大分県

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 同級生が、大分県の別府の街の出身で、『温泉がいいぞ!』と言うのを聞かされた私は、その街の温泉に入ろうと寄ったのが、19の夏でした。そうなんです、ここ大分県は「温泉県」と言える様です。それから何年も何年も経って、四国の愛媛県の八幡浜からフェリーで、この別府に上陸して、九州を縦貫して熊本を訪ねたことがありました。 

 関門海峡を国鉄の列車で、九州に入るだけではなく、海路をたどって上陸することもでき、もちろん空路も可能でした。旅の趣きで、いちばん面白いのは船ではないでしょうか。でも、もっとも原初的は方法は、地面の上を歩くことに違いありません。また車や列車で移動することができます。その船、そして飛行機です。
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 たしかに福岡や熊本や長崎や鹿児島は脚光を浴びていますが、大分は、ちょっと遠慮がちの九州の一つの県でしょうか。この県で有名なのは、「青の洞門」ではないでしょうか。菊池寛の作品で、「恩讐の彼方に」に出てくる、仏僧の禅海が、かつては難所で遭難者が多かった邪馬渓(中津市)で、ノミと槌だけを使って岩壁を掘ったのです。なんと30年もの歳月を経て、元和元年(1764年)に貫通させています。

 この大分は、狭い地形の中に、開墾した田圃が多かったことから、「多き田」と呼ばれていたのだったそうで、それが転じて「おおいた(大分)」と呼ばれるようになったと言うのが、県名の由来だそうです。律令制下では、筑前国の一部とこの地を「豊国(とよのくに)」と呼ばれていて、豊前国(ぶぜんのくに)、豊後国(ぶんごのくに)の二国だったのです。

 

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 戦国時代は、大友氏の所領であったのですが、江戸時代には、中津、杵築(きねず)、日出(ひじ)、府内(大分)、臼杵(うすき)、佐伯、岡(竹田)、森(玖珠/くす)の八藩が分立していました。この他に、日田(ひた)は、幕府の直轄領でした。現在の人口は人110万強、県都は大分市、県花と県木は豊後梅、県鳥はメジロです。産業形態では、農業生産がめざましいものがあります。

 華南の街の日系企業の社長をされていた方の奥様が、日田の出身で、先日も、『故郷から〈かぼす〉が送られてきたので!』と言われて、お裾分けしてくれました。このご夫妻は帰国されて以来、今に至るまでお付き合いがあります。水産業も、工業も盛んな県なのです。

 慶應義塾を始めた福沢諭吉は、中津市(中津藩)の出身です。大阪の藩の屋敷に、下級武士の子として生まれますが、父親は儒学者でもあった様です。その父親が、諭吉一才の時に死去後、中津に戻り、やはり学問を好んだ人で、長崎にも出掛けています。遣欧使節の一員として出掛けた経験から、『天は人の上に人をつくらず・・・と云へり。』で有名な、「学問のすすめ」を著しています。
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 私の青年期に出会った女性が、日田の出身で、福岡のとある協会で働いていました。九州弁の訛りがあって、まさに日田美人でした。背が高くて、実に素敵な方でした。上の兄のいた街に一緒に行き、その後に、太宰府を案内してもらい、出張を終えた時を過ごしたのです。歌の歌詞にあったように、『指も触れずに』、別れて帰京したのです。旅の若者は23歳ほどでした。

 あの後、しばらくしてこの方が上京して来たのです。弱冠の私でしたし、まだ結婚は考えられませんでしたので、会えば、そんな話が出そうで、奥手の私は、そのままにしてしまったのです。何通か便りを受け取ったのですが、返事もせず仕舞いでした。ちょっと後ろめたい思いもあったのですが、諦めてもらうしかなかったのです。そんなことがあった二十代前半で、ほろ苦い青年期の思い出の一つです。

 家内と結婚してから、由布院(湯布院)に出掛けたことがありました。熊本で、牧師会が開かれて、そこに参加の途次でした。その湯布院に、知人のお父さまの湯治用の家があって、右肩の腱板断裂の怪我をして、手術後にリハビリをしていた頃でしたので、1週間ほど、その家をお借りしたことがありました。大きな湯船に、温泉供給の栓を開いて温泉を入れて、実に快適な1週間でした。必要な物を近くのお店で買い求め、台所で調理をしてもらいながら、湯布院の湯は快適でした。温泉街を散歩したのですが、のんびりとした湯治場で、よく見られるケバケバしさは見られませんでした。

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 そんなことで、大分県は、けっこう身近に感じられているのです。いただいた、日本一の生産量を誇る「かぼす」が、まだ冷蔵庫に残っているでしょうか。香りが高く、味も良くて、サラダや、揚げた魚にかけて食べるのです。時々、日田名物の和菓子、羊羹をいただくのですが、ことのほか美味しいのは、懐かしい、ちょっと申し訳のない思い出があるからなのでしょうか。

 一昨日、19の夏の九州旅行を一緒にし、別府の温泉にも一緒に入った友人のご夫人から、彼の訃報が届きました。カバンを持って校門で待っていてくれて、一緒に帰った友でした。お父さんが、Tailor をされていて、何着かの背広を作ってもらったことがありました。国文科に進学して、中学校の国語教師を勤め上げたのです。退職後は、あちらこちらへの旅行先から、よく版画絵を擦り込んだハガキをもらいました。もう仲間や友人が亡くなってしまう年代になったと言うことでしょうか。

 旅先のことも、一緒に時を過ごしたことも、遠い昔のことですが、学友、遊び友だちがいなくなると、さらに思い出が遠のいてしまったようです。人生には、「至る處青山あり」だと言われてワクワクしていたのに、青山は紅葉に変わり、やがて落葉してしまいます。でも、木々の葉が落ちると、すぐに、来季の芽吹きの準備に入るのは、自然界の驚異です。
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 人は再生の命ではなく、「新生のいのち」に預かることができると、いのちの付与者である創造主が、私の若い日に、聖書で語ってくれました。

 『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ316節)』

 友人の他界と、大分とは関係なさそうですが、一緒に温泉につかった懐かしいことも、楽しかったことも、過去へ追い返されてしまいますが、私の前には、「永遠」があるのだと確信しながら、人生の旅を締めっくくる準備、「収活」をすることにしましょう。

(豊後梅、大分全図イラスト、青の洞門、カボス、由布岳、別府です)

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ひもじかった頃のこと

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 芋をかじって、食糧難の戦後を、生きていた人がほとんどだったのです。その芋でさえ食べずに、餓死してしまった裁判官がいたと、小学校の授業で聞いたことがありました。闇で違法に入手ずる食糧に、手を出さない遵法者だったからでした。

 そんな状況下で、1949年(昭和24年)8月に、ロスアンゼルスで「全米選手権」の水泳競技会が開かれました。そこに招待されたのが、古橋廣之進でした。400m自由形で4333800m自由形で93351500m自由形で18190の世界新記録を出したのです。アメリカの新聞は、《The Flying Fish of Fujiyama(フジヤマのトビウオ)》と言って、称賛しています。

 敗戦後の日本は、戦争責任を取らされて、国際水泳連盟から除名されていたのですが、国際水泳連盟に復帰した直後のことでした。この快挙ほど、敗戦国日本を沸かせた出来事は、他にありませんでした。浜松の出身で、日本大学の学生だった古橋は、誰もがひもじさを味わっていた時でしたから、「サツマイモ」で作り上げた記録、まさに《戦後の英雄》であったのです。古橋、二十歳の時でした。

 

 年齢的にピークを越えていた古橋は、ヘルシンキで行われたオリンピックでは、期待されながらも勝てませんでした。でも、まだスポーツの世界は、健全さが保たれていた時代だったのでしょう。今日日のオリンピックが、本来のオリンピック精神から逸脱してしまって、莫大なお金の動く〈 Business chance 〉になってしまった今とは、違っていました。

 そういえばスポーツ界が、才能や努力の時代から、名コーチや名門クラブで、専門的なトレーニングを受けなければ勝てない時代になってしまったと言われています。例えば、高校野球の名門校の選手は、中学校の野球部の出身者は少なく、ほとんどの選手が、名門クラブに所属しているのには、驚かされます。

 テニスにしろ、水泳にしろ、サッカーにしろ、学校スポーツでは名選手にはなりにくい時代になってしまったのは、スポーツが、Business になっていて、まだ十代の若者が、金を産む卵になって、億単位の契約金がもらえるのですから、これまた驚きです。

 もう純粋な意味でのスポーツが、心身の鍛錬の機会を見失ってしまっている現今の様子は、スポーツをかじった私には悲しかったり、また寂しく感じてなりません。選手が、お金を使って作り出されていき、まるでスポーツの robot のように思えてなりません。いい時代なのでしょうか。裕福でなけてば、ある大きな犠牲を払わなれば、スター選手は生まれないのでしょうか。Technic を持った人造的、人工的な学者だって、医者だって、公務員だって生まれてきそうです。いや生まれてるのでしょう。

 こう言うのは、年寄りの懐古主義や、はたまた、ひがみなのかも知れません。または、お金に縁のない者の負け惜しみでしょうか。でも事足りている今に、感謝しなければなりません。お昼に薩摩芋を食べているせいでしょうか、そんな思いがしてきました。あっ、「ひもじい」とは「空腹」を意味する言葉でした。

(古橋廣之進へのインタビューです)

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かくの如き信仰者が

 

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 どう生きたのか、同じような絶対主義下の時代にあって、基督者として信仰を守るか、信仰を曲げるか、それを迫られたのです。国家権力を恐れて、国が国民に求めた「日本人」として生きるか、聖書に従って「クリスチャン」として「信仰」を全うするかを突き付けられた時代がありました。

 そのような時代の動きを掘り返した本が、同志社大学から、昭和43年に、「戦時下抵抗の研究(みすず書房刊)」と題して刊行されています。その中には「無教会」があり、改革派、プリマス・ブレズレン、きよめ派、美濃ミッション、個人として抵抗した「森派(森勝四郎に始まる群れで後に〈耶蘇基督之新約教会》」の後継者の野中一魯男(いちろう)、寺尾喜七らがいました。

 その「踏絵」を踏まずに、生きる窮屈さ、孤立化、非国民と言われ、仕事も名誉も時間も失っても、潔く信仰に生きることを選び取った一人が寺尾喜七でした。この方の選び取りや生き方に、二十一世紀に生きる私は、思いを引き付けられたままでおります。

 この寺尾喜七への「尋問聴取」が残されていて、その記録を読んで驚かされているのです。寺尾が「国体」に反して、自分の信仰を貫いたのを、私は、「沈黙(遠藤周作著)」に出てくる〈キチジロー〉や、戦時下の賀川豊彦と比較してみたのです。〈井上筑後守〉や〈特高警察〉の取調べや拷問や脅しの怖さの中で震えて、踏み絵を踏んでしまうキチジローたち、そして江戸で改名させられて幕府の監視の元を生き続けたロドリゴ、彼らとは違って、転ばずに海浜の十字架で溺れて刑死していく《モキチ》たち、信仰を守り通すか、棄教しても生きて、できれば告解して悔い改めるか、彼らの心の動きを思い出しています。

 大学の教職を追われた方との交わりが、かつてありました。学生のみなさんに福音を語ったと言う違法で失職してしまったのです。未公認の群れの指導者となっている、隣り街の集いに呼ばれたことがありました。失ったものは大きかったのですが、得た立場を、教会の主から頂いて喜んでいた、この方の生き方が強烈に輝いていました。

 以前なら、この方は収容所行きだったのでしょうけど、職や教授の立場を奪われただけでした。また、もう40年近く前に訪ねた街に、主に従ったが故に、13年も収容所で過ごした方の導いておいでの群れを訪ねたことがありました。タクシーを二、三度乗り継いでの訪問でした。溢れる様な人の中で、証しさせていただいたのです。再び収容所送りになることを恐れずに、群れのお世話をされ続けておいででした。筋金入りの伝道者でした。

 「キリストの福音」に仕える決心の強さを持たれる方が、迫害が強くなれば強くなるにつれ、主に仕える生き方に留まり続けるのを見てきました。初代教会に、ヨハネに学び従ったポリュカルポスと言う人がいました。キリストか火あぶり刑かのニ者択一を迫られて、『これまでよくしてくださったキリストを捨てることはできません!』と言って、殉教を選びとった人がいました。

 恐れずに、キリストの教会に仕え続けること、例え命を奪われても、職や人権や権利を奪われても、《教会の主》に忠実であり続けたみなさんの様に、この私は、果たして生きていけるでしょうか。国は、再び絶対的国家になったり、強権行使の政府が誕生したり、世界には、世界統一政府が国々を支配し、隣国が侵略して吸収していくのでしょうか。

 聖書は、終わりの日の困難さに触れています。北からの軍隊、連合軍が、エルサレムに侵攻してくること、驚くほどの力を持って世界を支配する者の台頭があること、キリストでもあるかの様な支配者が出て、世界の難問を解決していくのかも知れません。この者が世界中で崇められ、礼拝される日がくることでしょう。不法の者の出現が間も無くあるかも知れません。

 『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。 あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。 (イザヤ411320節)』

 『恐れるな!』と、聖書は繰り返しています。王の王、主の主であるイエスさまが、天の万軍を引き連れて、この地を統治される日が定まっているのです。私も、『マラナ・タ μαράνα θά. –Maranatha 主よ来りませ/ 1コリント1622節)!』と言って、おいでをお待ちしていましょう。

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「る」語

 最近、「辞書に載らない日本語(北原保雄編著、大修館書店2012年刊)」を手に入れて、ニヤニヤしながら読んでいるところです。

 例えば、「る」を語尾にした動詞が出てきます。

 「姉る」 [態度やしぐさ、口調などに威厳があり、同年の人に対して歳上の様に振る舞う。『あの人かなり姉ってるよね』

 ☆わが家は、〈姉さん女房〉ですから、時々、姉っていることが、たしかに見られました。

 「釜る」  家族揃って食事をする。『週末は必ず釜る。』※「同じ釜の飯を食う」から。

 ☆もう釜ることがなくなってしまった〈空の巣〉ですが、時々訪ねてくる方と、一緒にテーブルを囲むのを、〈テーブルる〉と言ってもいいでしょうか。

 「網る」  インターネットを使って調べる。買い物をする。『それなら網ったほうが早いよ。』、「ネッピング(ネット+ショッピング)」。

 ☆翌日配送が時々あります。でも買い過ぎてしまうので注意しないといけません。

 「ドミる」  怒られている人のトバッチリが周囲に波及する。『あいつが掃除をサボったせいで、先生の怒りが、こっちまでドミってきたよ。』※ ドミノ倒しから。

 ☆世界が、ロシア(プーチン)のせいで、ドミっているのが現状ですね。

 「イキる」  〈いきり立つ〉の略。怒って興奮すること。『たかしはイキって枝を折った。』

 ☆若い頃は、たしかにイキることが多かったのですが、正直に告白しますと、今でも時々、イキるのです。困ったものです。歳をとると、そう言った傾向もありそうです。

 「みんなぼっち」   友人同士でかたまっていても、本当はみんな独りぼっちであるという。   

 ☆そう言えば、集団の中で、人と人とのつながりが求められないで、関係づくりが避けられている時代の様です。ひとりぼっちよりも、「みんなぼっち」のほうが寂しそうです。

 「菅ばる」  〈的外れな頑張りを見せる〉。民主党の菅直人氏が、首相をしていた時に、東電の役員や部長に対して怒鳴って接していたことがありました。権威の濫用に見えましたが、そんな行為を、そう言ったのでしょうか。

 ☆そうすると、「森ばる」 とか、ウクライナを侵略する「プーチンばる」、80になっても「バイデンばる」なんかもよさそうですね。ロケットやミサイルをメッタやたらと打ち上げるのを「金ばる」でしょうか。

 ✳︎ そこで「爺(じじ)る」はどうでしょうか。白髪が目立ってきたり、年をとってきて足腰が痛くなったり、躓いたり、ひっくり返ったり、こぼしたり、チビったり、そんなソソウが多くなってきているので、〈爺る〉この頃です。

 「鬱る」  コロナ禍、物価高騰、恐怖や不安が人の心をとらえています。

 ☆どうも一億総鬱病の時代を迎えた様な感がしてきました。首都圏の電車の人身事故も急増して、電車運行の遅延の知らせが増えています。

 そうですね、もう「がんばる」も「つっぱる」もない年齢になってしまい、「ひきこもる」ことのないように、チョクチョク外に出かけています。そろそろ「さむがる」になりそうです。

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ふるさとを想う

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 作詞が山口洋子、作曲が平尾昌晃の「ふるさと」を耳にしたのは、長男が産まれた翌年の1973年でした。私のふるさとに、宣教師のお供で帰って来ていました。私が産まれたのは、後に町村合併した山深い村だったのです。

祭りも近いと 汽笛は呼ぶが
荒いざらしの Gパンひとつ
白い花咲く 故郷が
日暮りゃ恋しく なるばかり

小川のせせらぎ 帰りの道で
妹ととりあった 赤い野苺
緑の谷間 なだらかに
仔馬は集い 鳥はなく

あー 誰にも 故郷がある
故郷がある

お嫁にゆかずに あなたのことを
待っていますと 優しい便り
隣の村でも いまごろは
杏の花の まっさかり

赤いネオンの 空見上げれば
月の光が はるかに遠い
風に吹かれりゃ しみじみと
想い出します 囲炉裏ばた

あー 誰にも 故郷がある
故郷がある

 兄たちが八十代、弟と私が七十代後半、父が召されたのが六十一歳でしたから、《これからの親孝行》ができずに、父を天の御国に送ってしまいました。ゲンコツをもらい、小遣いをもらい、restaurant に連れて行ってもらった子どもの頃、長じてから教育を受けさせてもらい、財産は、小さな家を残しただけの人で、太く短い一生でした。

 でも、父の大きさ、何でも知ってる、恰幅やカッコのよさ、教育を受けさせてくれたことなどは、子どもの私の誇りでした。故郷は、やはり、人を抜きにしては語れないのではないでしょうか。大平山を越え、群馬の赤城山、埼玉の秩父山地、信州に連なる山また山を越えたあたりに、私の生まれた山村があるのです。

 石英採掘の仕事を任されて、山形からでしょうか、軍命で転勤になったのでしょう、三十代初めに赴いた地で、私と弟が生まれました。父の仕事に関わった方でしょうか、父だけではなく、私の名前を覚えていた方と、その村の宿泊施設で、偶然会って、あちらも、こちらも驚いて見つめ合ったことがありました。

 自分を覚えていた方がいたら、そこが故郷なのでしょうけど、父の世代の方でしたから、もうとうにお亡くなりになっていらっしゃることで、縁者は皆無です。とすると、小学校時代を過ごした街こそが、「ふるさと」と呼べるのでしょうか。ウサギを追ったことはありませんが、ヤマメの魚影を見たり、ハヤを捕まえたり、トンボやホタルを追ったりしたことも、栗やイチゴやイチジクやドドメ(桑の実)を積んだこともあります。

 夕日を見たり、墜落した米軍機の破片を見付けて持ち帰ったり、怖い場面を見たり、祭りの囃子に誘われて、小屋掛のチャンバラ劇の舞台を見たり、カンテラの灯りのもとでヨウヨウをつり落としたり、綿飴を買って頬張ったり、たい焼きを買ったりしたのです。

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 街のおじさんたちの仕事っぷりを眺めたり、桶屋のヒノキのカンナっくずに鼻を当ててかいだり、電車の踏切の遮断器の上げ下げに手をそわせてもらったり、保線区の工具を触ったり、バタ屋のおじさんの手伝いで小川に入って鉄屑を拾ったりしました。かくれんぼ、鬼ゴッっこ、宝島、馬乗り、馬跳び、メンコ、ベー駒、三角ベース野球、防空壕跡の探検、貝塚で土器の破片や鏃を拾ったりしたのです。

 遠ざかっていく様で、寂しい思いがありますが、《永遠のふるさと》が、私にはあるのです。

 『しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 (ヘブル1116節)』

 ペンネーム「寄留者」の私にとって、ここへの帰郷こそが、私の旅の終点です。セピア色になり、うすはかなくなった地上のふるさとは見えなくなりますが、この私を迎えてくれる「永遠の都」が待っていてくれます。ここへの憧れに浸る今なのです。

(石英の原石です)

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死に損ないの生き様

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 『イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます(ルカ2343節)』

 自分は、《死に損ない》だと思ってきました。いえ、死のギリギリの瀬戸際で、何度も生還してきたからだと思います。肺炎を起こして入院、死線を彷徨いながらも、ペニシリンと諦めないで治療に努めてくださった医師、母の祈りと篤い介護で、死なずにすみました。高校2年の夏、台風接近の湯河原の吉浜の海で泳いでいて、強烈な潮の引く力に陸に戻れずに死を覚悟した時、波に運ばれて陸に打ち上げられました。二十歳の頃、アルバイトをしていた時、落雷のあった木の下に直前までいて、他の場所に移って、落雷を免れたのです。

 中部地方の盆地のマンションの二階に住んでいた1980年の7月、上階の家がガス爆発をして、住んでいたご婦人が亡くなられたのです。消防署の検査の折、『よく引火しないですみましたね!』と驚かれて言われ、ベランダの籠の中の小鳥も洗濯物も見えてしまって、窓ガラスが総崩れで吹き飛びました。家内のお腹には、そに翌月に出産を予定していた次男がいましたが、家内は爆発の瞬間の様子を、覚えていないで胎児への影響はありませんでした。私だけが砕け飛んだガラスの破片を頭に受け、外科医で30ほどの破片を取り除いてもらったのです。

 中央道を走行中、笹子トンネルを出て、諏訪方面をオーバースピードで走っていて、カーブの先、渋滞の車の制動灯の赤いランプが見えて、急ブレーキを踏んだのですが、間に合いそうにありませんでした。速度違反の追突しそうな私の車は、前車の20cmほどで止まったのです。その前の週に、新しいタイヤの交換をしてなかったら、玉突きをして死傷事項を起こし、自分も追突死は免れなかったことでしょう。

 まさに、『私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。(哀歌322節)』、何度も死なずに、今日まで生き続けてきたのには、「神の恵みと憐れみ」があっただけで、ずいぶんと thrilling な生を生きてきたのでしょうか。

 すでに両親も帰天し、お世話し、教えてくださった宣教師のみなさんも、主の安息の中に帰えられ、同世代の中にも、既に召された方が何人もおいでです。死別を繰り返し、病者を見舞い、お亡くなりになられたみなさんの告別の式を司り、今日を迎えています。

 華南の漁村、東シナ海を遥かに見下ろす小高い丘の上に、知人がご両親のために作られた墓があります。そこに、家内と私も、亡くなったら、遺骨を葬ってくださるとおっしゃってくれています。でも、私は、「散骨」にしてもらえる様に言ってあります。

 生まれてきた私たちは、必ず死を迎えるわけです。私は聖書を読んできて、説教をさせていただいてきて、死には、「二つの死」があると信じています。一つは、「肉体の死」、もう一つは「永遠の死」です。やがて死んだ全ての人が、神の前に立ちます。自らが罪人であることを認め悔い改めて、その罪を悔いて、神の御子イエスさまが十字架の上で、その罪の身代わりに死んでくださったと信じるなら、その人に約束されたこと、赦しと、子とされ、義とされ、聖とされ、やがて栄光化されるのです。

 それと並行して、信じた者には、『父の前で弁護する方・・・義なるイエス・キリスト(1ヨハネ21節)』がいてくださると聖書にあります。宣教師のみなさんは、『自分が生きている間に、主の再臨があり、私は《空中軽挙(1テサロニケ417節)》されたい!』とおっしゃって、その望みを強烈に持っておいででした。果たして、私の時代に、主は空中に再臨してくださるでしょうか。神のことされた方たちは、次のように言っています。

  『蝶はせまってくる死にいささかもうろたえない。自分が生まれてきた目的ははたし終わった。そして今やただひとつの目的は死ぬことである。だから、トウモロコシの茎の上で、太陽の最後のぬくもりを浴びながら待っているのだ。(フォレスト・カーター「リトル・トリー」)』

 『老いゆけよ、我と共に!最善はこれからだ。人生の最後、そのために最初も造られたのだ。我らの時は聖手の中にあり。神言い給う。すべてをわたしが計画した。青年はただその半ばを示すのみ。神にゆだねよ。すべてをみよ。しかし恐れるな!と。(ロバート・ブラウニング「ラビ・ベン・エズラ」より)』

 蝶ではないし、青年でもありませんが、残された日々を数えながら、今までの全てを感謝しながら、今を生きるように努めています。

(「キートンのキリスト講座」からです)

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長崎県

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 対馬海峡に壱岐(いき)島があります。長崎県の島嶼部になります。24000人ほどの人口があり、島の周辺に小さな島が多くあるのです。日本の古書の「古事記」や「魏志倭人伝」にも出てくる島で、律令制の下では、「壱岐国」と呼ばれていました。江戸期には、平戸藩の統治の下にあり、松浦氏の居城がありました。

 私の最初の職場に、父ほどの年齢で、この壱岐出身の上司がいました。よく連れ歩かれて、お供をしたことがありました。故郷の話は聞きませんでしたが、杉並の阿佐ヶ谷のlお庭に、タイサンボクの花が咲くと、枝を手折って、電車で持ってこられて、年配の女子職員(どこかの省庁で初めて女子部長になった経歴のある方でした)が職場の玄関に飾っていました。

 長崎県と聞きますと、いつもこの上司を思い出してしまいます。学校に行っていた時に、九州旅行をして、この長崎を訪ねたこともありました。原爆の爆心地の長崎市に参りました時に、平和祈念像を見ましたのが、1964年の夏でしたから、爆心地も、すでに綺麗に整備されていました。原爆投下当時の長崎の人口は、24万人ほどでしたが、およそ74000人が亡くなられているのです。

 戦争は、今も昔も、被害者の立場でも、加害者の立場でも、共に極めて悲惨なものであることを、心に銘記された長崎訪問でした。長崎から、平戸口という港町に行きました。そこは日本の鉄道の最西端の駅で、今ではJR線から、第三セクターの松浦鉄道会社の「たびら平戸口駅」になっています。そこから船で平戸に渡ったのですが、今では架橋されていて、橋で渡ることができているようです。


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 江戸期には、長崎の「出島」が、海外との貿易や文化のためにひらかれた唯一公認の港だったわけです。医学を学ぶためにも、商用のためにも、現代人の好きな旅でも、多くの人が全国からやって来て賑やかだったことでしょう。鎖国下の江戸期には、「西国への憧れ」があったのでしょうか、「ギヤマン」、「ボンタン」、「ジャガタラ」など、長崎にまつわる外来語が象徴する地であったようです。

 この平戸を舞台にした、江戸初期の悲しい物語りを歌った歌があり、小学生の頃によく聞きました。昭和14年(1939)10月に、作詞が梅木三郎 、作曲が佐々木俊一の「長崎物語」と言う歌が発表されたのです。

赤い花なら 曼珠沙華
オランダ屋敷に 雨が降る
濡れて泣いてる ジャガタラお春
未練な出船の ああ鐘が鳴る
ララ 鐘が鳴る

坂の長崎 石だたみ
南京煙火に 日が暮れて
そぞろ恋しい 出島の沖に
母の精霊が ああ流れ行く
ララ 流れ行く

平戸離れて 幾百里
つづる文さえ つくものを
なぜに帰らぬ ジャガタラお春
サンタクルスの ああ鐘が鳴る
ララ 鐘が鳴る

 ここで歌われた、「ジャガタラお春」は、実在の人で、父親がイタリア人で、日本人のお母さんから生まれた子どもでした。現在のジャカルタにいたお春は、徳川川幕府による鎖国政策のために、帰国することが禁じられる中、望郷の念に駆られて書き送ったとされる「ジャガタラ文(ぶみ)」が残されています。明暦元年(1655)頃に、日本に届いたとされています。悲しい物語を残す点でも、長崎は、公式には、外国への唯一に窓口だったわけです。

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 長崎県は、県都は長崎市、県花は雲仙ツツジ、県木はヒノキとツバキ、県鳥はオシドリで、人口は128万人です。古代には栄えた地で、県下に500もの古墳を残しています。律令制下では肥前国、対馬国、壱岐国で、国府は備前佐賀にありました。県下の五島列島は、大陸との行き来の寄港地で、遣隋使、遣唐使の船が寄港した歴史があります。

 上海から船で、大阪港までの航路で、あの上海港から船出して、最初に見える日本の地は、この五島列島でした。一昼夜、海ばかりだったのが、緑が濃い島影が見えた時は、『アッ、日本に帰ってきたんだ!』という思いが、やはりしてきたのを思い出します。カモメが飛んでいて、それも見えなくなり、飛び魚が船の脇を飛ぶ姿しか見えなかったのが、島影が見えてくるとホッとしたのが昨日のようです。
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 船には強い方ですが、何時でしたか、台風接近の中を、上海を出た船が前後に大きく揺れて、船酔いなどとは縁のない船員さんたちも酔ってしまったほどで、当然の様に自分も吐いてしまうほどでした。大会をゆく船など、木の葉と同じで、波に任せながらも、台風にはかないませんでした。

 私の母も、「ジャガタラお春」ではなく、「タイワンのおたか」になるところを、警察に保護されて、難を免れたことがあった、と聞きましたから、歌にはならない戦争前の危ない時代を生き抜いたのだと思います。さて、今日の長崎は雨でしょうか。

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楽しき生涯

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我の諂ふべき人なし(我に、取り入ろうとする人はいない)
我の組すべき党派なし(我に、派閥のようなものはない)
我の戴くべき僧侶なし(我に、上におしいただく僧侶はない)
我の維持すべき爵位なし(我に、維持すべき勲章はない)

我に事ふべきの神あり(我につかえるべき神あり)
我に愛すべきの国あり(我に愛すべき国あり)
我に救ふべきの人あり(我に救うべき人あり)
我に養ふべきの父母と妻子あり(我に養うべき父母と妻子あり)

四囲の山何ぞ青き(周りの山はなんと青く)
加茂の水何ぞ清き(加茂の水(信濃川の支流)はなんと清き)
空の星何ぞ高き(空の星はなんと高く)
朝の風何ぞ爽《さは》き(朝の風はなんと爽やかか)

一函の書に千古の智恵あり(ひと箱の書物に永久の知恵あり)
以て英雄と共に語るを得べし(もって、英雄とともに語る機会を得られる)
一茎の筆に奇異の力あり(一つの筆には力があり)
以て志を千載に述るを得べし(よって、志を千年述べ続けることができる)

我に友を容るゝの室あり(我に友を招く部屋があり)
我に情を綴るゝのペンあり(我に気持ちを綴るペンがあり)
炉辺団坐して時事を慨し (炬燵等に坐して時事を語り)
異域書を飛して孤独を慰む(海外なそどの本を読んで孤独を安らぐ)

翁は机に凭れ(おじいさんは机にもたれ)
媼は針にあり(おばあさんは針仕事)
婦は厨《くりや》に急《せ》はしく(主妻は炊事に忙しく)
児は万歳を舞ふ(子供は万歳をしている)

感謝して日光を迎へ(感謝して日光を迎え)
感謝して麁膳に対し(感謝して粗食を食べ)
感謝して天職を執り(感謝して天職を行い)
感謝して眠に就く (感謝して眠りに就く)

生を得る何ぞ楽しき(生きていることのなんと楽しきことか)
讃歌絶ゆる間なし(神への讃歌は絶えることがない)

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 この「楽しき生涯」は、内村鑑三、三十五歳の時の詩です。明治維新の七年前、万延二年(1861年)に、高崎藩江戸藩邸の長屋(江戸小石川)に、長男として生まれた人でした。藩邸にも長屋にも内村家にも、維新後に帰郷して住んだ高崎にも、神々が祀られ、街のそこかしこには神社仏閣がある中で生まれ育っています。 

 幼児期に父親から儒学を、十二で上州高崎の有馬英学校で英語を、東京の外国語学校でも英語を学んで、十七歳で札幌農学校に入学しています。神社の前を通ると、立ち止まっては拝礼するような若者でしたが、農学校のクラークから聖書を学んだ上級生から伝えられた神を信じ、明治10(1878年)に、アメリカ人宣教師ハリスを介して、札幌のキリスト教会で洗礼を受けています。

 鑑三の受けた教育、宗教的な影響力、十代後半での信仰覚醒、決断、回心には、「福音の力」が、どれほど大きかったかが伺えます。《2つのJ》、つまり《Jesus》と《Japan》への愛を、鑑三は掲げましたが、「日本人」への拘りはなく、日本精神でも日本魂もなく、「神の子」に的を得ていたのでしょう。神からの赦し、受容を感謝した生涯だったのです。

 それにしても、この当時の人の語彙力に、昭和戦時下に生まれ、戦後の平和教育を受けて育った私は、到底及びもつかない日本語力の違いに驚かされます。例えば「麁膳(そぜん)」など、辞書を引いても出て来ませんし、中国のサイトの「漢語辞書」で調べて出てくるほどで、現在では、「麁」は、「粗」に変えられて使われていいる様です。

 鑑三ですが、お父さんの宣之も、1882年になって洗礼を受け、晩年は東京下谷の教会で信仰生活をしています。弟も、子も信仰を継承しているのです。キリスト伝道の難しいと言われる日本、しかも明治期に、札幌でも、熊本でも、神戸でも、松江でも、弘前でも、そして多くの農山漁村でも、仏教や神道の感化を受けて来た日本人が、イエス・キリストを信じる者を産んできたのです。キリストの十字架の福音は、人を変えてきたことになります。

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間もなく年末です

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 「紅葉」の読み方ですが、<こうよう>ですが、“momiji”と入力すると<紅葉>と文字候補の中に出てきます。まさしく、「赤い花」ですが、どうしてこの漢字を、<もみじ>と読むのでしょうか。大言海という辞書に、『露や霜に揉み出(もみだ)されるから。』、そう呼ばれるのだとあるそうです。この様に、古代の日本人の造語能力には、恐れ入ります。日本で誕生した「大和言葉(倭語/やまとことば)には、興味が尽きません。

 季節の移ろいが、華南の街では、樹木の植生の変化によっては、感じることがなかなかできませんでした。ただ空気や水の冷ややかさによって感じたり、庭木の「椿」の花の開花で感じ取ることはできていたのです。名前は分からないのですが、木の花が、まだあちらこちらで咲いていましたが、もう間もなく12月になります。西洋暦の正月よりも、旧暦(農暦)の正月である「春節」を迎えることに、特別の思い入れを持つ、中国の人たちには、「年の瀬」の慌ただしさというのは感じられませんでした。

 この「春節」は、毎年、日にちが違うのに、まだ慣れなかったのを思い出します。「春節」を迎えたら、新しい服を着て、子どもたちは「お年玉」をもらったりする喜びがあるのでしょうが、やはり、「春の到来」を寿(ことほ)ぐ民族習慣と伝統は、二十一世紀になっても変わらない様です。

 私の文化的背景ですと、ケジメをつけて去っていく月と迎える年をはっきりするのでしょうか。迎える月は、忙(せわ)しなさや、差し迫った感じが満ちて、大人から子どもにまで、伝わってきて、過ぎていく「今年」を思い返して反省したり、新しく迎える「新年(正月に代表されるのでしょう)」を迎える準備をし、目標を立てていくのです。

 大晦日(おおみそか)を迎えるまで、母も様々な家事をしていました。障子やふすまの張替えや修復、特別に気の入った掃除、餅や正月料理の食材の購入、「おせち」作りなど、年末に入ると、繰り返していたのを思い出します。『醤油を買ってきて!』と言われて、家から跳び出して行ったこともありました。娘を持たなかった母でしたから、大変だったでしょうか。

 イタズラッ子で我が儘な割りには、幼い私は母を、よく手伝っていたのだそうです。母が、懐かしく小さな頃のことを感謝してくれたことがありました。どうして我が家では、正月にならないと、「お餅」を食べなかったのか、それ以外には食べた記憶がないのです。正月のお餅を、父の決めた寸法があって、その様に切った切れ端を、天日で乾かして、油で揚げて、醤油をジュとかけて、父が食べさせてくれたくらいでした。もっと普段にも、食べても良かったのに、それも父の家での習慣だったのでしょう。

 何だか、「師走(しわす)」が間近になっただけで、懐かしい年の瀬の息吹が押しかけて来そうです。と言うか「思い出」が蘇ってきているのでしょうか。

(冬に代表的な花「和水仙」です)

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身震いを感じるほどの

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 『恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、もう思い出さない。(イザヤ544節)』

 生きていく術を教えていただいた宣教師さんから、よく言われたのは、『何をしたかではなく、何であったかが、人に問われるのです!』とい言うことでした。

 成功や成果こそが、人生の重要なことだ、との教えが、本屋にも社会にも満ち溢れています。キリスト教界にでさえ、〈成功の教え〉が取り込まれてしまっています。けっきょく人は何も持たないで生まれてきて、何も持たずに去っていくのですね。褒め言葉も褒章もtitleも、みんな置いていくわけです。

 恥じずに、私も生きようとしたつもりですが、多くの恥を残していくのでしょうか。時々、〈若かったころの恥〉が思い出されて、追い迫られることがありましたが、キリストの十字架は、私の罪も恥も、身代わりに負ってくださったことを信じて、無垢のようにされ、命からがら赦されたことを確信できたことは、感謝に尽きません。

 『数えてみよ主の恵み』と言う聖歌があります。どんなに素晴らしいことが、歌う人のこれまでの人生にあったかを『数えてみよ!』と歌いつつ感謝するのです。私は「憐れみ」の数々を思い出すので、これを数えることにしているのです。

 昨日、前橋の書店で、一冊の本を買いしました。戦時下、治安維持法違反で有罪となり、執行猶予付きの判決に服した、寺尾喜七氏の警察での尋問調書を掲載した、「知られなかった信仰者たち 耶蘇基督之新約教会への弾圧と寺尾喜七[尋問調書]」川口葉子、山口陽一著〈いのちのことば社〉」です。

 今、その本にある「調書」の箇所を読んでいるところです。この教会関係者の検挙に関わった立場の係官たちの様子を、次のように記しています。『刑事も警察関係の人々も、拘束して時たつとともに、容疑者をひそかに真の愛国者とほめ、次第に信者達を尊敬して寛大に取り扱った。中でも寺尾喜七氏をまことにえらい人と驚嘆していた。』とです。

 取調官を驚かせたほどの寺尾喜七氏は、信仰を捨てることをしないで、執行猶予で帰宅してから、自室に閉じこもって、聖書と讃美歌に四六時中親しみ、敗戦直後の1945924日、68歳で亡くなったと、この本は伝えています。

 美濃ミッションやホーリネス教会への迫害は、よく聞きましたが、こう言った信仰を持たれて、「非国民」と呼ばれて刑に服した「恥」を負いながらも、キリスト信仰を全された、《真の信仰者であったこと》に身震いを感じるほどであります。

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