憂国の青年

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  1862年(文久二年)、徳川幕府は、イギリスから購入した帆船に、「千歳丸」という名を付けて、上海に向けて視察団を乗せて出航させました。この船に乗船したのは、長州萩藩の高杉晋作、佐賀藩の中牟田倉之助、佐賀藩の納富介次郎 、高須藩の日比野輝寛、大村藩の峰潔 、浜松藩の名倉予何人などの人たちがいました。さらに水夫として乗船した五代友厚(薩摩藩)もいました。

 この船は、中国との貿易の「試験船」でしたが、2世紀ぶりの公船としての中国訪問でした。高杉晋作をはじめ選りすぐられた各藩の藩士たちは、それまで儒学を学んできた若者たちでした。彼らは、まだ見ぬ儒教の聖地への憧れがあった様です。ところが中国は、欧米諸国によって、アロー戦争、太平天国の乱、アヘン戦争による混乱で溢れていました。

 高杉晋作は、訪問記として、「遊清五録」 を書き遺し、次の様に記しています。

 『上海は支那南辺の海隅僻地にして、害て英夷に奪はれし地、津港繁栄と雖ども、皆外国人商船 多き故えなり、城外城裏も、皆外国人の商館多きか故に繁栄するなり、支那人の居所を見るに、多くは貧者にて、其不潔なると難道、或年中船すまいにて在り、唯富める者、外国人の商館に役せられ居る者也」
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 租界に住む欧米人の豊かさと、原住の中国人の貧しさの格差が際立っていたのです。外国人勢力に占有され、哀れな中国人の様子を見て、やがて日本も、このままで行くと、上海と同じ様な状況になってしまうという恐れを、全員が感じたのです。ことのほか、2ヶ月間見聞した高杉晋作の思いは深かった様です。

 私は、占領軍の下にあった日本の姿を、おぼろげに覚えています。占領直後のことは、まだ幼くて、しかも山奥にいましたから、何も覚えていませんが、昭和20年代の中後期に、アメリカ軍基地の隣町に住んでいましたので、アメリカ兵の姿をよく見掛け、“ give me chocolate ” をした世代でした。

 アメリカ兵の腕にブル下がって歩く日本女性の姿を眺めて、子ども心に憤りを覚えたのです。何をしているかを、ませた子どもなりに知っていたからです。高杉晋作たちが歩いた上海の街でも、同じ様な光景を、屈辱的な思いを持って、中国のみなさんは見ていたに違いありません。

 後に初代内閣総理大臣になる伊藤博文は、『動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずやー・・・中々勇悍の人であった。創業的才藻には余程富んで居った!』と、高杉を語っています。今も憂国の思いで、高杉晋作の様に、国の将来を思い計る青年たちがいるのでしょう。

(萩市の市花の「萩」上海の古写真です)

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