昭和

.

.
1955年(昭和30年)に、宮川哲夫の作詞、利根一郎の作曲で、宮城まり子が歌った「ガード下の靴みがき」がラジオから流れて聞こえてきました。

1 紅い夕日が ガードを染めて
ビルの向こうに 沈んだら
街にゃネオンの 花が咲く
おいら貧しい 靴みがき
ああ 夜になっても 帰れない 
(セリフ)
「ネ、小父さん、みがかせておくれよ、
ホラ、まだ、これっぽちさ、
てんでしけてんだ。
エ、お父さん? 死んじゃった…
お母さん、病気なんだ……」

2 墨に汚れた ポケットのぞきゃ
今日も小さな お札だけ
風の寒さや ひもじさにゃ
馴れているから 泣かないが
ああ 夢のない身が 辛いのさ

3 誰も買っては くれない花を
抱いてあの娘(こ)が 泣いてゆく
可哀想だよ お月さん
なんでこの世の 幸福(しあわせ)は
ああ みんなそっぽを 向くんだろ

戦争に行ったお父さんが戦死し、女手一つで子どもたちを育てているお母さんが、栄養え失調で病気をしてしまいます。家計を助けるために、いたいけのない子どもたちが、親方から仕事を教えてもらい、道具を借りて、街角で靴を磨いて、日銭を得る、そんな生活をする子どもたちが多い時代でした。中には両親のない子どももいて、<孤児>と呼ばれていました。

親戚に預けられ、喜ばれないので家出をしてしまって、<浮浪児>になった子たちも大勢いました。上野や新宿で見かけた事があります。そんな境遇から、教師になった山田さんは、神戸市の繁華街にあった生花店で生まれました。昭和20年(1945)3月27日未明の空襲で父を失い、6月5日午前の空襲で母を失いました。この2度の神戸空襲による死者は約5700人でした。一人っ子だった山田さんは、10歳で孤児になりました。

『……焼け野原に、ポツンと残っていた銀行の大金庫を、ねぐらにした。15、6歳の仲間が4、5人。一番小さかった山田少年は、みんなの後ろをついて走った。
ガード下の闇市で、店先のまんじゅうをくすね、少し離れた場所で新聞紙の上に並べると、あっという間に売れた。幼い子供の手からイモを取り上げて、食べた。
 秋になった。日一日と寒くなっていく。金庫では眠ることができなかった。他人が住んでいたバラックの板をはがして、たき火をした。米軍のジープがやってきた。カマボコ兵舎に連れていかれた。チョコレートと毛布をもらった。駅で寝ることにした。ホームに入り込んで、列車に乗ったら、暖かくてぐっすり眠ることができた。夜は列車に乗った。舞鶴、和歌山、下関へ。客は復員兵が多かった。車内は混雑していたが「こっちへきて寝ろ」と場所をあけてくれた。食料もくれた。みんな親切だった。ある朝、目を覚ますと東京駅に着いていた。
 上野、浅草、神田、新橋。ねぐらは毎晩、変わった。靴磨きや新聞売りをした。ヤミ市には、物資や人があふれていた。人ごみの中から手を伸ばして、おにぎりや大福もちを取って逃げても、誰も怒りはしなかった。大人も子供も、みんなボロボロの服を着て、地下道に寝ていた。
 <狩り込み>にあった。警官や都の職員が逃げまわる子供たちを「一匹、二匹」と数えてトラックにほうり込んだ。子供たちに、番号がつけられた(「それぞれの昭和」所収)。』

この山田さんは、養護施設に入って、やがて夜間の学校に行き、大学にまで行って、中学校の教諭になっています。様々な人生を生きて、今や70〜80代になっている世代です。<華の昭和>には、そんな事もあったのです。兄や私たちの世代は、敗戦の憂き目をもろに受けて、厳しい時代を、歯を食いしばって生きたのです。《昭和史》には、そんな暗さが色濃かった事を忘れてはなりませんね。

(昭和20年の東京大空襲の焼け跡です)
.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください