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秋の朝を迎えて、朝顔も秋桜も、その陽を受けて輝いています。きっと新しい期待と新しい命とを喜んでいるのでしょう。盛りの頃に比べて、朝顔の咲く数は少なくなりましたが、それでも今朝は11輪もが、グロリーの花弁で、ほめたたえている様です。好い一週をお過ごしください。
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心
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戦後史の中で、驚いたことは、「あさま山荘事件」でした。『ここまでやるか!』、人としての限界を超えて、思想や主義主張のために、人が、これほど残忍になれるのかと思い、同世代の暴挙に驚いたのです。集団の持っている怖さは、ドイツのナチスのしたことで、人は学んだのですが,〈集団心理〉が煽られると、良心とか平常心が麻痺するのか、消えてしまうのか、悲惨な結果を残します。
これは、1972年2月19日から2月20日にわたって、軽井沢にあった、河合楽器の保養所であった「あさま山荘」に、反政府集団の過激派、「連合赤軍」が、人質をとって立てこもり、警視庁機動隊と長野県警と起こした事件でした。5人の犯人が手にしていた銃は、ここ栃木県真岡市の銃砲店から強奪されたものでした。
この様な犯罪者集団は、一致することなく、内部から崩壊して行くのが常です。権力闘争とリンチや粛清が繰り返され、疑心暗鬼に陥るので、社会の変革や革命以前に、内側から壊れ、崩れて行くのです。寝布団の中から、『洟(はな)をかむティッシュを取ってくれ!』と言った仲間を、〈資本主義的行為〉と言って殺してしまったと言う話を聞いたことがあります。それ以来、私は、人にものを頼むのに、気を使う様になりました。
60年安保闘争、70年安保闘争の中で、学生運動が過激化し、主導権争いをして、結局、このあさま山荘事件の後には、この種の革命運動は弱体化し、沈静化てしまいました。いまだに実行犯は指名手配中なのです。
1970年の2月だったでしょうか、ある学校から招聘されて、教師に採用されることになり、卒業証明書と成績証明書が必要になったのです。それで卒業した学校の学事課に行ったことがありました。都電通りから入った正門が、バラ線で巻かれていて、30センチほど空いていた正門をくぐった時、とても悲しい思いをしたのを覚えています。自分の麗しい過去が、トゲトゲの鉄条網で縛り付けられた様に感じたからです。
穏健な雰囲気を校風にした母校も、学生運動の火の粉を被って、殺伐とされていたのです。何も生み出さない暴力によっては、解決はきません。たとえ暴力で、彼らの目的が達成されても、やがて、〈時〉が来ると、同じ暴力で打ち壊されるのが常なのです。心の中に平和がない限り、平和は向こうからはやって来ません。
(浅間山です)
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乾いたパン
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戦後史の中で、驚いたことの一つは、「ベルリンの壁の崩壊」でした。〈寝耳に水〉と言うほどの出来事だったのです。欧州戦争が終わったあと、ドイツは、1949年5月に東西に分割され、ベルリンも西と東に分けられ、ソヴィエトとアメリカとの統治が始まりました。一国が分断されると言うことは悲劇でした。同じ様に、朝鮮戦争も38度線を境に、南北に分断され、ソヴィエトとアメリカの二大勢力の支配下に置かれたのです。
中国も中華人民共和国と中華民国とに分断され、日本も南北分断の危機があったのですが、それを免れたわけです。そう言った戦後史の中、突然(もちろんそこに至る予兆や前触れはあったのですが)、1989年11月9日に、ベルリンの壁が崩壊したと言うニュースを聞いて、驚かされたのです。
壁によじ登った市民たちの手にあるツルハシが、壁をうち砕いている映像が、テレビに映し出されたのです。これを契機に、東ヨーロッパ諸国が共産党支配から、連鎖反応の様にして抜け出して行ったのです。ルーマニヤのチャウセスク独裁政権が終わって、この夫婦の死体が、テレビで放映されていたのには、驚かされたてしまいました。
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歴史の出来事には、《定められた時》があるかの様です。その《時》が来ると、怒涛の様な渦の中で大きな変革がもたらされるのです。現在も、国際紛争が、あちらこちらにあります。民族と民族の戦いも、一向に止みません。〈いけない〉と分かりながらも、振り上げた手を下ろそうとしない、積年の遺恨が双方にあって、蒸し返してきています。
《世界平和》が、絵に描いた餅の様に、空虚な叫び声が、上がっては消えて行くのです。一番の懸念は、〈愛の冷却現象〉です。夫婦、親子、親族近親、友人関係が、利害関係の損得が大きな部分を占めて、犠牲とか我慢とかが消えてしまっています。憎悪や遺恨が心を一杯にさせ、愛が冷えてしまっているのです。そう言った人たちが、街にも国にも溢れています。
本来の愛は、大水をもってでも消せないはずなのに、冷却から抹消、暴力や殺人になってしまっています。動物は生きるために狩りをしますが、それ以上には至りません。「殺してはならない」と言う不文律を犯して、それが人類に入り込んだ日から、どれほどの血が流されてきているでしょうか。禁止の一線を超えてしまってから、土地は人の地を吸って、血が叫び続けています。
安心して帰って行ける家庭の回復を、子どもにも、大人にも、その必要が迫られています。私の愛読書に、
「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」
とあります。一切れの乾いたパンを分け合って食べる家族関係の回復です。お腹が満腹にならなくても、心が、《思いやり》や《同情》や《優しさ》で溢れていた方が、人は幸せなのです。これは《原理》です。家も地域も街も国家も、肥え太って憎しむよりも、大切なものがあるからです。
霜降りの牛肉を、お腹いっぱい食べるよりも、優ったことに目を向けて行くなら、「平和」は来ます。必ず来ます。一人、一軒、一国でいいから、そこから始めたらいいのです。そして《今》始めたらいいのです。冷却や憎悪の壁を、ツルハシで砕くのです。
雨蛙
竹
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筍には、「孟宗竹(もうそうだけ)」とか「淡竹(はちく)」とか「真竹(まだけ)」とかの種類があります。春先に、八百屋の店頭に並んで、私たち日本人が食用にしてきたのは、「孟宗竹」です。春の味覚でしょうか、八百屋さんから買って帰って、米のとぎ汁で茹でると、えぐみが取れて、薄醤油で鰹節の出汁で、母がよく煮てくれました。
「淡竹」というのは、真竹が出回ってから、しばらくして採れる筍です。中国の華南は、竹林が、そこかしこにあって、春先になると、芽を出す筍を、私たち日本人と同じように食用にします。珍しいのは、「干笋gunsun /乾燥筍」です。前の家の大家さんは、私たちの街から4時間ほどの地方の出身で、毎年、ふるさとから送ってくるそうで、調理がなかなか難しいのですが、その干笋を毎年頂くのでした。
竹とか筍と言えば、「破竹の勢い」と言う言葉があります。その意味を、“ 大辞林 ” には、『〔北史 周高祖紀〕竹は一節を割ればあとは一直線に割れることから、物事の勢いが激しく、とどめることができないさまをいう。 「 -で勝ち進む」』とあります。
また『若竹の様にのびのびと育つ!』と、ずんずん背が伸び、心が広げられる様子を表現したりします。病院の待合室で座って待っていると、診療科にもよりますが、〈内科〉での一番多い年齢層は、私たちと同世代の年配者です。罹病率が年齢とともに高くなるからでしょうか。そこで〈人間観察〉をしていると、50、60、70年も前には、『この方は、「若竹」の様にしなやかで、「破竹の勢い」の年月があったのだろう!』と思ってしまうのです。
かく言う私も、青年期には、10キロを走っても、なんでもない顔をしていたのに、今では、バスに乗ろうとして、5mも走るると、ゼイゼイしてしまっています。『青年老い易く!』、まさにその如くの今です。
長持ちするフィラメントを作るため、さまざまな素材をためしていたエジソンの元に、ある時、中国土産の「扇子」が届きました。竹製だったのです。閃いたエジソンが、その竹で、「フィラメント」を作りました。すると、200時間も光り続ける白熱電球ができあがったのです。
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色々な竹を手に入れては、実験を重ねて、ついに、日本の京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に生えていた「八幡竹」を手に入れてフィラメントを作ると、1200時間もの間、灯り続けたのです。そのフィラメントによって、白熱電球が実用化されます。
破竹の勢いにはほど遠く、弛みない努力と実験の結果、エジソンは、夜の暗闇を明るくする白熱電球を発明したのです。今では、LEDの電球が発明されて、驚くほどの寿命を持ったものが誕生しています。
また、気っ風の良さをいうのでしょうか、「竹を割ったよう(竹が真っ直ぐに割れることから)」なと言います。気性がまっすぐなこと。素直で、悪いことのできない性格のたとえ。「唐竹を割った様な」とも言う様です。そんな気っ風は、節(ふし)だらけの自分の憧れでもあったのですが。
(京都の「八幡竹」の竹林、エジソンの竹の炭素電球です)
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コラボ
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雷雨の日が続いたのですが、抜ける様な秋の様な空を、今朝は見せています。その陽を浴びて、ハイビスカスの真紅と朝顔の淡い桃色がコラボしています。今朝の気温は23℃、湿度が感じられずに爽やかです。美味しい葡萄や豊水の梨、つがるのリンゴ、オーストラリアのオレンジ、お土産で冷蔵庫は溢れています。薩摩芋や里芋やミョウガやアスパラガスやトマトやキュウリ、まさに《味覚の秋》《食欲の秋》です。
もう少し、文化的でなくてはなりませんので、《読書に秋》や《名画鑑賞の秋》や《名曲に耳を傾ける秋》だと、もっと秋っぽく感じることでしょう。そう《行楽の秋》もいいですね。こんな歌が聞こえてきそうです。
1 だれかさんが だれかさんが
だれかさんがみつけた
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋みつけた
目かくしおにさん 手のなるほうへ
すましたお耳に かすかにしみた
呼んでる口笛 もずの声
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋みつけた
2 だれかさんが だれかさんが
だれかさんがみつけた
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋みつけた
お部屋は北向き 曇りのガラス
うつろな目の色 溶かしたミルク
わずかなすきから 秋の風
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋みつけた
3 だれかさんが だれかさんが
だれかさんがみつけた
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋みつけた
むかしのむかしの 風見の鶏 (とり) の
ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ
はぜの葉赤くて 入り日色
ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋みつけた
「ちいさい秋」も大きな秋も、もう始まっているのでしょうか。北の方に鎮座する「男体山」にも、一度登ってみたいものです。そう《スポーツの秋》でもあります。
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らいさま
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ここ栃木県では、雷を「雷様(らいさま)」と呼ぶのだそうです。気象庁宇都宮気象台のホームページに、次のような記事があります。
「栃木県は日本でも有数の雷の多い県です。北部が1000~2000m級の山岳部となっており、南東方向に山の斜面が開いているため、日射を強く受けます。さらに夏季は南よりの風が吹きやすいため、強い上昇気流がおこり雷が発生します。宇都宮の年間の雷日数は24.8日で、関東地方では一番多くなっています。暖候期(4月~9月)に限ってみると、宇都宮の雷日数の平年値は22.6日で、全国で一番多くなっています。」
栃木県民、栃木市民になって5ヶ月、そういえば、春頃から、雷が多いのです。「雷都」とか「雷の銀座通り」と言われる所以が分かるほどです。私は、光、音、雨をもたらす、「地震」の次に〈怖いものリスト」のに挙げられる《雷》が好きなので、『よかったなー!』と思っているところです。
今年の夏は、華南の街で過ごしませんでしたので、大陸の大空に轟き渡る〈雷鳴〉、東西南北に矢のように走る〈雷光〉、車軸を流すような〈雷雨〉を、ここでは経験しませんでしたが、とりわけ昨晩の雷は、華南の街のものを彷彿とさせるほどでした。子守唄のように雷鳴を聞き、窓に映る雷光を影絵のように見ながら、眠ってしまいました。
雷で思い出す人が二人います。一人は、教え子の中に、「雷Lei」と言う姓の教え子がいました。少数民族なのだそうで、時々居眠りを授業中にしてたのです。もう一人は、ベンジャミン・フランクリンです。雷の中に、タコをげて、雷を化学的に解明し、研究したのだと、小学校の時に教えられました。
俳句の世界では、「春の季語」で、よく詠まれている様です。次の雷は何時か、待ちの望むほどの私です。そこで一句、
安達太良の雷火に幾度通ひけむ 前田普羅
春の到来、夏の終わりを告げる雷、冬に立って響き渡る《潔さ》が、なんともいえず好きなのです。
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アリラン
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大韓民国の大統領を、第五代から第九代までを務めた朴正煕大統領は、ご自分の半生、とくに日本との関わりを、次のように述べていました。
『日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命 令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さ らに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割り と公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している。 』
これほど、親日の思いを込めた子供時代や青年期の過去を語る人が、以前はいたのです。1974年の8月、友人と私はソウルにいました。ちょうど、長い日本統治から解放されたことを祝う「光復節」が、国立劇場で開催されていた時でした。私は漢江の河川敷にあった、ヨイド広場で、その時期に行われていた「世界大会」に参加していました。光復節とは無関係なものだったのです。
その光復節の式典が行われていた最中、その朴大統領が、狙撃され、奥様が亡くなられるという事件が起こったのです。犯人が、日本人ということで、友人と私は宿舎のホテル(ユースホステルでした)から、危険だということで外出禁止になりました。犯人は日本人ではなく、北朝鮮から送られた工作員でした。
そんな突然の出来事のあった真夏を、朝鮮半島で過ごしたのです。バスに乗車した時に、一人の青年が、日本人だと分かって、『あなたのバス代を払わせて下さいますか?』と英語で語りかけてこられたのです。一旦はお断りしたのですが、重ねて言われたので、そのご好意を受けることにしました。それで、すっかり私は朝鮮民族に好感を持ったのです。朝鮮民族の最も有名な歌に「アリラン」があります。
アリラン アリラン アラリよ
アリラン峠を越えて行く
私を捨てて行かれる方は、
十里も行けずに足が痛む。
アリラン アリラン アラリよ
アリラン峠を越えて行く
青い空には小さな星も多く、
我々の胸には夢も多い。
アリラン アリラン アラリよ
アリラン峠を越えて行く
あそこのあの山が白頭山なんだね
冬至師走でも花ばかり咲く
学校の同級生にも、私の所属した街中の倶楽部にも、在日コリアンの方がおいでで、とても素晴らしい方たちでした。私の事務所に出入りしていた方の中にも、日本に働きに来ておられる方がいて、〈キムチ〉の作り方まで教えていただいたことがあったのです。文化的にも心情的にも、日韓は最も深いつながりがあります。良き関係の回復を切望する残暑の昼前です。
(白頭山に全景です)
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日韓中の今昔
葡萄
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先日、古い友人たち、家内の妹から葡萄が届きました。大陸で過ごしてきましたので、夏場の帰国が、十数年の間ありませんでした。それで、国産の葡萄を口にすることがありませんでした。新疆などで採れたものや、同じ省の北の方で取れたものは、もらったり買ったりで食べて、結構美味しいのです。
離乳食がたべられる様になった頃から、父は、私に葡萄を買っては食べさせてくれていました。東京に越した時に、父は苗をいただいて、それを庭に植えて、あまり手入れはしなかったのに、何年もの間、摘み取っては食べることもできました。
そう言えば、毎年、秋になると、父宛に、ソルダムやメロンや葡萄などが送られてきていました。今年は、国内に戻っている家内と私のために、葡萄が送っていただいたのです。無くなったら、送ってくるというのがよいのですが、時期的に重なってしまいました。三軒の方からの寄贈の葡萄は、二人では食べきれないので、あちこちと配ることができてよかった!
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それでも余ってしまい、先日の温泉旅行に、みんなで食べようと持参したり、冷凍庫に入れて、真冬になったら、暖房の中で食べるようにしてあります。それまで残っているでしょうか。そんなことを書いて来ましたら、昨日、懐かしい方から、“ シャイン・マスカット ” が一箱送られて来ました。高級種の葡萄で、しかもこの友人の弟さんが精魂込めて育てた、最高のできの葡萄なのです。
ちょうど来客中でしたので、みなさんに「おすそ分け」をしました。『これって、キロ◯◯円はしまね!』と一人の方が言っていました。土曜日には、中国から娘連れでお父さんが、友人夫妻とお嬢さんの運転で、お見舞いにきてくれました。信じられないほどの愛を示してくれました。今闘病中の家内はみなさんから愛され、支えられ、励まされています。
(巨峰とシャンマスカットです)
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