[旅に行く]音吉たちの旅

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 三浦綾子が、197879年の間に、週刊朝日に連載した「海嶺」と言う作品があります。時代は、江戸の後期、1832年のこと、伊勢湾に面した知多半島・小野浦の千石船・宝順丸が、大阪で米を積んで寄港した熱田港から江戸に向けて出帆しました。ところが、嵐に遭ってしまい、遭難してしまうのです。その船に、水夫としていた乗船していた少年たちの数奇な物語です。

 私たちの長男の嫁御は、この愛知県知多半島の出身で、こちらを訪ねた時に、隣り町の美浜町にある、その宝順丸に乗っていた岩吉、久吉、乙吉(音吉)の「頌徳記念碑」に案内していただいたのです。

 十四人ほどの乗船仲間が、漂流中に次々と亡くなっていく中で、一年二か月の後に、この三人だけが生き残るのです。アメリカの西海岸、ワシントン州のケープ・アラバの海岸に漂着し、アメリカン・インデアンに助けられるのです。古里では、墓まで設けられていたのに、奇跡的に生き延びていたわけです。

 そこからイギリス船籍の船で、コロンビア川を登って、フォート・バンクーバーに連れられて行きます。そこで、英語とキリスト教に出会うのです。そこからハワイ、イギリスと移動することになります。その後、ロンドンに滞在した後、清国のマカオに行きます。そこで素晴らしい出会いを、彼らはすることになります。

 マカオには、ドイツ人の宣教師のギュツラフがいて、この人が三人の世話をかって出てくれたのです。シンガポールに移った彼らは、そこで日本語の最初の聖書の「約翰福音(ヨハネの福音書)」の翻訳(ギュツラフ訳)を始めます。一年二ヶ月がかりで翻訳を完了したのです。有名なのは、

『ハジマリニ カシコイモノゴザル。

コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。

(約翰福音第一章第一節)』

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 その冒頭の一節です。私の義母は、アメリカ人宣教師から長女がもらってきた、「ヨハネの福音書11節」を読んで、救いに導かれ、その信仰を全うした、聖書に書き記される神と、その御子との出会いを経験しています。その翻訳には、尾張国の知多半島の方言が見られるのも、翻訳の手伝いをした音吉たち三吉(久吉、岩吉)のことばだからでしょう。

 奉仕を終えた三吉は、帰国船に乗って、日本に戻ります。三浦半島の浦賀に着くと、幕府の砲弾で退去を命じられるのです。幕府の外国船への「打払令」によってでした。それではと薩摩藩に助けを求めるですが、ここでも砲撃されてしまいます。帰国の道を断たれた彼らは、断腸の思いで祖国を離れます。その一人、音吉は、上海に住むのです。その後の20年、自分たちのような漂流民の救助や援助のために手を尽くすのです。

 上海で貿易商として生活をし、安政元年(1854)には、イギリスのスターリング艦隊とともに長崎へ来ています。その時には、「日英和親条約」の締結交渉に、通訳者として力を尽くしいるのです。音吉は、その頃にはジョン・M・オトソンと名乗ったそうです。マレー人のジョスィと結婚をし、シンガポールに移って生活をし、貿易商として過ごし、1867年に召されます。

 「数奇(すうき)」という言葉があります。デジタル大辞典には、「[名・形動]《「数」は、運命、「奇」は、不運の意》 

1  運命に巡り合わせが悪いこと。また、その様。不運。「報われることのなかった数奇な人」  2  運命に波乱の多いこと。また、その様。さっき。「数奇な運命にもてあそばれる」

とあります。波風にもてあそばれたこと、漂着したこと、帰国を拒否されたことなど、とくに音吉の人生は厳しも、数奇な一生であったわけです。それは、全能者の奇しき導きであったのです。

 でも、この三吉が、本邦初の「聖書」の翻訳に携わったことは、驚くべき特権だったことになります。ゴーブル訳、コナント訳、そしてヘボン訳があって、King James version を基盤に、明治訳聖書、元訳聖書、文語聖書、口語聖書、新改訳聖書などの、日本語訳聖書が誕生していきます。

 上掲の地図のように、アジア、ハワイ、アメリカ大陸、からヨーロッパにかけて、音吉たちが幕末から明治にかけて、広く各地を訪ねたことは特筆に値します。

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