笑顔

「一衣帯水」を、qooの辞書で検索すると、「意味 一筋の帯のように、細く長い川や海峡。転じて、両者の間に一筋の細い川ほどの狭い隔たりがあるだけで、きわめて近接しているたとえ。▽〈衣帯〉は衣服の帯。細く長いたとえ。〈水〉は川や海などをいう。 出典 『南史(なんし)』陳後主紀(ちんこうしゅき)」とあります。これは、こちらの大学の「日本語弁論大会」で、よく聞かれる言葉です。日本と中国が、帯のように長く、時間と国家間を繋いでいることを例えることができるのでしょう。それほど緊密であるという意識から、『親子のような、兄弟姉妹のような親密な関係が、これからもさらに続いて欲しい!』と願う、こちらの学生たちが好んで用いているのです。海を隔てた中国から、私たち日本は、数えきれないほどの有形無形の物をもらい受けて、日本文化を形作ってきたことは、自明のことであります。戦争という悲しい出来事によって、壊滅的な分断がありましたが、今では多くの学生が、日本語を学んで、中日友好のために尽くしたいと願っているのです。

今、上海では、「世界博覧会(万博)」が開かれています。この国慶節の休みに出掛けた学生に聞いてみると、『4時間もならんで日本館を見てきました!』と言っていました。数ある展示館の中でも、極めて人気があるのだそうです。8月下旬、その日本館で、一つのイヴェントが行われていたようです。「梅屋庄吉と孫文」と銘打った特別展です。長崎出身の実業家の梅屋庄吉は、『中国革命の父!孫文。』と香港で出会い、国境を超えた友情で二人は交流し、孫文を経済的に援助した人でした。読売新聞の9月8日の記事(次兄が時々送ってくれます)によりますと、この特別展を見た学生が、『感動的だった。一部の悪い面だけを見て、その国を論じるのは間違っている(河南省・魏さん)』、『中国人は二人の交流を通じ、日本の軍国主義と友好的な人とは違うと知る必要がある(広東省・文さん)』と感想を述べているそうです。

『外出を控え、日本人だけで集まったりしないように。』というメールや電話がありますが、一般市民の対日感情は、それほどの厳しさを感じることはありませんので、ご安心のほど。今日も、たどたどしい中国語で「中国建設銀行」の口座を開設したのですが、いつも、どこでも無愛想な応対が普通なのですが、初めての契約の私たちを、担当行員の陳さん(既婚の若い女性)が、丁寧な事務をしてくださったので、『謝謝!』と感謝を口にしましたら、ほころびるような笑顔で、『不客気(ブ・グウ・チ、どういたしまして)』と言っておられました。今迄見たことのないような笑だったのです。

過去のことを様々に聞きますが、この時代の、特に若いみなさんは、本物の親切で接してくれています。もちろん、私たちの態度も関係があるのですが。 『もしかしたら、「一衣帯水」の「帯」は、《臍の緒》ではないだろうか!』と思わされてならないのですが。DNA鑑定を受けたら、中国と朝鮮半島のみなさんに連なるものを、自分の血の中に、きっと発見するに違いありません。そんな血の近さを覚える国で、大陸の秋を迎えております。

(写真は、百度の「霞浦」の海浜です)

三面記事

ある時、葛(くず)羊羹を食べながら、ある方と家内とで談笑していたときに、子ども時代の食べ物が話題になりました。食べ物の欠乏していた時代に、幼少年期を過ごした我々の世代としては、当然のことなのですが。学校から帰って、おやつがないときには、台所の乾物入れから、片栗粉か葛粉を見つけて、湯飲み茶碗に入れて、少量の砂糖を加ええて、お湯を注いで作った「葛湯」を、しばしば飲みました。液状ですが、歯ごたえを少し感じられるので、飲むと言うか食べると言うか、微妙な感触で胃袋の中におさめたのです。畑道を通ると、キュウリやスイカがなっているときには、あたりをうかがって、そっと頂いてしまいました。イチジクやイチゴやグミや桑の実(ドドメと呼んでいたのですが)などは、どこにいつ頃成っているかを知っていて、それらをおやつ代わりにしてしまいました。

少年期を過ごした町に、「キヨちゃん」という駄菓子屋がありました。おばさんが後ろを向いた隙に、店に並んでいたものを失敬したことがたびたびでした(これは30年近く前に3000円を持って行って謝って精算しましたが)。それでも、私の父親は、『四人の息子たちが盗みをしないように!』とでも思ったのでしょうか、喜ばそうとしたのでしょうか、日本橋や新宿や浅草の職場から帰ってくるときに、餡蜜セットとかカツサンドとかケーキとかソフトクリーム(ドライアイスを入れて)などを買って来てくれたのです。その町には、まだ売っていなかった頃のことです。そんな盗み防止の父の思惑が外れたのを、父は気づかなかったと思います。食べると、それは消化して、またすぐにお腹はすいてしまうからです。「盗んではならない」と言われていましてたし、自分の良心も、そう言っていましたから、盗みがいけないことは知っていたのですが、知っていても、空腹の誘惑のほうが強くて、抑止力にはならなかったのです。父には、申し訳なかったのですが。

あるとき、幼い長男を連れて、家内の兄夫妻のいた松本を訪問したことがありました。その週の日曜日の晩に講演会がありました。その講師が「万引きをした女校長」の話をしていたのです。退職間近の校長が、警察に捕まったというのです。彼女は、若い頃に数度万引きをしたことがあったのだそうです。教師になり、社会的に責任があったときには誘惑を拒むことができたのですが、退職が迫って不安な精神状態になったときに、つい手が出てしまったのだそうです。それを聞いたとき、衝撃を覚えたのです。

幼少年期に習慣化されたことが、正しく処理されていないと、何かの非日常的な出来事、恐怖体験などと相まって、再犯させてしまうのではないかとの恐れでした。この年になって、新聞の三面記事に載ったり、テレビのニュースで放映されたくないものです。思い巡らしてみますと、二つ、三つ未精算の過去があるのに思い付きますが、早いうちに・・・・・・。

(写真は、石川五右衛門を演じる市川小団次〈1857年作〉です)