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『私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。 私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。 私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。(2テモテ1章3~5節)』
私の二十代から三十代の8年の間、アメリカ人の宣教師さんの膝下で、聖書を学び、伝道者として生きていくための備えをしていただきました。この宣教師さんのビジョンは、パウロが、若いテモテを、福音の働き手となるように育てたように、私を育てたいと願われたのです。それは粗野で荒削りの私に忍耐した年月でした。
このテモテは、聖書に登場する使徒パウロの忠実な弟子で、パウロが第二次宣教旅行をしていた時に、ルステラで出会っています。その街の教会で評判がよく、聖霊に促されて、パウロは宣教旅行の同労者として誘うのです。テモテはまだ20才ほどの若者でした。その彼の信仰ですが、お母さんのユニケ、お祖母さんのロイス譲りの信仰を受け継いだ「信仰の継承者」だったのです。
パウロがコリントにあった教会に書き送った手紙に、次のようにテモテについて触れた箇所があります。
『そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。(1コリント4:17)』
パウロは自分の子のように思う、忠実な信仰者としてテモテを見ていたのです。深く信頼関係があったわけです。それで、マケドニアやアカヤにあった教会に、おもに困難な状況下にあったエペソの教会などに働き人として遣わしていたのです。テモテも、子が親に仕えるようにしていたからでした。
新約聖書の「テモテへの手紙第一」、「テモテへの手紙第二」は、パウロが若いテモテの奉仕を励まし、教会の奉仕者として、どうあるべきか、その聖書的な在り方を示しています。
パウロのテモテに対する信任は篤く、「テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です」、「主のみわざに励んでいる」などと、まるで自分の子のように、手紙の中で、父親のように、愛を示し、その奉仕を高く評価しているにです。
ピリピ人への手紙には、「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいない」、「子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました」と言っているほどです。ところで、このように評価されたテモテ、その人の性格はと言いますと、パウロが心配して「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく」と語っていますから、きっと彼は気が小さく、心配性の人だったのではないでしょうか。
また、彼の信仰が「純粋」であったとありますから、悩むことも多かったのではないでしょうか。少量の葡萄酒を飲むように勧めていますので、胃腸が弱かったというのも、性格から考えると何となく分かる気がします。少量の葡萄酒を摂るように、パウロが勧めていますので、消化器官に弱さがあったのかも知れません。創建でない点では、私を導き教えてくださった宣教師さんも、胃潰瘍気味だったのです。それだけ、福音宣教は霊的にプレッシャーを感じる闘いだったかも知れません。
だから、祈り、賛美し、よく断食をしたり、節制しながら、聖書を必死に学んで、細かく分析しておいでだったと思います。パウロも、豪胆な人というよりは、繊細な学者肌の人だったかも知れません。宣教師さんが、「ローマ人への手紙」を深く学んで、チャートにした研究原稿を、後年、手渡してしてくれたのです。CDもありますが、録音状態がよくなく、再生できませんが十分に学べるのです。
パウロは、宣教の助け手として、次の時代の宣教、教会形成を担っていけるように、テモテを選んで、宣教旅行に同行させ、育てたのです。このように気弱で臆病だったとも思えるテモテは、前述のようにパウロによって、「私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいない」と言われるほどの人物だったのです。
さらに不思議というより、考えさせられることは、パウロはこのテモテに特別な思いがあったようです。パウロが獄中という孤立的な状況の中で、「あなたに会って、喜びに満たされたい」、「早く私のところに来てください」、「何とかして、冬になる前に来てください」と記していますが、そこにはただ用事があるからというのではなく、励まされたい、親しい交わりを切望していたようです。一見、強くて大胆そうなパウロですが、内気で気弱なテモテに共感する心が、「赦された罪人」の内にあったのではないでしょうか。
パウロが、福音に仕え、諸教会を、異教の世界に打ち建ていくという働きは、容易な業ではないことを、身をもって知っていたからこそ、真の理解者を、身近に起きたかったに違いありません。私が仕えた、霊的な戦いの最前線で戦いをしておいでの宣教師さんのことを思い返しながら、このような私でも、その真の理解者、同労者でいて欲しかったのだろうと、今思うのです。
同時に、まだ若かった自分を、顧みて思い返しますと、足りなかった自分だったと痛切に思うのです。伝道者として生きてきて、今になっての反省が、人の常なのでしょうか。外国人が、異教の地で宣教をするというのは、祖国の母教会や生まれ育った地の家族や親族と離れている孤独感、祈られていても、闘いは大変だったのだろうと思うのです。家内と二人で、2006ねんからの13年を過ごした地でのことを思い出しながら、未熟な私を育ててくださったことに、今、新たな思いで、宣教師さんへの感謝が湧き上がってまいります。
「十字架の福音」への強烈な献身のゆえに、捧げた情熱と心を、決して忘れません。「赦し」が生涯を貫いた力だったに違いありません。
(“キリスト福音宣教会“のパウロの宣教地図、タルソの街、宣教師さんの学んだジョージア工科大学の建物です)
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