花金

 もう20年になるのですが、1992年5月1日に、国家公務員が週休2日制になって、企業でもこの制度を導入しました。私の勤め人時代は土曜日半ドンでしたし、受継いだ事業をし始めてからは、週末が忙しく、休むことなどなく40年近く働いたのです。サラリーマンにとって、連休前の金曜日の退社後は、「自由」や「開放」を味わうことができる至福の時を意味したのでしょうか、それで、「花金」と言われるようになったようです。バブルが弾けてしまってからは、有名無実になってしまったのかも知れませんが、それでも週休2日制というのは、働き蜂のように働き続けてきた日本人が、欧米並みに、週末に自分と向き合えるようになったということになるでしょうか。

 大阪に上陸した翌日、昼行高速バスで大阪駅から乗車して、東京駅日本橋口に着いたのが、7時半頃だったでしょうか。東京駅の地下街は、退社したサラリーマンで溢れていました。食べ物屋や居酒屋は満員で溢れかえっていました。一週間で一番「好い時」が、金曜日の夕刻であることが分かりました。顔から緊張感がなくなって、みんな楽しそうなおじさんやお兄さんやお姉さんたちでした。普段は通勤電車の中では、寡黙な人の群れなのですが、ネジが緩んで全くの開放感が溢れていました。家に帰れば夫や父親をしなければならないのですが、そこでは一人の普通の自分になれるので、本当の自分を演じることができるのでしょうか。こういった時が、日々の責務を支えているとしたら、花金の夕方のひとときというのは、どうしても必要にちがいありません。

 今回の船旅で、東シナ海から日本沿岸に近付いた時に、対馬や壱岐の島の近くを通ったのだと思います。この壱岐の出身の方が、私の上司でした。お酒が好きで、市ヶ谷で会議がはねたあとは、決まって誘われて新宿で下車して、彼のお供をしました。旧制の浦和高校から東京大学に学んだ方で、法律を専攻され、事務局次長をしておられました。優秀な方でしたが、組織の人事というものの不思議さでしょうか、局長になれないでいたのです。そういった組織の様々な矛盾を感じながら、この方の下で働けせてもらいました。その後、どこかの学校の責任者になって転出されていかれたと聞いております。会議録をまとめると、『ダメ、やり直し!』と言われてはなんども書き直させられました。でも、とても好い勉強になったと思って、今では感謝しております。あの頃、金曜日でなくても、しょっちゅう、誘われていたと思います。話を聞いてあげる、聞き役に徹して、色々なことを学んだのかも知れません。

 日比谷公園の脇を、私の乗ってきたバスが通過しましたが、そこは、大都会のオアシスで、都民、取り分け丸の内界隈で働くサラリーマンの〈憩いの場〉の1つで、美しく整然とした緑の一郭であります。どなたが設計したのでしょうか、東京の街はきれいだと感心しました。ただビルが乱立しているだけではなく、堀を埋めることもしないで、往時のままに残しているのです。父の事務所が日本橋の三越の前にあって、何度かついていったことがありました。世代から世代へと、仕事が受け継がれ、人生の最も良い時期を、日本経済のために仕えた人々が通りすぎていった街であることを思って、感じることも一入のものがありました。

 そぞろ歩く人の波に合流し、山手線に乗り込みました。日がな一日、オフイスで働き、外回りをしていたサラリーマンの帰宅に合流したのでした。『お勤めご苦労様!』と、退職者の年齢の私は一言、そっとつぶやいてしまいました。

(写真は、日比谷公園の入り口です)

しびれ

 今回の帰国前、2~3週間ほど前から、左手の小指と薬指がしびれていました。それで、ネットでそのことを調べましたら、『脳梗塞の疑いもある!』とありましたので、この機会に診察をしてもらおうと思って帰国をいたしました。前もって私の弟に、『どこの病院にかかったらいいか調べてくれる?』と、お願いしておきましたら、彼の子どもたちがかかった病院や、上の兄のかかった病院を教えてくれたのです。帰国したのが週末でしたので、『月曜日には、どこかの病院に行ってみてもらおう!』と思っていたのです。10日ほどの帰国日時で、もし何か病気が見つかったら、治療が長引くので、早めに見てもらおうと思ったわけです。

 そんな話を次男にしていましたら、『俺が頭を打って担ぎ込まれた病院に行ったらいいよ!設備も整ってるし、医者も親切だから。』と言ってくれたのです。彼の家に逗留していましたし、その病院は恵比寿の駅前からバスも出ていましたから、早速月曜日の朝、バスに乗って、「日赤医療センター」に行き、初診の手続きをしたのです。何度も頭を打ったことがあること、左手を複雑骨折したこともあるなどのことを医者に話しましたら、『まずCTを取ってみましょう!』と言うことで、この検査を受けたのです。その撮影画像を眺めていた医者は、『何処にも脳梗塞や末梢神経を冒している病因を見つけられません!』との所見でした。『脳みそも十分に詰まっています!』と言ってもらいたかったのですが、これには何も触れてくれませんでしたが。『それでは、整形外科に行って診察してみたらいかがでしょうか。』と言って、院内電話で連絡してくれて、そちらに回ったのです。そこの担当医は、『X線検査をしてみましょう!』といってくれ、頸部と左腕の撮影をしてもらいました。この映像を見た医者は、『しびれの原因となるものを何も認められませんね。首は、年相応の状態ですし、腕の骨折の治療痕は全くみられません。不思議ですね・・・』と言ってくれたのです。

 まだお酒を飲んでいた頃に、塀を越えようとして2メートルほどのところから、酔って落下し、左腕をしたたか打ったのです。この骨折を治療してくれたのが、「名倉堂」の整骨師でした。兄がよく診てもらった整骨医に行きましたら、『八王子に俺のオヤジがいるので、そこで診てもらったらいい!』というので診てもらい、副木を当ててもらって通院しながら治癒したのです。しかし、なかなか腕が伸びずに、温泉に行ったりしてみましたがダメでした。ある日、『エイッ!』とおやじ先生が腕を伸ばした時から、もとに戻ったのです。そんなことを思い出しました。

 『何でもない!』わりには、いまだに意識するとしびれを感じるのですが、次回の帰国時に、また診察してもらうことにしております。この診察の間、待合室の椅子に座っていましたら、50代の頭のはげたおじさんが受付にやって来ました。受診用のファイルを出したのが「産婦人科」の受付だったのです。『まさか?』と思った私は、思わず、椅子の上で吹き出してしまいました。このおじさんは隣の「脳神経外科」と間違えたのです。そうだろうと思いました。私の受付の係の人が、『これをもって隣の整形外科に行ってくださ!』というので、隣の課に行って診察書類を出したら、『ここは耳鼻科で、整形ではありません。整形外科はもう一つ隣ですよ!』といってくれたのです。人の間違いを笑った罰でしょうか、私も間違えてしまいました。その光景を見て、誰かが吹き出していたでしょうか。

 前回の帰国時には、「ヘルニア」の手術をし、今回は、『脳梗塞で入院かな?』、とも思いましたが、診察結果は、何でもないとのことでした。まだ『飲むように!』と医者にいわれて飲み続けてる薬もなく、疲れると関節が悼む程度の毎日ですが、健康であること、『何でもない!』と医者にいわれたこと、その「安心料」で、何だか元気が出てきてしまいました。まもなく、新学年の授業が始まろうとしている、八月の末であります。

(写真は、広尾にある「日本赤十字社医療センター」です)

大阪のサラリーマン

 大阪の地下鉄・御堂筋線に乗り合わせたサラリーマンと、2駅ほどの間話をしました。彼は、『もう百姓になる気がないから、田舎には帰らない!』といっていました。関西圏に、どこかの田舎から出てきて、学校を終え、会社に勤めているのでしょう。家を買って、子育てをし、ずっと頑張って働いてきた、そんな苦労が横顔に現れていました。

 『日本中の田舎が寂しくなってしまう!』、そう感じてしまいました。大阪や東京や名古屋は、ますます肥大化する一方、日本の食糧を支え続け、日本人を養い続けてきた農村が閑散としてきているのです。これは今の中国が過開けている問題でもあります。沿岸部の都市に農民工という、かつての日本の「出稼ぎ」が集中し、工場や工事現場で働き、中国の経済成長を支え続けてきた人たちは、内陸部の農村から出て来ているのです。ですから。『中国中の農村が寂しくなってきている!』ことになります。これは世界中の傾向なのですが。

 「三ちゃん農業」、つまり爺ちゃん、ばあちゃん、母ちゃんが田を起こして米を作り、他の農作物を作るといった農村や農業を表現した言葉です。働き盛りの男がいなく、年寄りと女性と子どもが、農村に残されている社会のことです。今まさに、中国の農村然りです。隣に座っていたおじさんは、『田舎に帰って農業をやることも考えているんだけど、都会の便利さに慣れてしまい、体力もないし、今更帰っても、田は荒れているし・・・』と思っていたのかも知れません。

 今回の帰国中に、家内の妹が年老いた母の面倒を、家内に代わってみてくれていた街を訪ねました。新宿から高速バスに乗って1時間半ほどの街でした。街中に入っていったバスの両側には、シャッターの降りた商店が多く見慣れたのです。商業活動が低迷しているのは事実ですが、店を受け継ぐ二代目が、都会に出てしまっっているといったことが、そのように街が寂れていく理由のようです。この町は、家内と私が子育てをし、仕事をさせてもらった街でもあります。『あ、あの店ももうやっていないのか!』と思うと、時の流れを感じて、ちょっと寂しくなってしまいました。交番も警察署も住んだアパートも、昔のままですが、地方都市が元気が無いのは、農村の衰微と同じなのだと気付かされたのです。

 こういった地方や農村から、出てきた人たちが、都市を支え、日本経済を支え続けてきたことになりますね。隣のおじさんは、どんな業種の仕事をし、どんな立場で職場にいるのか知りませんが、その横顔も、日々の義務に駆り立てられて働いているのでしょうか疲れて、精気がないように見受けられました。『今日も・・・』と思う一日に、もう少し元気で、意気揚々と立ち向かってくれたら、町も会社も社会も国も、もっと元気になるのではないかと思わされたのです。それよりも何よりも、家庭が元気になるのではないか、そう思ったことでした。

 まあ朝の出勤時間に、やる気満々を見せている男性などいようはずもありませんが、日本と日本人が疲れているのだけは感じてしまいました。『よい一日を!』と願うばかりです。

(写真は、大阪・御堂筋界隈の様子です)

華の東京

 歌に歌われ、小説の舞台になり、一国の政治や経済の中心地である東京は、実に美しい街ではないでしょうか。祖国の首都としてふさわしく綺麗で、香り高い街である、そう帰国早々感じております。徳川幕府の政(まつりごと)の行われた歴史的な街であり、芸術や芸能などの文化が栄え、人々を引きつけ、鼓舞し、活き活きとさせてきた街なのです。

 何もなかった所に、首都機能を設けた徳川家康の才腕には驚かされてしまいます。父が好きで、私たちの家の食卓にいつも並んでいたのが「佃煮」でした。弟が特愛したのが「あみ(海老の稚魚を醤油ベースで煮込んだもの)」でした。炊きたてのご飯の上に乗せて、湯気の立ち上る、その食べ心地は、「江戸っ子」の味だったのでしょう。父が美味しく食べるのですから、男の子たちは、それに倣って男の食べ方を父に倣ったわけです。

 この佃煮も、江戸の食料の自給のために、家康が大阪から連れてきて、江戸に住まわせた漁民の地を、彼らが住んでいた大阪の地名の「佃」と呼び、そこで加工されたので、そう呼んだわけです。この佃煮には、こはぜ、あさり、イカナゴ、鰹、昆布などがあり、江戸庶民が愛し育ててきた江戸風味なのです。父が生前、『雅、駒形に行って、柳川を一緒にくおうな!』と違って、実現出来なかった料理も、私にとっては江戸前なのです。「寿司」だって、江戸前が「寿司」であって、一般的な、ごく普通の日本人である私も、『日本に帰ったら、まずうまい寿司を食べたい!』と思っているのです。

 遠くから黒く見えた島影も、近くに見え始めた島は、木々の緑が夏の日を浴びて、実に綺麗でした。人も物静かに生活をし、大声を上げているのは活気な子どもたちだけで、大人が慎ましく生きているのを見て、『ここは日本だ!』と思わせれることしきりでした。

 福島原発事故の影響でしょうか、経済の低迷でしょうか、今回の帰国で感じた日本と日本人は、「縮こまった日本、日本人」です。工夫と改良で、世界に最たる物作りをしてきた日本人が、元気が無いのです。若者には冒険心と夢と理想が欠けているのを感じ取れるのです。電車に乗って、年寄りや女子どもや体の弱い人のために設けられた特別席に、ふんぞり返った高校生が座って、話し込んでいるのを見て、『こりゃあダメだ!』と、中国人の青年たちの潔さに負けているとがっかりしてしまいました。みんなの眼に、キラッとした輝きがないではありませんか。背中を伸ばして胸を貼って颯爽と歩く中国の青年たちに比べてみた私は、『胸をはれ!しっかりした歩幅で歩け。目を前方に向けて背を伸ばせ!』と心の中で叫んでいました。明日の日本を担っていく彼らを、心から激励したい思いでいっぱいでした。

 大人が、彼らに夢をもたせる社会、国作りをして来なかったことを反省しなければいけない。彼らを責める前に私たちが反省し、改める必要があるのだと思うのです。生意気な私たちを、遠くから近くから見て、忍耐して見守ってくれた、私の青年期の大人たちは、大きな度量を備えっていたのかも知れません。『元気だなあ!』と、おかしなことをしている私に、にこやかに語りかけてくれたおじさんがいました。そんな大人が多かったのだと思います。

 日本は綺麗で、美味しくて、静かというのが改めて感じている印象です。これから必要なのは「活気」ではないでしょうか。物がなくて貧しくても活気のあふれていた時代がありました。経済低迷で頭までも下げてしまう必要はないのです。父や母、祖父母から受け継いできた今の日本は、負け犬のようにしっぽを巻いてはいけないのです。堂々と世界の大路を闊歩しましょう。

 この東京の街、美しく着飾った街、華の都が、繁栄し、平安に満ち、義を愛する街になり、首都としてふさわしい街になり、人々が、日本の模範、世界の模範になって、喜んで感謝に満ちていくことを願わされたのです。さあ、東京よ、頭を上げ、背筋を伸ばし、世界に目を向け、強く一歩一歩を進み行け!

(写真上は、北斎の江戸城と富士、下は、佃煮を載せた湯気の立ち上るご飯です)

華の甲子園

 大阪国際港に入港したのが、朝の8時過ぎだったでしょうか。もう夏の陽がカンカンと照りつけていました。上陸の手続きを済ませて、地下鉄・中央線の「コスモスクエア駅」から電車に乗り込んだのです。『夕方まで何をしようか?』と思い巡らせていたのです。その日は、一度、カプセルホテルに泊まってみたくて、心斎橋のホテルの予約を入れておいたから、夕方まで時間がたっぷりあったからです。『どこか観光をしようか!』と考えていたら、ふと「甲子園」という思いが湧きがってきたのです。『いつか高校野球を観戦したい!』と思い続けていたのを思い出したのです。それで前の席に座っていた方に、『甲子園はどこで乗り換えたらいいのですか?』と聞き、教えていただいた乗換駅で降りたホームで、『どの電車に乗ったらいいのですか?』と、また聞いたのが、3人のおばさん連れだったのです。『私たちも、これから応援に行くところです!』というので同行させてもらったのです。

 このおばさん連れの一人が、島根県浜田市の出身で、『島根県代表の淞南(しょうなん)高校の応援に行くのです!』といったのです。母が島根県出身でしたから、タイミングの見事さに呆れながら、この方からチケットを頂き、4人並んでアルプス席に陣取ったのです。相手校は、岩手県代表の「盛岡大附属高校」でした。昨年、地震と津波で震災を受けた県の代表でしたので、一塁側への思いも向けることにしました。実に強烈な日差しで、坊主頭の頭皮が剥けてしまうほどでした(2、3日したらボロボロと落ちてきました)。『いいぞ!いいぞ!淞南!』の声に合わせて、応援をしました。私の応援の甲斐があったのでしょうか、延長12回5対4で勝つことができたのです。

 終わる直前に、おばさんたちが引き上げて行きましたので、『もう一戦観ていこう!』と思って、外野に目を向けたのです。ところが、どこにも日陰がないのです。帰国早々、熱中症にかかってはいけないと、歳相応の決断で諦めて、場外にあった「甲子園ラーメン」に入って昼食を済ませました。それから阪神電鉄で「なんば」に出て、地下鉄に乗り換えて「心斎橋」で降りたのです。アーケードの通りを通ったのですが、大都会の繁華街なのでしょうか、週日だというのに、数えきれないほどの人が行き来をしていました。さながら、銀座や新宿や渋谷といった観がしました。大阪の街を歩くなんて初めてのことでした。

 何度か道順を聞いて、カプセルホテルに投宿しました。船の中にも浴場があって、航海の間、5回ほど入ったのですが、それとは比べられない大きな浴場があり、サウナもあって、日本を楽しむことが出来たのです。『道頓堀で夕食を!』と思ったのですが、「夕食300円」につられて、外に出ずに食事を済ませ、また風呂に入ることにしたのです。これまで外泊でホテルに泊まる機会も少なくなく過ごしてきましたが、すっかり「カプセルフアン」になってしまいました。ちょっと鼾(いびき)をかいてる人もいましたが、狭い空間の中で、他に気を取られることもなく熟睡でき、都会の旅の宿としては最高でした。食べたことのなかった「豆腐ハンバーグ」というのを出してくれたのですが、これが実に美味しかったのです。300円で3つもあって、味噌汁やサラダや漬物もついていました。『日本は綺麗で、美味しくて、静か!』を、大阪のどまんなかで味合うことが出来たのです。

 翌日、大阪駅から、ネット予約をしておいたJR高速バスに乗って、東京駅日本橋に着いたのが、夕方7時半頃だったでしょうか。夏のゴールデンウイークの開始日、花の金曜日の夕方でしたから、道路も渋滞していたので、そんな時間だったのです。リュックを背負い、麦わら帽子をかぶって、山手線に乗り込み、恵比寿でおり、次男の家に着いて、旅を終えることができました。暖かく迎えてくれた次男と握手して、再会を喜んだ次第です。久しぶりの、初めての日本を楽しめた一日でした。

(写真は、高校野球の甲子園球場です)

上海からの船旅

 
 
 『台風11号が接近しているので、出航時間を午前9時に繰り上げます!』との連絡が前の晩に入ったのです。上海港を出た「蘇州号」は、大型船でしたが、波にもまれながら、前後左右に揺り動かされていました。これまで瀬戸内海を、フェリーで何度か利用して九州や四国に渡ったことがありますが、そこは内海で静かでしたので、大きく揺さぶられるようなことはなかったのです。ところが今回は、航路は外海でしたし、11号台風の接近で覚悟はしていたものの、幸い私は船酔いをせずに、しばらくの台風の影響を受けた後、静かに凪(な)いだ海の上を、快適に船旅をすることができました。その航路は、かつて遣唐使船が目指した航路を、反対に航行しながら、大阪の国際港に向かっていました。海には、三日月が写り、海また海の上を静かに走るような船旅でした。

 夜、甲板に出て、ちょっとオセンチになったのでしょうか、『海は広いな大きいな・・・』とか、覚えていた歌を静かに口ずさんでみました。実に神秘的で、海の広さに比べたら、大型の貨客船と言いながらも、藻屑のような船が、静かなエンジン音を上げながら、まっすぐに航行する様子を体感しながら、科学技術の進歩の凄さを感じざるをえませんでした。あの遣唐使船や遣隋使船は、風を頼りの帆前船でしたから、無風の時は、漕ぎ手の人力も用いたのだそうです。全長30メートル、幅8メートル、300t程だったといいますから、超自然的な加護を求めながらの船旅だったにちがいありません。その航路を、一つの舵を取りながら、大陸の蘇州を目指したのですから、勇気の要ったことだったでしょうし、大陸から学ぼうとする意欲の大きさ、決死の覚悟をみなぎらしていたことになります。

 日本の島影が見えてきた時に、やはり懐かしさがこみ上げてきました。4月に母の告別式で戻っていましたから、4ヶ月ぶりの帰国でしたが、やはり自分の祖国の名のない島が見えた時には、特別な思いが沸き上がってきたのです。「五島列島」に連なって無数に点在する島なのですが、島の緑は、優しく私の目に写りました。港が見えた時に、『こんな離島で、何百年も生活が営まれてきたのだ!』と思うと、日本人の勤勉さやたゆまない努力や工夫を感じさせてくれて、祖国の自然ばかりではなく、祖国を耕し、周りの海に糧を求めて続けてきた人々の毎日毎日があって、今日の時代を迎えていることが分かりました。玄界灘を航行しながら、北九州の港町が視界に入ってきました。看板も読めるようになると、瀬戸内海に入る辺りに、関門海峡の大橋が見えてきて、その橋をくぐった時に、トンネルを汽車や電車で走ったあたりを、海から眺めて、一入の思いも湧き上がってきました。

 丸二日、48時間を船上で過ごしたのですが、この静かに流れる時間には格別なものがありました。同船のみなさんが口々に言うのは、『飛行機では、身動きもしないで、じっと4時間ほど座って、隣席の人との交流もほとんどなかった!』と言っておられました。しかし、船の中では、日本に帰るといわれる、私の兄と同年の方、日本に働きに行く中国の農村からの若い女性のグループなどと交わることができました。また、中国人のお母さんが連れた4人の母子がいて、その中学2年生の少年とも言葉を交わしました。そこには中日の友好の「交わり」の一場面があったのだと思います。1000円もする、船内のレストランで夕ごはんを食べていない中国のお嬢さんたちに、『泣きたいようなことがあっても、頑張って働き、日本と日本人を知ってくださいね!』と言って、カップヌードルを差し入れしてあげました。とても喜んでくれたのですが、給与支給の問題などがある雇用の中で、日本不信に陥らないようにと願うばかりでした。

 ちょっと揺れたのですが、帰りの船で、どんな人たちに会えるかを期待しながら、下船した次第です。船から降りるのは、飛行機から降りるのとは、だいぶ感じが違いますね。ずっと液体の上にいるような気分でだったからでしょうか。これでは、船旅が病みつきになりそうです。

(図は、大阪の住之江から東シナ海を渡って、蘇州への遣唐使船の航路です)

台風接近

 先ほどの天気予報で、台風11号の予想進路が、温州と上海だと、知らせていました。そんな時に、メールに、『明日の午前11時の出港が、9時に繰り上げられました!』と知らせてきたのです。遣唐使船や遣隋使船は、風まかせでしたから、風のある季節に航行しなければならなかったのですから、台風に遭遇する可能性があったことになります。私の乗る船は「蘇州号」で、全長154m、客定員316人、14410屯、最大21ノットの5星客船 ですが、大型貨客船で、貨物の比重の方が大きな船のようです。空に浮く飛行機も、水に浮く船も、陸の足をつけているのと違って不安定ですが、船長に命を預けて、快適な旅を願っています。

 今夕のバスの中での食事を、今、家内が作っています。飛行機のエコノミーを考えますと、狭い座席で横になることができませんが、「長途汽車」という長距離バスは、中国国内を東奔西走、縦横に走っていて、車内はベッドになっていますので、体を横たえることができるのです。去年、広州に行った帰りに乗りましたが、結構快適でした。『無理をされないほうが・・・』と言ってくださる方がほとんどですが、ちょっと無理をしてみたいへそ曲がりなオヤジの私です。こんなことをブログに書き始めているのは、だいぶ不安があるからかも知れません。夕食を片手に、『ボンボヤージ!』

中国にいることの幸せ

 『人生の最良の時期とはいつか?』を考えると、それは青年期でしょうか。それとも充実し、円熟した時を過ごせる中年期でしょうか。それとも無邪気な子どもの時なのでしょうか。そういったことを考えますと、老年期というのは最悪の時期になってしまうのではないでしょうか。私は、人生の締めくくりの時期を迎えた今こそが、《人生の最良の時》だと思うのです。子育を終え、仕事も退職し、家庭や社会の責任から解放された今を、『どう過ごすか?』が問われて、新しい道に分け入ることができたからです。

 2006年の8月に、日本を出て、香港で1週間を過ごし、北京、天津というルートで、中国に導かれました。心機一転、中国語を学ぼうと思っていた私たちに、そのように門戸は開いたのです。学びの合間に、華南に旅をしました時に、訪ねた友人から、『こちらに来て、学びを続けませんか!』と勧められのです。迷いに迷ったのですが、彼の勧めを聞き入れて、2007年の夏に、この街にやってきたのです。そうしましたら、ここで出会った若い友人が、『大学で日本語を教えくれませんか!』と勧めてくれたのです。それを「天の声」の様に聞いた私は、喜んで教壇に立つ決断をし、今日にいたっております。

 《中国にいることの幸せ》を、今、強烈に感じております。中日の間の友好のためには、幾重もの壁があり、反日の動きも、ときどき、そよそよと感じてはおりますが、決定的な問題にはならないでおります。居心地はいいのです。教えながら、若者たちから多くのことを学び、多くの友人たちから愛や親切を受けて感謝が湧き上がり、『あなた達は私の家族です!』とか『お二人は、私の日本のお父さんとお母さんです!』と言われますと、居心地は更に良くなってしまうのです。よくつらい経験をされている日本人の方の話を聞きますが、私たちには、全くといっていいほど、そういったことはなく、この六年を過ごすことができたのです。

 来週月曜日の夕方に、街の北にあるバスターミナルから長距離バスに乗って、上海に行き、そこから大阪港行の船に乗って帰国します。48時間を要する船旅は、私の憧れなのです。子供の頃、船乗りになりたかった私にとって、海、潮騒、潮の香を体験することは夢だったのですから。もちろん、今、11号台風が沖縄に接近していますから、出航できるのか、また出航しても大波に揺さぶられるのかわかりませんが、今、踊るように心が興奮しています。今日の昼過ぎに、長女から電話があって、『無理しないでね!』と釘をさされました。『年を考えて!』と言いたかったのでしょうか。

 若かりし日の父が、こちらに来ました戦前の交通手段は船だけだったのです。その父が渡った大海原を、私も反対方向から渡ってみたいと、常々思ってきたものですから、その実現も楽しみの一つなのです。また遣唐使船や遣隋使船に乗って波濤を越えた人たちの思いを、共感してみたいこともあります。人や利器は変わっても、海は変わらないのですね。若い日に出来なかったことを、する自由があって、今が、一番好い時だと思っております。確かに家内も心配して、『長距離の夜行バスなんか乗らないで、飛行機で行けばいいのに!』と言いますし、『船でなく、飛行機のほうがいいのに!』とも言いますが、今だからできる行動を楽しませてもらおうと思っているのであります。

 そうしますと、今が人生の最良の時ですし、中国の華南に住んで、大学の教壇にも立たせていただき、若者たちの熱気に触れ、彼らの悩みを聞き、多くの友人たちと語らい、共に食事を採り、岩茶や鉄観音茶が飲める、今のこの生活に、幸せを感じるのです。私の行動を軽率だと言った人もいましたが、『そうできるあなたが羨ましいです!』と言ってくれ方もいました。ときどき、わずかな年金の中から、『これを使いなさい!』と、時々送金してくれた母は、今春召されたのですが、母に代わる友人家族に支えられ、励まされているのです。それよりも何よりも、中国のみなさんから、驚くほどの愛を受けていることが、《中国にいることの幸い》を切々と感じさせてくれるのです。さあ、こちらに戻ってきますと、在華七年目の始まりになります!

(写真上は、遣唐使船の航路図、下は、上海の《蘇州号》の出入港付近です)

日本に生まれた幸せ

 

 常々、『幸せだ!』と思うことがあります。それは、日本に生まれたこと、日本人であることです。ヨーロッパ諸国からは、「極東」、東の外れにある《野蛮人》の住む国だと揶揄されていました。隣の中国と比べて島国の小国で、まるで《箱庭》のようだと比喩されてきました。日本列島は南北に細長く、その中心部は高峻な山々が連なり、平地が少ないのです。大雨に見舞われると、河川が氾濫して、洪水が起こることもしばしばでした。台風の通り道で、来る年も来る年も、暴風雨にさらされ、大きな災害を被って来ました。環太平洋火山帯の上に、列島が位置していますから、《地震》が頻発し、地面が、ひっきりなく揺れ動く上で生活が営まれてきました。しかし先人たちは、この国を見捨てて逃げ出したり、諦めたりしなかったのです。『どうしたらこの国の中で生きていけるのか?』を考え続け、学び、挑戦し続けてきたのです。

 静岡県の東部を富士川がながれておりますが、この上流は「釜無川」とよばれています。河川の氾濫を繰り返すので、こういった命名がなされた一級河川です。この支流に、「御勅使川(みだいがわ)」があり、この流れが釜無川に入る辺りが、一番の氾濫箇所でした。これに苦しめられてきた住民を、どうにか助けようとしたのが、有名な戦国の武将、武田信玄でした。彼は、中国の文献から学んで、「堤(つつみ・堤防)」を築くのです。大変な難工事でしたが、完成された時に、近辺や下流の農民たちに大きく感謝され、それ故、そこは「信玄堤」と呼ばれるようになったのです。

 何年か前に、四川省に行きました時に、岷江(minjiang)という川にあります、「都江堰」を見学しました。この「堰」こそ、「信玄堤」の原型なのです。街に入った時に、大きな銅像があって、ガイドをしてくれた方が、『都江堰を築いた李氷の像です!』と教えてくれたのです。釜無川とは比べられないほどの水量の川でしたから、これを築くのは、難工事だったに違いないことが容易に分かったのです。私はいつも、中国に参りましてからは、ことのほか思わされてきているのですが、『中国人の智恵や工夫や実行力は素晴らしい!』ことです。「都江堰」に倣った「信玄堤」は象徴的であって、日本の政治、法、文化、芸能、教育など、あらゆる面で、中国に基礎を置いているわけです。ほとんどの我が国の事物の源流は、中国にあって、その知恵の恩恵を受けて、日本という国が出来上がったわけです。

 その知恵を、日本という自然環境の現実に適用し、工夫を加え、改善して、日本が国として形成され、日本人が創り上げられたことになるのです。よく言われてきたことですが、『日本は猿真似王国だ!』、確かにそうですが、真似ただけで終わるのではなく、工夫改善が行われて、真似た原型を遥かに凌駕してきたからこそ、経済大国になることができたのです。失策も失敗もありましたが、まれに見る文明国になり、礼儀や態度の面では、世界的な模範になってきたのです。『黄色の出っ歯の野蛮人!』が、こんな国を創り上げてきた、先人たちの血を吐くがごとき努力に感謝し、この国に生まれたことを仕合わせに思うのであります。私が日本人であることを、決して恥じません。この戦後の六十数余年は、過去の過ちを悔い、十二分に償ってきましたしたから、いつまでも過去に因われる必要はないと、心底から思うのです。

 若い世代のみなさんが、この国の先人たちを誇り、国を愛することができるように、心から願うのです。中国の若者たちが、国を愛し、生まれ故郷を誇り、次の時代を担おうと励んでおられます。先程もバスに乗って、招かれた昼食を終えて帰って来ましたが、家内が乗ってきますと、一人の青年がすくっと席から立って、家内に席を譲ったのです。先に乗った私は、その一部始終を眺めながら、『中国の次の時代は盤石だ!』と思わされたのです。席を譲ってくれたからではなく、ほんとうに立派に生きている若者が多いからです。彼らは、きっと「幸せな国」の国作りをしていくに違いありません。『日本の若者も、日本を誇り、日本を愛して、日本に生まれた幸せをかみしめて生きてもらいたい!』と願わされた、台風一過の午後であります。

(写真上は、山梨県のかまなしがわの「信玄堤」、下は、四川省の「都江堰」です)

金メダル 【無償の愛(ロケットニュース24)】

      40年かけて35人の道に捨てられた子どもを拾い救ってきた中国の女性が
     世界中に感動を与える

 現在ある一人の女性に隠されたストーリーが、世界中に感動を与えている。その女性とは、中国の楼小英(ロウ シャオイン)という88歳の女性で、現在腎不全(じんふぜん)のため入院生活を送っている。彼女は、浙江省の金華市(きんかし)というところで道に捨てられているゴミを拾い、それをリサイクルすることでなんとか生計を立ててきた。

 しかし貧困のなかで生きてきた彼女が、道で拾っていたものはゴミだけではない。なんと40年かけて35人もの子どもを拾い、そして救ってきたのだ。
 17年前に夫に先立たれた楼さんは、拾った子どもたちのうち4人を自分のもとに置き、残りの子どもたちは友人や親戚のところに預け、面倒を見てもらった。そして82歳の時、今の楼さんの最も幼い子ども張麒麟くんをゴミ箱の中で見つけることとなる。現在7歳になる麒麟くんを見つけた時のことを、楼さんは次のように話している。
 
 「私はすでに歳をとっていましたが、その赤ちゃんを無視し、ゴミの中で死なせることなんできませんでした。その子はとても可愛らしく、そしてとても苦しそうでした。私はその赤ちゃんを家に連れて帰らなければと思ったのです」「田舎にある小さな質素な家にその子を連れて帰り、元気になるよう面倒を見ました。そして今その男の子は、幸せで健康なやんちゃ坊主に成長しています」「張麒麟より年上の私の子どもたちは皆、彼の世話を手伝ってくれました。麒麟は私たち全員にとって、とても特別な存在なのです。私は中国語で “貴重で大切なもの” を意味する単語を、彼の名前として選びました」

 「1972年私がゴミ拾いに出かけた時に、小さな女の子を見つけたことが全ての始まりです。その女の子は、道のゴミの中に埋もれており、捨てられていました。もし私たちがあの時その子を助けていなかったら、彼女はきっと死んでいたことでしょう」「その子が成長していく様子を見るのが、私たちの幸せでした。そして気づいたのです。子どもの世話をすることが、私が本当に大好きなことだということを」「ま た、こうも思いました。もし私たちにゴミを集めるだけの力があるのなら、人の命のような大切なものを “再生” できる力もあるはずだと。道に捨てられた子どもたちは、愛情と保護を必要としています。彼らはみんな大切な命なのです。どうしたらこんなか弱い赤ん坊たち を道に捨てられるのか、私には理解できません」


 
 血のつながった実の娘・張彩英さん(現在49歳)を育てながら、道で拾った子どもたちも 我が子のように愛してきた楼さん。その楼さんのもとで育った子どもの一人・張晶晶さん(33歳)は、楼さんがどんな母親だったかをあるテレビ局のインタ ビューのなかで、次のように話している。(張晶晶さんがインタビューに答えている様子は、記事下の動画で見ることができます)「あの 頃、母は何も食べることができませんでした。母はゴミを拾うため、真夜中に出かけなければいけなかったのです。私たちが寝た後に、母は出かけていました。 そして明け方、まだ明るくなる前に家に帰ってくるのです。当時私たちは、ろくに食べることができず、大根、かぼちゃ、それからサツマイモなどが、その当時 食べていたものです」

 「私たちにお腹いっぱいになるまで先に食べさせて、その後やっと母が食べます。私たち子どもが、満腹になるまで食べたのを見て、母は心の中で『これで安心して自分も食べられる』と思っていたのでしょう」「例 えば12個のアメを3人の子どもに分ける時、母はなにがあっても均等にそのアメを、子どもたちに分け与えます。母は血のつながった実の子どもがいるのです が、拾ってきた子どもと分け隔てなく接するのです。えこひいきなんてしません。自分の子どもだけいいものを着せようとか、たくさん食べさせようとか、そう いうことは決してしませんでした」「母がこのように病気にかかってしまうとは、誰も想像していませんでした。私たちは今でも母が100歳ま で生きられると思っています。母がもっと長く生きしてくれれば、私たちも母ともっと同じ時間を過ごすことができます。もし本当に母がいなくなってしまった ら、 “お母さん” と呼べる人が本当にいなくなってしまうのです」
 
 そして楼さんの行動を支持してきた人は、地元における楼さんの存在についてこう話している。「彼 女は、捨てられた子どもたちに何もしない政府、学校、人々に恥を思い知らせています。彼女にはお金も権力もありません。しかし彼女は死のふちから子どもた ちを救ってきたのです。地元では、彼女のことはよく知られており、捨てられた子どもたちを救ってきた人としてとても尊敬されています。彼女は常に最善を尽 くす人物であり、地元の英雄です。しかし残念ながら、中国には数え切れないほどの子どもたちが道に捨てられており、彼らには生き残る希望がありません」
 
 この話の通り、つい先日、中国の鞍山市(あんざんし)で、ビニール袋に入れられた女の子の赤ちゃんがゴミ箱で発見された。その女の子の喉(のど)は、残酷にも切り裂かれていたが、幸いにも無事に救助され、一命をなんとかとりとめた。この女の子は、中国の一人っ子政策の犠牲者だと考えられている。なぜなら一人っ子政策により「女の子よりも男の子を好む」考え方が生まれてしまったからだ。そんな利己的な社会に捨てられた子どもを救ってきた楼さんは、現在腎不全のため入院しており、話すことも動くこともままならないほど身体が弱っているとい う。しかしそんな状態になっても楼さんは、自分が愛した子どもたちのことを気にかけており、病院のベッドの中から次のようなことを語っている。


 
 「私に残された人生はあと少しです。そして私が今、最も望んでいることは、7歳の麒麟が学校に行くことです。もしそれが実現すれば、私の人生にもう悔いはありません」
 
 実は楼さんは、これまで2人の娘を中学まで行かせることができたが、それより年上の3人の子どもたちを学校へ行かせてやることができなかった。それがとても心残りのようで、麒麟くんをなんとしても学校に行かせてやりたいのだろう。
 そんな愛情深い楼さんの人生が、中国で大々的に報じられると、ネット上で楼さんの入院費をカンパしようという動きが生まれ、募金を募るサイトまで登場した。

 そ してついに公的機関まで動いた。楼さんが学校の進学を望んでいた麒麟くんには、戸籍がないため、小学校へは入学できないとされていた。しかし今回の楼さん のニュースが中国で話題になったことで、戸籍の管理をしている地元の公的機関が、麒麟くんが入学できるよう戸籍問題解決へと動いてくれたのだ。それに呼応して、金華市の小学校も麒麟くんの入学を認めており、楼さんの話に感銘を受けたという校長先生は「これは楼さんの人生最後の望みであり、我々はそれを叶える手助けをしなければいけません」とその熱い気持ちを語っている。

 世界中の人の胸を打つ、楼さんが見せた子どもたちへの “無償の愛” 。確かにこれまで楼さんは、質素で貧しい生活を送ってきたのかもしれない。しかし自分を「お母さん」 と呼ぶ子どもたちの愛らしい声、そしてその子どもたちが見せる無邪気な笑顔で満ちあふれたその人生は、誰にも負けないくらい幸せな人生だったに違いない。

 楼さんの人生を明るく照らすこの無償の愛の素晴らしさ・美しさが世界中の人の心に伝わり、道で捨てられる子どもが一人でも減ることを切に願いたい。(文=田代大一朗)

(写真上は、子供たちを安なった台所、中1は、入院中の楼小英さん、中2は、楼さんの住む金華市の古写真、下は、楼さんの家です)