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今日のトップニュースは、15号台風の影響で、名古屋周辺に洪水の危険があって、百万人規模の避難勧告が出されたとのこと、被災地のみなさんにお見舞いを申し上げます。1959年に、「伊勢湾台風」が名古屋近辺を襲って、大きな被害を出したことを思い出しました。その時、窓という窓に、板を打ちつけて、父と一緒に、暴風雨に備えをしたのを覚えています。日本は、台風の通り道で、夏から秋にかけて毎年、何度かその猛威に襲われております。
私が生まれ、また天職をえて赴任し、仕事と子育てに30年を費やした中部山岳地方の町は、自然の要塞とでも言うのでしょうか、山々が防護壁のようにして、台風の被害を最小限度に抑えこんでしまうのです。私たちが住んでいた年月の間、ひどい被害に見舞われたことはありませんでした。昔は、河川が氾濫して大きな被害を出したようですが、治水工事の万全が施されて、その後は大雨による洪水の被害を回避することができたようです。
その街の山向うの街で、娘夫婦が3年ほど英語教師として働いていました。ある時彼女から連絡をもらったのです。『江戸時代から続いている農村歌舞伎の公演が、近くの大鹿村であるので、観に来ない?』との誘いでした。それまで、とんと歌舞伎など観たことがなかったので、軽い気持ちで、『そうか、じゃあ行くね!』と返事をして、高速から山道に下りて、車で駆けつけたのです。
ちょうど台風が来ていた時だったと思います。江戸時代は、贅沢だとされたのでしょうか、ご禁制だったのを、秘密裏に続けてきた伝統ある歌舞伎だったのです。何一つ娯楽もない山深い村で、春と秋に催されるそれは、村人の心の拠り所であったのでしょう。だからこそ、禁令を破って脈々と受け継がれて今日に至ったのでしょうか。この近辺は、祭りや演劇や人形芝居が盛んで、古きよき日本の文化の源流を残していると言えるでしょうか。
私たちが観た演目は、「菅原伝授手習鑑 寺子屋の段 」でした。初めての観劇に、ほんとうに感激した私は、〈おひねり〉を作って、舞台目がけて投げる観客に混じってやってみました。遠すぎて舞台まで届かなくて、誰かの頭にぶつかったのではないでしょうか。そういった昔ながらの演者と観客との心の交流物を介した感謝の気持ちが、何ともいえなく身近に感じていました。
演目は、涙を誘ってやまない悲しい物語でしたが、武人の生き方の一つとして、〈忠君の志〉の厳しさを知らされました。こう言った物語が、日本人の心を育んできたのでしょうか。士農工商の低い身分で、年貢米の供出に追われ、労役にかりだされるような生活の中で、山深い寒村の民も、武人の生き方を学んできていることを理解したのです。江戸末期に日本を訪れた欧米人が、日本人は身分の低い人たちでさえ、〈徳〉を備えていることにひどく驚きを示したのだそうです。村歌舞伎などが文化や伝統としての役割を果たしただけではなく、日本人の心を養い育ててきたことになります。
今夏、この農村歌舞伎が取り上げられて、映画化されたそうです。「大鹿村騒動記」という映画で、今もなお上映されているそうです。ぜひ観たいものです。この映画の主人公を演じた原田芳雄は、初上映の三日後に、惜しまれつつ亡くなっています。彼は私の好きな俳優でした。石原裕次郎や高倉健や加山雄三といった人気スターの陰にいましたが、演技は抜群で、大向こうを唸らせる様な、独特の雰囲気を持った名優でした。上の兄と同学年ですから、もう一人の〈兄貴〉だったのです。
とくに中国のみなさんにとっては、彼は忘れられない映画の脇役を演じています。中国語のタイトルで「追捕(日本のタイトルは『君よ憤怒の河を渉れ』)」という映画でした。中国では1981年に上映されています。『杜丘冬人って知ってますか?』と聞かれて、『えっつ?」と思わず言ってしまいました。高倉健が演じた、映画の主人公の名だったのです。改革開放政策で、日本の映画の輸入が許されて、中国中の若者に大センセーーションを巻き起こします。歩き方まで真似され、原田芳雄の演じた矢村警部の着ていたトレンチコートが大流行したそうです。50代~60代の中国人には、忘れられない映画なのです。
この原田芳雄の最後の出演の映画も、台風の最中に起こった物語なのだそうです。私たちの住んでいます街も台風に脅かされますが、ここも意外と自然要塞に守られて直接被害が少ないようです。台風の当り年でしょうか、自然災害が日本を席巻(せっけん)しているように見えますが、同胞の無事を心からお祈りいたしております。
(写真上は、映画「大鹿村騒動記」の一場面、下は、明石岳を望む大鹿村の風景です)