の世話になる介護》を拒んだのでしょうか。謙って、老いや病を受け入れ、生き続けて欲しかったのです。少しも潔い死に方ではありません。人は、必ず死の時を迎えます。夫人の癌の闘病を看た事は大変だったのでしょうし、死別の悲しみも大きかった事でしょう。それも受け入れていく様に、人はあるのでしょう。

ご自分も病んで、子どもたちの世話になりたくなかった様です。でも、《老醜(ろうしゅう》を晒しながらでも、人は生き続ける、《最期の務め》があるのです。私は、『華々しく最後を飾りたい!』なんて考えていません。今まで迷惑をかけて生きてきた、そのついでに、もう<ひと迷惑>を、家族にかけながら生きて、カッコ悪く「自然死」の時を迎えたいと思っています。人生の最善は、『生きよ!』と言う声を聞いて、飽くまで《生きる事》にあるからではないでしょうか。

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もうすぐ

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明日は「節分」、明後日は「立春」、「寒」が終わろうとしてるのですが、とても寒いです。こんなに寒い亜熱帯のこの街は初めてです。来週の天気予報を見ますと、気温が<零下1℃>との事です。昨日、わが家に遊びに来てくれた学生さんは、『雪を見た事がありません!』と言っておられました。もっと南の街から、こちらに来て、この街の大学で学んでいるので、雪を知らないそうです。

私が6年間通った学校のある東京都府中市は、<零下8.5℃>だったとニュースが伝えていました。娘たちのいるアメリカも、ことのほか寒いそうです。「炬燵(こたつ)」があるのですが、去年の暮れに出して当たっていて、「うたた寝」をしたのが原因で、ひどい風邪を引いてしまったので、<使用禁止命令>が出ていて、しまったままです。こんな日に、コタツで丸くなったら気持ちがいいのですが、<禁>を守っています。

こんな寒いのに、北側のベランダに置いた鉢の中で、写真の様に、小さな花が開いていました。前に住んでいた家に置いてあった物ですが、小指の爪よりも小さな花が、寒さに耐えて、咲いていてくれます。曇天の空から、今にも雪が降りそうな雰囲気ですが、来週には、もしかしたら<降雪>があるでしょうか。

でも、もうすぐ春ですね。天気が安定したら、山に行ってみたいものです。寒さに負けずに、もう少し耐えて参りましょう。お元気でお過ごしください。
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トミー

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読み始めて、途中で頁を閉じてしまいました。カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」という小説です。『ノーベル文学賞を取ったイシグロさんの本を読んで見たいの!』と言った家内のために、昨秋帰国時に買い求めたものでした。彼女は一気に読んでしまい、私にも勧めたので、読み始めたのですが、読み進められませんでした。

小説など、読んでいる姿を、46年の間見た事がない家内でしたが、文章の作り方、言葉の選びが優れたイシグロ作品、さらに優れた翻訳に驚いていて、その内容を、少し教えてくれたのです。ある学校のクラスの様子から書き始めているのですが、その学校の子どもたちは、ある日、"ドナー(臓器提供者)"になる「運命」を負いながら、学校生活を続けるのです。それは実際は、特殊施設でした。

捕虜や誘拐されたり、死刑囚たちから「臓器」を取って、希望者に移植する話は、現実に話として聞いた事があります。また、「スマホ」が欲しくて、臓器を売ってしまう青年の話も聞いた事があります。このカズオ・イシグロの話は、小説上の話で、架空ですが、何か現実味がある様で、怖くて読めなかったのです。

地球の何処か片隅で、お金目当てに、また科学者魂で、《闇移植医療事業》を展開しているのではないかと思ったら、怖くなったわけです。小説の施設の子どもたちにも、将来の夢があり、愛する人にも会いたい願望があるのに、人としての夢は叶えられずに、臓器提供後は死んでしまう運命にあるのが驚きでした。

作品では、その子どもたちが「クローン人間」なのです。カズオ・イシグロが着想を得たのは、1996年にイギリスで、「クローン羊」が誕生した頃だった様です。将来起こりうる「クローン人間」への危惧を感じて、警鐘の様に書き上げたのでしょうか。そうしましたら、今度は、中国で「クローン猿」が二頭、生まれているというニュースがありました。「生命」の領域に、人間の科学が踏み込んでしまって、取り返しがつかない事になるのではないかと、恐れます。

わたしを離さないで」の主人公の"トミー"は、どうなってしまったのでしょうか。心配でなりません。「生命操作」のことを考える時に、「スパルタ」や「ナチス」が行った《弱者切捨》、《役立たず抹殺》を思い出してしまいます。《強く優秀なもののみが生きられる社会》ではなく、弱者と思われるみなさんと一緒に生きていくべきでしょう。《《生命倫理》》の上で、人間が、これ以上に傲慢にならないことを切に願う二月です。

(カズオ・イシグロの出身地・長崎の「眼鏡橋」です)
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永訣の朝

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宮沢賢治の詩に、「永訣の朝」があります。

けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
うすあかくいっさう陰惨<いんさん>な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
青い蓴菜<じゅんさい>のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀<たうわん>に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
蒼鉛<さうえん>いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
 銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
…ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系<にさうけい>をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびゃうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
   (うまれでくるたて
    こんどはこたにわりやのごとばかりで
    くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

「あめゆじゅとてちてけんじゃ」とは、『雨雪を取ってきてください』、「(Ora Orade Shitori egumo)おらおらでしとりえぐも」は、『私は一人で逝くよ』と、宮沢賢治の出身地の岩手・花巻の方言です。死に逝こうとしている、24歳の妹の「とし子」との悲しい別れを詠んだものです。愛しい妹との別れに、天上のいのちの幸いを願う優しい兄・賢治の心が見て取れます。

貧しい時代の山形を、誰かが、「日本のチベット」と言い放ったのですが、美しい自然の土地で、暖かな人情に溢れた土地なのです。高校の「現代文」の教科書に、この詩が取り上げられています。今年も「芥川賞」を受賞された、若竹千代子さんは、この「永訣の朝」の一節、「おらおらでしとりえぐも」を題に、ご主人と死別した夫人の生き方を書いたのだそうです。

誰もが経験し、誰もが経験させる人の最後の訣別を、「永訣」というのですが、見送られる方も、見送る方も、辛い経験ですね。ちっと早く召された父には、し残した事がありましたし、長寿を全うした母の後半の人生には、遠くにいて十分な感謝ができなかった事が、ちょっと残念ですが、許してもらえた事でしょう。再会の望みの中で。

(花巻市の市花の「ハヤチネウスユキソウ(早池峰薄雪草)」です)
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歴史

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先週、河岸の散歩道を歩きながら、この街の歴史を刻んである石版を見ていましたら、『1657年1月15日大雪!』だったそうです。積雪が、<三尺(1mほど)もあった様です。この11年もの間、一度も雪を見た事はなかったのですが、今季は寒波が厳しいので、降る雪を見られるかなと思っていますが、どうなる事でしょうか。「黄檗宗(おうばくしゅう/日本の禅宗の一派です)」が、この街で活動を開始したのも、その少し前だったとありました。

「清代」の動きが、結構詳しく刻まれていて、文献で研究して見たら面白い事を発見できるかも知れません。やがて軍港になるのですが、街の北の方の河口近くに、「港」が開かれて、「海運業」が興り、海外との交易が頻繁になり、外国人の渡来も多くなって行く時期だった事が記録されています。

日本との交易が賑やかだったのは、宋代で、「日宋貿易」も、10世紀の後半(平安時代の末期から鎌倉時代の中期に行われています)に始まっています。九州の「博多」や北陸の「敦賀(つるが)」が、中心的な貿易港として発展し、大陸からの商人たちの「居留地」も、そこにはあった様です。幕末の「横浜」の様だったわけです。大陸の主要な貿易港は「寧波ningbo(唐代には"明州mingzhou"と呼ばれていました)」で、当時は、中国南方の最大港の上海ではなかったのです。そこから海運で、物資が、この街の港にも運ばれてきたのでしょうか。

その貿易内容は、日本からの輸出品は、金、銀、硫黄、水銀、真珠、工芸品(刀剣・漆器など)でした。また、宋からの輸入品は、宋銭、香料、薬品、陶磁器、織物、絵画、書籍などで、随分と博多の街は賑わっていた事でしょう。この輸入品の「宋銭」は、日本の貨幣制度を導入する契機となった様で、大きな意味があったわけです。

中国の宋代、日本の鎌倉時代(この時代には国家間ではなく民間貿易だった様です)は、めまぐるしく人やものが動いていた時代で、日本人が溌剌(はつらつ)としていたのです。良いものを受け入れて、それを改良して流通させて行くと言った、日本人の特性が、十二分に発揮できた時代だったからでしょう。何と言っても平清盛は、日宋貿易に積極的で、その「博多」の港は、彼が作らせた<人工港>でした。

あの勇名を馳せた「倭寇(わこう)」が、裏で活躍していて、宋や朝鮮半島の高麗(こうらい)だけではなく、東南アジアまで、駆け回っていた様です。海洋国家の日本にとって、海は、自分の庭の様なものだったのでしょうか。中国側の寧波は、現代でも、上海の陰に隠れている様ですが、一大貿易港湾として、賑やかで豊かな街だそうです。そこも、一度訪ねたいのですが、どうなる事でしょうか。

日本の「鎖国」は、内に文化を育んだのですが、外に向かって雄飛する気概を抑えてしまったので、「盆栽」や「箱庭」の様に、コジンマリしてしまって、大らかさを削いでしまったのでしょう。人の顔色ばかり見て、ものを言えなくなってしまったのです。でも悪さを余所の国にしなくなったのは、良かったかも知れませんが、眠った子が起こされる日が、やがて来るわけです。《歴史》って、面白くて興味が尽きません。

(寧波の古写真の港の様子です)
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雪かき

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もう12年ほど、この季節にしていないことがあります。それは「雪かき」です。私たちの事務所があった建物の玄関の前と横の道路は、中学校と小学校の「通学路」でした。雪が降って、踏み固められてしまうと、凍結して溶けにくく、歩行する時に滑ってしまいます。玄関が北向きでしたので陽が射している時間が短く、一旦凍ったら、なかなか溶けませんでした。

それで雪が降り始めると、車や足で踏み固められる前に、「雪かき」をしたのです。隣の化粧品店のご主人と、何時も隣り合わせでやっていました。この方が年をとってこられて、えらそうになった時から、隣の分のお手伝いをして上げました。とても喜んでおいででした。寒冷地で、年寄りだけが住んでいる地域では、さぞかし「雪かき」が大変なことでしょう。

今年、日本では大雪が降ったそうで、「雪かき」が出来ているかどうか、ここ海の向こうから、ちょっと心配しています。事務所が開所して37年ほど、年に三、四度ほど、「雪かき」をした覚えがあります。事務所の近くに住んでいた時はよかったのですが、ちょっと遠くに越してからは、車で出かけては済ませ、空を見て、道路を見て、積もりそうだと思うと、また駆けつけたりしたのです。「冬の風物詩」として、ちょっとえらかったのですが、とても懐かしく思い出されます。

ここは降雪地帯ではないですし、凍結する事もありません。ただ大きな河川の近くに住み始めたせいでしょうか、湿気が強くなっているのを感じます。人間の住まいや生き方など、ちょっとした事で、随分と違いあるものだと感じ入ってしまいます。今日の天気は曇り、寒いし、空を見上げていると、チラチラ降ってくるのではないかと錯覚しそうです。

駅でも、店の前でも、今年の寒波の降雪で、駅員さんや店員さんは、手にスコップや雪かきを持って、「雪かき」に励んでいらっしゃる事でしょう。『電車を出せ!』と、怒鳴り散らす乗客がいるそうですが、懸命に除雪や復旧に努めている事を知って欲しいものです。旧国鉄の保線区のおじさんが、線路の切り替え部分を、降雪時に凍結しないように、小さな火つけて、油を絶やさないように補充しながら保線している姿を、子どもの頃に見掛けました。真夜中でも、そうして、列車の運行を塩梅(あんばい)していたのです。それにしても今年は寒いですね。お風邪を召されません様に。

(鉄路の「カンテラ式融雪装置」の火が見えます)
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ヨーロッパの国の中で、「オランダ」は、日本にとって一番馴染み深い国であったに違いありません。江戸幕府が、あの「鎖国」をした時に、唯一、このオランダとの交易を許して、長崎の「出島」を「貿易港」としたのです。1621年から1847年までの227年間に、オランダ船が「700艘」ほど来航し、 出島に接岸して、貿易が行われたと言われています。

それででしょうか、長崎の異国情緒を歌った歌が多くあり、「オランダ坂」とか「オランダ屋敷」とかを聞き覚えがあります。幕末以降、イギリスやアメリカに留学を志して出かけた人が多かったのですが、鎖国下で、多くの若者たちが、日本全国から、ここ長崎に遊学して、特に「医学」や「オランダ語」や「蘭学」を学んだようです。

これ以前は、安土桃山時代から、「南蛮貿易」が行われてきていましたが、江戸幕府は、これを禁じて、海外との交流を遮断してしまうわけです。子どもの頃に、「ギヤマン」や「エレキ」と言う言葉を聞きました。英語を覚える前に覚えていたのを思い出します。

私は、19歳の時に、九州に旅行した時に、この街を訪ねた事がありました。坂道が多く、やはり異国情緒が感じられてくる様だったのは、この街の歴史を知っていたからでしょうか。「紅毛人」と呼ばれたオランダ人を見かける事はありませんでした。このオランダ人は、若い頃に出会っ方が一人いました。結構日本語も、よく話せて、大きな体の方で、にこやかにしておいででした。

幕末に青年期を過ごしていたら、この私も、長崎に出かけていたでしょうか。 「解体新書」とか「蘭学事始」とかで啓発されて、海外遊飛のを夢見る青年であったかも知れませんね。明治以降も、「お雇い外国人」の中にも、多くのオランダ人がいたと言われ、横浜で活躍した、「フルベッキ」などを知っております。

向学心に富み、新し物好きの日本人にとって、「長崎」は、世界に向かって開かれた「窓」であったわけです。ここでの学びが、「明治維新」への原動力の一つになっていたことは確かです。「東日本大震災」の折には、オランダからの支援も大くあったそうで、大平洋戦争の折のジャワ侵略で、オランダとの関係は好ましくなかったのですが、関係回復がなされてきている様です。長崎が「被爆都市」、オランダがチーズと運河と風車の都市や国だけではないのですね。

(出島のオランダ商館のオランダ人と日本人の様子です)
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