分数、分母と分子の差

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 19/20、この分数は、何だと思いますか。もう一つ、10/20です。さらにもう一つ、20/20を付け加えます。

 第108回全国高等学校野球選手権大会(主催:朝日新聞社、日本高等学校野球連盟)地方大会、栃木県大会に出場した、三校の比較を表しています。

 今日、7月24日に行われた試合に出場した二校と、すでに敗退した栃木市内の一校を比較してみたのです。

 19/20 作新学院高校(準決勝敗退)

 10/20 佐野日大高校(作新の対戦校)

 20/20 県立栃木高校(敗退)

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 何を比較したのか、もうお気付きだと思いますが、この分母はベンチインする選手数で、分子は他都道府県出身者です。作新学院高校は県外者1人、佐野日大高校は10人、栃高(とちたか)は0人です。ついでですが、長兄の母校は都立高校で都外者0人、次兄と私の母校は私立高校で0人、弟の母校も私立校で1人でした。

(“いらすとや”の甲子園球場、野球球児です)

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この夏に心したこと

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 2026年の夏、ヨーロッパは熱波に襲われ、多くの人が亡くなっています。特に日ランスでの死者は、5月下旬と6月に二度、熱波が襲っています。つい先ごろも熱波で、1万人以上の死者が出たとニュースが伝えていました。

 アフリカではなく、どうしてヨーロッパで、集中的に死者が出るのかと言いますと、もともとヨーロッパ、とくにベルギーの夏の最高気温は、22、3度程度なのだそうです。それで、エアコンの設置率は低く、ほぼ80%の家庭には未設置なのです。最高気温が40℃以上になったら、ひとたまりもなく、ニュースが伝えるように、熱波に襲われ熱中症を発症してしまうのです。

 日本の今年の夏は、去年以上の高温に見舞われ、熱中症の死者が多く出ているようです。一昨日の夜、頭痛がして、生まれて初めてのたえられないほどの痛さでした。頭痛など経験のない自分でしたが、頭のてっぺんの痛みに耐えられず、家にあった鎮痛剤を飲んだのです。朝起きましたら、その痛みがウソだったように引いていました。

 昨日は、家内の通院日で、友人のご婦人が、車で宇都宮の病院まで送り迎えをしてくださったのです。その車中で、昨晩の頭痛のことを話しましたら、「熱中症」の症状だと、この婦人に言われて、『あれが熱中症の症状なのか!』と驚いたのです。遅きに失したのですが、家内の処方薬を、所定の薬局でいただいた折に、経口補水液の〈OS1〉を買って飲んだのです。

 何年も前に、甥が、運動部の競技中に熱中症になったのです。あっ晴れ、相手のチームのマネージャーが、その〈OS1〉を手渡してくれて、それを飲んで、危機一髪、危ないところを助けられたのだと聞いていました。それで、その経口補水液を一箱買い求めていたのです。季節が巡り、そのことを忘れての備えも忘れていての頭痛の一件でした。 

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 日本人が、〈梅干しに水〉で、命を繋いできたことも思い出させられ、塩分控えめの食習慣も、水分不足も、命取りになるのだということを再確認させられた次第です。夏場、もう泳がなくなって久しいので、水難事故に遭うことはなくったのですが、水不足、塩分不足の怖さを、初めてのひどい頭痛で感じさせられたのです。

 長女を、この5月末に訪ねて、一週間ほど生活を共にしたのですが、ひつこく、『水を飲んだの?』と言われて、ずいぶん飲んだのですが、飲んだつもりではいけないのだと、ヨーロッパやわが国の熱中症で亡くなる人のニュースを聞いて、身につまされる思いをしているところです。

 人は、だれも例外なく死ぬのですが、怠りによって死ぬことが多くあることを、身をもって経験し、『転ばぬ先の杖!』、『負うた子に教えられ!』で、〈乾く前の1.5リットルの水〉を『飲んで!』の生活習慣を、励行する必要を感じ、娘に感謝しなければなりません。

 ジャン・ジャック・ルソーが、「ソクラテスの死」について書き残しています。『ソクラテスは、自若して死んだ!』のだそうですが、『準は、水飲みの不励行で死んだ!』と言われないように、もう2、3年、平均余命の間ほど、生かしてもらおうと、心した酷暑の夏中、渦中の私なのです。

(“いらすとや”の水を飲む若者.梅干しを食べる少女です)

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先生主義と平民主義の狭間で

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 母が導かれた、私たちの母教会では、宣教師さん夫妻を、「ジャックさん」、「エドナさん」と呼んでいました。〈紙〉の会社から、《神》の教会の牧師さんになった兄は、「マンさん」と呼ばれていました。『それでは、示しがつかないのではないですか!』とのよその教会のご意見もありましたが、母教会のみなさんの呼び方が変わることがありませんでした。

 私が学んだ学校は、ミッシンスクールでした。教師も学生も、”Mister“ で呼ばれていたのです。教授も、事務の方も、「さん」をつけて呼んでいました。上下関係の難しさのない社会で、みなさんが横に一つ並びだったのです。偉さの尺度を置かない関係は、立場をわきまえながらも、和やかでした。上智大においでだった教授も、「デーケンさん」でした。親しく敬意にあふれた一年間の師弟関係でした。

 ある時、〈二十世紀日本のパウロ〉と呼ばれた牧師さんを迎えて、伝道集会が持たれました。この方は、威厳があって、寄せ付けないオーラを発しながら、牧師や宣教師の呼称の仕方を、秩序という言葉で、呼称を変えようとされたのです。この教会では、呼称の仕方でも、敬意に欠けているのではないのです。

 窓の淵を手の指でこすって、ホコリを見つけて、姉妹たちの行き届かない掃除を指摘、糾弾していました。まるで旧日本軍の上官が、内務班でするようなことだったのです。「神の国」には、それは不必要で、よその教会の牧師さんのすることではないからです。権威主義であってはならないのです。教会の主でいらっしゃるお方は、まるで僕のようにして、人々の間で謙って過ごされました。

 ある時は、イエスさまは、ひざまづいて弟子たちの足を洗うほどだったと、聖書は記しています。お隣の国で、大きな国際的な集いがあって、そこに参加したときのことでした。あるセッションで、敬称抜きで「イエス」と言っている著名な説教者が、「パウロ」と呼びにくくなったのでしょうか、「パウロ先生」と呼んだのです。義認や聖化や栄光化の十字架の贖罪の教えをするほどの鋭さに敬意を感じたのでしょうか、もう呼び捨てにできなくなって、そう言い直していました。聖書の関係を、日本的な権威主義で解釈され、平民主義の教会で育った私は、違和感を感じてしまったのです。



 パリサイ主義の碩学だったパウロは、復活のキリストと不思議な出会いをして、その僕となったのです。その福音宣教は、熱烈でした。ルステラの街で、次のような騒動に巻き込まれています。「使徒の働き14章8~18節」にそのように記述されています。

『ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった。 この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、 大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。 パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と言った。 そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。 すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした。』

 『これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら言った。 「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。 過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。 とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」 こう言って、ようやくのことで、群衆が彼らにいけにえをささげるのをやめさせた。』

 赦された罪人の過去を持ったパウロが、キリストに弟子となって、留守寺で、その道を教えると、ギリシャの神のひとり、ヘルメスのように、ルステラの人々には、パウロが尊く思えたのです。驚いたパウロは、そんな立場にないことを証明するために、着ている服を破り、人々の間に駆け込んで、『みなさんと同じです!』と言った行動をとったわけです。イエスさまも、

『しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。(マタイ23:8)』

とおっしゃって、先生主義、権威主義の悪弊を指摘されておいでです。教会の社会は、そう言った兄弟姉妹の関係で、成り立っていることになります。今日は、東京駅で、乗ってきた電車から降りてきた私たちを出迎えてくれた次男夫婦の招待を受けたのです。生まれて初めて、グリーン車の座席に座って、駿河国一の鰻料理をご馳走になる旅で、三島駅に降り立ったのです。酷暑にさらされる年老いた両親を、丑の日の直前に、健康増進のために供してくれたのです。

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 その駅頭で、代議士さんを出迎える一団を見掛けたのです。上にも置かない十数人の方々がいたのです。その接遇に、お取り巻きのみなさんがあわただしかったのです。初め「ヤ◯ザの親分」さんの一行かと思わせるほどでした。その、「傅(かしず)かれる」様子の先生と目が合ってしまいました。得意げで、ちっと戸惑い風にも見受けたのです。日本社会の「大先生」でした。

 上下関係で傅かれるのと、孝行の親子関係でもてなされるとの対比に、こちらの方がはるかに喜ばしいと感じている今宵でした。舌鼓を打つ時を設けるために、休暇を取って、嫁御を伴って、かつての東海道一の大きな宿場町、名峰富士の麓で、その伏流水で養われた、実に美味しい鰻の料理に、老親二人は感謝ばかりの一時でした。

  自分の子が美味しそうに食べている様子に、目を向けていた自分たちが、立場逆転で、次男夫婦が目を細めて、私たちを眺めているのを知って親冥利に尽きるとは、このことなのでしょうか。お店をでると、夕立が激しく降っていて、傘を持たなかったのですが、濡らすまいと、嫁御が大雨の中を跳んで出て行って、傘を用立てて戻ってきてくれ、傘を開いて差し出してくれたのです。

 この社会に中で、三度ほど「先生」と呼ばれる仕事に携わらせていただいて過ごしてきましたが、そのタイトルで生きるのを終えて、微細なキャリアもタイトルもみんな置いている、今の自分たちを、このように饗してくれる私たちの次男、それを喜んでいてくれる、一緒に育った兄姉妹の三人が、遠くから祝してくれているのです。2ヶ月前、羽田空港の行き帰りを送迎してくれた長男、同行してくれた次男、今住むハワイで出迎えてくれた長女、そこを本土から訪ねてくれた次女家族、その家族の交わりに。こんな幸せなことはありませんでした。

 子育て時代、夏休みに海水浴に出掛けて、通りかかった休憩エリヤで、イカ🦑の姿焼きを見て、食べたかった子どもたちに、買って上げなかったことを、今も悔いている自分を、そんなに篤く孝行してくれる幸いに、二人で感謝しているホテルの床の上です。明日は、名峰が見えるでしょうか。

(“いらすとや”の説経者、ルステラ、偉い人です)

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親孝行と鰻重でのもてなしに

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 臆面もなく、私たちの母教会では、宣教師さん夫妻のを、「ジャックさん」、「ベティさん」と呼んでいました。〈紙〉の会社から、《神》の教会の牧師さんになった兄は、「マンさん」と呼ばれていました。『それでは、示しがつかないのではないですか!』とのよその教会のご意見もありましたが、母教会のみなさんの呼び方が変わることがありませんでした。

 私が学んだ学校は、ミッシンスクールでした。教師も学生も、”Mister“ で呼ばれていたのです。教授も、事務の方も、「さん」をつけて呼んでいました。上下関係の難しさのない社会で、みなさんが横に一つ並びだったのです。偉さの尺度がない関係は、立場をわきまえながらも、和やかでした。上智大においでだった教授も、「デーケンさん」でした。親しく敬意にあふれた一年間の師弟関係でした。

 ある時、〈二十世紀日本のパウロ〉と呼ばれた牧師さんを迎えて、伝道集会が持たれました。この方は、威厳があって、寄せ付けないオーラを発しながら、牧師や宣教師の呼称の仕方を、秩序という言葉で、呼称を変えようとされたのです。この教会では、呼称の仕方でも、敬意に欠けているのではないのです。

 窓の淵を手の指でこすって、ホコリを見つけて、姉妹たちの行き届かない掃除を指摘、糾弾していました。まるで旧日本軍の上官が、内務班でするようなことだったのです。「神の国」には、それは不必要で、よその教会の牧師さんのすることではないからです。権威主義であってはならないのです。教会の主でいらっしゃるお方は、まるで僕のようにして、人々の間で謙って過ごされました。

 ある時は、イエスさまは、ひざまづいて弟子たちの足を洗うほどだったと、聖書は記しています。お隣の国で、大きな国際的な集いがあって、そこに参加したときのことでした。あるセッションで、敬称抜きで「イエス」と言っている著名な説教者が、「パウロ」と呼びにくくなったのでしょうか、「パウロ先生」と呼んだのです。義認や聖化や栄光化の十字架の贖罪の教えをするほどの鋭さに敬意を感じたのでしょうか、もう呼び捨てにできなくなって、そう言い直していました。聖書の関係を、日本的な権威主義で解釈され、平民主義の教会で育った私は、違和感を感じてしまったのです。

 パリサイ主義から離れたパウロは、ルステラの街で、次のような騒動に巻き込まれています。「使徒の働き14章8~18節」にそのように記述されています。

『ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった。

この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、

大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。

パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と言った。

そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。

すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした。』

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 『これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら、言った。

「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。

過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。

とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」

こう言って、ようやくのことで、群衆が彼らにいけにえをささげるのをやめさせた。』

 赦された罪人の過去を持ったパウロが、ギリシャの神のひとり、ヘルメスのように、ルステラの人々には尊く思えたのです。驚いたパウロは、そんな立場にないことを証明するために、着ている服を破って、人々の間に駆け込んで、『みなさんと同じ人間(罪に汚れたただの人)です!』と言った行動をとったわけです。イエスさまも、

『しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。(マタイ23:8)』

とおっしゃって、先生主義、権威主義の悪弊を指摘されておいでです。教会の社会は、そう言った兄弟姉妹の関係で、成り立っていることになります。今日は、東京駅で、乗ってきた電車から降りてきた私たちを出迎えてくれた次男夫婦の招待を受けたのです。生まれて初めて、グリーン車の座席に座って、駿河国一の鰻料理をご馳走になる旅で、三島駅に降り立ったのです。酷暑にさらされる年老いた両親を、丑の日の直前に、健康増進のために供してくれたのです。
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 その駅頭で、代議士さんを出迎える一団を見掛けたのです。上にも置かない十数人の方々がいたのです。その接遇に、お取り巻きのみなさんがあわただしかったのです。初め「ヤ◯ザの親分」さんの一行かと思わせるほどでした。その、「傅(かしず)かれる」様子の先生と目が合ってしまいました。得意げで、少々戸惑い風に、ちょっとギルティにもお見受けしたのです。日本社会の「大先生」然でした。

 上下関係で傅かれるのと、孝行の親子関係でもてなされるとの対比に、こちらの方がはるかに喜ばしいと感じている今宵でした。舌鼓を打つ時を設けるために、休暇を取って、嫁御を伴って、かつての東海道一の大きな宿場町、名峰富士の麓で、その伏流水で養われた、実に美味しい鰻の料理に、老親二人は感謝ばかりの一時でした。

  自分の子が美味しそうに食べている様子に、目を向けていた自分たちが、立場逆転で、次男夫婦が目を細めて、私たちを眺めているのを知って親冥利に尽きるとは、このことなのでしょうか。お店をでると、夕立が激しく降っていて、傘を持たなかったのですが、濡らすまいと、嫁御が大雨の中を跳んで出て行って、傘を用立てて戻ってきてくれ、傘を開いて差し出してくれたのです。
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 この社会の中で、三度ほど「先生」と呼ばれる仕事に携わらせていただいて過ごしてきましたが、そのタイトルで生きるのを終えて、キャリアもタイトルもみんな置いて、失った今の自分たちを、このように饗してくれる次男、それを喜んでいてくれる、一緒に育った兄弟姉妹の三人が、遠くから祝してくれているのです。2ヶ月前、羽田空港の行き帰りを送迎してくれた長男、同行してくれた次男、今住むハワイで出迎えてくれた長女、そこに訪ねてくれた次女家族、こんな幸せなことはありませんでした。

 子育て時代、夏休みに海水浴に出掛けて、通りかかった休憩エリヤで、イカ🦑の姿焼きを見て、食べたかった子どもたちに、買って上げなかったことを、今も悔いている自分を、そんなに篤く孝行してくれる幸いに、二人で感謝しているホテルの床の上です。明日は、名峰が見えるでしょうか。

(“ウイキペディア”の三島宿、三島駅、”Christiancliparts”の説教するパウロ、“いらすとや“の鰻重です)

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 まだ、運転免許証を手にしていた頃、あちらこちらとハンドルを握って出掛けていたのを思い出します。アメリカ合衆国の属領グアム市内は、免許証を、そこでもらったので、米本土のハイウエーでも中国の街の工場の構内でも、国外でも走ったことがありました。日本では、北は仙台、南は熊本、日本海側は新潟の糸魚川(いといがわ)などを訪ねたでしょうか。

 首都高速の江戸橋の出入り口に、アジアの32カ国を結ぶ、“ASIAN Highway ” の起点があって、福岡から海を渡って、釜山、ブノンペン、ニューデリー、そしてカプクレ(トルコとブルガリアの国境)を終点とする、国際間道路[AH-1]があります。この首都高の標識を見ると、東京がトルコ国境まで繋がる一本の道路で結ばれていると言う、不思議な感覚に襲われるのです。もちろん海を船で渡りますが。

 その日本橋のたもとに立った時と同じ感覚で、世界を捉えられるのも不思議の思いに駆られます。江戸に幕府が置かれ、諸国とを結ぶ道路網が整備されることになって、その起点が、この日本橋でした。ところが、1974年に、東京でオリンピックが開催されることになって、首都高速道路の工事が始まり、日本橋の上を高架で走るルートが計画されて、名橋の日本橋は、高架下の陰になってしまったのです。

 道路の橋桁の下に、主要な橋がかかっているようで、お江戸の景観にはそぐわになくなったなと思っていましたら、近い将来、首都高は地下を走るようになり、日本橋は陽の目を見られるようになるそうです。

 そういえば、随分、あちらこちら歩き、旅をしてきたものです。今は、散歩道を辿り、春夏秋冬の植生の移り変わりを目にし、人と行き交うのもまた興味深いのです。先日は、眼下に見える日光例幣使街道が、梅雨の雨に濡れていました。今日も、35℃の猛暑になるとか、アスファルトが柔らかくなってしまうのではないかと心配になるほどです。

 父は、旧甲州街道の近くの南新宿あたりに家を買おうとし、繁華街に近いので、これから成長していく4人には相応しくないと思ってやめたり、また自分が転校し、卒業した旧制中学校のあった街の近くを、国道1号線(旧東海道)があって、その道沿いに家を見つけたのですが、そこもやめ、東京の郊外に家を買ったのは、私たち4人のためには賢明な決断だったようです。そこも旧甲州街道の道筋にありました。けっこうこれまで、よく道路沿いに住んできたように思います。

 五世紀頃、唐の街道の整備に倣って、日本でも統治上、街道の整備が行われ始めていました。江戸期になってからは、「五街道」が整備されたのです。江戸勤めの侍や旅の商人、温泉療養や寺社参拝で、江戸期の人たちは、幕府の整備した街道を、少ない携行品で旅をしました。今のような観光目的の旅は、富裕層だけの特権だったのでしょう。各地方にも街道が整備されていきました。

 その起点とされたのが、江戸の日本橋でした。その主要街道は、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥羽街道で、「五街道」と呼ばれていました。それは大土木道路整備工事だったのです。ブルトーザーもパワーショベルもなければ、アスファルトもコンクリートもない時代、縄編みの簣(もっこ)や木製や鉄製のシャベルやツルハシを使っての工事だったようでした。

 江戸から京の都までの53宿の「東海道」、江戸から武州千住、下野宇都宮から日光までの21宿の「日光街道」、宇都宮から分岐して磐城白河までの24宿、白河以北の陸羽街道・仙台道・松前道・外が浜道でした。 郡山、福島、陸中盛岡、陸奥青森、三厩まで、そして海を渡って蝦夷松前を経て函館までの114宿の「奥羽街道」、さらに江戸から上州高崎、信州下諏訪、信州妻籠、草津に至るまでの67宿の「中山道」、江戸から内藤新宿、八王子、甲府、下諏訪までの44宿の「甲州街道」などがあったのです。

 各街道には、「一里塚」が置かれ、「宿場」が設けられ、本陣、脇本陣、旅籠、木賃宿、高札所、代官所が置かれていました。こちらに越して来て住み始め、今年は8年目に入った、この栃木市は、中山道の倉賀野宿から、日光に至る「日光例幣使街道」の宿場だったのです。この私たちの住む街は、幕府の佐野藩の統治下にあったので、街の中央に代官屋敷跡が残されていて、ここに来た当初、見学したことがありました。

 そんな宿場町や、街道沿いに、「報謝宿(ほうしゃやど)」と呼ばれる宿泊施設が、所所にあったようです。旅の途中で病んだり、路銀をなくしたりしている人に、宿と食べ物を提供する、今で言う、民間の篤志家による福祉施設があったのです。旅の途中での難事をした場合、宿や食事の世話を、個人や地域でしていたそうです。

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 中山晋平の作詞で、野口雨情の作曲の童謡、「あの町この町」があります。トボトボと歩いたり、スタスタと歩いた道があって、今も歩いている自分なのです。

あの町この町 日が暮れる
日が暮れる
今きたこの道 帰りゃんせ
帰りゃんせ

おうちがだんだん 遠くなる
遠くなる
今きたこの道 帰りゃんせ
帰りゃんせ

お空に夕べの 星が出る
星が出る
今きたこの道 帰りゃんせ
帰りゃんせ

 家内の入院を機に、住み始めた街は、何よりも、日光東照宮の造営、維持のために、さらには近郷の物資の搬入や搬出のために、食料や味噌醤油の調味料や郷土品や日用品や資材を集積するための「舟運(しゅううん)」の河岸で栄えた商業の盛んな所でした。その舟運を担った巴波川の周辺は、そんな時代の雰囲気を残していて、舟子たちの掛け声や舟唄や、綱手道を舟を曳いて歩く水夫たちの仕事唄が聞こえてきそうです。

 陸路は人が動き、舟運は物資が動き、日本中で、都賀舟や高瀬舟が、荷を運んでいて、鉄道ができるまで盛んに行われたのです。今のような自由に行き来をすることができない時代で、街道筋には関所や番所があって、今のように国外に出かける時のように、県庁から「査証(Visa)」の発行をしてもらい、それを携行しなければならなかったのですが、国内の移動にも、「通行手形」が必要でした。

 その通行手形は、武士の場合は領主が、庶民の場合は在住地の名主などが発行したもので、それを携行する必要があったのです。江戸期には、「出女」、「入り鉄砲」が厳しく取り締まられていたと小学校で学んでいましたが、女性だけの旅行は大変難しかったそうです。参詣や湯治の場合は、緩やかな方法で、関所を通過できたようです。

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 東京に出てきた父が買った家は、旧甲州街道沿いにあった家でした。なんの変哲もない、まだ舗装前の石ころも転がる道路でした。その道が、江戸期には主要街道であったことを知ってから、大名も侍も農夫も商人も、あの目の道を黙々と旅をしたことを想像すると、興味が尽きなかったのを思い出します。

 この両の足で、どれほどの道を歩いて来たことでしょうか。だいぶ半月板もすり減ってきたようです。北原白秋が作詞し、山田耕作が作曲した童謡に、「この道」があります。

この道はいつか來た道
ああ さうだよ
あかしやの花が咲いてる

あの丘はいつか見た丘
ああ さうだよ
ほら 白い時計臺だよ

この道はいつか來た道
ああ さうだよ
お母さまと馬車で行つたよ

あの雲もいつか見た雲
ああ さうだよ
山査子の枝も垂れている

 いつか来た道ですが、その道筋の景観は大きく変わったことでしょう。自分勝手に脇道も間道も歩いてきたのですが、引き返すことができました。しかしこれから歩み行く道は、「わたしが道」とイエスさまがおっしゃった道であって、永遠につながる正道、不変の道なのです。この道を行く者は、永遠のいのちを頂くことができるのです。間もなく走破することができるでしょうか。

『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネ14:16)』

(“ウイキペディア”の日本橋、ベイブリッジ、線路下を走る国道20号線です)

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騒音か賛美か、セミの声

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 うるさいなお昼寝中のセミの声

 『蝉の声がしない!』、そんなことをよく聞くようになってしまった今日日、耳をすませるのですが、やはり聞こえてきません。どうしたことなのでしょうか。暑さの中、その暑さをいやましに感じさせる「蝉時雨」が、耳の底に残っていて、思い出させられます。小学校にプールができる前、川に行ってよく泳いだのです。その帰りに、アイスボンボンを買ってはなめながら、泳ぎ疲れての帰り道のお寺の近くで、声高にセミが鳴いていたのです。

 セミ捕りに出かけて、逃がしたセミがオシッコをして逃げて行き、その飛沫(しぶき)を被ったことが何度かありました。木造家屋が多かったり、道路も舗装される前には、いえ木々が多くあったので、セミにも住みやすかった時代だったに違いありません。

 弟の今住んでいる辺りに、けっこう大きな木があって、その幹や道路区分の鉄やコンクリートの仕切りに、セミの抜け殻、空蝉(うつせみ)と言うそうですが、それが多く残されていて、まだ幼かった甥っ子の息子に連れられて見に行ったことがありました。その多さに驚いたことがあったのです

 その木の樹皮の中で、セミが孵化するのだそうです。するとセミの幼虫は地中で樹木の根っこから、栄養分を吸って成長と、3年から10年もの長い間地中で過ごして、やっと蛹(さなぎ)となります。そして地表に出て成虫となって、飛び立つのです。飛び回る日時に比べて、成長までの時間の長さに、改めて驚かされてしまいます。

 そこは、戦後に、大きな公団住宅が、首都圏の近郊のあちらこちらに建てられた用地、皇室の御料馬場の跡地で、大きな木が多くあって、伐採されずに残された地なのです。子どもの頃に、父の家からの畑道を歩いて遊びに行った辺りでした。山の中で自分が生まれた頃に、生まれていたセミに、オジッコを見舞われたことになりそうです。

 閑さや岩にしみ入る蝉の声

 夏場に、奥州路の出羽国を旅した芭蕉が、尾花沢で、住民のお弟子さんからの勧めで、立石寺に出掛けて詠んだ名句です。この地は、最上川で名産の紅花を、舟運で坂田まで運び、北前船で京・大阪に運び出して有名です。その寺を開山したのは、下野国壬生に生まれた円仁でした。その生誕地の近くに、獨協医科大学の附属の大きな病院があります。深山の古寺の静けさと、蝉の声のうるささとを両方感じ、その「静けさ」を、「閑けさ」と記した芭蕉の感性にも驚かされます。

 この春に、次男夫婦が山形の地を訪れて、山形城の堀などに咲く桜を撮った写真を送ってくれました。美しい城跡が公園になっていたそうです。ついぞ知らない奥州路ですが、芭蕉が抱いた強い印象が共鳴してでしょうか、もし芭蕉か同行の曾良の手にカメラがあったら、同じように、その佇まいを映し撮ったことでしょう。またスマホがあったら、その蝉の鳴き声も録音していたかも知れません。

 今住む街にも、いくつもの公園があり、わが家の近くのうずま公園にも、メタセコイヤや樫の木などの大木があって、木陰が涼しいのですが、ジリジリジリ、ミーンミンミーン、チイチイチイ、カナカナカナの声が、8回目の夏になっても聞こえてこないのです。もしかしたら、人間の嬌声や蛮声や罵声や怒号や奇声が、騒々しく響く時代の只中にいますから、聞こえてこないのかも知れません。いや矢張り、蝉が少なくなってしまったのでしょう。

 それでも大相撲や高校野球などのスポーツの歓声や応援歌、コンサートホールの演奏会のブラーボーの掛け声や拍手、演劇や歌謡ショウの俳優や歌手への掛け声は、鬱憤を晴らすのでしょうか、声高に聞こえてきそうです。そう言えば、セミと同じように、嬉々として遊んでいる子どもの声も聞こえなくなっていないでしょうか。

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 聖書の中には、多くの声があり、詩歌や賛美があります。

『私は、あなたのすべての誉れを語り告げるために、シオンの娘の門で、あなたの救いに歓声をあげましょう。(詩篇9:14)』

『昔から、いと高き天に乗っておられる方に向かい、ほめ歌を歌え。聞け。神は御声を発せられる。力強い声を。(詩篇68:33)』

『喜びと救いの声は、正しい者の幕屋のうちにある。主の右の手は力ある働きをする。(詩篇118:15)』

『また、御座から声が出て言った。「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」 また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。(黙示録19:5〜6)』

それ故に、私たち贖われ、罪赦された者は、次のように声を発し、上げ、叫ぶのです。感謝をもって、喜び叫ぶのです。

『感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。(詩篇95:2)』

 今日日、賛美の声を上げなくなってしまいました。セミの声と同じようにです。雑音や騒音が多くて、かき消されているからかも知れません。それでも、半世紀も前に、母教会を訪ねて来たアメリカ人の伝道者の方が、紹介してくださった賛美コーラスが、心の中から、唇から、その賛美の歌詞が湧き上がってくるのです。この週末、次男がやって来て、来るたびに、ウクレレを手に賛美するのです。すると家内が、それに合わせて賛美し、わが家を満たしていました。

『正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直き者にふさわしい。(詩篇33:1)』

(“いらすとくん”の蝉の抜け殻、“Christian clip arts“ の賛美です)

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甲府盆地には、桃の花が似合う

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 『七月になったのに涼しいんだけど!』と言ったら、『歳をとってきたんだから、ちゃんと暑さ対策をしてね!』と言われてしまいました。例年になく梅雨の雨が多くて、汗だくになっていてもおかしくないのに、そう感じないのは、自分たちだけかと思っているこの頃です。

 昨夕、故郷から、桃が送られて来ました。律儀な弟からの贈り物です。春先、桜の花が咲いて間も無く、桃の花が桃園に咲き始めると、甲府盆地は、まるで桃色の絨毯を引き詰めたような圧倒される光景を、見ることができるのです。御坂名物の絶景です。甲府に居を構えた太宰治が、「富嶽百景」を書き残しています。その一節です。

「河口局から郵便物を受け取り、またバスにゆられて峠の茶屋に引返す途中、私のすぐとなりに、濃い茶色の被布(ひふ)を着た青白い端正の顔の、六十歳くらゐ、私の母とよく似た老婆がしやんと坐つてゐて、女車掌が、思ひ出したやうに、みなさん、けふは富士がよく見えますね、と説明ともつかず、また自分ひとりの咏嘆(えいたん)ともつかぬ言葉を、突然言ひ出して、リュックサックしよつた若いサラリイマンや、大きい日本髪ゆつて、口もとを大事にハンケチでおほひかくし、絹物まとつた芸者風の女など、からだをねぢ曲げ、一せいに車窓から首を出して、いまさらのごとく、その変哲もない三角の山を眺めては、やあ、とか、まあ、とか間抜けた嘆声を発して、車内はひとしきり、ざわめいた。けれども、私のとなりの御隠居は、胸に深い憂悶(いうもん)でもあるのか、他の遊覧客とちがつて、富士には一瞥(いちべつ)も与へず、かへつて富士と反対側の、山路に沿つた断崖をじつと見つめて、私にはその様が、からだがしびれるほど快く感ぜられ、私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないといふ、高尚な虚無の心を、その老婆に見せてやりたく思つて、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに、共鳴の素振りを見せてあげたく、老婆に甘えかかるやうに、そつとすり寄つて、老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖の方を、眺めてやつた。

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 老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、

「おや、月見草。」

 さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。さつと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。

 三七七八米の富士の山と、立派に相対峙(あひたいぢ)し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ。」

 バスの車窓から、道の端に咲く月見草を見て、老婆ならずも、富士山に似合うのは、どうも月見草らしいのです。ところが令和の世になって、郡内の河口湖から御坂道を辿って、山道を抜けて、甲府盆地が広がって、目の間に広がるのは、果物王国の一宮の桃畑です。その一面に広がる絨毯の花園は圧巻でした。甲府盆地には、桃の花が似合ふ!

 秋の葡萄、初夏の桃、広州名産の果物ですが、葡萄の花は目立ちませんが、桃の花は艶やかで、圧倒的なのです。丹精して養い育てた桃の木に、この花が咲くと、お百姓さんは「受粉作業」をするのです。それはたいへんな作業で、蜜蜂の自然受粉では間に合わないのでしょう。

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 実った瑞々しい桃の果実が、美味しそうな匂いを放って、箱を開けると部屋に満ち溢れているのです。ちょっと硬めの果肉は、実に美味しいのです。まだ小学校に上がらず、元気だった私は、甲府の街に連れ出してくれた父と、乗合バスに乗って帰宅しいました。バス停で降りた辺に、茶店があって、桃が売られていて、『準、喰ってくか!』と言った父と、店の椅子に座って食べたのが、この季節の桃でした。二、三個食べたでしょうか、それで、お腹を下した私を見て、父が母に叱られていたのを思い出します。

 今年の初桃を食べましたが、秋口には葡萄の最盛期になります。今のように大粒の改良種のなかった時代、デラという種類の小粒の葡萄も、実に美味しいかったのです。戦国の雄、武田信玄も食べたといわくつきの「甲州ぶどう」は、他県では出回らないのですが、独特に美味しいのです。父の友人から、父宛に、木箱に入った、このブドウが、毎秋に送られて来ました。美味しかったのです!

(“ウイキペディア”の桃の花、御坂峠から富士を望む錦絵です)

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雷と雨、大好きな私

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 忽ちに月をほろぼす春の雷 草城

 生まれ育った村で聞いた雷鳴は、まるで赤子の泣き声ように感じられ、大陸の「雷」は「つんざく」ような勇猛、勇壮、雄渾でした。西の空から東の空に響き渡るのです。

 雷は、浮世絵に、幾つもの鼓を背負っている姿で描かれてきたのですが、そんな小さな太鼓で、あれほどの音響を奏でることはできません。そうではなく、大空全体が大鼓(おおづつみ)のように想像したのでしょう。子どものころに、よく『雷が鳴ったら、ヘソを隠せ!』と言われました。雷が「臍」の蒐集家で、子どものヘソを集めているから、気をつけろと言うのは、脅かしで、低気圧の影響で雨が降り、気温が下がるので、お腹を出していると風邪をひくから、『お腹を温めるんだよ!』という意味なのでしょうか。

 この雷が、私は大好きなのです。雷鳴は、人生の応援歌のように、聞こえてくるのです。雷光は、『素早さを身につけよ!』と言ってるようでした。父の家で、雷鳴を聞くやいなや、外庭に、石鹸と手拭いを持って出て、大空から落ちくる大粒で、強烈な雷雨にあたりながら、体を洗ったことがありました。ふと隣の家を見ると、お母さんとお嬢さんが、ガラス戸の上のスリガラスから、呆れた顔で、その一部始終を見られていたのです。

 その叩きつける雨足は、身体中で跳ね返り、気持ちがよかったのです。そんな隣家のバカ息子の奇行を見ても、躓かなかったのは、胆の座った母娘でした。あれ以来しませんでしたが、この年になっても、強い雨が降ると、腰が浮くようになって、またやってみたいほど、あれは快適だったのです。

 雨の好きな、雨を好きにならないと生きていけない日本人は、洪水や大雨と対決しながら、何千年と生きてきたわけです。先日は、「車軸を流す」ような雨が降っていました。数年前には、雨が分厚いカーテンように下がって見えて、天気予報で、『本日は、「陣雨」で・・・』と言いたいほどだったのでしょう。<馬の背を分ける>ような「夕立」や「俄雨」のことを、そう言うようです。

 日本語には、「雨」を表現する言葉が多いと言われているのですが、それは、四季のどの季節にも雨があるということなのでしょうか。『春雨じゃ、濡れてまいろう!』と、月形半平太の言う、この「春雨」は、雨脚が強くないので、歩けるのでしょう。よく歌に歌われる「時雨(しぐれ)」がありますが、降ったり止んだりする冬の雨のことだそうです。「大阪しぐれ」という歌があるように、関西圏でよく使われるのでしょうか。関東では、季節にこだわらずに、降ったり止んだりを繰り返す雨を、「通り雨」と言います。

 

 『紫陽花の蕾が大きく膨らんで来ました!』と、先日、栃木の娘が言って、大平山に、紫陽花を見にお連れくださったのです。雨に似合う一番の花です。市長さんもお出ましで、握手して祝福させていただいて、感謝したのです。母の故郷の出雲地方では、これを「田植え雨」と呼んでいたそうです。「お米」と呼ぶ 貴い米の苗を植える時期に、恵みの雨をそう呼んだことで、出雲の産業形態が分かりますね。

 この山陰は雪が多かったので、雪混じりの雨を、「白雨」と言うそうです。ちなみに、強く降る雨の擬声語を、「たっこらたっこら」と、出雲地方では言うそうですが、ついぞ一度も母の口から聞いたことがありませんでした。東京で子育てをしてくれましたから、そこで強く降る雨を眺めながら、そっと『たっこらたっこら!』と、口籠って、一人感じ入っていたのかも知れません。

 五月雨を 集めて 早し 最上川

 これは、梅雨の雨を、「さみだれ」と詠んで有名な、芭蕉の俳句です。日本語の雨の言葉は、やはり漢語からきているのようです。中国でも五月の降る雨を、「五月雨(さみだれ)」と呼んでも構わないでしょうか。今晩出かけるのですが、この雨は止んでくれるのでしょうか。

『「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。 また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」(申命記11章14~15節)』

 春を告げる花が、梅とか桜なのですが、せいしょのきじのなかに、気象に関わる表現でしょうか、季節の到来をもたらす現象があります。「秋の雨」と「春の雨」は、パレスチナの農耕にとっては必要なものなのです。

 北原白秋が、「雨」を主題にした詩をいくつも書いています。この稀代の詩人の感性には驚かされてしまいます。

あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かけましょ かばんを かあさんの
あとから ゆこゆこ かねがなる
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

あらあら あのこは ずぶぬれだ
やなぎの ねかたで ないている
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かあさん ぼくのを かしましょか
きみきみ このかさ さしたまえ
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

ぼくなら いいんだ かあさんの
おおきな じゃのめに はいってく
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

 雨の降る音、溜まった雨の水たまりを歩くの音、おかあさんといっしょにうれしく歩く心の表現が、雨に濡れてる友人への優しさもあり、躍動的であるのは画期的だったのです。ぽつぽつ、ぱらぱら、しとしと、こんこん、びしょびしょ、ざあざあ、ざーっつなどと言った擬音があるようですが、さすが白秋の「ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」は斬新で、動きがあって、さすがの詩人です。

1 雨がふります 雨がふる
遊びに行きたし 傘はなし
紅緒(べにお)の木履(かっこ)も 緒が切れた

2 雨がふります 雨がふる
いやでもお家で遊びましょう
千代紙折りましょう 疊みましょう

3 雨がふります 雨がふる
けんけん小雉子(こきじ)が今啼いた
小雉子も寒かろ 寂しかろ

4 雨がふります 雨がふる
お人形寢かせど まだ止まぬ
お線香花火も みな焚(た)いた

5 雨がふります 雨がふる
昼もふるふる 夜もふる
雨がふります 雨がふる

 これも、子どもの心があふれる様に表現されていて、水都の筑後柳川で育った白秋の感性は、抜きん出ているのです。童謡の作詞にも思いを向ける人でした。57歳で亡くなっていますが、まだ活躍できた詩人でした。

 山村暮鳥に「驟雨の詩」があります。

何だらう
あれは
さあさあと
竹やぶのあの音
雨だ
雨だ
おやもうやつてきた
ぽつぽつと大粒で
ああいい
ひさしぶりで
びつしより濡れる草木くさきだ
びつしよりぬれろ

三好達治にも「大阿蘇」があります。

雨の中に馬がたつてゐる
一頭二頭仔馬をまじへた馬の群れが 雨の中にたつてゐる
雨は蕭々しょうしょうと降つてゐる
馬は草をたべてゐる
尻尾も背中も鬣たてがみも ぐつしよりと濡れそぼつて
彼らは草をたべてゐる
草をたべてゐる
あるものはまた草もたべずに きよとんとしてうなじを垂れてたつてゐる
雨は降つてゐる 蕭々と降つてゐる
山は煙をあげてゐる
中岳の頂きから うすら黄ろい 重つ苦しい噴煙が濛々とあがつてゐる
空いちめんの雨雲と
やがてそれはけぢめもなしにつづいてゐる
馬は草をたべてゐる
艸千里浜くさせんりはまのとある丘の
雨に洗はれた青草を 彼らはいつしんにたべてゐる
たべてゐる
彼らはそこにみんな静かにたつてゐる
ぐつしよりと雨に濡れて いつまでもひとつところに 彼らは静かに集つてゐる
もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう
雨が降つてゐる 雨が降つてゐる
雨は蕭々と降つてゐる

室生犀星の「雨の詩」です。

雨は愛のやうなものだ

それがひもすがら降り注いでゐた

人はこの雨を悲しさうに

すこしばかりの青もの畑を

次第に濡らしてゆくのを眺めてゐた

雨はいつもありのままの姿と

あれらの寂しい降りやうを

そのまま人の心にうつしてゐた

人人の優秀なたましひ等は

悲しさうに少しつかれて

いつまでも永い間うち沈んでゐた

永い間雨をしみじみと眺めてゐた

雨は愛のやうなもの・・・・・・

 室生犀星は 、こんな言葉で、雨を謳ったのです。万物の命を支えて行く務めを託された雨をです。雨の日は、晴れの日とは違った趣があるのです。

 ジーン・ケリーが歌った「雨に唄えば(Singin’ in the Rain)」が流行っていた時期がありました。映画化され、musical の傑作で、《よきアメリカ》の象徴の様な映画と歌でした。健全なアメリカの時代でした。

I’m singing in the rain
Just singing in the rain
What a glorious feelin’
I’m happy again

僕は歌う 雨の中で
ただ歌う 雨の中で
なんて素敵な気分
幸せがこみあげる

I’m laughing at clouds
So dark up above
The sun’s in my heart
And I’m ready for love

雲を見て笑ってる
頭上の暗い雲を
太陽は僕の心にあるのさ
愛する準備はできてる

Let the stormy clouds chase
Everyone from the place
Come on with the rain
I’ve a smile on my face

嵐の雲よついて来い
みんなここへ来い
雨も来ればいい
僕はずっと笑顔さ

I walk down the lane
With a happy refrain
Just singin’,
Singin’ in the rain

僕は通りを歩く
幸せをかみしめて
ただ歌いながら
雨の中 歌いながら

Dancin’ in the rain
Dee-ah dee-ah dee-ah
Dee-ah dee-ah dee-ah
I’m happy again!
I’m singin’ and dancin’ in the rain!

雨の中 踊りながら
また幸せがこみあげる
歌い踊る 雨の中を!

 聖書のホセア書に、 『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」 (ホセア6章3節)』とあります。雨を待ち望む強い思いが記されてあります。「後の雨」は、パレスチナの地では、12月から、2月に降るのだそうです。今春、ここ北関東平野では、例年になく雨が多かったのですが、自然界では祝福の雨なのです。間もなく梅雨明けになるでしょうか。

(“ウイキペディア”の雷です)

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聞いてたのと違って(転載記事)

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 中国のSNS・小紅書(RED)に1日、「初めて日本に行って私が最も衝撃を受けたのは、実は清潔さではない」との手記が投稿された。以下はその概要。

 日本に行く前から「日本は清潔」「日本は秩序がある」「日本はサービスが良い」という話は何度も聞いていた。だから、これらの点は予期していた。本当に衝撃を受けたのは、言葉ではなかなか表現しづらい感覚だ。後に、長いこと考えて分かったが、それは「境界感(他人との距離感)」だった。

 私は典型的なHSP気質(感受性が強く敏感な気質)で、性格診断でも何度もISTJ(管理者型。内向的でルールや計画を重視するタイプ)という結果が出ている。どういう意味かと言えば、私は周囲の細かな変化にとても敏感だということだ。

 人の話し方、その場の雰囲気、周囲の人の感情、そしてその空間の秩序。多くの場合、こうした感知能力は長所と言われるが、これはものすごく疲れるものでもある。脳が本当にリラックスできる瞬間がないからだ。常に周囲を観察してしまう。

 だから、初めて日本に行った時に最も意外に感じたのは観光地ではなく、あの絶妙な「心が緩む」感覚だった。電車の中は静かで、街中でも大声で騒ぐ人はほとんどいない。列に並ぶ人たちは互いに押し合うことはなく、コンビニの店員は礼儀正しくも必要以上に距離を詰めてこない。

 みんなが当然のように、「他人の空間にむやみに踏み込まない」という共通認識を持っているかのようだ。HSP気質の私には、その感覚がとても強く伝わってきた。その時、初めて気付いた。秩序は効率だけではなく、安心感ももたらすのだと。長い間緊張し続けてきた人間の神経を、少しずつほどいてくれるものなのだと。

 なぜ何度も日本を訪れるのか。日本では人間関係の雑音に振り回されることがない。無理な付き合いをしなくてもいい。常に相手の複雑な感情を読み取ろうとしなくていい。静かに歩き、静かに食事をし、静かにこの世界を眺めることができる。HSP気質のISTJである私にとって、その感覚は本当に貴重なものだ。

 

 「どうしていつも日本へ行くの?」とよく聞かれる。私はようやくその答えが分かった気がする。私が好きなのは日本そのものだけではなく、そこで少し肩の力を抜くことができる自分自身なのだ。」(Record China 翻訳・編集/北田)

(日本人教会の天井の紋様です)

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“おお!キャロル”を思い出して

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 “ Memories of departed days ”は、「懐かし去りにし日々」と言ってよいのでしょうか。耳なのか心の奥なのか、日本中を折檻したかのような、アメリカンな音楽のこだまが聞こえてきて、歌い出しの部分が、鳴り響く時があります。あの頃の賑やかさは、昭和文化そのものなのでしょう。

 1950年台の終わりころからでしょう、コニー・フランシスが、「Pretty little girl(可愛いベイビー)」、「Vacation(ヴァケーション)」、ニール・セダカが、「oh !Carol(おお!キャロル)」、「Calendar girl(カレンダー・ガール)」、「Happy birth day sixteen(すてきな16才)」、「One way ticket(恋の片道切符)」、またポール・アンカが「oh!Diana」、「You are my Destiny(君は我が運命)」などを歌って、ラジオやテレビから、しっきりなしで聞きえてきたのです。

 ちょうど中学から高校時代でしたから、いっぺんに日本の若者を虜にしたのです。アメリカで大流行したポップ・ミュージックの波が、日本に上陸して、多くの若い歌手が翻訳版の和製のポップスを歌い、一時代を作り出しました。やがて名作曲家になる平尾昌晃が、女の子の名で、「ミヨちゃん」を歌ったのも、その流れだったのではないかなあと思っています。運動部の先輩が、当時、この替え歌を歌っていたのです。

 映画ばかりではなく、音楽の世界の流行の波は、日本ばかりではなく、アジアもヨーロッパもアフリカも、大かぶりした時代でした。家内は、そう言った流行に疎かったのだそうですが、お兄さんやお姉さんたちが夢中になっていたそうで、自分が歌っていたの聞いたら、聞き覚えがあると言っていました。

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 今年2月、そのニール・セダカが亡くなっていたのを、最近、知りました。金星のように、あの時輝いていたスターが、人生の一幕を下ろしたのです。音楽業界が、生き残るために、流行を作るのでしょう。日本中で電子ギターが鳴り響いた時期もありました。「Rockabilly(ロカビリー)」で、野球小僧のすぐ上の兄も、新宿のABCだかACBと言った喫茶店に出入りしていた時期があったようです。

 日劇(日本劇場)が、有楽町にあって、日本中から若者を集めて賑やかだったのを覚えています。スターもステージも劇場も消えてしまうのは、じつに寂しいものです。自分の子どもたちの時代は、グループ・サウンズで、少年たちが5、6人と、舞台の上で踊り走りまくっていた時代がありました。その後発で、女子組が何十と言うほど作られていました。

 ところが問題を起こしたり、解散したりで、その流行も終わっていったのです。何だか大人たちのお金儲けに利用されていたのではないでしょうか。いつの世も同じなのでしょう、マグマのような動きが世界中を占席巻し、沈静化していく、そのことの繰り返しなのです。

 スターたちが亡くなっていくニュースは、青春が霧のように消えていくように感じてしまうのですが、どの時代にもスターや、英雄が必要なのでしょう。自分が果たし得なかった夢を、目に見せ、耳に聞かせてくれて、その代替の活躍を、心で満足するのでしょう。きっと、夢中になって白球を追い、投げ、打った野球小僧たちが、今日日、Los Angeles Dodgersで、大谷翔平が夢を叶えてくれてると思うに違いありません。

(“ウイキペディア”のセダカ、セダカの出身のブルックリンの区の花のレンギョウです)

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