一路平安

 

 

9月20日、午前6時半のベランダの寒暖計は、26℃を示していて、最高気温は36℃の予報が出ています。今朝は、七輪の朝顔が咲いて、今夕、訪ねて来る次男夫婦を歓迎しています。家内の若い友人が、車で出迎えてくれると、言ってくれましたので、三人で海浜の空港に出掛けます。

夏が戻って来てしまったので、金木犀が香らなくなってしまっています。秋と夏とがせめぎ合っているかの様なこの頃です。旅の無事を、《一路平安yilupingan》と願う朝です。良い一日であります様に!

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戻りの夏

 

よく聞かされ、覚えてしまった歌謡曲に、作詞が佐藤惣之助、作曲が古賀政男の「男の純情」がありました。このレコードが売り出されたのは、1936年(昭和11年)でした。

男いのちの 純情は
燃えてかがやく 金の星
夜の都の 大空に
曇る涙を 誰が知ろ

影はやくざに やつれても
訊いてくれるな この胸を
所詮 男のゆく道は
なんで女が 知るものか

暗い夜空が 明けたなら
若いみどりの 朝風に
金もいらなきゃ 名もいらぬ
愛の古巣へ 帰ろうよ

ナンパな男になりたくなくて、『男は純情!』と志を立てたのは好かったのですが、世の中の誘惑は、そう甘くなかったのです。と言うよりは、<くすぐったい誘惑>に、自分を晒(さら)してみたい思いが強かったからでしょうか、そんな大人の社会に飛び込んでしまったのです。

勤め始めた職場で、仕事はきっちりしたのですが、上司のお供で、バーやクラブやキャバレーに連れて行かれました。また、地方へ出張すると、理事長が芸者を呼んだ酒席に招待され、立ち飲み屋では、角に塩を盛った一合升で、お酒を飲まされたりでした。いつの間にか、一端(いっぱし)の〈呑み助〉に仕上がっていました。

「純情」など忘れてしまって、〈薄汚れた男〉になってしまいました。まさに「人生の海の嵐に揉まれ」てしまった私だったのです。この世の風も波も、けっこう強くて、小童(こわっぱ)な自分を吹き飛ばし、押し流してしまうほどでした。大人の世界を、ちょっと覗(のぞ)こうと思ったのですが、とっぷり浸かりつつありました。『こりゃあヤバイ!』と思って、引き返そうと決心するのですが、その力が、自分にはありませんでした。

そんな時、元ボクサーの中近東系のアメリカ人と出会いました。当時40代後半でしょうか、斜視で、口髭を生やし、歌の上手な人でした。ニューヨークの学校で教えておられて、アフリカに赴任した教え子を訪ねる旅の途中でした。その途次に、この方は東京に寄ったのです。実に明るい性格の方で、物の考え方が積極的でした。すっかり魅せられた私は、自分の師匠になって欲しいほどの惚れ込み様でした。

でも私の弟子願望は叶えられませんでしたが、この方の感化で、生きる方向と路線を切り替えられる様になったのです。酒もタバコも遊びも、きっぱりと離れることがーできたのです。翌年、三年勤めた職場の所長の紹介で、都内の高校の教師に招聘されたのです。女子校でした。同じ敷地に併設されていた短大も専門学校も、教員から学生まで<女性一色>でした。

再び、『こりゃあヤバイ!』とのことで、結婚したのです。いえ、《結婚してもらった》と言うべきでしょう。まさに、「♯金もいらなきゃ 名もいらぬ 愛の古巣へ 帰ろうよ♭」でした。その歌の文句のままの今です。帰って行く家がなくて、帰国する度に、<大陸寄宿人>の私は、"塒(ねぐら)”探しをするのですが、弟や友人は"塒"を提供してくれるのです。

これもまた、『こりゃあヤバイ!』なのです。一切合切を処分した身ですが、家内には、祖国に一部屋の家でも残して上げたいと思っているのですが、彼女は、『要らない!』と言っています。無鉄砲で、計画性に欠ける生き方の私に、呆れるでもなく悔やむでもなく、<大陸寄宿女>の様に、私に似た身に、不満なく甘んじていてくれるのです。

このところ、災害に遭って、一切を失ってしまうみなさんの様子を見聞きして、持っていけない物への執着を捨てて生きている自分が正しいような思いにさせられます。あの「空の鳥」と「野の花」の様に、自然に身を任して生きるのも、一つの選択と決断なのでしょうか。秋風が吹き始めたのに、「戻りの夏」の今日この頃です。

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一葉の写真

 

 

これまで、数多くの人と出会い、そして「サヨナラ」をしてきました。最も身近なのは両親です。天の配剤としか言いようのない出会いでしたし、その恩に報いたいと思ったのに、それが果たせない、父との突然の別れだったのです。戦後の物資欠乏の時に、餓えさず、裸にせずに育ててくれたことには、感謝の言葉もありません。95で召された母が、老いて行く姿をしっか見納めて、こちらに戻りました。

子どもの頃に、よく喧嘩をした2人の兄と弟との出会いも感謝でした。四人兄弟で撮った写真が残っいます。上の兄が大学生、下の兄が高校生、私が中学生、弟が小学生の時に、それぞれが制服を着て、街の写真屋さんに行って撮ってもらったものです。その後、何度か四人で撮った写真があるのです。昨夕、訪問客があって、その最初の写真をお見せしたのです。

実は、その小中高大の四人兄弟の写真が、母の生みの親の臨終の床の枕の下に置かれてありました。母が送ったのではなく、母の故郷にいる、お世話になった方に、その一葉の写真を送ったのが、多分複写されて、奈良に住む母の生母の元に、何かの方法で届けられていたのでしょう。一度も会うことが叶わなかった孫たちを、時々、その写真を取り出しては、どんな思いで眺めていたのでしょうか。祖母は、十代で母を産んで、養女に出して、私たちの母を産んだことを隠して嫁いでいったのです。

この祖母なしには、私たち兄弟が生まれることがなかったのですが、人生の数奇さに翻弄された母にとっては、その別れは、辛い経験だったのでしょう。台湾に売られようとして警察に通報されて、すんでのところで保護された子どもの頃の経験を、母が話してくれたことがありました。もちろん私が大人になってからでしたが。

実母の葬儀の時に、奈良の父違いの妹から連絡があって、母は会葬したのです。その時、その経緯を聞かされ、その写真を手渡されたのです。実母が、自分の産んだ四人の子を認めて、思い続けてくれたことを知ったことは、母にとっては、大きな慰めや、子育ての報いになったのではないでしょうか。それもこれも、人生の現実ですね。親族の様々な思惑や進言で、人生が厳しいものにされるのですが、その辛い経験が、益となっていくことにも繋がるわけです。

17才の母が、奈良に生母がいると、親戚から初めて聞かされて、急遽訪ねています。しかし、『帰ってほしい!』と言われて、母は生母の元を辞したのだそうです。17才の母には、それも実に辛い経験だったのでしょう。そう言った経験が、子たちを産むことによって報われ、私たちを精一杯育て上げてくれたことに繋がったのです。

(母の故郷の島根県出雲市の近くの里に咲く「有明菫(すみれ)」です)

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薩摩隼人

 

 

古今東西、「教育論」が多くあります。私が中高6年間に受けた教育は、「大正デモクラシー」の思想的な背景から始められた教育で、父が心酔していた方が、建学した学校でした。この方は、吉田松蔭の感化を、個人的に受けた方だったようです。

二十代の松蔭は、「松下村塾」で、桂小五郎(木戸孝允)、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、前原一誠などの青年たちを教育したのです。その教育は、師が弟子に一方的に教えるではなく、お互いに意見を交換したり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」を行なったのだそうです。

松蔭の孫弟子のような実感は、私にはありませんが、青年たちを「進取の精神」を持つ人に作り上げたことは、素晴らしいことでした。日本海に臨んだ、山口県の萩市に、史跡が残されています。また、薩摩藩では、「郷中教育(ごじゅう)」がなされ、幕末の志士たちを生み出したと言われています。

それは、薩摩藩の伝統的な教育法で、子どもたちを、年齢別に4つのグループに分け、それぞれのグループからリーダーを選びます。リーダーが生活の一切を監督し、責任を負う形をとったものです。「小稚児(こちご/6~10才)」、「長稚児(おせちご/11~1才)」、「二才(にせ/15~25才)」、「長老(おせんし/妻帯した先輩)」という年齢で分けられていました。先輩が後輩を指導しながら学問や武術を学んでいたようです。そこには、相手への思いやりがまず必要ですし、相手の能力を把握しそれに適した伝え方を工夫することも必要でした。自発性、協調性、思考力が涵養されたのでしょう。

その教育の要点は、

◯用事で咄(グループ)外の集まりに出ても、用が済めば早く帰れ、長居するな、

◯何事も、グループ内でよく相談の上処理することが肝要であれ、

◯仲間に無作法など申しかけず、古風を守れ、

◯グループの誰であっても、他所に行って判らぬ点が出た場合には仲間とよく話し合い、落ち度の無いようにすべきであれ、

◯嘘を言わない事は士道の本意である、

その旨をよく守るべしだったそうです。

その教育を受けた西郷兄弟、大久保利通、大山巌、桐野利秋などを輩出したのです。そんな日本の近代化を担う人材、要人を、薩摩から日本に送り出したのです。しかも下級武士の子たちが、薫陶を受け、新日本の誕生に貢献したことになります。

この大久保利通は、「初代内務卿(事実上の首相)」でした。維新後の「明治政府」で、辣腕を振るって、様々な改革を導きます。富国強兵・殖産興業・実行廃藩置県・版籍奉還・学制・地租改正・徴兵令などを主導したのです。「近代日本」の基礎作りをした優れた人でした。西郷隆盛に勝るとも劣らない逸材でしたが、明治10年に、東京の紀尾井坂にて、5人の士族によって暗殺されてしまいます。

ご維新後、「武士」の世ではなくなったことを、大久保利通が強調したため、士族(旧武士階級)から恨みを買っていたようです。47才でした。こう言った「英傑(<維新三傑/西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通>」の一人を生み出すために、「郷中教育」があったのです。薩摩の男子を「薩摩隼人(さつまはやと)」と言うそうです。

(桜島の噴煙です)

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ミソハギ

 

 

広島県庄原市・国営備北丘陵公園の小川に咲いている「ミソハギ」です。“ウイキペディア”によりますと、「湿地や田の畔などに生え、また栽培される。日本および朝鮮半島に分布。の断面は四角い。は長さ数センチで細長く、対生で交互に直角の方向に出る。紅紫色6弁の小さいを先端部の葉腋に多数つけるー」とあります。☞[HP里山を歩こう]

秋に咲く花なのでしょう。こんなに多くの種類の花々が、野や山に咲いているのを知って、驚いてしまいます。栄華を極めた賢王でさえ、この野の花の一輪ほどにも、着飾ることができないのには、さらに驚かされてしまいます。

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小雨

 

 

今朝は小雨で、ベランダの寒暖計の気温は28℃です。この二、三日、金木犀の匂いが、どこからともなく微かにしてきています。暑いのですが、確かに秋は来ています。

台風22号のフィリピンでの被害が大きいそうで、広東省、海南省に向かっている様です。確かに今年は台風もハリケーンも、異常に発達しています。被災者のみなさんが、早く困難な状況を脱する様に願っています。今日は日曜日、祝福の一日でありますように!

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明治は遠くになりにけり


 

十代の終わりだったと思いますが、父の会社に連れていかれた時、一人の方を紹介されて、挨拶したことがありました。父が、『桐野利秋のお孫さんの桐野さん。』と言ってでした。この桐野さんの祖父が、幕末の志士、薩摩藩士の桐野利秋でした。この方は、薩摩藩の藩士で、西郷隆盛、西郷従道、大久保利通と共に、幕末の政変の渦中で活躍された人物なのです。西郷、大久保に比べると、それほど有名ではありませんでしたが、「幕末」から明治初期を生きた一人でした。

父の会社の顧問に、「明治維新」に関わった人物の係累がいるということを聞いて、一遍に、幕末と明治を身近に感じるようになったのを覚えています。長州藩や土佐藩、そして薩摩藩の若手の侍が、日本の近代化のために立ち上がったのですから、この時期の出来事は、実に興味津々だったのです。

明治元年で、西郷隆盛は40才、大久保利通は38才、坂本龍馬は生きていれば32才、高杉晋作は生きていれば29才、木戸孝允は35才、桐野利秋は30才、幕府方の勝海舟は45才でした。若い世代が、日本の夜明けのために東奔西走して封建社会から、近代社会へと移行させたことになります。

明治10年に起こった、「西南戦争」の首謀者で、「人斬り半次郎(桐野の別名が中村半次郎です)」とか汚名を着せられますが、人を切ったのは、信州上田藩の赤松小三郎で、しかも藩命によるものだったそうです。もちろん「示現流」の剣の使い手で、幕末最強の侍だったのは事実です。きっと、後に面白おかしく記す小説に、そう描かれたものによるのでしょう。

明治維新政府の要職にあったのですが、西郷隆盛が官職を辞して、薩摩に戻る時に、桐野利秋も一緒に下野(げや)しています。故郷に戻った桐野は、鹿児島の農地の開墾のために鍬を握ったのです。そして「西南の役」が、明治10年に起こります。桐野が首謀者と言われていますが、歴史家は、1人であのようなことは起こり得ないのだと結論しています。西郷隆盛と共に、戦役で、40才で亡くなります。「賊軍の将」とされますが、大正五年に、復権されています。

男っぽい生き方をされた、まさに「古武士」のような人でした。私がお会いしたお孫さんの桐野さんは、椅子に掛けられた初老の紳士で、穏やかな方でした。

(鹿児島市の市花の「夾竹桃(キョウチクトウ)」です)

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asagao

 

 

今朝のベランダの気温は、27℃もあり、また暑さがぶり返しています。昨晩も寝苦しかったのです。"台風22号”が大陸に向かってい、"大型ハリケーン"がアメリカ南東部を目指して進んでいます。ベランダで咲く朝顔が、人を喜ばせると同時に、自然の猛威が、人を恐れさせ不安にさせています。ただ無事を願うのみの朝です。好い一日をお過ごしください。

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新学年

 

 

こちらの新学年は、私たちのような日本での「染井吉野」の桜が開花する時期と違って、暑い夏が一段落してから始まります。昨夕会った中学生は、『学校に行きたくない!』と怠学症候群で、休み中、目一杯に、“game”に集中し過ぎてしまって、ご両親を困らせています。それで私たちは、その“game “を唾棄(だき)したくなるほど、反吐(へど)がでるほどに、忌み嫌えうようになるように、願っているのです。

壁一つ隔てた隣家の小2の女の子が、前になかったのですが、新学年が始まってから、登校前に泣く声が聞こえるようになっているのです。問題帳の問題ばかり、教室の硬い椅子に座って解くだけなんて、つまらないに違いありません。隣の爺さん婆さんの私たちは、この女の子に同情的なのです。前に住んでいた小区の正門の脇に幼稚園があって、この時期に、二、三人必ず、門から入りたくなくて、泣きながら、家に引き返して行く新入園児がいました。お父さんはオロオロするだけでした。

先日、南側のベランダの下を、小6ほどのお嬢さんが、颯爽と登校して行きました。何と、”バーバリー“の格子模様のスカートを履いて行くのです。「いや、豊かになったんだなー!』と、たいへん驚いたのです。ところが、その日、11寺半ごろに、買い物に出たら、お昼に家に帰って来る小学生の一団が、みんな”バーバリー“なのです。銀座の小学校の制服問題のニュースを聞いていたのですが、この街の公立小学校でも、「制服」の着用に、今学年からなったようです。

そのスカートが、本物かどうか分りませんが、「学習院」のような感じがしてきてしました。私たちの時代は、貧乏人は貧乏人のように、金持ちは金持ちのように、生活水準が、眼に見えて分かったのです。《画一化》なんてことを言わなかった時代でしらた。貧乏人の子は、『何くそ!!』で、『今に見ていろよ!』のハングリー精神に萌えていました。悪びれることなんかなく、快活に生きていました。

昔、大蔵大臣で、後に総理大臣になる池田勇人大臣が、『貧乏人は麦を食え!』と言ったとかで物議を醸(かも)していたことがありました。それは、マスコミが曲解した言葉で、池田大臣が、『所得の少ない人は麦を食べる、所得の多い人は米を食べるといった経済の原則に副って~』と国会で答弁したのを、マスコミが脚色して報道したのです。『麦を食え!』と言ったわけではなかったのです。

実は、栄養学的に、麦飯を食べていた貧乏人の方が、白米を食べている金持ちよりも健康だったわけです。脚気(かっけ)なんかにもならないからです。天の配剤は決して不平等なんかではないのです。忍耐力や、反発力だって、上手に使えば、ものすごく好い結果を産み出すのです。天津にいた時、そこは首都北京に隣接した街で、特別市でしたが、農村に行きますと、貧しかったのです。都会のことは違って、田舎の子は着る物も食べる物も、歴然と違っていました。

立たされ仲間で、帰りにコロッケを買って、お父さんを戦争で亡くした同級生に、奢(おご)って上げたことが、小学校の頃に何度かありました。きっと彼は社長か商店主かになっているかも知れませんね。中国は豊かになっています。こちらにあるアメリカ系のスーパーに、時々行くのですが、ものすごい量の買い物をしているのを見て、何十年も前にアメリカに行って見たのと同じ光景に驚かされています。それでも、ゴミ箱を漁っている方ものいるのは、アメリカもここも同じです。

ハングリー精神って、強靭な精神を培うのでしょうか。終戦後の日本が、それで経済復興をして行ったわけです。”バーバリー“のスカートの驚かされた私です。

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17年

 

 

昨日は、2001年9月11日、アメリカのニューヨークなどで起こった、”同時多発テロ”から数えて、「17年」でした。信じたくない光景を、テレビで見たあの時の衝撃が、想像できないほど大きかったのを思い出します。娘から、連絡があって、『大変なことが起こったの!』と言ってきました。すぐに、テレビのスイッチを入れて、配信されてきた映像を見たのです。現実に、こんなことが起こるのだと、驚愕ししてしまいました。

今朝、"Facebook"を見ていましたら、ニューヨークの世界貿易センターの崩壊の様子を写した動画がアップされていて、それを見たのです。最近見つかった動画です。この撮影者は、きっと亡くなって、カメラだけが残されていて、それがアップされたのでしょうか。勇敢に実際の記録を残そうとされたわけです。その救助や消化などで駆けつけた消防士が、1700人も犠牲になったそうです。

また、その廃塵を吸った消防士、救助隊員、警察官などのみなさんが、今日、ガンに侵されていることも伝えられていました。その数は、10000人以上だそうです。すでに、もう何もなかったかの様に、人間は振る舞うのですが、犠牲になった方のご遺族、それが原因でお病気なった方々絵のことを考えると、胸が痛みます。

「憎しみ」や「怨み」といった感情が、こう言ったことを生み出すことを思うと、人間の心がいかに陰湿なのかが分ります。人はもともと、喜んで、楽しく生きられる様に造られているのです。でも、すぐに悲惨な暗い闇に、人が包まれてしまったわけです。世界中で、悲しい叫び声が上がっています。すべてのものが呻いいるのです。

明日に希望や夢を繋いで、人は生きていけるのでしょうか。孫たちに明るく屈託のない明日を、残して上げられるのでしょうか。この小区で、夕方になると、幼い子どもたちが、空き地に出てきて、嬉々と声を上げて遊ぶ姿が見られます。何も心配のない今を、楽しく過ごしているのです。両親やおじいちゃんやおばあちゃんから、限りない愛を受けて満ち足りているからです。

平和が安心や穏やかさが、この地上に戻ってくるでしょうか。猛禽が羊の赤ちゃんと戯れる様な日がやってくるのでしょうか。台風やハリケーンや暴雨や地震や崖崩れのない自然界が帰ってくるのでしょうか。病気や悩みやいじめのない社会が再生するのでしょうか。食べ物や水や空気は安心しての飲食できるのでしょうか。物や機会が満ち溢れてあっても、人の心に落ち着きがなければ、何もなりません。

私の知り合いのお嬢さんが結婚されたのは、飛行機のパイロットでした。上海への空路に就いていました。ところが、あの"同時多発テロ"のあった後、操縦桿が握れなくなってしまいました。それほどの衝撃を、多くの人に与えたのです。その後、リハビリを受けていたそうですから、この方は復職できたのでしょう。一番は、幼い子供の心が傷ついてしまうことです。癒され回復されて生きていける様に願う、週日の午後です。(9月12日記す)

(ニューヨーク名物の「ブルックリン・ブリッジ」です)

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