衣替え

 

 

今日から「六月」、陰暦ですと「水無月」、英語ですと “June” です。娘が送ってくれた家内の外出用の帽子、帽子マニアの私はドウイッツユアーセルフの店で買った麦わら帽子で、散歩を決め込んでいます。懐かしい「蚊取り線香」も、玄関用に買い置きして、夏の準備を滞りなく終えています。

今日からは、「衣替え」ですね。もうすでに〈Tシャツ〉姿になっていまが、学生のみなさんは、夏服に替わります。中学に入った年、霜降りの夏用w.制服を初めて着たのです。よその通学生と違っていて、ちょっときまり悪かったのを思い出します。

また「梅雨」に入る月でもあります。ジメジメしますが、これがあったればこそ、お米が育つわけです。

 

 

今朝咲きし  くちなしの又白きこと

これは、星野立子、高浜虚子のお嬢さんで、女性の俳人の作です。そういえば、前に住んでいた、華南の街の小区の正門を入って、幼稚園の地境の間に、くちなしの花が、実に綺麗に咲き、芳香を漂わせていました。山の避暑地の村に行くと、紫陽花も咲いていました。

 

手を開く

 

 

イスラエル民族に、次の様な掟があります。

「国のうちにいるあなたの兄弟の・・・貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。(申命記15章11節)」

人は、様々な理由で貧しくなり、貧しくされます。小学校の同級生に、Nくんがいました。年齢は2才上でしたが、就学時期が遅れて、同級でした。同年齢の弟は二級下にいました。この二人は、寄り添う様に登校して来たのですが、雨の日には、破れた番傘を二人でさしていました。やがて休む様になったのです。雨傘が使えなくなったからです。それに彼らの家を、近所の悪戯小僧たちが、〈オランダ屋敷〉と呼んでいました。

「赤い花なら曼珠沙華・・・」で始まる「長崎物語」は昭和14年の作曲でしたが、人気があったのか、昭和30年代頃まで歌われてました。この歌は、作詞が梅木三郎、作曲が佐々木俊一でした。よくラジオから流れていました。

1 赤い花なら 曼珠沙華(マンジュシャゲ)
阿蘭陀(オランダ)屋敷に 雨が降る
濡れて泣いてる じゃがたらお春
未練な出船の あゝ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る

2  うつす月影 彩玻璃(いろガラス)
父は異国の 人ゆえに
金の十字架 心に抱けど
乙女盛りを あゝ曇り勝ち
ララ曇り勝ち

3  坂の長崎 石畳
南京煙火(はなび)に 日が暮れて
そぞろ恋しい 出島の沖に
母の精霊が あゝ流れ行く
ララ流れ行く

4  平戸離れて 幾百里
つづる文さえ つくものを
なぜに帰らぬ じゃがたらお春
サンタクルスの あゝ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る

一番の歌詞に、「阿蘭陀(オランダ)屋敷に 雨が降る」とありましたので、〈雨漏りのする家」という意味で、ボロ長屋に住んでいたから、からかいの意味でそう言っていました。私の生涯に出会った方の中では、このNくんが一番貧しかったのです。悪戯をして、彼も含めて4、5人で立たされた時、私の提案で、ポケットの小銭を出し合って、〈Nくんのカンパ(援助)〉をしたのです。

 国民同士の連帯感の強さは、イスラエルが筆頭でしょうか。それは、「掟」で、《弱者救済》を民族として定めて、実行して来たからです。今はどういう割合か知りませんが、世界の食糧事情は、三分の一が〈丁度よく〉、三分の一が〈有りあまり〉、三分の一が〈貧困〉だと言われていました。21世紀の今も、そう変わりがなさそうです。

 申命記のみことばの「手を開く」は、英語では、“Thou shalt open thine hand wide unto thy brother,to thy poor,”と訳されています。『持ち物や財産を握り締めていてはいけない!』という意味なのでしょう。『周りにいる社会的弱者と共に生きよう!』という命令なのです。

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星の王子さま

 

 

“Le Petit Prince”、これはフランス語でして、その翻訳は、「星の王子さま」の書名です。有名な作品で、日本でも多くの読者を持っています。フランス人の飛行士・小説家である、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの著した小説です。

1943年に出版されています。その小説の内容は、サハラ砂漠に不時着した飛行機の操縦士が、砂漠で一人の男の子に出会います。その男の子が、「星の王子さま」だったのです。王子さまは操縦士に、自分が生まれた星のことや、色々な星を旅したときの話をします。二人は8日間一緒に過ごして、絆を深めていくのです。

私が、第二外国語に、「フランス語」を選択した時、その教科書が、この“Le Petit Prince”でした。ところが、“Je vous aime.(親密な人には“Je t’aime.“)、”bonjour.“しか覚えていないのです。50年以上経ってしまい、一度もフランス人の恋人や友人を持ったことがありませんので、使う機会が全くなかったわけです。

皇后の雅子さまは、このフランス語と英語に堪能だとお聞きして、素晴らしいなと思ったのです。雅子さまは、外務省の外交官のお仕事をしておられて、将来、女性で初めての「外務事務次官」になられる様に期待されておいでだったそうです。でも結婚を選ばれて、皇族となられたわけです。

国際間の平和を構築していくために、外交努力が必要とされています。この分野で、ご活躍されるのを、心から期待し、そのためにお用いになられる様にと、北関東の地から願っているところです。

「一番大切なものは目に見えない(L’essentiel est invisible pour les yeux.)」

この小説で、この言葉が一番印象深く、王子さまが星に帰る時に、主人公の「僕」に伝えた言葉です。多くの大人が、《子どもの心》を失ってしまっていることに、警告を与える意味で、語っているのです。その「星の王子さま」と「僕(狐)」やりとりは、次の様です(日本語訳)。

「さようなら」王子さまは言った・・・
「さようなら」キツネが言った。
「じゃあ秘密を教えるよ。
とてもかんたんなことだ。
ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。
「いちばんたいせつなことは、目に見えない」
忘れないでいるために、王子さまは繰り返した。
「きみのバラをかけがいのないものにしたのは、きみが、バラにために費やしたじかんだったんだ。
「ぼくが、バラのために費やした時間・・・」
忘れないでいるために、王子さまはくり返した。
「人間たちは、こういう真理を忘れてしまった」キツネは言った。
「でも、きみは忘れちゃいけない。
きみは、なつかせたもの、絆を結んだものには、永遠に責任を持つんだ。
きみは、きみのバラに、責任がある・・・」
「ぼくは、ぼくのバラに、責任がある・・・」
忘れないでいるために、王子さまはくり返した。

《子どもの心》を持ち続けることや、《真理を忘れないこと》などは、この時代に生きる私たちにとって、とても大切なことなのでしょう。

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人と時と野菜

 

 

 『あなたの好きな果物は?』と聞かれて、まっさきに『榴蓮(liulian)!』と答えてしまいます。日本語での呼び名を忘れてしまって、この「ドリアン」の中国名が、まず突いて出てきてしまうほどに好物になってしまいました。

  何時でしたか、日本のスーパーで、〈5000円〉という値で売っていたのを見て驚かされたものですが、華南の街では、熟したものを小分けのパックにして、スーパーの店頭で売っているのが、日本円に換算すると、200円ほどになるでしょうか。時々買いますし、わたしの好物だと知っている友人が、3パックも買ってきてくれたことがありました。「堪能」とは、その時の私の正直な満足さを表すのに最適なことばだったと思います。家内も、《果物の王様》に目がなくなってきております。

 その家内の好物ですが、八百屋さんの符牒で「バカ」と言われている「茗荷(みょうが)」なのです。私にしては実に妙な好物だと、訝しく思ってしまうのですが、こればかりは、舌で感じて満足するのですから、文句のつけようがありません。『食べ過ぎると物忘れをしやすくなるのです!』と言われて、そんな符牒になったのだそうですが。

この茗荷ができると、庭先の菜園に出ては収穫し、お嬢さんに託して、何度も届けてくださったのがE子さんでした。戦前、北京で兵隊さん向けの日本食堂を営んでおられ、敗戦の混乱の中、幼い子どもたちを連れて帰国され、女手一つで育てられた、「女丈夫」でした。

 

 

終戦時に0歳児だった次男・正人さんが、私と同年同月の生まれで、1つ2つの沢違いの村で、互いに育ったのです。彼のお兄さんはお母様の期待の星で、親孝行だったのですが、大学を出られて間もなく召されてしまい、それを契機に、ある新興宗教の篤信な信徒となられたのです。このE子さんは、自分の部落に布教して、多くの人たちを、その信徒にしてしまうほどの大きな影響力をもっておいででした。

ところが、不思議な出会いを通して、彼女はその宗教団体とはっきりと決別してしまわれたのです。この彼女の次男が、大怪我で入院し、治療されていた病院の病室に、腱板断裂の怪我で手術し入院たのが、私でした。そんなこんなで、彼女は私の家内の好物・茗荷を、夏先になると毎年のように届けてくださったのです。それを頂いた彼女は、目を細めて、喜んでいました。

 9年ほど前になりますが、長男から、『E子さんが、召されたと連絡がありました!』とメールがありました。走馬灯のようにと言うのが一番でしょうか、彼女との出会いから、その後の行き来した交わりのことが、思いの中を駆け巡っております。

  好きではなかった茗荷を、素麺の麺つゆの中に、薬味として入れるようになった私ですが、あの茗荷のほのかな香りがしてくるようです。中国華南の街の八百屋さんの店頭では、ついぞ見掛けなかったのですが、こちらのスーパーには山盛りで売られていて、家内の素麺の薬味に、毎昼食、膳にのるのです。この季節になると思い出す人と時と野菜です。

(E子さんの家の近くの「湧水」です)

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flex

 

 

わが家の台所兼食堂の窓を開けると、150メートルほどの所に高校の校舎が見えます。県立高校で、この地域の〈災害避難所〉に指定されています。時々、その学校の脇を通るのです。昔の校舎と違って、授業の様子が、漏れ聞こえてくることがない、鉄筋の校舎です。

先日、その校舎の陰の小川の流れ、ちょうど学校から死角になっている個所で、私服の若者が、棒に紐をつけて回して遊んでいました。また、遅刻に違いない学生が、お母さんの運転する車で送られて、裏の校門を入って行くのを見てしまいました。風邪でも引いて、病院に行っての帰りなのかと思ってみたのですが。

ところが、どうも自由登下校の学校なのだと、友人のご夫人から聞いたのです。それで、学校のホームページを開いて見ました。この高校は、次に様に紹介されています。

《フレックス・ハイスクールです  

フレックス制とはライフスタイルに応じて、学校で学習する時間帯を選択できるしくみのことをいいます。学悠館では定時制課程Ⅰ部(午前の部)・Ⅱ部(午後の部)・Ⅲ部(夜間の部)の3コースに加え、通信制課程も併設しています。

《単位制高校です》  

・約100科目・380講座の授業の中から、自分の進路選択に合わせた時間割を作成します。

・3年以上在学し、74単位以上を修得すると卒業できます。

・転入学、編入学制度があります。以前に在籍していた高校の修得単位が活かせます。

・学外での活動や学んだこと(留学・大学等での学修など)、各種検定試験への積極的な取り組みが、単位として認定されます。広い視点に立って、学びに挑戦できます。

それで、抜け出して遊んでいたり、遅刻していると思った私の思いとは違っていたのです。新しい形の教育をしていることを知って、納得したのです。自分が受けた教育とは違った形で、今では高校教育が行われているのを知って、なんだか嬉しくなってしまったのです。

一般人を対象に、「公開講座」も行なっているそうで、J大学やR大学で受講経験のある私は、来年、時間をとって、受講してみたいな、と思ったのです。校舎の死角の所で、旗振りなんかしたら面白そうです。おじいさんだって向学心があるんだと、奮起してみたくなったのです。

辛夷(こぶし)が咲き、桜、花水木と咲いてきた校庭脇を通りながら、《フレックス教育》をする学校があるのだということを知って、おざなりな教育だけでなく、学生の願いに呼応して学べるというのはいいことだ、そんな感想を持った次第です。

(昔の小学校の廊下です)

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学友

 

 

高校の悪戯仲間にK君がいました。世田谷から、京王線を下って通学してきて、3年間同級でした。所要があって上京中の定宿は、すぐ上の兄の家に決まっていたのですが、その友人の勧めで、その日、彼の家に泊めて貰ったのです。布団を敷いてくれた部屋に、彼の父君の写真を見つけて、彼の背景を初めて知ったのです。

高校時代に、何度か泊まったことがあったのですが、お母様と二人の母子家庭だったことは知っていました。その家は、その母君が再婚された後に、彼が新築したものでした。それを機に、彼は父君の遺品を引き受けたのでしょう。その時のKよりもずっと若く、軍服姿で、青年将校の凛々しい遺影でした。

その日、新宿で会って、一緒に食事をし、彼の行きつけの店でカラオケを歌いました。彼は、「上海帰りのリル」を歌っていたのです。きっとお父様は、中国大陸で戦死されたのでしょうか。あんなに切々として歌うKを、かつて見たことがありませんでした。

 

 

戦地に行かないで、軍需工場で働いていた父の三男として生まれ、両親の手で育まれてきた私には、「父無し子(ててなしご)」として過ごしてきた彼の心情を理解することが出来ませんでした。きっと、そんな父君を慕って、切なく慕わしく歌う彼の声に、思うこと複雑でした。

私たちがシンガポールに来るというので、長女が、NHKテレビの受信契約をしてくれていました。四六時中見ているのではなかったのですが、たまに、戦争中の様子や、戦後間もない頃の映像が流れていて、改めて、生きて来た時代を回顧し、考え直させられたりしていました。

そう言えば病弱で、学校を休むことの多かった私の枕元で、いつもラジオが鳴っていました。「名演奏家の時間」、『#地球の上に朝がくる。その裏側は夜だろう・・・』と川田晴久の歌う声、小説の朗読などが、微熱で気怠い私の耳に響いてきました。

そんなラジオ放送の中に、中国大陸から舞鶴に引揚船で帰って来た兵士の消息が、毎日聞こえてきたのです。『舞鶴って何処だろう?』、『帰ってくるお父さんを、待っている子どもたちが大勢いるんだ!』、そんなことを思っていたようです。その時に流れていたメロディーが、今でも耳の中で響きます。

父君に抱かれたり、叱られたり、遊んでもらった記憶や感覚を覚えていないKにとって、『戦後の年月はどうだったのだろう?』、彼だけではなく、母子家庭の同級生が何人もいましたから、『孫を抱いてるであろう彼らにとって、戦後とは何だったのか?』と思うこと仕切りです。『何時か帰ってきてくれる!』と、中国大陸に、また東南アジアに目を向けて、願い思った年月だったのでしょうか。

私が何度か、家内と訪ねたシンガポールも、戦争の爪痕の残る地ですし、友人の父君の亡くなったであろう中国大陸も。ラバウルもパラオもラングーンも、私たちが13年もの間住んだ大陸の街もです。平和な時代の直中を生きてきた私たちの世代にとって、それは大きな犠牲のあったことを語り継ぐ土地でもあります。

写真は「舞鶴湾(京都府)」です)

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棚田

 

 

この写真は、熊本県阿蘇郡産山村の田園風景です。阿蘇山の近くで、山の斜面に、田を開くという先人の流した汗の結晶、ここで収穫されるお米は、さぞかし美味しいことでしょう。中国にも同じ様な「棚田(扇状田)」があります(下の写真)が、雲南省に多く見られる様です。

私の家の南側に、田圃があって、そこに水が張られて、週末には田植えが終わっています。全国の津々浦々の田圃では、もう田植えの真っ盛りでしょうか。先ほど、その田圃を通りましたら、水田に青い空が写り、まさに《夏は来ぬ》です。作詞が井上赳、作曲が中山晋平で、「田植」と言う歌が、昭和17年に発表されました。

そろた 出そろた
さなえが そろた
植えよう 植えましょ
み国のために
米はたからだ たからの草を
植えりゃ こがねの花が咲く

そろた 出そろた
植え手も そろた
植えよう 植えましょ
み国のために
ことしゃほう年 穂(ほ)に穂が咲いて
みちの小草(こぐさ)も 米がなる

 

 

ちょっと戦時色の感じられる歌詞ですが、米は最も重要な穀物で、《白いマンマ》が食べられるのは、特権階級だけだった時代が長かったのです。かく言う我が家でも、スイトンやオジヤを時々食べました。だからみんなよく育ったのかも知れません。

うるさいのです。田圃のカエルの声です。これを聞いていると、睡眠導入剤の様に、眠りに引き込まれてしまうから不思議です。今日も熱射の予報が出ています。そう今夕は、〈スイトン〉でも食べることにしましょう。

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エアコン

 

 

山梨と長野の県境に位置する「八ヶ岳」を思い出しています。ここから吹き降りる風が、冬場は凍てつくほどに冷たいのです。ここから幾つか東に寄った沢の山村で生まれた私は、冬場の厳しい寒さに免疫ができているのでしょうか。また、盆地で、長く仕事をした私は、窯の中の様な暑さにも、耐えられ、寒暖の差の大きさの中で、生きる術(すべ)を身につけたのです。

私たちが12年過ごした華南の街も、夏場は、「窯(かま)」の中にいる様な暑い街でした。道端の水溜りに、寝そべって体を冷やしている犬を見たのは、驚きでした。あの水だって、けっこう水温が高かったのに、それでも体を冷やす必要を感じていたのでしょう。

今日の栃木は、32℃です。一昨日、壊れて長く使っていなかったエアコンを取り外して、新規に購入し、設置したばかりでした。〈滑り込みセーフ〉で、暑さ対策が完備しました。退職したお父様が、独立して電気工事店を開業されたご子息を助けて、実に息のあった工事を、しかも廉価で、丁寧にしてくださったのです。

工事現場でよく聞かされる、荒い言葉や叱りつける様な事がなく、淡々と、確実に仕事をされていました。私は、2時間ほどの工事の間、その仕事ぶりを見させて頂いたのです。念のため、監視していたのではありません。畑違いの現場を、ご子息の助手をされているお父様が、『偉かったなあ!』、と思った次第です。

 

 

後片付けを丁寧にされ、残したゴミはただの一片だけでした。それで、満足の行く仕事ができるのだと思わされました。お仕事の後、お茶を飲みながら談笑しました。以前、要請があって、中国の天津や貴州に、電気工事で出張されたことがあったそうで、日本の技術水準の高さや確かさを証しされたのでしょう。『近所の方が、水餃子を大量に作って、差し入れしてくれたほど好意的でした!』と中国のみなさんへの好印象を話されていました。これって民間外交ですね。

これで、梅雨と盛夏の日本の暑さの対策が整い、家内の自宅療養も万全です。長く働いた中部山岳の街の事務所の方たちが、家内へのお見舞いをくださいました。それを、エアコン購入と工事の費用に当てさせてもらったのです。感謝でいっぱいです。

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小江戸

 

 

江戸や明治の風情を今に伝える、栃木は、「蔵の街」と呼ばれ、落ち着いた街で、一昨年の初訪問の折に、家内も私もいっぺんに気に入ってしまいました。埼玉県の川越にも行ったことがありますが、少々観光地化が強くて、気忙しく感じたのですが、ほどほどの環境客の訪問で、ゆったりとした感じがいたします。時々欧米人の来訪も見受けられます。

日本には、「小京都」とか「小江戸(こえど)」と呼ばれる街が多く残されているのは、それぞれの街の努力と、戦災に遇わなかったため、焼失を免れたからでもあります。市民になった今は、ことさらに住みやすいのです。今日も、家内と一緒に、巴波川を渡って、旧市街の住宅街を歩いたのですが、つつましやかに住む人たちの姿を垣間見ることができました。

「倭町」、「城内町」、「惣社町」、「嘉右衛門町(かえもんちょう )」という町名も残っています。街中には、京の朝廷から遣わされた、東照宮参詣の使いが通った「例幣使街道(れいへいしかいどう)」が残されてあり、人や荷車が往来したのでしょうか、車社会以前の佇まいが残されていて、道沿いには、「銭湯」もあります。

旅人が休んだ茶店などもあったのでしょうか、そこで出された団子を思い出させるかの様に、和菓子屋さんが、何軒も残されていて、「嘉永」に創業したと看板が下げられた店も見受けられます。

昨日は、「草餅(よもぎの葉を練りこんだもの)」を、『お母さんの体に好いから!』と言っては、わざわざ新宿で買ってきてくれる下の息子に倣って、買ってみました。甘過ぎずに美味しかったのです。

まだ訪ねたことがないのですが、「佐原(千葉県香取市)」も、「小江戸」と呼ばれて、この佐原、川越、栃木の街では、〈小江戸サミット〉が行われているそうです。「江戸」の文化や趣味や遊びや粋(いき)なども、舟運でつないだ物や人の行き来で流入していたのでしょうか。〈小江戸・栃木〉には、喜多川歌麿の記念館があり、江戸に行っては、贅を尽くした船主や蔵主が、江戸で遊んだ名残なのでしょうか。

規模こそ違え、江戸の町並みを彷彿とさせた、川越や佐原や、ここ栃木は、かつては栄えた街だったのでしょう。文化の交流があったのに、〈江戸弁(言葉)〉の影響が少なく、江戸や東京に近かった割りに、福島弁に似た語尾が聞こえてきて、微笑ましいのです。

(友人が撮影して観る様にしてくださった写真です)

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旅人

 

 

今、寝心地の良いベッドを使っています。新品同様のものを、友人の息子さんが、用意してくれたのです。この方は、おばあさまのされていた事業を引き継がれて、堅牢な家具販売を、我が家の隣でされておいでなのです。大手の全国チェーン店や外国企業と伍して、励んでおられるのです。

先日、新規に注文が取れて、ベッドの配達に行かれ、引き上げて来たベッドが、まだ十二分に使えるとのことで、『いかがですか?』とのことで、頂戴したのです。これまで所帯をもった当初は、ソファー兼ベッドを使っていたのですが、その後は、畳の上に布団を敷き、畳むという生活パターンでした。

中国に参りましてからは、どこに住んでもベッドを使って来ました。『日本に帰ったら、また畳の上で!』と思っていた矢先のギフトだったのです。子どもの頃に、父は、4人の子の内、私にだけ「寝台」を用意してくれ、東京に越して来て、家の間取りが狭くなるまで、使っていたのです。それは大工さんに注文して作った特注品だったのです。

普通、長男か末っ子が父親の寵愛を受けるのに、三男の私が、その栄誉に浴したわけで、兄や弟には申し訳なかったかなと、今更に思うのです。甘やかされなかった兄たちや弟の方が、強めに育って、人生のバネも強固の様です。

先週も、キャスター付きの椅子を四脚頂いて、応接室に置くことができました。これで友人や兄や弟が座ることができそうです。スーツケース2個で帰国したのに、生活するための必要品が、与えられてほとんど不自由なしでいます。結局、人は〈寄留者〉で、〈旅人〉なのでしょう。

私たちの住む家は、友人の奥様のお母様が、ご主人を天に送ってから、お一人で生活されていた家ですから、その当時の手紙が、レターケースごと残っていたり、引き出しに裁縫道具などがあったりなのです。全てを残して、お母様も天に帰られたのです。

生きて行く上で必要な物って、結構わずかで好いのでしょう。およそ人は、余分な物を、持ち過ぎているに違いありません。ある方が、『貧乏な人ほど、多くの物を持つ!』と言っていました。合理主義の生き方は、わずかな物で生きることなのでしょう。所詮、持っていけない物ばかりなのですから。

(男体山です)

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