青年

先週、一人の青年が、ギターを抱えて尋ねてこられました。海南島の出身で、6年前からギターを習ってこられた、日本語専攻の大学生です。この青年が、家内と私のために、ギターを弾いて歌ってくれました。下の息子と比べたら今一つといったところですが、歌声も、ギターの音色も出色だったのです。気張らないで、撫でるように弾いていました。疲れやモヤモヤが、スーッと消えていってしまいそうな、そんな感覚に引き込まれるようでした。これまで、かき鳴らして気持ちを高揚させてくれたギタリストが、何人かいましたが、『ギターって、弾き手によって、これほど違うのか!』と思わせられること仕切りでした。

その彼のために、家内が定番のカレーライスを作って、一緒に食べました。彼は、『美味しい!』といって感謝し、食後に、『わが家は貧しかったので、よく母を手伝いました。それで食器を洗わせてください!』といわれて、台所に入って、見る見るうちに綺麗に洗い上げてくれたのです。ゴミを取るかごが、少々汚れていたのですが、それも丁寧に洗ってくれ、まるで新品のようにしてくれました。心が繊細なのでしょう、そんな両親が大学で学ばせてくれている感謝が、彼の振る舞いの中にあふれているのを感じたのです。わが家の流しは、日本のようなステンレス製ではなく、コンクリートの上にタイルを張ったもので、築30年を経ていますので、ひび割れたりしていますが、そこを見事に洗い上げてくれました。これまでの来客の男性の中で、食後に食器を洗ってくれた青年は、この青年で二人目になったでしょうか。

すばらしい青年の多い中国で、これまで出会った青年の中でも、23時間の交わりでしたが、彼は《ピカ一》だと思わされたのです。貧しい経験が、こういった青年を育てたのかも知れません。お父様は、体が弱くて家にいらっしゃって、お母様が働いておられるのだそうです。課題の多い国の中で、次の時代を担っていく青年たちが、すばらしく成長して、備えられているのに気づかされています。昨晩も、新装成った大劇場で「京劇」が公演されるというので、招待券をいただいた家内と私は、バスに乗って出かけたのです。乗ってつり革に手をかけるや否や、一人の青年がすっくと立ち上がって、席を譲ってくれるではありませんか。家内を座らせると、今度は、もう独りの女性が同じように席を空けてくれましたので、『謝謝!』といって座らせてもらいました。もう最近は、断らないで、その好意を喜んで受けるようにしているのです。

中国で名だたる京劇俳優の演技もすばらしかったのですが、年長者への敬意を、こういった形で、自然に表す、この国の青年たちが、次の時代を背負って生きていくのですから、この国の前途洋洋ではないでしょうか。日本が、なぜか忘れていることを、この国は律儀に行っているのではないでしょうか。触れもせず、見もせずに非難する人が多くいらっしゃいますが、「儒教の教え」の影響だけではなく、人間の道を誠実に生きている姿を見させられております。あのギターを爪弾く青年も、席を譲ってくれる青年たちも、彼らのうちに、そんな輝きを見るのです。暖房のない大劇場は骨身に、真冬を感じましたが、心の中では、もうイッパイの春を満喫させられた「春節」間近の夕べです。


(写真上は「yamahaギター」、下は「近代京劇」の公演の様子です)

『また大臣が代わった。俺の死刑執行のために、この人は判を押すのかな?』と、きっと思っていらっしゃる受刑者がおられるのではないでしょうか。昨日、また「法務大臣」が新しく選任されたようです。代わるたびに、マスコミから「死刑の是非」についてのコメントが求められて、厳罰主義と温情主義が交互に出てくるようです。このたび新たに大臣になられた方は、『死刑という刑罰はいろんな欠陥を抱えた刑罰だと思う』と私見(!?)を述べておられました。

法律を学んだ方で弁護士もされた方が、弁護士や法学者の立場で、そうコメントするのはいいと思います。でも、一国の法務大臣になられて、「刑法」という国法に定めた制度があって、法を行うのが法務省の最高責任者なのではないでしょうか。『執行か延期か、いつも怯えなければならないのはつらい。俺たちの心を弄ばないでくれ!』、と受刑者の方は思っていらっしゃるに違いないのです。彼は、『なぜ死刑が必要なのか?』を学ばれたと思います。もし、法に欠陥があるのなら、どうして立法府で改めようとしないのでしょうか。『感情論で是非を公言するのをやめてくれ!』と、私が執行を待っている受刑者なら、こう思うのですが。

「殺してはならない」、「殺人者は死を持って死の値を払うこと」という法が、どの国にもあるのは、人の生命を尊ぶという考えからきています。決して、生命軽視だからではありません。私は、すべての人に「生命権」があると信じています。どのような理由があっても、他者の「生きる権利」を犯したなら、厳罰に処すことはいけないことでしょうか。「故意の殺人」と「過失の殺人」とは違いますが、失われた命の重さは、地球よりも思いのだということが大前提です。人類最初の殺人事件の記録が残っています。兄が弟を殺した忌まわしい事件です。その事件の様子の記録の中に、「あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる」とあります。

この地球は「創造の美」で満ち溢れています。ナイアガラの滝もイグアスの滝も九塞溝(中国・四川省)も、息を呑むような景観でした。奥入瀬も志賀高原も箱根も、見惚れるような美しさです。ところが、この美しい地上には、流された血が、夥しく沁み込んでいるのです。この血の責任は、誰がとるのでしょうか。主義主張の違いで、怨恨で、そして弾みなどで失われた人の血のことです。有耶無耶にされないのです。きっと、すべての人の命についての責任が問われるときがくる、と信じるのです。ヒューマニズムの「人間尊重」は、「人命尊重」が基調です。感情論ではありません。死の覚悟のできた受刑者に、死刑執行の判を押すのは、大臣として当然です。彼が冷酷な人だからではなく、法を愛し、法を行う責務を負い、そして人の命の重さを知っているからなのです。

(写真上は、「HPようこそ”こまがね”に」の「秋の紅葉」、下は、出張した時に連れて行ってもらった、ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチンの国境にある「イグアスの滝」です)