庭の花


 今、我が家の庭は、花が競って咲いています。三葉草(知り合いの学生が”san ye cao”と教えてくれました)、百合の一種、名の知らない小さな白い花が、遠慮がちに花を咲かせています。これに加えて、垣根の上の隣の家の庭に、真っ白な「天使のラッパ」が咲き始めました。もう大音響を響かせるのではないかと思うほどにです。別名「チョウセンアサガオ」とも言うのだそうです。初夏の風物詩でしょうか、毎年見慣れて、咲く花に季節を感じさせてくれます。また、左隣の家の小藪の木にも、真っ赤な花がつくのですが、名前を失念してしまいました。先日、郵便局に手紙を2通出しに行きました道筋にも、紫色の桐の花が満開でした。日本の花よりも、亜熱帯だからでしょうか、どの花も色が鮮やかで、強烈なのです。

 
 聞くところによりますと、関東甲信越は梅雨入りだとか。しばらく鬱陶しい季節が続きますが、大自然は感謝と喜びの声をあげることでしょう。私たちも心だけは晴れ晴れとしていたいものです。私の恩師が、〈野の花の如く〉と色紙に書いてくださいました。『大輪の牡丹やひまわりのようにでなくていいから、小じんまりと毎年毎年、忠実に花を咲かせる野の花のように、清楚に着飾って生きて行きなさい!』と励ましてくれたのでしょうか。


 男だからと、大きな花を咲かせたい願いも、若い時にはなくはなかったのですが、技量が小さくて、根が小さく、茎が細い者には、大輪の花を咲かせてしまったら、支えきれないで、ただただ崩れ落ちるだけだったことでしょう。でも、誰にもほめられたり、愛でられたりしなかったとしても、天に向かって咲く野の花のようには、生きていきたいと思わされてきました。


 裏庭に小さく可憐は花を見るにつけ、もう一花咲かせたいなと思うのです。もちろん、恩師が私たちに願ったような花をつけたいのですが。大津波を受けた桜が咲いて春の到来を告げ、塩水をかぶった花壇の花が命を蘇られせたとニュースで聞きました。ときどき良いニュースが、祖国から伝わってくるのは感謝なことです。


 もう一人の恩師の家の玄関に、春になると真黄色の花をつけて咲き、訪ねるたびに歓迎してくれた花がありましたが、家内に毎年聞くのですが、咲き終わると花の名を忘れてしまって年を重ねています。今年は、聞く相手が、まだ次男の家にとどまっていますので、今夕、スカイプが入ったら、聞いてみることにします。


(写真は、昨日と今日撮った裏庭の「花々」と「葉っぱ」です)

書と筆


 「一函の書に千古の智恵あり 」と内村の詩にあります。書籍だけではなく、和歌や俳句や詩、日記や川柳や民謡や紙芝居だって、人は自分の思いを、様々に書き、詠み、歌い、語りながら表現してきました。有名になりたかったり、生活の糧にしたいからだけでなく、ただ単純に、自分の考えていること、思っていること、感じていることを表現したかったからではないでしょうか。それは人間が人間だから、そういった願いが自然にあるのではないでしょうか。中学一年の時に、「漢文」を高等科の先生から学びました。悪戯小僧の私を、殊の外、気にかけてくれた先生でした。とくに、李白や杜甫の漢詩の「五言詩」や「七言詩」を、日本語読みして覚えたのですが、言葉の歯切れのよさと簡潔さが気に入って、国語が大好きになったのです。韻を踏むというのが、日本語で学んでも分かることに、二つの言語の近さと違いの中で、意外さを感じたりしたのを覚えています。

 趣味なのでしょうか、本を読むのが好きで、酒もタバコも飲まない代わりに、私は、新刊書から古書まで、随分とたくさん買い求めたのです。中毒にはなりませんでしたが、家内をハラハラさせたことだけは事実です。もしかしたらコンプレックスのなせる業だったのかも知れませんね。この内村は、「一茎の筆に奇異の力あり 」とも言いました。彼もまた書を読むのを好み、読んで黙想しては、自分の思想を築き上げ、更には、その思想的な感化を多くの弟子たちに与えて、よい人材を育て上げました。

 何年も前に、一冊の本を読みました。著者の半生が、その本の中に記されてあり、15歳の冬の、この方の体験には衝撃を受け、それを超えて生きてきた彼の精神的な強さなどを感じさせられて、極めて印象深い経験をさせていただきました。この方は、青森県弘前市出身の方で、戦時中、お父さまが特高警察に捕まって、未決囚で、弘前刑務所に収監されていました。お父さんがいなくなった彼の家族は、食べる物に窮してしまいます。それでお父さんの同僚のところに、お母さんは彼を使わして、かぼちゃでもジャガイモので少し分けてもらえないかと訪ねます。しかしけんもほろろに玄関で追い返されてしまいます。犯罪容疑者となった者と関わりたくなかったのでしょうか。そんな留守家族の実情を知ってか知らないでか、彼のお父さんは、栄養が足りなかったのでしょうか病んで獄死してしまうのです。その知らせを受けた彼は、リヤカーに棺桶を載せて、お父さんの亡骸を引取りに行くのです。まだまだ舗装のされていない道をリヤカーせ曳いて帰ると、棺の中でお父さんのゴツンゴツンとぶつかる音を聞きながら、涙を流し流し帰ったのだそうです。多感でまだまだ未熟な15歳の経験としては、どれほど辛かったことでしょうか。

 平和な時代がやって来て、東京の叔父を頼って上京します。どう生きるかを模索していた彼は、お父さんの道を歩もうと決め学び始めるのです。ところが、功なり名をなした彼の晩年に記したその本には、思春期に経験したことへの恨み言や、憎しみが、まったくないのです。父親の無念を知っている彼でありながら、そういった職業選択をし、父の歩んだ道に歩を進め、生きてきたことに、私は驚かされたのです。もちろん辛い経験をした人を、私は沢山知っています。逆境を逆手にとって、人生の強力な鋼のようなバネを培うというのは、可能なのだということを教えられたのです。そういった心を培った、お父さんの生き方、お母さんの育て方もありましたが、どうも彼自身が親しんだ書があったからなのです。「一函の書」、「一茎の筆」に力があるのです。この力の強大さこそ、憎しみや恨みから、人を赦しに連れ帰ることができるのです。素晴らしいことであります。

(写真は、満開の桜の中の「弘前城」です。)