油汚れの手を

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 「スター( star )」とは、星のように輝く人を言い表す言葉で使われてきていました。今では、そう言った形容は、ほとんどされなくなっていて、他の表現に代えられてきている様です。映画でも、スポーツでも、政治の世界でも、綺羅星の様にキラキラさせている注目人物を、そう言っていました。

 今やスポーツ界では、MLBの大谷翔平、将棋界の藤井聡太、ボクシング界の井上尚弥などのみなさんがいますが、どの世界でも、そう言った人物を生み出そうと躍起です。時代を担う人物、それぞれの世界を牽引し、宣伝できる人材の登場が期待されていて、もしかしたら、各業界が、作為的に、それを作ろうとしているのかも知れません。

 もうベテランの域に達している人材も、すでに亡くなった人も、若い頃は「新星」であったのです。映画界でも三船敏郎、音楽界でも小澤征爾、政治界でも小泉純一郎、建築学会でも隅研吾と言った優れた人材が、彗星の様に現れて、一世を風靡したのです。

 負け犬の言の様ですが、最盛期を知っていると、その座を降りた方の姿が、かつては輝いていただけに、歳を重ねて、薄ぼんやりと衰えている姿を見ると、その落差に驚かされます。いつも思うのは、後進に座を譲って、誉ある注目の席を、潔く退(ひ)くことでしょうか。

 ホンダの創業者の本田宗一郎は、《世界のHONDA》を作り上げて、65歳で、身を退きました。まだ経営手腕を振るえる年齢でしたし、業界も、まだまだ引っ張っていって欲しかったのですが、新しい時代には、もう育ってきている人材いて、彼ら任せてしまったのです。それは、やはり「勇退」と言うのでしょうか。

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 創業時の苦労を思うと、トップに座に居続けたくなるのが常なので、「やめ時」を引きにばして、経営が難しくなる例の多い中、本田宗一郎は決心をして辞したのです。あの陸奥、米沢藩の上杉鷹山は、十代で主君となり、藩政を改革して徳川中庸の名君でした。その鷹山は35歳で、治広に家督を譲ったのです。そして主君の心得の「伝国の辞」を表します。

 一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候

 一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候

 一、国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候

 優れた指導者は、時を読み、時を知るのでしょうか、本田宗一郎は引退後に一つのことをしたのです。日本全国に数多くの販売店や工場で従事する従業員いて、そのみなさんに、『お礼を言いたい!』と決められて、それを実行されたのです。海外にも足を伸ばされたそうです。

 私は、何台もの車を乗り潰したのですが、兄が乗り古したダットサン1000ccをもらったのを初めとして、中古車ばかりを乗り継いだのですが、海水浴に子どもたちを連れて出かけた帰り道、ラジエーターへの送水のゴム管に穴があいて、オーバーヒートしてしまいました。しばらく走ると止まって、水をラジエーターへ注水する、これを繰り返しながら走り、やっと街道沿いの自動車修理工場の前に着きました。

 あいにくお盆休みの真っ最中でした。それなのに、その工場主は、作業着に着替えて、修理をしてくれたのです。あんなに助かったことはありませんでした。4人の子どもたちを乗せて、家内と6人だったのに、みんながホッとしていたのです。あの時ほど、新車が欲しいと思ったことはありませんでした。

 何台乗り潰したことでしょうか。その度に車が与えられましたが、HONDA製は一度も乗りませんでした。もう少し若かったら、ホンダにも乗ってみたかったのです。あの本田宗一郎の車にでした。ある時、宗一郎が従業員と握手を交わそうとしたのです。作業中だったので、彼は油で汚れた手を出さなかったのです。ところが、宗一郎は、『その油に汚れた手がいいんだ!』と言って、彼に、自分の右手をのべて握手したそうです。そんなことしたり、言ったりする車屋のオヤジさんの車に乗ってみたかったのです。

 鷹山にしろ、宗一郎にしろ、素晴らしい指導精神、いや生き方が抜群なのです。藩主なのに金糸銀糸で織られた衣服を身に着けずに、木綿や麻の生地で織られた衣服を着ることのでき、粗食に甘んじた鷹山、ツナギ作業着姿の宗一郎のあり方は、やはり魅力的ではないでしょうか。

(ウイキペディアのホンダの初代の civic 、本田宗一郎の生まれた町の市花のヤマユリです) 

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