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 こちらに越してきましてから、一月が経ちました。かつては畑地の広がる農村部だったのですが、北京や天津や上海といった中心都市だけではなく、ここ地方都市にも、周辺部からの人口流入の動きが見られます。そういった人々のための住宅の確保のために、宅地造成が進んでいるのです。そこには、香港のように18階もの高層アパート群が立ち並び、中央資本が投入されてでしょうか、大きな商業施設が、大きな通りの向こう側に建設中です。旧市街から政府関係の施設の移転計画の中で、ここには近年中に、地下鉄の駅もできるそうで、交通の至便な地域になろうとしています。

 中学生の頃でした。弟が友人のお母さんからスクーター(オートバイに似たガソリン・エンジン付き乗り物のことです)をもらってきたことがありました。まだまだ走る代物(しろもの)でしたから、ガソリンを買ってきては、高台にある畑地の広がる中を走りまわっていたのです。もちろん、免許証を取れる年齢に達していませんでしたから、〈無免許〉でした。そんなことを知っていても、親を含め近所の大人は鷹揚(おうよう)なもので、黙認してくれました。交通事情も今のようなことがありませんでしたから、危険性は少なかったのですが、それでもいけないことをしていたことになります。そのスクーターを乗り回した農地が、やがて日本最大の公団住宅用地に造成されていき、近代化の象徴のように高層住宅が建ち並び始めていました。引越し先に住み始めてから、そんな昔の出来事を思い出しております。

 この地域にお住まいのみなさんの背景は、どうなのでしょうか。どのような人たちが、家を購入して、それぞれに内装して住んでいるのでしょうか。私たちの大家さんは、同じ省の地方の農村部に住んでおられるご両親を呼び寄せるために、この家を購入されたのだそうです。その故郷の楠(くすのき)を製材して、運んでこられて、木製の床と収納を作っておられます。最近の中国の住宅には、石材の床がほとんどなのですが、この家は、木の香が立ち込めております。ご子息の孝行心に応えられたらいいのですが、長らく住んでこられた村から離れられないのでしょうか、越してこられないまま、5年が経ちました。どなたも住まないままになっていた家を、なんと私たちにお貸しくださったのです。自分の親の代わりに、自分と同じ世代のよその親に貸したことになります。

 一昨日、隣家のおばあちゃんが亡くなられて葬儀が行われていました。日本の葬儀が〈陰〉だとしますと、こちらは〈陽〉と言ったらいいかも知れません。もちろん愛してきたお母様の死は、悲しいに違いありませんが、葬儀から陰湿な感じが伝わってこなかったのが印象的でした。日本では、黒ずくめの喪服を着用するのですが、Tシャツに短パン姿の喪主の頭には、白い鉢巻が巻かれ、腰には、真っ赤な帯を締めておられました。お母様の遺体が家を離れる朝は、6時から、音楽隊が3時間も演奏を続けておられました。どんな音楽が奏でられていたのかといいますと、多くの歌の中に、なんと「北国の春(いではく作詞・遠藤実作曲)」が流れておりました。

    白樺(しらかば) 青空 南風
    こぶし咲くあの丘 北国の
    ああ 北国の春
    季節が都会ではわからないだろうと
    届いたおふくろの小さな包み
    あの故郷(ふるさと)へ帰ろかな 帰ろかな

    雪どけ せせらぎ 丸木橋
    落葉松(からまつ)の芽がふく 北国の
    ああ 北国の春
    好きだとおたがいに言いだせないまま
    別れてもう五年あの娘(こ)はどうしてる
    あの故郷へ帰ろかな 帰ろかな

    山吹(やまぶき) 朝霧 水車小屋
    わらべ唄聞こえる 北国の
    ああ 北国の春
    兄貴も親父(おやじ)似で無口なふたりが
    たまには酒でも飲んでるだろか
    あの故郷へ帰ろかな 帰ろかな

 それを聞いたとき、「中国と日本は、切り離すことのできない、文化的な絆で結ばれているのではないか!」と思わされて仕方がありませんでした。国全体には抗日、反日の雰囲気は否めませんが、民間レベルでは至極友好的なものを感じてなりません。葬儀に関わることができませんでしたが、お母様の遺骨が家に戻ってきましたときに、玄関のドアーを開け放って、深々と敬礼をして喪主のご主人と奥様をお迎えしました。ご主人と目があいましたときに、彼も無言で頭を下げて、感謝をあらわしておいででした。うーん、これって中日友好の一歩になるでしょうか。

(写真は、北国の春を告げる花、「辛夷(こぶし)」です)