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私は いわゆる「gourmet(グルメ)」だとは思っていませんが、時々、父に連れ出されて、父が食べて美味しかったのでしょう、その restaurant に連れて行ってもらったことが難度かあったのです。多分、兄たちも弟も一人一人秘密裡に連れて行かれたのだろうと思うのです。ですから、少々〈口が肥えている〉のかも知れません。食いしん坊だとは思いませんが、食べることが好きなほどに健康なのかも知れません。
秋たけなわだからでしょうか、日本蕎麦が俄然食べたくなってきてしまいました。長野県下の中央自動車道に、「伊北」というインターチェンジがあります。その近くの大きなスーパーマーケットの前に、水車を置いた「蕎麦屋」があり、今でもあるでしょうか、長野の南信の県立高校で、英語教師をしていた娘婿たちが住んでいましたので、飯田周辺を訪ねた帰りに、何度か寄ったのです。
初めての時でした、食事時だったこともあって、水車と暖簾に誘われて入ってみました。そして「ざるそば」を頼んだのです。配膳までメニューを見ていますと、「そばがき」がありました。信州の蕎麦処の逸品、それを注文してみたのです。きっと素朴なものが出てくると思っていたのですが、出てきた「そばがき」は、もちろん、そば粉を練ったものなのですが、まるでプリンのようでした。
胡桃で造られたソースが掛けてあって、350円ほどだったと思います。口の中で溶けるようでしたし、「そば」の香りと胡桃の味とがほどよく調和して、美味しくいただきました。その味に魅せられた私たちは、帰り道を同じようにとって、四、五回でしょうか、そのお店の暖簾をくぐったのです。
何度か目に行った時に、ご主人が留守でした。息子さんが「そばがき」を作って出してくれたのです。ところが、お父さんのような味とは違っていました。なんとなくザラッとした舌ざわりで、その違いが一目(舌)瞭然でした。最初に行った時に、『そばがきを自分で作ってみたいので、そば粉を分けていただけますか?』と聞きましたら、ちょっと思い倦(あぐ)ねたような素振りをされ、直ぐに返事が出なかったのです。
しばらくして、『素人の方では、ちょっと・・・』と言葉を濁されたので、諦めて帰ったのです。その意味が、息子さんが作って出してくれたのを食べた時に、分かったのです。単なるそば粉をお湯で溶いたものを、と思っていたのですが、やはり、「職人芸」というのでしょうか、年季が入らないと、あのようなものは作れないのでしょう。あの味を知ったら、「そばがき」は、これしかないことになって、それ以来、よその蕎麦屋に入っても、「そばがき」の注文はしたことがありません。
このお店で、最初に「そばがき」を食べた時に、調理場から暖簾を押しながら、私たちの「ざるそば」の進み具合を伺っていました。それは、食べ終わって出す頃合いを見計らっていたのです。そんなに細かい心配りがあって、あの「そばがき」を美味しく頂いたわけです。いつ出しても構わないのではなく、そこまで気配りをするというのは、本物の「蕎麦職人」なのだと分かって、とても嬉しかったのを覚えています。
3週間ほど前でしょうか、友人の車に乗せて頂いた時に、蕎麦の白い花の一面の畑が見えました。『たかが蕎麦、されど蕎麦!』と言うのでしょうか、それで、伊北で訪ねた蕎麦屋さんを思い出したのです。ご自分の天職に情熱を傾ける心意気というのが、私たちより一回り半ほど年かさの地方の蕎麦屋さんの店主の内側に宿っているのを感じました。
こういった世代の技能者が、あらゆる職域にいて、プロ意識を持って、頑固に、愚直に生きてきていたのです。その世代が消えてしまい、次の世代が台頭してきます。この世代は、ほんの短い期間の修行で、独立して一城の主(あるじ)に収まる傾向があるのでしょうか。やはり、前の世代の職人芸には、程遠いのです。
かつての「職人」たちは、さしたる高等教育は受けていなくても、仕えた主人の技術を盗んで覚え、会得してきた職人だと聞かされています。這うように修行した人がほとんどだったのです。その仕事をやめたら、次の仕事が待っているような今日日とは違っていましたから、「石の上にも三年」の努力をし、下働きをしながら「仕事」を覚えたのです。ですから仕事への愛着と意識とを強固に持っていた世代でした。
そういったおじさんたちが、アルバイト先に、何人もいたのを覚えています。みんな「頑固オヤジ」でした。それだからでしょうか、学ぶことが多かったのです。思い返して、たくさんのことを学ばされた年月を経て、今もなお、まだまだ学ばされている自分です。
(下野新聞の写真です)
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