子どもの頃、友達の中に、お父さんのいない母と子の家庭が意外と多くありました。TくんもBくんも、その他の級友たちの家が、そうでした。彼らは父親のカゲが薄かったのを感じていました。両親のいた私は、父親のいない級友たちの家に遊びに行っては、『どうして君にはお父さんがいないのか?』と聞くことはありませんでした。理由を知りたかったのに、そう聞いてはいてはいけないような思いがあったのでしょうか、聞き出して彼らを窮地に陥れるようなことはしませんでした。戦争を知らない私にとって、どうしてかということが、まだ分らなかったのです。

日本の歴史にとって、また私たちの世代にとっても、昭和12年(1937年)は決して忘れてはいけない年だというべきでしょう。この年の77日、北京郊外の蘆溝橋で軍事衝突事件が起こり、日中両軍が交戦状態に入りました。停戦協定が成立した11日に、日本政府は、初期の不拡大方針を覆して、華北への派兵を決定てしてしまいます。28日になりますと、日本軍は華北で総攻撃を開始し、8年間にわたる「日中戦争」へと全面突入してしまったのです。

それにともなって、日本国内では、軍備拡張が行われ、多くの働き盛りの男が徴兵されて、戦場に送られていきます。その中に、私の級友たちの親がいて、終戦間際に戦死してしまったわけです(私の大学時代の級友には、戦争後、中国に残留し、内戦に従軍して、その戦いでお父さんを亡くなした級友がいました)。彼らのお父さんが戦死であったということが分かったのは、小学校の高学年になってからだったでしょうか。私の父は、戦闘機の部品に関わる「軍事産業」にたずさる「軍属」でしたから、戦場に行くことはなかったのですが。

高校の友人の家に行きまして泊めてもらったときに、布団を敷いてくれた部屋に、軍帽と軍服の彼のおその時初めて、戦死されていたことを知ったのです。悪戯で、担任の良く叱られ仲間でにぎやかな彼が、ふと見せる寂しさの理由が分かったのです。そんな彼と出会った頃、『お母さんの若い頃に流行った歌を教えて!』と言って、無理に頼んだことがありました。母が教えてくれたのが、「無情の夢(作詩・佐伯孝夫、作曲・佐々木俊一)」という歌謡曲だったのです。

きらめましょうと 別れてみたが
何で忘りょう 忘らりょうか
命をかけた 恋じゃもの
燃えて身を灼く 恋ごころ

この歌は、なかなか歌うのが難しかったのですが、多分、父と母が出会って恋に落ち、結婚に導かれた頃に一世を風靡していた歌謡曲だったに違いありません。母の話によると(これも無理に聞き出したのですが)、広島の江田島にあった「海軍兵学校」に学ぶ人の中に、想う人がいたのだそうです。戦死したか、どうかの消息は聞きませんでしたが、叶わぬ恋だったのでしょう。母にも、人を恋する思いがあったことを知って、思春期の真っ只中の私にも、『恋心を抱いてもよろしい!』、との許可を、母にもらったかのような出来事でした。

恋し、愛した人と引き裂かれたり、父を亡くしたり、隣国を犯し戦闘で人を殺めたりする戦争が、二度と再び起こらないことを願う私は、ただ平和を願ってやみません。父を亡くした級友たちも、父となり、爺となって、そう願っているに違いありません。七十数年前に激しい戦いが行われた大陸を離れて、この週末、帰国しましたが、その思いだけは忘れないで、来月、また中国の地を踏むつもりでおります。

(写真は、日中戦争の勃発地点となった「盧溝橋」です)

扶養

『日本は寒いですよ!』と聞かされて帰国したのですが、冬将軍の暴れ回る日本よりも、大陸華南の冬のほうが、寒いように感じています。昨日は、孫娘と近所の《きたの公園》に出かけて、滑り台や砂場で遊びました。おしゃまな彼女ですが、優しくて可愛い3歳なのです。公園の木はすっかり北風に葉を落とされて、枯れ枝から真っ青な空を見せてくれました。帰国して長男の家に落ち着いた家内と私を訪ねてシンガポールから出張できていた娘と、渋谷に住み始めて働く次男が、昨日、訪ねてきてくれました。次女は、オレゴンにおりますので、気持ちだけ、こちらの向けていることでしょうか。それで、子や孫たちとの久しぶりの夕食を、近くの「焼肉屋」でとりました。これまで支払いは父親である私の役割でしたが、昨晩は、長女がしてくれ、家内と私は、『ごちそうさま!』と言って、彼女の饗(もてな)しに預かったのです。もう最近は、常に、子供たちや嫁や婿に、その役割をとって変わられてしまっていますが。

さて今回は、私の人生で大きな変化のある帰国になりました。というのは、中部山岳の山村に生まれて、父の戸籍に入り、父の扶養家族とされて22年を過ごしました。学校を出て就職をしてからは、父の扶養から離れて、民法や税制上でしょうか自立しました。父に養われて成長して、社会人として収入を得る身になったからでした。生活の基盤は、なお父の家にあり、母の作ってくれる食事に養われていました。月給の中から父に、「食い扶持」を出すと、父はビールを買ってきては飲ませてくれました。それが嬉しかったのでしょう、たいへん喜んでいた顔を思い出します。それから4年ほどして結婚したとき、父の戸籍から離れて、世帯を持った街を本籍地に決めたのです。長男が東京で生まれ、その後に与えられた3人は、アメリカ人実業家と共に働いた中部の街で生まれ、そこで教育を受け育っていきました。

今では、彼らはそれぞれに生きる道を見つけて、その基盤をすえて、もう自立して生活しております。中国語に、「时间过了很快(シィジエン グオラ ヘン クアイ)、『時間はとても早く過ぎる!』」とありますが、もう世代交代の時代なのです。イスラエル民族の法律の中に、「人身価値」の規定があります。60歳を過ぎた私の価値は、15シェケルだとあります。父から独立し、世帯を持って社会でも家庭でも、力いっぱい活躍していた時期の価値は、50シェケルですから、今日では三分の一に目減りしていることになります。今、次女の長男が5歳で、彼の価値は20シェケルですから、外孫の彼の方が、この私の価値よりも、5シェケルも高いことになるのです。このことで決してもがくことはありません。『ジイジとバアバは、どうして頭が白いの?』と孫息子が不思議がっております。黒々と豊富だった髪の毛から、色素の艶も、今は抜けてしまっているということであります。

先週末、帰国した私は、長男の住む街に《転入届け》を出しました。長男夫妻の進言もあって、家内と私は、長男の「扶養家族」にしてもらいました。ということは、ついに家内と私は、『太郎兵衛さんのご家の・・・・!』と呼ばれることになったわけです。ちょっと寂しさは禁じえませんが、《世代交代》は、どの社会でもすみやかにした方がいいのかも知れません。いつまでも《頭》でいるのではなく、彼らの責任に委ね任せるべきなのでしょう。孫が不思議に思う白髪は、『もう次の番だよ!』というサインなのでしょうね。

イスラエルの社会のことですが、次のような掟もあります。「白髪の老人の前では起立せよ!」とあります。イスラエル人ではない私ですが、中国の街のバスの中では、吊革に手をかけるやいなや、髪の毛の白さと、顔のシワを認めた若者は、躊躇なく起立して席をゆずってくれるのです。今やそれを、喜んでうけております。

(写真上は、http://www.nisk.jp/search/digitalkanji.asp?code=91B7の字「孫」、下は、中国・済南市で医療活動を続けられた老医師・山崎宏さん(日本兵士でしたが、中国残留して医師となって奉仕)ですが、昨年末亡くなられました)