秋風が吹き始めたからでしょうか、東側の窓の下の屋根の上で、きれいな囀りの声をした「セグロセキレイ」が、飛んでき、囀りの声がしていました。この鳥は、隣街の小山市の市指定の鳥とされていますから、ここ巴波川沿いのわが家でも見られるのでしょう。わが市の鳥は、鴨(かも)です。巴波川には、たくさんいて、最近は、綱手道の陽だまりに群れています。
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「ぎやまん」、「ビードロ」とか昔は言われたガラスですが、考古学で、三内丸山遺跡からは、ガラス球が出土されていて、ずいぶん古くから、わが国には、ガラス製品が珍重されていたようです。光を受けて神秘的に屈折するので、珍しがられてきたようです。
先週、中高と6年間在籍した母校から、「江戸切子」が送られてきました。開校記念に、感謝を込めて協賛や感謝の気持ちを表したことへの贈り物なのです。江戸時代の後期に、加賀屋久兵衛が始めたガラス細工で、江戸の大伝馬町で始まったようです。
何かを蒐集したりする趣味のない自分ですが、頂いてみると、ガラスへの切り込みが綺麗で、光が屈折して見ることができ、実に美しい物です。落として割らないようにしていますが、茶箪笥か、床の間か、高級品や飾り物の棚があったら、そこに収めるのがいいのでしょう。
天然自然の草や花にばかり関心が向けられてきていますが、ガラス細工もいい物です。しばらく私たちの教会においでだった方が、鍛金(たんきん)をされていて、よく個展を開いておいでで、その案内をいただいていました。サンパウロ大学で美術を専攻された方で、銅板を叩いて、制作をしておいでなのです。
この方のお父さまは、江戸の彫金の職人、芸術家でいらっしゃったようです。江戸文化は、いろいろな分野が盛んだったようで、伝統工芸が盛んな街だったのです。先週末、市立美術館で、浮世絵展をしていて、家内と出掛けてみました。江戸時代の爛熟した文化の一つで、享楽的なものばかりではなく、子どもたちへの教育の教材などがあって、子ども遊びや虫や魚などが、一枚の絵の中に描かれて、図鑑のようなものが見られ、新発見をしたのです。
もう60年も前になりますが、横浜のデパートで、鏑木清方の個展があって、そこでの警備のアルバイトでしたことがありました。明治から昭和にかけての日本画家で、浮世絵師と俗ぽく呼べない作家でした。それでじっくりと、美人画を見る機会がありました。江戸の文化を引き継いだ作家で、健全な絵ばかりで安心したのです。
日本人の器用さに、今更ながら驚かされています。中国から伝わった芸術を、より精密に受け継いで、工夫発展させている点で優れているのです。絵の描き方に、精緻さがあって驚くほどです。筆の乱れなどなく、驚くほどに描写力が優れているのです。そういえば、「芸術の秋」を迎えているのに気付いた次第です。
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「青春の讃歌」と呼べる歌が、私には三つほどあります。一つは、立川の日活の映画館で、裕次郎を観ました。「風速40メートル」と言う映画でした。あの時代に青春のシンボルなのでしょうか、カッコいい兄貴のような裕次郎の歌を、足を引きずりぎみにして歩きながら、口づさんだのです。1958年、生意気盛りの中学生だったでしょうか、作詞が友重 澄之介、作曲が、上原 賢六でした。
(セリフ)何だいありゃ
(セリフ)何、風速40米?アハハ…
風が吹く吹く…やけに吹きゃァがると
風に向って進みたくなるのサ
俺は行くぜ胸が鳴ってる
みんな飛んじゃエ 飛んじゃエ
俺は負けないぜ…
(セリフ)おい風速40米が何だってんだい、
(セリフ)エ、ふざけるんじゃねえよ
風が吹く吹く…やけに吹きゃァがると
街に飛び出し 歌いたくなるのサ
俺は歌う 俺がうなると
風もうなるヨ 歌うヨ 俺に負けずにヨ…
風が吹く吹く…やけに吹きゃァがると
風と一緒に 飛んでゆきたいのサ
俺は雲さ 地獄の果てへ
ぶっちぎれてく ちぎれてく
それが 運命だョ…
(セリフ)◯◯野郎、
(セリフ)風速40米が何だい…アハハ…
風速40メートルなんて、風の強さは想像することができませんでした。「太陽族」と呼ばれた湘南の若者たちの物語の映画音楽でした。父の生まれ故郷と目と鼻の先で、なんとなく馴染み深さを覚えていたようです。裕次郎が普段着の顔のようで、夏の海浜を思い出させてくれた歌でした。ちょっと捨てばちさが、十代には強烈だったかも知れません。
2つは、作詞が永六輔、作曲が中村八大の「遠くへ行きたい」で、まるで不良少年のような感じのジェリー藤尾が、1962年に歌っていました。
知らない街を 歩いてみたい
どこか遠くへ 行きたい
知らない海を ながめてみたい
どこか遠くへ 行きたい
遠い街 遠い海
夢はるか 一人旅
愛する人と 巡り逢いたい
どこか遠くへ 行きたい
愛し合い 信じ合い
いつの日か幸せを
愛する人と 巡り逢いたい
どこか遠くへ 行きたい
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とにかく、「現状打破」 、新しさへの憧れ、大人になりかけた年頃で、父の家を出て独立したいけど、父の援助なしでは、まだ生きてはいけない自分の未熟さがわかっていたのですが、とにかく「逃亡」とか「脱走」願望が強く、〈だれか〉との出会いたい思いが強かったのです。道への憧れの強かった頃の歌でした。
3つは、作詞が伊野上のぼる、作曲がキダ・タロー、歌が北原謙二で、「ふるさとのはなしをしよう」でした。1965年に発表されていた「昭和の歌」です。
砂山に さわぐ潮風
かつお舟 はいる浜辺の
夕焼けが 海をいろどる
きみの知らない ぼくのふるさと
ふるさとの はなしをしよう
縁日の まちのともしび
下町の 夜が匂うよ
きみが生まれた きみのふるさと
ふるさとの はなしをしよう
今頃は 丘の畑に
桃の実が 赤くなるころ
遠い日の 夢の数々
ぼくは知りたい きみのふるさと
ふるさとの はなしをしよう
自分にもあるふるさとの光景と、砂山の潮風、夜店のともしび、丘の畑の柿の実とは違いますが、木通(あけび)取りに、兄たちの跡を追って山の中に入って行って、実をもいだり、家の前の小川で泳ぐ魚を追う兄たちがいました。あの木通をもいだのを手にしたのか、家に帰って、米櫃の中に入れて、追熟して、ほのかに甘い果実を食べた味が忘れられません。どんな秋の味覚よりも、懐かしさからすると、それが秀逸なのです。だれにもあるふるさとの歌でした。
(“DANRO” からです)
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散歩道の途中に、いくつもの小学校があります。市内の設立の古い学校の庭には、やはり金次郎像が置かれているのです。ある学校は正門脇に、ある学校は庭の隅に置かれて、《勉学励行》の勧めを無言の内にしています。
薪と言うよりは、柴(しば)を背に担いで、「四書」の一つで、中国の朱子学の「大学」を読んで歩く像なのですが、その本に刻まれているのは、『一家仁なれば一国仁に興り、一家譲なれば一国譲に興り、一人貪戻なれば一国乱を作す。その機かくのごとし。』なのだそうです。
尊徳の死の翌年の1857年に、二宮尊徳の高弟で相馬中村藩士の富田高慶(1814年・文化11〜1890年・明治23)が著した「報徳記」があります。この書をもとに、幸田露伴が、「二宮尊徳翁」という書を表していて、これらを題材に、「二宮金次郎像」が作られ、全国の小学校で作って置かれるようになったのです。
海外進出が、日本の生命線だという時代の「富国強兵」の旗印を掲げつつ、「勤勉」を勧める教育行政の一環で、昭和7年(1932年)に金次郎像の設置を推し進めた中での運動だったのです。私が学んだ小学校にも、中学校にも、この像が置かれてありました。どのような時代でも、この「勤勉」は意味のあるものなのです。
校長の勧めで、入学当初には毎朝、登校すると、立ち止まって、脱帽して、礼をしていた自分でした。神社礼拝などしない両親、キリスト者の母の影響で育ったのですが、思い返すと、鋳物の像に、敬礼をしたことは、キリスト者の家庭としてはふさわしくなかったなあと思い、校長よりも、聖書に従おうと、敬礼をやめました。
二宮金次郎の出身地である神奈川県の小田原市や、農業の振興で手腕を発揮した地である栃木県の真岡市や日光市などには、芝を背負う二宮金次郎像ではなく、立派な大人となった姿の「二宮尊徳像」が見られます。その二宮金次郎、尊徳を、「代表的日本人」の一人として、海外の読者に紹介したのが、内村鑑三でした。
二宮金次郎像や二宮尊徳像を見たり考えたりする時、この人の生き方、あり方に目を止めていくことなのです。小田原の人が、この下野国で、農業開会や振興に尽力し、農業用水を他にひいて、稲作を推し進めたのは、当時の農村に活力を与えたことは、驚くべきことででした。
それほどの高い評価を受けた二宮尊徳(金次郎)が、農作を導いた、「真岡」には、「報徳田」」が残されてあります。尊徳は小田原藩主・大久保忠真公に、農作の手腕を認められた人で、「野州桜町(現・真岡市の一部)」の復興の命を受けています。1823年に赴任し、自ら先頭にたち用水路や堰や橋の改修を行ったのです。
桜町での働く様子は、村人にとってまさに超人的であったようです。早朝4時に起床し、村内を見回り、開墾や改修を行い、陣屋へ帰って夕食を散った後には、1日の反省や、明日の計画などを練ったそうです。それで寝るのは、12時過ぎで、毎日の睡眠時間は4時間ほどだったのは有名な話です。
その尊徳自身が米作りを行っていた水田跡が残されていて、それを発掘、復元したのが、この「報徳田」でした。そのために市民などの多くのみなさんが集まって、列になって一定の間隔を保ちながら、苗を丁寧に手植えたりしたようです。
やはり有言実行の人で、勤勉な人や労苦して働く村民には、報奨金を与え激励したようです。人の先頭に立って、尊徳自らが働く姿こそが、教えの根幹だったのでしょう。ご自分の出が、「百姓」だということを忘れずに、百姓の悲哀をよく知っていたからこそ、善政を行い得たのでしょう。県北で、農の基本を実践している方たちがおいでです。
(二宮の住宅兼住居の陣屋が保存されています)
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『こんなにウマイもんがあるのか!』と、子どもの頃に思った物が、3つほどありました。1つは、東京の国鉄・神田駅前にあった鰻屋の鰻、2つは、肉の万世のカツサンド、3つは、横浜駅で売っていた崎陽軒のシュウマイだったでしょうか。
まだレストランとかは、私たちの育った街にはありませんでした。蕎麦屋が2軒、パン屋が一軒ほどあったでしょうか。そんな頃、時々、父が、お江戸から買って帰って来て、『さあ喰え!』と言っては、食べさせてくれたのが、上の三つでした。
後になって、母は、カツを揚げたり、餡かけのカタ焼きそばを作ってくれたり、ハンバーグをフライパンで作ってくれたり、色いろんな具材を混ぜたちらし(ばら)寿司などを作って食べさせてくれました。あの時代、時々でしたが、けっこう贅沢な食卓だったのかも知れません。食べている四人の顔を、母は満足そうに眺めていたのです。
その上、自分の会社のあった東京から、食パンに、みじん切りにしたキャベツをのせたソース味のサンドイッチを買ってきてくれたのです。だからでしょうか、今でも、パン屋に行くと、カツサンドが目について仕方がなく、たまーに買ってしまうのです。あの味には比べられませんが。
また、串に刺して炭火で焼いた鰻を買ってきてくれ、炭火で焼き直して、丼のご飯の上にのせて、タレとサンショをかけて食べたのです。今、この住んでいる街の南に、有名な鰻屋があるそうですが、完全予約で、〈お重8800円〉だそうで、とても手が届きませんし、まあまあの庶民の贅沢だった物が、高級ステーキ並みになっていて驚きです。でも、この鰻は、入院中に父に頼まれて神田の昇亭まで行って買って、父に届けたことがありました。同室の方に頭の方を上げて、自分は尻尾の方を食べていました。あの後、すぐに父は召され、父の最後の鰻だったのです。
もう一つは、崎陽軒の焼売(しゅうまい)です。陶器の醤油差しがついていて、からし醤油で食べたあの味は、高い物ではないですが、抜群に美味しかったのです。何個入りだったのでしょうか、きっと母の分を残さずに食べて、自分が一番多く食べて、みんなに嫌われていたのでしょう。それは、競争社会の中で生き抜く逞しさでは、どうもなさそうでした。
蛇足ですが、崎陽軒の創業者は、餃子の街・宇都宮に近い鹿沼の出身だそうで、なにやら、ここでは焼売で町興しがなされているのだそうです。48もの食堂などが、シュウマイを出してくれる、〈焼売地図〉まであります。しばらく、カツサンドも鰻も焼売も食べていないのです。そういえば、《食欲の秋》の到来、ちょっと唾液腺が動き始めてきているようです。
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「10月18日のガザ地区病院爆破はイスラム聖戦発射と判明(ブリッジ フォー ピイスからの速報記事)」
ガザ地区の病院爆破が大きく報じられていますが、ミサイルはイスラエルのものではなく、ガザ地区のテロ組織イスラム聖戦のものであることが、カメラ映像やイスラエル軍の作戦と照合した結果、明らかになりました。カメラには、爆発が起きた前後、ガザ地区から連射されたロケット弾の一発が、ガザ領内に落下した様子がとらえられています。
ガザ地区のテロ組織は、以前にも、イスラエルの空爆と偽ってガザ領内に向けて意図的にロケット弾を発射したことがあります。今回のような落下や誤爆を含めると、何千発と発射されるロケット弾のうち、どれほどの被害がガザ領内でも起きていることでしょうか。
彼らの目的は、ガザ住民の犠牲を利用し、国際的な非難をイスラエルに向けさせることです。ガザの人々はまさに「人間の盾」であり、人質ともいえます。
この病院の爆破事件に対し、レバノンのヒズボラは報復を口にしている他、アラブ諸国の間で反発が広まっています。イスラエルに対する諸外国の理解や心象が今後変化していく可能性もあります。
イスラエルはガザ北部の市民に、南部へと避難するよう引き続き呼び掛けていますが、ハマスらはその避難を妨害するだけでなく、それを逆手にとって南部で活動を活発化させる恐れも出てきました。
ガザ市の人々を人間の盾にして、人道状況を悪化させて苦しめているのはハマスらテロ組織に他なりません。引き続き、ガザの一般市民がテロ組織の手から守られ、安全を確保できるように、人道状況の回復のために、国際社会が問題を見極めて対処する知恵が与えられるようお祈りください。
『主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。 ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。(詩篇18篇2~3節)』
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今季、きっと最後の朝顔の花かも知れません。もう溢れるほどに咲き、これまでも蚊と咲き続けたのですが、種を残して、朝顔劇場の幕が降りたようです。種を残そうと思っていますが、数年前から、「肥後朝顔」に魅せられた私は、これに挑戦してみたいのです。きっと、タネの入手も、育て方も難しそうですが、ちょい線に値するような、見事な、「肥後六花」の一つです。
今年の夏は、異常な暑さに見舞われ、何もが焦げてしまいそうな感じがしていましたが、この朝顔の葉の緑と、三色が次々に咲き続けてくれた赤、紫、桃色の花びらの開花に慰められ、励まされました。
咲きあふれ 暑さ忘れし 朝顔ぞ
華南の借家に咲いていた朝顔は、日本から持っていった種を植えたのですが、亜熱帯の暑さ、中国でも極めつけの暑さの地で咲き、正月まで、裏のベランダで咲き続けたのには驚きました。次女家族が来た時、そのベランダを箒で、水を流しては綺麗にしてくれたのです。そこから移り住んだ住宅で、ただ一軒だけ、向こうの棟の八階で、「喇叭花(朝顔の中国名です)」の咲いているのを認めましたが、小規模栽培でした。
春に、家内が、シンクタンク(流し)の下の冷暗所で、発芽させたか細い苗を、私が苗床を作って、植えた朝顔でしたから、ちょっと寂しい思いがしてまいります。日本には、中国から、観賞用よりも「薬草」として伝わり、まさに、わが家では《精神安定薬》の役割を担ったと言えるのです。孫たちが近くにいないので、もっぱらの関心は、この《薬》だったかも知れません。
最後に、「朝顔の花言葉」は、愛情、愛情の絆、結束、結びつき、平静、明日もさわやかに、私はあなたにからみつく、などがあるそうです。まあよくからみついて咲いていた朝顔でした。《創造の美》、神の創造の世界でありました。
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江戸時代、この地の代官をされていた方の子孫が、嘉右衛門町に住んでいて、その頃のさまざまな道具や家具や書類、駕籠(かご)まで残っていて、代官屋敷の門扉の中の様子が、一般公開されています。
お代官の名前は、岡田嘉右衛門で、今も、そのお名前を継いで、栃木駅前で医院を開業されておいでです。住居は、この屋敷内なのです。お母さまが健在で、この屋敷の敷地の中にお住まいで、いろいろと説明をしていただいたことがありました。日光例幣使街道沿いに位置していて、この門前を歩いたり、駕籠に乗ったりして、日光の行き帰りを、例幣使も諸国の大名も庶民も、行き来をしたのでしょう。
2年前に、水上町の「須川宿」を訪ね、そこでも記念館に行ってみました。越後国の諸大名の参勤交代で宿となった村です。雪深い三国峠は難所だったようで、『この三国街道沿いの温泉にも、旅人は入ったんだろうなあ!』と思ってみました。歴史ある養蚕農家の家並みが見られ、往時を偲ぶことができました。
栃木宿とは違って、代官屋敷跡は見られなかったのですが、ここにも本陣とか脇本陣などがあって、山を登る人は覚悟をし、降りてくる人は、ホッとしたのでしょうか。長岡藩発行の「通行手形」も残っていて、車で、汽車、そして電車、そして新幹線で越えられる今は、旅情緒は全く違ってしまったのでしょうか。
週に何度か、この栃木の例幣使街道を歩いているのですが、先日、この代官屋敷の付近で、「防火用水」と彫られた水かめを見かけたのです。きっと戦時中のものなのかどうか判別できませんでしたが、なんか時代を感じてしまいました。この街も何度か大火もあったようです。
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この道は、歴代の天皇の代理が、徳川家康の命日に、幣帛(へいはく/神に捧げる供物を言います)をもって遣わされた日光例幣使が、京都から中山道を経て、倉賀野宿から、ここ栃木宿を経て日光に至った街道でした。221年もの間、毎年励行されていたのだそうです。それほど日光、すなわち神とされ埋葬された家康の威光が大きかったということになります。
先日、市民大学教養講座がありまして、出掛けたのです。今回のテーマは、その「日光の歴史」についてでした。元栃木高校の地理の教師をされた講師が講義をしておいででした。この日光は、古来、神秘的な土地柄とされてきており、とくに仏教の寺院が多くあった地で、「権現」となった家康の墓所とされた地なのです。かつて四万人ほどの人口があったのに、今は、その三分の一ほどになっているようです。
一度も、家康は訪ねることのなかった地に、初めに埋葬された久能山から、改葬されています。風水という方位に適っていたという理由で、江戸の北方の下野国日光の地が選ばれたのだそうです。わが家のある栃木市から北に位置していて、日本にある多くの山並みと変わらなく、4階の玄関に立ちますと、その日光連山が眺められます。奥多摩や丹沢あたりも山並みに似ているように思われるのです。
以前住んでいた町の家の大家さんが、家を新築した時に、一旦、別の地に移り住み、そこから越してきて、住み始めたのです。方位に拘る人は、そんなことまでするのを知って、ちょっと驚いたのです。まさに家康の自分の死後についての指示も同じでした。
死期を感じた家康は、『遺体は駿河の久能山に葬り、葬儀を江戸の増上寺で行い、(中略)一周忌が過ぎてから、日光山に小さき堂を建てて勧請せよ・・・八州の鎮守となるだろう。』と遺言しています。この八州とは、関東八カ国を指しています。
「小さき堂」ではなく、莫大な資金を投入して、秀忠が東照宮を建て、家光は、それを取り壊して、荘厳な宮を新しく建て直しています。死しても江戸を守り、諸国に君臨したい願いが家康にあり、そう進言した、天台宗の僧の天海の思惑があり、彼の進言があって、家光が、祖父のために、徳川支配のために改築を断行したのです。
この東照宮の存在が、現在のキリスト教伝道を妨げている霊的な要塞であって、それを打ち砕くことが必要だ、と言う主張を、以前聞いたことがあります。私には、この宮の表通りを、バスや車で何度か通りながら、参拝している人や観光客の様子を見ても、日光白根山の爆発で焼失したり、必死になって、この聖地とされる地に建てられた建造物を保つために、色を塗り替え、増改築や修復を繰り返して、霊験あるさまに保っている区域にしか思えないのです。
『人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(箴言29章25節)』
死者を必要以上に意識することこそが、妨げであって、土に帰ってしまったものの霊的な影響力など、決してないのです。〈恐れる思い〉こそが、伝道を阻んでいるのであって、十字架に死なれて蘇られた、今も生きておいでの救い主イエスさまを、もっと知ること、ほめたたえることに精出すほうが健全なのではないでしょうか。
大陸から伝来した、風水や方位の問題で、日光に、それを当てはめて、聖地にしようとした人たちには、こじつけや矛盾があるように感じています。〈初めに風水ありき〉で、日光の地形に当てはめても、不都合、合致しない点があるようです。そのようなあやふやさを持つものを気にしたり、恐れる必要はないのです。
東西南北を定め、天の星々、星座を作り、その運行を定められた創造の神の御業を認め、賛美したほうが良いのではないでしょうか。日常の、自分の魂を委ねた群れ、教会の中で、多くの信仰者が作った讃美歌を歌い、「新しい歌」で賛美し、立てられた牧師の日曜日ごとの講壇から語られる説教を聞いて、礼拝を守るのです。週日は、日常の自然的な業に励み、家族を愛し、隣人を愛すること、これが一番ではないでしょうか。
センセーショナル(sensational)な新しい啓示や運動が、人を落ち着かせなくさせて、振り回されてしまい、生活のリズムを狂わせ、日常を狂わせてしまうのことの方が、問題なのです。イエスさまは、「行って」と何度か言われています。それこそは、《日常の決まった生活をきちんとしていくことの勧め》なのです。
コロナ騒動の直前に、華南の街の友人夫妻が家内の見舞いに来られて、このお二人が、同じ街で出会った京都在住の同労者の方の通訳で、地元出身の方に誘われて、この日光を訪ねたのです。日光見学で、その東照宮の近くに、明治末期に、聖公会のガードナー宣教師が「日光真光教会(前身は、西参道付近に「変容貌教会」を建てています)」の会堂を建てていて、その教会堂を見て驚いていたのです。神として祀られた家康埋葬の地で、この聖公会は、明治8年には、《まことの神》の礼拝を始めていたという事実も知ったからです。隣国の基督者、同労者夫妻が驚いた地でもあります。
(表日光連山、例幣使街道栃木宿、防火用水、北斗星、日光真光教会です)
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父が関わっていた会社の一つが、旧国鉄の車両のパーツを納品していたのです。電車の制動関係の部品で、車輪にブレーキをかけるための大切な部分の製品だったのです。そんな関係で、父の知人の国鉄の役員が、国政に出るために、選挙戦に立候補したことがありました。選挙戦が繰り広げられる中で、父は、全国を飛び回って、応援の仕事を担当していたのを覚えています。
父としては、会社の命運のかかった取引先の役員の出馬で、その当選を期して協力をしていたわけです。その働きの甲斐があって、見事、立候補をされた方は国会議員に当選していたのです。まだ高校生ほどだった自分にも、国の成り立ちのある面は分かっていたと思うのです。
たまたま東京に出て来て、二度目に住んだ街にも、国鉄の主要の路線が走っていて、日本通運の作業の引き込み線があって、その作業を、近くの空き地で遊びながら見て過ごしていたのです。また線路の保線区があったり、踏切があったり、同級生の家族が住む国鉄職員の社宅もあったりでした。
上の兄の同級生が、お父さんが国鉄職員の関係で、「蛙(かわず)の子は蛙」で、国鉄職員の養成のための岩倉高校(運輸科だと思います)に通っていて、卒業して、電車の車掌をしていていたのです。小さい頃に、『準坊!』と呼んでくれて、一緒に遊んでくれた方でした。一度だけ、彼の乗車していた電車に乗ったことがありました。『格好いいなあ!』と思ったのです。
子どもの頃に乗った、蒸気機関車の吐く白い蒸気の色と音、車軸が回転して出力を増し加えていく様子、そして時々鳴らす汽笛の音に、とてつもない力強さを感じたのです。まだ、立川から奥多摩に行く線に、蒸気機関車が走っていて、立川駅の一番端にあった、その路線のプラットホームで、ジーッと眺めていたことがありました。よく、汽車や電車の運転手にならなかったものだと、今でも思うほど、〈国鉄オタク〉だったのです。
そんなことで、浅田次郎原作の小説が、1999年に映画化され、「鉄道員〈ぽっぽや〉」が上映された時に、普段映画館などに出入りすることなかった私でしたが、” Nostalgie “ でしょうか、もう興味深く観たのです。その映画で、蒸気機関車の『ぽっぽっぽー!』の音、車輪を回す蒸気の排出、黒煙、車軸の回転が、子どもの頃の情景をスクリーンに蘇えってきたのです。
不思議なことに、今は、JRの両毛線、東武電鉄の日光・宇都宮・鬼怒川線(延伸の野岩鉄道や会津電鉄があります)の駅の近くに住んで、同じ鉄道の音や匂いを感じて、朝一番電車が、南栗橋方面、東京に行く光景も見られます。子どもの頃の光景が思い出されてならないのです。今年は、ここの駅から鉄路でつながる会津若松駅から、新潟県の小出駅までを結ぶ、JR只見線が、復旧開業しているのです。
実は、この沿線が、〈昔の鉄道風景〉を残しているとかで、乗り継いでみたい思いに駆られて、満を持しているところなのです。男の “ sentimentalism “ なのでしょう。子どもの頃に、目に焼き付いた光景というのは、時が流れても、薄れはしても、消えてしまわないのかも知れません。きっと、もう車を運転することがなくなってしまったこともあって、鉄路への “ Nostalgia ” が沸々と持ち上がっているのでしょう。
東武電鉄の日光線と鬼怒川線の分岐駅が、「下今市駅」と言いまして、そこを時々、上下車してきたのですが、この駅に、蒸気機関車の週末運転を記念した「駅弁」が売られているのです。その駅弁に、スプーンがついているのです。この冒頭の写真ようなものです。きっと、蒸気機関に石炭を焚べるために使っている、シャベルを模したのだと思われます。
『私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています。 (詩篇143篇5節)』
煤煙や煤の蒸気機関車は、かつては男の子の憧れだったのですが、歳を重ねた今でも、リニアに乗りたいなどと願いませんが、この蒸気機関車で、長い鉄路を旅をしてみたい思いは消えないのです。今日日、鉄路の 継ぎ目がなくなってしまい、心地よい『ガタンゴトンキィーン!』の音が聞こえないのには残念至極です。
これからの時期、ローカル線は、もう何年かすると廃線で、バス路線になってしまいそうで、「只見線」だって例外ではなさそうな危機感を覚えています。どれほど自分の日が残されているか分かりませんので、この秋には、無理を言って、出かけてみたいと、積年の願いをと思うのです。
(「奥会津を行く蒸気機関車」、「只見線沿線の秋景色」、「スプーン」です)
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