懐かしい思い出になる

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 『強い男にならなくっちゃ!』と、死に損ないの私は決心しました。弱虫は男の敵だと思って、けっこう我慢強く生きようとしていたのですが、すぐに風邪をひき、起き上がる力がなかったのです。咳が出て、微熱が出ると、go sign を読みとった母は、肺炎の再発をさせないために、そんな私を電車に乗せて、隣街の最良の国立病院に連れて行ってくれました。

 ただ帰りにガムやチョコレートやピーナッツのどれか一つを買ってくれると言う餌に釣られて、食いしん坊の私は、ついて行ったのです。そんな病院通いが、三年生までの間中、繰り返されていました。ところが4年になった頃から、健康を取り戻して、好きな学校に行けるようになったのです。でも落ち着いて座っていなくて、よく担任の先生に叱られたわけです。

 大正9年に、「靴が鳴る」や「雀の学校」の作詞をした清水かつらが作詞し、広田龍太郎の作曲で、「叱られて」が発表されました。物悲しい歌でしたが、有名な童謡の一つです。

叱られて
叱られて
あの子は町まで お使いに
この子は坊やを ねんねしな
夕べさみしい 村はずれ
こんときつねが なきゃせぬか

叱られて
叱られて
口には出さねど 目になみだ
二人のお里は あの山を
越えてあなたの 花のむら
ほんに花見は いつのこと

 清水かつらのお母さんは、弟を産んで、精神的な問題をきたしたと言う理由で家を出されてしまいます。そんな辛い経験をさせられたのが、かつらが4歳の時でした。9歳の頃に、父親が再婚し、その継母に育てられています。優しい女性ではなかったようです。

 これは母から聞いたことですが、私の父も、明治の終わりに、産んでくれたお母さんが、家の格に合わなかったと言う理由で、家を出されたのだそうです。間も無く祖父は結婚をします。継母は、男の子を生んで、その子が嫡出の子になり、父は庶子、家督を継ぐことのない子だったのです。妹が三人いて、『お兄さん!』と慕われますが、旧制中学生の頃に、家を出て、東京の親戚の家から、転校した中学校に通うのです。

 お弁当におかずが入っていなかったり、弟妹とは、違っていたのだそうです。そんなもがく父を、親戚が助け舟を出して受け入れてくれたのでしょうか。でも、継母の名を呼び捨てにしていた父が、『辰江さんは・・・』と言って、『あの時代、シュークリームを作ってくれたり、トンカツを揚げてくれたりで、料理の上手な人だった!』と思い出を話してくれたことがありました。父が亡くなる少し前のことでしたから、しがらみを投げ捨てて、赦していたのでしょう。

 その継母の葬儀に、なぜか父は私を連れて行ったのです。人間は、やはり偏見があったり、自分の産んだ子の方が可愛いし、先妻の子の父に対して、あったことは仕方のないことなのかも知れません。全部神が許されなくては起こらないことだとするなら、その辛い出来事に、神を認め、どんな仕打ちだって赦すことができるではないでしょうか。

 かつらは、だれに叱られているのでしょうか。実母に会えない自分の惨めさや寂しさの中で、叱られて街まで買い物に行かされたり、狐が泣く頃まで、家に帰れないようなことが、まだ小さいかつらにあったのでしょうか。継母が、そんなことまでするでしょうか。

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 その父は、私を叱って、家から2回追い出したことがあったのです。鉄道の貨物の荷揚げや荷下ろしをする引き込み線に停車してる列車の最後尾の車掌室で寝たことがあります。そんな所で寝たことのある人は、多くはないことでしょう。また、裏山の林の中で枯れ草を集めて、その中で星を見上げながら泣いて、寝た夜もあります。

 「叱られて」を口ずさみますと、そんな出来事を思い出してしまうのです。でも、この歳になると、懐かしい思い出になるのがいいですね。まあまあ長生きさせていただいて、残りを、懐かしく過去を思い出し、これからも、まだ前に拓け行く世界に向かって、楽しく感謝して生きていこうと思っております。今日から、父の誕生月、弥生三月になりました。

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