『日本人って凄いんだ!』

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 『日本人って凄いんだ!』と、幼い日に感じたのが、水泳選手の「古橋広之進」が、1949年6月に、ロスアンゼルスで行われた「全米選手権大会」に招待されて、優勝したことでした。日本の社会全体が、沸き立っていたのを、幼い私も感じたのだろうと思うのです。400m自由形、800m自由形、1500m自由形で世界新記録の成績を残したのです。「フジヤマのトビウオ(The Flying Fish of Fujiyama)」と、新聞が書き立てて、アメリカ人を驚ろかせたのみならず、すべてを戦争で失ってしまった日本人を歓喜させたのです。左手の中指(第一関節より先)を怪我で失ったハンディーを抱えながらの優勝は、絶賛されました。

 次いで、ノーベル賞を、「湯川秀樹」が受賞したのも1949年のことでした。物理学の世界で、世界的な学者がいることに、日本が喜び、驚かされたのです。敗戦で全く打ちのめされ、自信喪失していた日本人が、学問の世界でも一流であるとの評価を受けたのです。私には、わからない事だらけですが、『日本人って凄いんだ!』ということが伝わってきたのです。

 プロボクシングに、「白井義男」という選手がいました。1952年に、アメリカ人のチャンピオンを倒して、全世界フライ級チャンピョンの栄冠を手にしたのです。日本人が世界のタイトルを初めて取ったことは、若者たちのボクシング熱を煽ったと言われています。白井は、ボクシングを、スポーツとして高く評価し、そのために大きく貢献したのだと思われます。

 もう一人、相撲の世界から転身して、プロレスリングの世界で活躍したレスラーに、「力道山」がいました。1958年に、アメリカ人レスラーのルー・テーズを破って、世界チャンピオンになったのです。テレビが出始めたこともあり、驚くほどに日本中を沸騰させたのです。見世物といった色彩の強いものであったのですが、当時の力道山の人気というのは、前代未聞、あれほどの人気者は、その後は出なかったのではないでしょうか。国籍の問題もありましたが、本名の百田光浩は一世を風靡したスポーツマン、エンタテイナーだったといえるのです。

 あれから半世紀が過ぎ、今年ノーベル医学賞に輝いたのが、「山中伸弥」です。京都大学の教授で、様々な種類の細胞に変化できる〈iPS細胞(新型万能細胞)〉を作製した功績が評価されての受賞でした。爽やかな、気取らない、庶民的で、妻子をこよなく愛する好感の持てる人です。多くの優秀な学者たちが、研究環境の整ったアメリカなどに流出していく中で、日本に留まって、偉業を達成したことは、夢を持たなくなったと言われる子どもたちに、『日本人って凄いんだ!ぼくもやってみたい!』という自信と、気概と、挑戦の意欲をもたせたことは、実に大きいのではないでしょうか。

 人間は、『ダメなんだ!』と言われ続けると、ついには駄目になってしまうのだそうです。だったら、『できる!』と言い続けるなら、できるようになるのです。小学生、中学生、高校生が、『日本人って凄いんだ!』と思い続けるなら、凄い日本人になれるのです。そうなって、祖国に貢献し、やがて、世界、人類に貢献するような「人」になって欲しいものです!

(写真は、受賞会見にのぞむ山中伸弥京大教授夫妻です)

再び、「赤とんぼ」

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 高校3年、進路を考えていた時に、気の多い私は、「大学進学」と「アルゼンチン移住」、これが駄目だったら「自衛隊入隊」という、3つの選択肢を考えついたのです。結局、大学に受かりましたので、後の二つは幻のように消えてしまいました。中高と6年間、男子校で過ごした私は、その反動で、女子大には入れてもらえませんので、女子大学生の多い大学と学科を選んだのです。動機が悪かったのですが、何とか入ることができました。少々強い運動部にいましたので、推薦がとれたのですが、それには目もくれずでした。

 その大学で4年間学ばせてもらった私は、とても素晴らしい時を過ごせたことを、今思い返して、大学に進ませてくれた父と母に、心から感謝しているのです。私のゼミには、「ゼミ歌」がありました。三木露風が作詞し、山田耕筰が作曲した「赤とんぼ」でした。

夕焼小焼の赤とんぼ
  負われて見たのは いつの日か
山の畑の桑の実を
  小かごに摘んだは まぼろしか
十五でねえやは嫁にゆき
  お里のたよりも 絶えはてた
夕焼小焼の赤とんぼ
  とまっているよ 竿の先

 子どもの頃の懐かしさと、学校時代の思い出が重なって、歌ったり、聞いたりしますと、様々なことが思い出されてくるのです。NHKに、私と同窓の先輩がいました。独特な節回しをするアナウンサーで、「中西龍(りょう)」といいました。この方が、「にっぽんのメロディー」というラジオ番組を担当していたのです。第一放送で、1977年から1991年までの夜に放送されていました。この番組のテーマ曲が、この「赤とんぼ」でした。まいたび、この曲を聞きますと、胸が『キュン!』としてきて仕方がありませんでした。この曲が流れると、『歌に思い出が寄り添い、思い出に歌は語りかけ、そのようにして歳月は静かに流れていきます。』 と始まるのです。そしてリクエストされたはがきが二通読まれ、二曲のリクエストの歌が放送されていました。

 この番組の放送の時間、家にいるときは、妻や子どもたちに内緒で、布団の中に携帯ラジオを持ち仕込み、イヤホーンで聞くのを、ほとんど唯一の楽しみにしていたのです。他に趣味のなかった私のお金のかからない〈道楽〉でした。今思い出すと、流行歌を聞きたかったと言うよりは、「赤とんぼ」の挿入曲を、繰り返し聞きたかったのだと思うのです。

 『骨折り損の、くたびれ儲け!』という言葉があります。今朝は、4時過ぎに目が覚めてしまいました。授業のある日だったので、横にならないで、そのまま起きて、本を読んだりしていたのです。時間が来たので、7時前に家を出て、コピーをする必要もありましたので、店に寄って、4階の教室に行きましたら、教室がロックされていたのです。それで、管理人室に鍵を、と思って降りたら、そこに管理人がいて、『今日は授業がありません。運動会ですから。』と言われたのです。

 しっかり調べなかったのがいけなかったのですが、儲けたのは〈くたびれ〉ではなく、〈時間〉でした。それで、踵を返して、喜んで家に帰りました。それで今日はハイキング日和、真っ青な空の秋そのものの一日でしたので、家の前からスーパーマケットの送迎バスに乗せていただいて、川岸にある「公園に」にでかけました。家内と私の共通の友人のご婦人をお誘いし、そのスーパーで落ち合い、向日葵畑や様々に咲く花を見て回りました。昼前に、持っていったお握りや煮しめで昼食を、三人でとったのです。池の淵のベンチに座っていたら、「赤とんぼ」が、じっと止まっていたのを、家内が見つけました。見ていたら懐かしさがこみ上げて、涙が流れそうになってしまいました。帰りには、そのスーパーで買物をし、家の前まで送ってもらいました。よい秋の一日に感謝した次第です。

(写真は、八王子市恩方にある「夕焼け小焼け・ふれあいの里」です)

正念場

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 上海で、会社経営されておられる現地法人の社長が、中国との決別を、『本気で考えているのです・・・ところが、なかなか最終的な踏ん切りがつきません!』とおっしゃっておられうようです。この彼は、その理由を次のように語っておられます(「ダイアモンド・オンライン」の記事から)。

 ・・・『中国人従業員たちが気がかりだ』と語る。たった30人のメンバーだが、そこには家族同然の感情がある。彼らはいつも目を輝かせて技術指導を受け、『社長、社長!』と慕ってくる。そんな従業員を経営者は食事に連れて行ったり、上海の自宅に招いたりもする。
 反日デモについても朝礼で取り上げた。『君たちはどう思う?』――。こうした非常時でも、タブーなく互いの考え方を言い合える関係を、7年かけて築き上げた。
 毎年秋には恒例の社員旅行がある。今年は反日デモが落ち着いた10月に、浙江省の海沿いの観光地に連れて行った。従業員は四川省や安徽省、江西省 など内陸からの出身者が多く、彼らにとっては生まれて初めて見る海だったという。彼らは『もう二度と海を見ることもないだろうから!』と言って、秋の海には しゃいで飛び込んで行った。
 『なんだかんだ言っても、俺には彼らがかわいくてたまらない。そんな中国人従業員を捨てられるものか!』とAさんはいう。
 反日デモで揺れる日本企業だが、Aさんは社員旅行でそんな思いを強くしたようだ。・・・

 七年間手塩にかけて育て、面倒を見てくれた社長を慕う中国人従業員がいること、また若い従業員を家族のように思う経営者がいるのを知って、感動でした。この中国の日系企業者の中に、儲けるだけの目的でない経営者がいることを、中国のみなさんに知ってもらいたいと思ったのです。ミャンマーやバングラディッシュに、拠点を移すことだってできるのですが、それを躊躇させている、《中国人への愛》が、私に迫ってきたのです。

 貧しい農村から出てきた青年たちを、搾取するだけの経営者だっているかも知れませんが、驚くほどの家族愛を持って世話をしてきた、この社長の《悔しさ》を感じてならないのです。この夏、上海から乗り込んだ船に、内陸の農村から出てきた娘さんたちが四人ほど同船していました。『どこへ行くの?』と聞いたら、『大阪の水道のメーターを作る工場に働きに行くんです!』と答えてくれました。船に乗って海を渡り、外国に行くなんて、初めての経験で、期待と不安とで、彼女たちの心が満ちていました。それで互いに励まし合っていたのです。『日本語を少し勉強してきたので、発音を直してくれますか!』と言うことで、しばらく〈甲板授業〉をしました。それを、とても喜んでくれたのです。

 しばらく交わっていると、夕食を食べる様子がなかったのです。彼女たちには、船のレストランの一食800円もする食事代は、人民元で60元以上もするのですから、食べられなかったようです。そこで私は、ちょっとおせっかいなことをしてしまったのです。『日本に、つらいことが待ち受けてるかもわからないけど、一生懸命に働いてね!』という気持ちを込めて、〈就職祝い〉にカップヌードルを差し入れしてあげたのです。大変喜んでくれた彼女たちは、翌朝、大阪港から、迎えのバスに乗って就職先に向かいました。

 日本での経営者が、低賃金の労働力で働かせるだけではなく、賃金や福利厚生のめんで、厚遇してもらえるような祈りをもって見送りました。このままで、中国と日本は決裂してしまっていいのでしょうか。きっと何か建設的な解決の道筋があると思うのです。知恵の出し比べの〈正念場〉というのが、今なのではないでしょうか。中国で働く若者たち、そして日本で働く若者たち双方が、将来家庭を築いていくであろう彼らが、金銭的にも精神的にも豊かになって欲しいと願う、華の金曜日の夕方であります。

(写真は、上海で、「蘇州号」に乗り込んだターミナル、対岸に上海テレビ塔が見えます)

映画

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 2010年に、映画「キャタピラー」が上映されました。若松孝二監督の作品で、「ベルリン映画祭」では、主演の寺島しのぶが「銀熊賞(最優秀女優賞)」を受賞しています。この映画を作るにあたって、若松孝二は、『・・・男たちを戦場へ送り出して残された女性たち、それも大都会ではなく、例えば農村に残された女性たちの姿を通して、戦争がいかに愚かなことであるか描いてみよ うと考えたのです。いかなる戦争であれ、正義のための戦争というのは存在しません。どんな理由をつけようと、戦争はただの殺人です。そして戦争が起こった時、最も苦しむのは、政治家や兵士ではない。子どもたち、さらには女性たちです。戦争によって、女性がどれほどの苦しみを押しつけられるのか。それを描い たのが、この「キャタピラー」という映画です。』と語っています。

 1939年生まれの若松孝二は、戦時下に生まれていますから、宮城の農村から出征していく兵隊たちのほのかな記憶が、子ども心に残っているのだそうです。『甲府の街が燃えて、空が真っ赤になっているのを、山の中の家から見たのを覚えている!』と言った兄と同学年ですから、彼らも戦争を引きずりながら生きてきたことになるのでしょうか。その彼が、過去の《愚かな戦争》を描いて、平和の中に迷走する日本の社会に送り出したのです。この映画は、日本でよりも、ベルリンで高い評価を受けたのは、やはりヨーロッパを戦争に巻き込んだ国であったからでしょうか。

 初めて観た岩松作品でしたが、噂に聞いてきた彼の作品とは違って、『好かった!』と思わされたのです。戦争を知らない世代への一つに強い主張だと思います。戦争で大怪我をし、四肢を失い、話すことも聞くこともできない姿で復員してきたのが主人公の夫です。幾つもの勲章を受け、地元の新聞にもその戦功が讃えられ、送り出した村人からは、「軍神」に祀り上げられるのです。傷痍軍人になって帰ってきた夫の世話を、妻は献身的にするのですが、かつては暴力を振るっていた夫を、嫌々世話をするのです。時々、軍服と軍帽を着せ、勲章を胸に下げて着飾らせた夫を、「軍神」として連れ出して、村の中を巡回するのです。軍神の妻として、ほめられていい気分になる姿を、寺島しのぶが好演しています。しかし夫と二人になるときは、憎しみや嫌悪感を表すのですが。

 やがて、戦地での陵辱の光景がフラッシュバックしてきて、それに主人公の夫がさいなまれる場面が、映しだされます。それは、やはり日本の軍隊、日本の軍人たちが持っていた隠された素顔の一面だったのでしょうか。若松孝二は、そこを描きたかったのではないでしょうか。『軍神だと祀り上げられても、戦地では盗みや婦女を暴行した獣だったのだ!』、そういった彼らが、兵士の中にいた事を強調したかったのでしょう。死線をさまよう兵士の狂気があったことは、否めません。統計をみますと、中国大陸で、日本軍によって殺害された中国の兵士と民間人のみなさんの数は、1100万人にも昇るとの統計があります。実に膨大な数ではないでしょうか。ですから、「反日」があって当然なのかも知れません。

 主人公の夫は不自由な体で、家から這って出て、家の前にある池に身を投じて死んでいきます。人道に悖(もと)った行為を最前線でしたことの罪責感に責められ、精神的に追い込まれて、そういった最後を選ぶのです。こういった悲劇で終わります。銃後の妻たちの葛藤を演じた寺島しのぶは、やはり歌舞伎役者の子として素晴らしい演技者だと感心させられました。生々しく戦争と、戦争被害と、罪責を描きつつ、岩松孝二が訴えているのは、やはり《反戦》なのです。この若松孝二監督が、昨日亡くなられたとニュースが伝えていました。戦争と戦後を橋渡しした世代の人だったのですね。ご遺族の上にお慰めがありますように!

(写真は、映画「キャタピラー」で主演を演じた寺島しのぶです)

きっと!

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 近くの「超市(スーパーマーケット)」での先ほどの光景。
 レジに並んでる私の前の客。三十前のご婦人。『2毛ある?』と言われて、無言で、レジの台の上にお金を投げたのです。渡すのでも置いたのでもなく、投げたのです。おかねを投げるという仕草が、中国に来て一番驚いたことでした。今は慣れましたが、「金」に「お」をつけて「お金」というように躾られてきた私は、物を乞う人の缶の中に、お金を入れるのにも、決して「投げる」ことはしません。静かに「入れる」のです。『この人、怒ってのかな?』と思うと、平然としているのです。『親や、自分の子どもにお金を渡すときも、投げるのかしら!』と、思ってしまうのですが。『感謝があったらこういった行動はしないよね!』と思うのですが、いかがでしょうか。最近では、台湾系とイギリス系とフランス系のスーパーのレジは、『歓迎!』の言葉を語りかけてくれますが。『買ってもらう!』という思い、『売っていただく!』という思いが欠如しているのでしょうか。

 文化といえば文化、伝統といえば伝統、習慣といえば習慣ですが、『これだけは改めて欲しいなあ!』としきりに思うのです。先日も、公共バスに乗っていて、80代のご老人が乗って来ました。この国では、70歳以上は市内バスの料金は無料になっているのです。それで「老人カード」を提示するわけです。ところが、この方は提示しないで乗ってきたのです。運転手、40歳ぐらいでしょうか、烈火のように怒って、『カードを見せろ!』と何度も何度もいうのです。もちろん提示をしなかったのはいけないのですが、物には言い方があります。言われたご老人は、恥をかいて、照れ笑いをしていました。ズボンのポケットの中から身分証とか一緒になって輪ゴムで一緒にしてあった中から、カードを見付け出して、提示していました。義務違反ですから、老人に落ち度があるのは事実です。この様子を見ていた私たち乗客も、ハラハラして眺め、実に不愉快でした。

 昔から、この社会は「敬老精神」に富んでいたのですが、この運転手は『無礼者!』です。最近の若い人たちの多くの方は、家内や私がバスに乗ると、スクッと立って席を譲ってくれるのです。大学生、若い勤め人、四十代の男性の方が、よく譲ってくれます。それで『謝謝!』と言って座らせてもらうのですが。私は中国が好きですし、中国人も大好きですが、人間と人間の間に、もう少し「潤滑油」が必要に感じております。買ってあげたのだから、『ありがとう!』などいう必要はない、と知人に言われますが、私たちは、つい『ありがとう!』と言ってしまいます。たまに、『謝謝!』と言っている中国人を見かけますが。そういえば、昔の日本は、同じだったのではないでしょうか。日本が、「アメリカナイズ/Amricanize(アメリカ風)」されてから、労い感謝することば使われ始めたのです。昔、公務員の態度が悪かったですよね、警察官も。ところが今では、みんな変えられてしまいました。例外は別として。3年後には、あの三十前のご婦人も、洗練された態度の女性になるのではないでしょうか。きっと!

(写真は、この秋のゴールデンウイークの時の「万里の長城」の様子です)

徳川様

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江戸時代、幕府が嫌ったものに「橋」がありました。幕府のお膝元を守るために、防衛上の理由から、河川に橋をかけることを禁じたのです。江戸市内には、日本橋とか永代橋とかありましたが、多摩川にも江戸川にも「橋」はありませんでした。それで橋を渡るには、「渡し舟」が利用されたのです。

1978年に、「矢切の渡し(作詞・石本美由起、作曲・船村徹、歌・ちあきなおみ)という歌謡曲が発表されました。

つれて逃げてよ
ついておいでよ
夕ぐれの雨が降る 矢切の渡し
親のこころに そむいてまでも
恋に生きたい 二人です

見すてないでね
捨てはしないよ
北風が泣いて吹く 矢切の渡し
噂かなしい 柴又すてて
舟にまかせる さだめです

どこへ行くのよ
知らぬ土地だよ
揺れながら艪が咽ぶ 矢切の渡し
息を殺して 身を寄せながら
明日へ漕ぎだす 別れです

この「渡し」は、江戸川を挟んで、江戸の柴又と下総(しもうさ)の矢切との間を行き来していた「農民船」でした。この歌謡曲は、江戸を捨てて、下総に駆け落ちしていく二人を歌ったものですが、「親の心に背く恋」だから歌になるのでしょうか。

私が育った街にも、かつては「渡し船」がありました。多摩川を挟んで立川の対岸にある宿場街、「日野宿」です。「内藤新宿」から数えて五番目の宿場で、川の近くに宿場があったというのは、雨季の増水で「川止め」になると、雨が上がって、水が引くまで、川を渡れなかったからでした。その様子を描いた、山本周五郎の時代小説、「雨あがる」があり、映画化までされていますが、徳川様は、ずいぶんと厄介なことをしたものです。

この渡し場のあったあたりで、子どもの頃によく泳ぎました。すぐ上の兄が、「鰻」をとるための「仕掛け」をしていた川でしたが、一匹もとれた試しがありませんでした。勉強のためには早起きなど決してしない兄が、このためには、薄暗い中に起きだしていったのには驚かされたものです。石本美由起が、「矢切」と詠み、「・・・ 揺れながら艪が咽ぶ 日野の渡し・・・」としなかったのは、語呂が合わないからであり、多摩川には、「駆け落ち」のような色恋沙汰とは相容れない健全さがあったからでしょうか。そう言っても、この渡しのそばにあった「佐藤道場」では、若かった近藤勇とや土方歳三や井上源次郎が剣道の練習をしてしたのです。その彼らが、やがて幕府に従う「新選組」を担ったことは、日本史の一頁を記した「青春群像」ということになります。同級生に土方や井上がいましたが、遠縁の子孫だったのでしょうか。

好きなもの

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 好きな映画は「ジャイアンツ」、好きな男優は「ジェームス・ディーン」、好きな女優は「フランソワ・アルヌール」、好きな音楽は「ジャズ」、好きな楽器は「サキソフォン」、好きな音楽家は「モーツアルト」、好きな噺家は「金原亭馬生」、好きな浪曲師は「東家浦太郎」、好きな歌謡曲は「満州里小唄」、好きな男性歌手は「水原弘」、好きな女性歌手は「加藤登紀子」、好きな唱歌は「ゆうやけこやけ」、好きな漫画は「赤胴鈴之助」、好きな画家と絵は「フランソワ・ミレー」の「晩鐘」、好きな野菜は「トマト」、好きな果物は「ドリアン」、好きな洋菓子は「チョコレート」、好きな和菓子は「きんつば」、好きな乳製品は「チーズ」、好きな飲物は「アールグレイの紅茶」、好きな店屋物は「ざるそば」、好きな西洋料理は「ラザニア」、好きな中華料理は「小龍包」、好きな調味料は「ケチャップ」、好きな漬物は「梅干し」、好きなことばは「詩人たれ!」、好きな本は「ばいぶる」、好きな詩人は「山村暮鳥」、好きな小説家は「石坂洋次郎」、好きな小説は「堕落」、好きな政治家は「廣田弘毅」、好きな経営者は「井深大」、好きな思想家は「ジャン・カルヴァン」、


好きな学者は「矢内原忠雄」、好きな歴史人物は「高杉晋作」、好きな教師は「内山先生」、好きな国は「日本」、好きな大都市は「ブエノスアイレス」、好きな地方都市は「駒ヶ根」、好きな季節は「夏」、好きな島は「シンガポール」、好きな岬は「日御碕(島根)」、好きな港は「境港」、好きな海浜は「霞浦(福建省)」、好きな湖は「クレーター・レイク(オレゴン州)」、好きな海は「日本海」、好きな川は「清川(山梨)」、好きな山は「入笠山」、好きな高原は「志賀高原」、好きな景色は「九寨溝(四川省)」、好きな木は「ひのき」、好きな花は「むくげ」、好きな香りは「挽いた直後のコーヒー」、好きな動物は「バッファロー」、好きな歴史人物は「高杉晋作」、好きな帽子は「麦わら帽子」、好きな服は「アロハシャツ」、好きな履物は「下駄」、好きな乗り物は「自転車」、好きな鉄道は「一畑電鉄」、好きな駅舎は「日野駅」、好きな観戦スポーツは「箱根駅伝」、好きなスポーツは「テニス」、好きなテニス選手は「キャロライン・ウオズアニッキ」、好きな野球選手は「与那嶺要」、好きな相撲取りは「琴ヶ浜」、好きな光景は「朝焼け」、好きな時間帯は「東雲の頃」、好きな色は「緑」、好きな音は「潮騒」、そして「妻」です。

(写真上はJR中央線の「日野駅」、中は「トマト」、「ラザニア」、下は「ジェームス・ディーン」です)

You did good job!

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 大リーグで活躍している選手で、今シーズン注目を浴びたのが、ヤンキースの黒田博樹投手です。37歳ですから、野球界では高年齢選手になりますが、親切にベテランというべきでしょうか。イチローにしても松井にしても三十代の後半、私の子どもたちと同世代です。その黒田が、ニューヨーク・タイムズのインタビューで、「日本式野球」を語り、それがニューヨークっ子を驚かせているそうです。

 「そういう時代だったんでしょうね。練習中に水は飲んではいけないと監督が信じていましたから。みんなよく気絶したものです。自分も川に水を飲みに行きました。きれいな川ではありませんでしたが、きれいだと信じたかったですね」、「野球を続けるためには、生き残らなくてはならなかったのです。そのためには免疫機能を鍛えるなければいけなかったですね。小学校のときから軍隊にいるみたいなもので、ミスをすればケツバット。次の日は椅子に座れない」 、「大学1年生のときは基本的に奴隷です。洗濯ができていないと、今度は熱くなっている屋根の上に正座させられました。足の感覚がなくなり、はって部屋に帰ることになるのです」、などと答えたのです。それで、「子供のときは野球が楽しいと思ったことはないです。もし試合で200球投げろと言われたら、疲れるでしょうが、やると思います。そうやって教えられて来ましたから」と同紙に笑顔で黒田はこたえています。

 学校の運動部のことを、私が語りたくないのは、黒田の言うようなことがあったからだと思います。彼の父親の時代ですから。中学に入ってバスケットボールを始めたのが1957年でしたから、戦争が終わって、12年ほどしか立っていなかったのです。高校の部活動と一緒に練習を指定ました。そこには、高校を卒業した大学生や、すでに大学を卒業していたOBがやってきては、練習の指導をするのです。彼らは、軍隊帰りのOBにしごかれた方法を受け継いでいましたから、黒田投手の時代よりも、さらに野蛮でした。

 昨日、息子の講演を、家内と一緒に聞いたのですが、彼が、中学校の野球部で、黒田投手に似た経験をしていたようで、親の知らない所で、軍隊風な「しごき」が行われていたわけです。彼は決して話しませんでしたから。〈精神力〉とか〈根性〉と言っては、『これこそが強くなる秘訣だから!』と、暗黙のうちに認められていたものです。もちろん、「焼肉食べ放題◯◯亭」に連れて行ってもらって、戦勝会や納会をした懐かしい思い出も、息子にはないわけはないのですが。

 上級生が下級生に「焼きを入れる(goo辞書によりますと、『・・・2 ゆるんだ気持ちを引き締めさせる。また、制裁や拷問を加える。「後輩に―・れる」 』)」ことをした、苦くて、ひどい思い出があります。会ったらお詫びしないといけないと思っていますが。いつも思っていたことですが、軍隊帰りの先輩たちが、平和な世の中になって、ああいったことをやっていたということは、旧軍隊内では、ずいぶんと非人道的なことが横行していたということになります。「内部崩壊」も、敗戦の原因の1つとして考えられるのでしょうか。

 アメリカの軍隊、いえ世界中の軍隊には、「死」に直面させられるのですから、厳しい訓練、精神的なものを鍛える方法だってあるのです。しかしスポーツは戦争とは違うのですから、楽しんでやりたいものです。〈勝つ事〉が求められて、楽しくないのは、もうスポーツとはいえないのかも知れません。黒田投手は、長い野球人生で、最高に満足な一年だったのではないでしょうか。You did good job!

隣国の繁栄

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 ネットのニュースで、[韓国の生活水準が日本を抜く?]という主題が目に飛び込んできました。私には愛国心がないのでしょうか。隣の国・大韓民国が、日本の技術水準に追いつき、追い越していき、国をあげての企業努力の結果、豊かになるのであれば、それを喜ぶべきだと思うのです。隣国のことなど、どうでも好いのでしょうか。私は、そうではないと思うので、彼らの繁栄を喜びたいのです。

 この朝鮮半島は、長い日本支配から脱した直後に、東西に分割されてしまいます。その分裂が「朝鮮戦争(1950年から約3年間)」を勃発させるのです。この韓民族を南北に分けた戦争の悲惨さは、戦争特需の景気で、戦後の荒廃から抜け出せた私たち日本は、全く知らなかったのですし、それほどの関心も示さなかったのです。私の知人のアメリカ人の息子さんが、結婚した相手が韓国系アメリカ人の女性でした。この女性の話を聞いたことがありますが、筆舌に尽くしがたい経験をされていたのです。戦火が広がり、両親と死に別れ、孤児となった彼女は、戦場を逃げまわり、猫のような大きさになった鼠に、幼い仲間が襲われて絶命していくさまを何度も目撃するのです。命からがら逃げ果(おう)せて、アメリカの慈善団体に収容されます。その働きの中で、アメリカ人夫妻の養子になるのです。戦争のないアメリカで成長した彼女が、素晴らしい男性と出会って、結婚に導かれたわけです。

 彼女は、自分の半生を隠すことができたのですが、戦争、民族を分断する戦争が、どんなに悲惨なものであるかを訴えたかったのでしょうか。また、養子として育ててくれた養父母への感謝な思いからでしょうか、ご自分の凄絶な過去を語ったのです。実にスリリングな物語で、息を呑むようにして聞いたのを覚えています。戦争が停戦になり(現在も停戦中なのですが)、北からの脅威の中で、日本の繁栄を見聞きして、『追いつこう!』と必死に励んできたのです。日本の製品を購入し、それを解体して、真似て、さらにはより好いものを作る努力をしてきたのです。日本も、かつてそうしてきたわけです。

 1974年に、初めてソウルを訪問しました。大通りから少し路地に入ると、貧しい生活の様子が伺えました。日本には比べられない情況でした。夜は薄暗くて、街灯もほとんどありませんし、しかも戦時下の灯火管制、外出禁止令などが出されていた時期でした。バスに乗ったら、私が訪ねようとしていた会社の若い社員が、英語で話しかけてきました。その出会いに感動したのか、『ぼくにバス代を払わせてください!』と言って、払ってくれたのです。『対日感情がよくないので、気をつけなさい!』と言われての訪問でしたが、出会う人たちは誰も、とても親しく接して下さったのです。

 『日本に学べ!』と、懸命に励んだ結果、ついには、日本に追いついたのです。しかも昨今は、海外市場では、韓国製品のほうがメインになってきているので、追い越されようとしているのではないでしょうか。彼らは、国際競争に勝つほどの、優秀な製品を輸出しているからです。かつて日本製品が世界を席巻したように、今や、韓国や中国の電気製品が、主流になってきているのです。パナソニックもソニーもシャープも、力を弱めてきています。これは、順番なのかも知れませんね。

 逆境を跳ね返してきた韓民族の地力が、そうさせたのでしょう。こういった彼らの今を眺めながら、私はあの戦火を逃げまわった女性の話を、いつも想い出すのです。もう20年以上前になるでしょうか、一人の韓国人の社長と食事をしたことがあります。彼は、『いつか平壌に、自分の会社を立てる夢があり、それが胸の中から燃え出ようとしてるのを止められないほどです!』と熱く語っていました。彼は北朝鮮の出身だったのですから、親族の多くが、まだ北朝鮮で生活していたわけです。その夢を叶えられずに、先年、彼が亡くなったと聞きました。同じよううな夢を見ている人が多くおいででしょう。『きっと、その夢が叶えられる日が来る!』、それが韓民族の切なる願いなのではないでしょうか。

 竹島をめぐる領土問題がありますが、敵愾心を燃やしながら争うことよりも、互いの立場を理解し合いながら、隣国を祝福し合おうではありませんか。現・李大統領は、大阪で生まれ育った過去をお持ちなのです。それ程に、この両国も「一衣帯水」の間柄なのですから。私は日本を愛しますが、その愛国心が、隣国への敵対心を助長してしまうことを嫌うのです。だって、韓民族の血を、多くの日本人が受け継いでいますし、多くの在日の友人たちが、私にはいるのです。

(写真上は、現在の近代的なソウル、下は、朝鮮戦争の時のソウルの被災者の様子です)

平癒を願う

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 私の住んでいますアパートの大通りに面した門から外に出ますと、交差点に、「寿司」と看板を出した屋台が二台ほど出ています。このご時世に、『だいじょうぶかな?』と思っていますが、結構売れているようです。その向こうの大きな商業施設には、回転寿司店が、これまた二軒ほど出店しているのです。一軒は安いのでしょうか、とても混んでいて、日本食への人気は衰えていないように見受けられます。

 そういえば、道路際の食べ物の小さな屋台の間に、最近、「石焼き芋」が売られ始めました。ドラム缶を利用した竃から何ともいえない、芋の焼けた匂いが漂ってきて、『ああ秋になったのだ!』と感じております。そういえば、新聞紙を濡らして、それでサツマイモをしっかりとくるんで、焚き火の中に入れて、子供たちと「焼き芋」をしたことがありました。毎年、産地から手に入れたサツマイモを届けてくださる方がいるのですが、そろそろ収穫期になるでしょうから、『今年も!』と、心ひそかに期待しているところであります。

 残念なことには、焼き芋ができそうな場所も、燃やす物もありませんから、けっきょく「焼き芋」の代わりに、ふかし芋にして、今年も食べることになります。「チン(電子レンジ)」があれば、簡易焼き芋ができるのに、トースターしかない我が家では、『焼き芋は無理かな?』と諦めております。そう、ふかした芋をねって、バターを加えて食べるのも美味しいのです。やっぱり、「読書の秋」や「スポーツの秋」よりも、「食欲の秋」になってしまいそうです。

 昨日、私たちより一回り半ほど年長の方が入院されていて、お見舞いに行って来ました。頭部に腫瘍ができ、リンパにも問題があるとのことで、軍の幹部の病院のベッドに寝ておられるのを見舞いました。『◯さん、日本人の・・・』と呼びかけましたら、眼を開けて、私と家内を確認してくれました。話しを交わすことはできませんでしたが、手を握り、背中をさすりながら、一方的にお話をしました。

 この方は、私たちが帰国するたびに、軍の車を用意してくださったり、奥さまの手作りの料理で、何度も何度も招待してご馳走してくださった方です。人民解放軍の高級幹部で、軍を退いた後を、奥様と一緒に「幹休所」という、街中の喧騒を離れた閑静な高台にあるアパートで過ごしておられるのです。一ヶ月ほど前から、体調を崩されたそうで、恢復を願って、きっと再びお交わりができることを願って、病室を後にしました。

 いつでしたか、お尋ねした時に、家内が具合が悪くなった時に、アパートの医務室に連れて行って下さり、軍医の治療を頼んでくださったこともありました。優しくて、奥さまをいたわっておられる立派な元軍人です。ハワイでみられる花の鉢植え(日本と違って〈根付く〉鉢植えを気にはされない国柄ですから)を持参しました。この花が枯れる前に、退院できることを切に願う華南のたけなわの秋です。

(写真上は、中華人民共和国の「国花」の「牡丹」、下は、葛飾北斎の描いた「牡丹」です)