日進月歩

中国で、決して歌ってはいけない歌があります。歌ったばかりに、今日はひどい目にあったのです。1961年の秋に発売されたのが、「上を向いて歩こう」でした。高校生二年生の時で、ニキビだらけの顔がこぼれるように笑っていた坂本九が歌ったものです。その後、アメリカでヒットして、「SUKIYAKI SONG」と呼ばれて歌われた和製ポップスでした。アメリカ製ポップスを、日本語版に翻訳した歌がヒットしていた時代でしたから、逆輸出した歌だったことになります。

今日は、最近家内が見つけて買ってきたお菓子が食べたくなって、夕方になって家を出ました。小さい頃に、近所の駄菓子屋で売っていたのとソックリで、自家で焼き上げてあり、クッキーの上にたくさんのヒマワリの種がのっているものです。もう1つは、サンショウ味の「ぎゅうひ」です。まったく日本の味そのものなのです。歩いて15分ほどのバス通り際にある、間口一間、奥行き二間ほどの小さな店で、パン焼き器で焼き上げているのです。普段は下を向いて歩くことにしているです。親父の名前が、「むねはる」でしたから、背中を丸めるわけにはいけないのです。でも中国の街で、道路を歩くときには、どうしても下を向いて注意深く歩かなければならないからです。そうなんです、好物を買うんだという気持ちが、気持ちを高揚させていたのでしょうか、上を向いていい気持ちで歩いていましたら、フンでしまったのです。ズルッと足がすべりましたので、振り向いて路上を見て、『またやった!』と心の中で、フンガイしたのですが、後の祭りでした。

去年、シンガポールの街を歩いていました。アジアで最もきれいな街、いえ、世界でも一級のきれいな街でした。そう聞いていましたが、実際に、このシンガポールはゴミのない街なのです。その日、日本でも有名な「お好み焼き屋」の支店に、娘や息子と家内と一緒に入ったのです。何となく、どこからか臭っているのです。あまりいい匂いではない臭いでした。みんな、そんなことを思っていたのですが、だれも何も言わないで店を出ました。車の中にも、臭いが付いてきたのです。印度街に行ったときに、どうもフンだようです、この私がでした。その臭いを連れて、この世界的な綺麗な街・シンガポールを歩き回っていたことになります。これが、「また」のお話しの筋書き、中国では「上を向いて歩こう」を、街中で歌ってはいけない理由なのです。

今晩は、ちょっと悪い嗅覚の話になりましたが、子どもの頃、昔の日本も、同じようだったことを思い出すのです。ゴミも痰も排尿も、あたりかまわずだったのです。川は、ゴミ捨て場でしたし、木陰や藪はトイレでした。やはり転換期は、あの一九六四年開催の「東京オリンピック」に帰すると思います。あの時期から、日本は変わって、欧米並みになっていったのではないかと、思い出すのです。この中国も、欧米諸国から色々言われていますが、一八世紀のパリの街は、至極不潔な街だったと歴史は語っています。「日進月歩」、今に東京のような、シンガポールのように変わっていくことでしょう。それまで、上を見たら、すぐに下を向き直して歩くことにしましょう。帰宅後に、外の水道で丁寧に靴底を洗ったのはもちろんのことです。

薬でしょうか、愛の力によるのでしょうか!

家内が風邪をひきました。と言うよりは、先にひいていた私が移してしまったといったほうがいいでしょうか。外国での罹病は、少々不安なものですが。平熱36度以下の彼女が、38.7度の発熱と咳と下痢も併発していました。寝込んでいるのを知った友人が、次女くらいの年齢の一人の男の子のお母さん(元看護師さんです)と一緒に見舞ってくれたのです。お湯で体を拭いてくださったり、『泊まって看ます!』と言ってくださいました。結局、『今晩、様子をみましょう!』ということで、11時過ぎに帰えられました。ところが朝になっても熱が下がらなかったのです。友人から電話があって、『昼過ぎに迎えに行きますので、病院に行ってみましょう!』と勧めてくれました。迎えの車に乗せていただいて、市立第二医院(中国では大病院を医院と呼びます)に到着。この病院の母胎は、旧イギリス陸軍病院だそうで、諸外国が旧中国の多くの都市で、教育や医療や衛生や福祉事業に、どんなに精一杯に事業を展開していたかが伺えて、深く考えさせられました。

付き添いは、このお二人の他に、もう一人は屈強な、長男と同じほどの年の男性が来てくださって、家の門から、ずっと家内の腕をとって支えてくれたのです。この4人で、戸板ではなかったのですが、20世紀の利器・自動車に家内を乗せて、医者を訪ねたことになります。西洋医薬品にアレルギーがある家内ですので、診察の結果、お医者さん(中国では「大夫」といいます)が、『省立の中医医院に行ったらどうですか!』と勧めてくれましたので、そちらに車で動きました。そこで血液検査とレントゲンを撮りました。ウイルスの感染はないとのことで、中国漢方の薬を処方していただいて、帰宅しました。その薬を、煎じてくれるとのことで、家に持ち帰り、土鍋で煎じて家に持ってきてくれました。今朝も、またとどけてくれたのです。

以前、日本にいましたとき、家内は、多くの病人を家や病院に訪問し、お世話をする機会が多かったでしょうか。『ほっとするんです!』という方々は、家内の助けや、一緒にいてくれることを歓迎していました。そういえば、この1~2年、日本からお米や缶詰や佃煮、様々な日用品を送ってくださる方がいます。郵便料金をみますと、毎回12000円ほどの金額になっています。大きな犠牲を払って、日本の味に飢えを覚えているだろう私たちを、喜ばせようとしてくださるのです。この方も、家内がお世話させていただいたお一人です。昨日は、『恵が、人によくしてきたから、他所の国に来て、こんなに大きな愛や親切を受けてるんだよね!』と、家内に言ってしまいました。

福建省普江市(厦門の近くの海辺の町です)の漁船船長の逮捕、釈放。日本の準大手ゼネコンの会社の社員の逮捕、拘留、解放など、中日の間が、少しギクシャクしている昨今、我が家のテラスにも、瓦礫が放り込まれたりしていました。そんなこんなの国慶節の休みにもかかわらず、時間と労力をさいて、愛を示してくださる、こちらの友人たちに、大きな感謝を覚えた次第です。薬でしょうか、愛の力によるのでしょうか、『素麺と大根おろしとみかんとトウフが食べたい!』と、この数日食べていなかった家内が、食欲を見せてきました。一瞬の不安は、「友情」がかき消してくれたようです。明日は、ほかの友人がご主人と二人で、家内を見舞ってくれるそうです。一味違った「国慶節」のすばらしい連休です。そういえば、家内が食べた素麺も、このご婦人が送ってくださったものでした!

建国記念日

「国慶節」、1949年10月1日に、中華人民共和国が誕生したのを記念した、国家の誕生を祝う日です。昨日は、祝福の花火が打ち上げられる音が、近所に林立している高層ビルにこだましていました。町の中には「慶祝」と記されたバナーが掲げられ、街頭は老若男女であふれていました。長く、イギリスや日本などの外国の支配に甘んじてきた中国が、再び自分たちの手で国を建て上げたのですから、その喜びは大きかったことでしょう。あの日、このような現代の中国の経済的な躍進、世界第2位の経済大国なることを、誰が予測したことでしょうか。13億人(ある方は19億人と言っていますが)の喜びを肌で感じた昨日でした。

私たちの国にも、「建国記念の日」があります。「建国をしのび、国を愛する心を養う日」と言うことで、1966年2月11日から祝日となっております。アメリカが、1766年7月4日に「独立宣言」に署名がなされたのを記念に、フランスが、1789年7月4日に、バスチーユ牢獄襲撃・政治犯解放で「フランス革命」が始まった日(パリ祭)を記念にし、シンガポールが、1965年8月9日に、マレーシア連邦から分離独立したのを記念して制定されたのと、私たちの国は違っています。どう違うのかと言いますと、紀元前660年1月1日(旧暦、新暦で2月11日)に、神武天皇が即位した日を記念にしているのです。歴史的に文書記録が残っていないことと、神武天皇自身が実在したかどうか不明であることなど、「神話」の領域の出来事に由来している点が、他の国々にと違っているのです。ただ韓国には、「光復節(1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾した日)」の他に、「開天節(紀元前2333年10月3日に古朝鮮王国が建国されたとする「神話」による記念日)」がありますが、これは日本と似ていますし、日本と深く関わった建国の記念日です。

戦中、戦前は、神武天皇の即位を記念して、「紀元節」と呼ばれていた日です。神格化して戦争を推し進めたことから、戦後処理をした占領国・アメリカは、その経緯を嫌い、この日を廃止した経緯があります。私は、「王」としての「今上天皇」の立場を認め、昭和天皇が「人間宣言」をしたその決定に従って即位された「今上天皇」を、その人格の高さからしましても尊敬している一人です。最近、日本のテレビ界では、「坂本龍馬」に再び脚光が当てられ、江戸幕府の崩壊と新日本誕生の様子が注目されています。長州の木戸孝允、高杉晋作、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、土佐の坂本龍馬、武市半平太などの幕末の志士たちの活躍は、少なくともテレビの画面を観ただけでも、心踊るものがあるのではないでしょうか。中国の若い友人が、毎週、NHK大河ドラマ「龍馬伝」を録画して見せに来てくれるので、テレビの映しだす幕末の様子には精通しているのですが。この幕末の青年群像、歴史的な事実によっても、最も日本が躍動した時であり、日本歴史の中で屈指の変化の時期だったと思うのです。

それで、私の提案ですが、「明治維新」に脚光を当てて、この江戸城無血開城のなされた日、第十五代将軍・徳川慶喜の退位の日、明治の始まりの日を「建国の日」としたらどうかと思うのです。私は、龍馬だけではなく、高杉晋作、吉田松陰の薫陶を受けた彼に、強い関心を持っております。まだ山口県萩に入ったことはないのですが、幕末に、玄界灘を渡って中国にまで行って、国際都市・上海で見聞を広めた彼の心に去来したことを知りたいと思っております。龍馬にしろ晋作にしろ、「私利私欲」、「党派心」、「出世欲」に死んだ、国を衷心から思うことの出来る「国民」、「政治家」、「教育者」、「企業家」が、この国で養い育っていくことを切に願うのです。

中国の誕生日を心から慶祝します。国土のように広い心で、残留孤児を拾い養ってくださったみなさんに、心から感謝したいのです。その同じ心で、中日の友好を推し進めていって頂きたいのです。この広いい中国の隅々で、気高い精神を宿した素晴らしい青年たちが、日々に生長しているのを、身近に感じております。「建国記念日」、本当におめでとうございます。