今朝、ベランダで満開の「ハイビスカス」です。先週末から蕾を膨らませていたのが、満を持して、今朝開きました。これも罹災の花で、とっぷり洪水の水をかぶってしまいましたが、屈せずに生き延びています。サルビアも朝顔も、仲間で、小さないのちを保ち続けています。私たちも、この日曜日の清真の空気を吸い込みながら、いのちを躍動させています。
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なぜ内村鑑三は「代表的日本人」を、新渡戸稲造は「武士道」を、そして岡倉天心は「茶の本」を、しかも日本語ではなく、英語で書いたのでしょうか。
日本を、諸外国に紹介したかったと言う、単純な動機だけではなかった様です。彼らは、江戸末期に、武士の家に生まれ育って、幕末から文明開化の明治維新の激動する時代を生きて来た人でした。
当時の日本が、そして日本人が、近代化から立ち遅れたと言う思いの中に、何とも言えない〈劣等意識(コンプレックス)〉を覚えていて、その裏返しの様にして、日本の優点、美点を、世界に向かって誇り、発信たかったに違いありません。
私は、“ give me chocolate ” の世代の子で、甘い物欲しさに、最初に覚えた英語が、これでした。進駐軍の兵士の周りで、そう叫んで欲しがった過去があります。面白がって、アメリカ兵が放り投げるお菓子や小銭を、入り乱れて争って拾ったのです。
思春期に入った私は、自意識が強くなるに連れて、この子ども時代の行為に、〈恥〉を強烈に感じたのです。放り投げたアメリカ兵が赦せないのではなく、拾うために争った無恥な自分が赦せませんでした。それで、日本人の精神を培い、誇りを持とうと躍起になって、青年期を走り抜けました。
南満州鉄道の総裁や、近衛内閣の外務大臣を歴任した、「松岡洋右(ようすけ)」が、終戦を迎えたある日、彼のもとに出入りしていた新聞記者に、『アメリカ人はどういう人間か?』と聞かれて、次の様に答えています。
『野中に一本道があるとする。人一人、やっと通れる細い道だ。君がこっちから歩いて行くと、アメリカ人が向こうから歩いてくる。野原の真ん中で、君達は鉢合わせだ。こっちも退かない。むこうも退かない。そうやってしばらく、互いに睨み逢っているうちに、しびれを切らしたアメリカ人は、拳骨を固めてポカンときみの横っつらを殴ってくるよ。さあ、そのとき、ハッと思って頭を下げて横に退いて相手を通して見給え。この次からは、そんな道で出会えば、彼は必ずものもいわずに殴ってくる。それが一番効果的な解決手段だと思う訳だ。しかし、その一回目に、君がヘコタレないで、何くそッと相手を殴り返してやるのだ。するとアメリカ人はビックリして君を見直すんだ。コイツは、ちょっとやれる奴だ、という訳だな。そしてそれからは無二の親友になれるチャンスがでてくる。』
彼は、13歳でアメリカに留学しています。そのアメリカでの生活は、大変苦しかったのです。最初の寄宿先に到着した早々、薪割りを命じられるなど、使用人としての務めをこなしながら学校へ通わなくてはならなかったそうです。東洋人への人種偏見や差別を身をもって体験した過去があったのです。それで必死に学んだ様です。
欧米を、欧米人を、素直に受け入れられない、体験からくる被害意識を持っていたのです。まさに私も同じでした。そんな自分の過去と偏見を正すために、私には、8年間、アメリカ人起業家の下で学び、訓練される時を必要とし、その時を過ごしました。本音でこの方と関わりを持っことによって、私の偏見や傷、〈日本精神〉が正され、癒されたのです。
優等意識と言うのは、劣等意識の裏返しなのだということを学び、内村や新渡戸や岡倉も、心の思いの中で問答をし、闘い、矯正されて行ったのではないでしょうか。少なくとも彼らは、後に国際社会で通用する日本人となっています。
私は日本人であることを、若い頃は、誇ろうとして躍起でした。しかし今は、ただ《感謝》したいだけなのです。父や母や恩師に対して、感謝がある様にしてです。この国土、自然、風土、歴史を、正しく理解し、私を育んでくれた良き物や事に、『ありがとうございます!』と言う思いでいたいのです。
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作詞が高野辰之、作曲が岡野貞一の「紅葉(もみじ)」は、1911年に、小学校2年生用の文部省唱歌として『尋常小学唱歌(二)』に発表されています。
秋の夕日に照る山紅葉
濃いも薄いも 数ある中に
松をいろどる楓や蔦は
山のふもとの裾模様
渓の流に散り浮く紅葉
波にゆられて 離れて寄って
赤や黄色の色さまざまに
水の上にも織る錦
きっと、東武日光線の電車に揺られて、日光に行く線路脇にも、東武鬼怒川線から会津に抜けて行く、渓谷を走る線路脇にも、ここに歌われる様な紅葉が、今頃は溢れ返っている頃でしょうか。
私が生まれて7年過ごし、仕事と子育てで34年間住んだ街から、渓谷に沿って上がって行く林道を、サクサクと落ち葉を踏んで歩いた時、枯れ草の匂いと言うか、初冬の匂いがして、何とも言えない懐かしい匂いをかいで、故郷回帰を満喫したことがありました。
夕日は見えませんでしたが、乙の字に曲がる角で、陽の光も見えたでしょうか。物悲しい季節ですが、落ち着いて、物思いにふけって、とんと縁がない芸術的な雰囲気にしたることができるのも、秋の素晴らしい趣きです。
歳をとり、孫たちも子どもから少年、そして青年へと成長していく様子を見聞きしても、自分の小学校時代のこと、〈工事中〉のことは、けっこう鮮明に記憶に残っているものです。長い板張りの廊下が続いていて、小使いのおじさんが振り鳴らす鐘の音が聞こえてきそうです。
みんな入ったことなどない校長室に、入らせてもらった私は、何とも惨めな思いで、そこに立たされた日があります。何をしてなのか、もう思い出せないのですが、担任が校長室に立たせたのですから、けっこう酷いことをした仕打ちだったのでしょう。聞きたい担任も、もう会うことができないのでしょう。
過ぎた日が眩しい様な、霞がかかってしまった様な記憶の中にも、途切れ途切れに鮮明に残されてあります。級友たちも、どんなことを思い出している晩秋なのでしょうか。
(HP “ 来夢来人 ”からです)
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被災した鉢の花が、二種類、新しい家の四階のベランダに、運び込まれています。朝顔、ハイビスカスです。高根沢に避難している間、水遣りなしで、前の家の軒下に放っておかれたのに、命を繋いで、手狭なベランダで咲いています。
完全に、洪水を被ってしまった鉢ですが、逞しく生き続けているのを放置できずに、自転車に乗せて運んできたのです。庭の土に返した、ホットリップスは、勢い良く咲き続けていました。プリンセス・ダイアナは土に戻り、また季節到来で咲いてくれることでしょう。
庭が広くて、木槿(むくげ)や薔薇を植えたかったのですが、ここベランダでは、ちょっと無理の様です。180円で、ハイビスカスを買った店が、濁流に浸かった上に、火が出て全焼してしまったと聞きました。今、その花の蕾が膨らんできて、陽を浴びて、間も無く咲こうとしています。
何か、いのちが再生、回復して行く様子を眺めている様に感じております。何年も前に、家内が駅前の花店で買って、プレゼントしたハイビスカスが、弟の家のベランダで、世話が好いのでしょうか、咲き続けているのだそうです。
この写真の〈サルビア〉は、秋になって買って来て、高根沢に持って行って、再び持ち帰った花です。そしてテーブルの上には、何度も床に落とされては、花や茎をへし折られてしまった〈胡蝶蘭〉の小鉢が置いてあります。そんなことにめげず、今まさに茎の先端の赤みをつけた新しい芽が、咲く準備をしている様です。
《花ある風景》が、コンクリートの建物中に、住んでいるのを忘れさせてくれる、「小春日和」の午後です。
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家内の入院当初は、獨協医科大学病院の病院棟と駐車場の間を走る道路には、まだ幕内の正月でしたから、枝だけの銀杏並木だったのが、春には若葉が芽生えていました。その葉が、今や黄色く色づき、落葉し始めていた、昨日の通院でした。
美事な銀杏並木は、獨協名物で、構内の春の桜と共に、季節を感じさせられて、病院職員も患者さんも、何となく物思いにふける晩秋でした。もう一二週間で、医師や教師や坊さんが走る「師走」になろうとし、2019年も暮れ様としています。
昨日は、二桁目の化学治療の投与が、家内に行われ、無事に通院治療がすみました。最近は大きな変化がありませんが、徐々に体重も増え、食欲もあり、一人で散歩がてら、近くの郵便局や「なにわ寿司」のお店に、昼食にと買い物にも行く様になって来ています。
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帰りが遅いので、心配になって迎えに行きましたら、行き過ぎようとしていた陶器屋の中から、家内に呼び止められてしまいました。お店のおばさんと談笑していたのです。〈人と話をしたい〉のだそうです。そんなこんなで、穏やかな日を過ごしております。
訪ねて来る息子たちに、〈眼を細め〉ている様子を見ていると、まるで苦くない《良薬》になっているかの様で、お腹を痛めて産んだ子たちは、闘病中の家内には、最も嬉しい訪問の様です。多くの人に支えられ、応援されて、今年が暮れゆこうとしています。溢れる感謝の日々です。
(下の写真は、2階のレントゲンの待合室から撮ったものです)
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.あんなに大きな船を右左に、向きを変えることができるのは,小さな「舵(かじ)」です。通常は,水の中に潜っていて、人の目に触れることはありません。戦艦だろうが、重油タンカーだろうが、舵の向き一つで、進路が変えられるのですから、船乗りは,その《舵の役目》の大きさを熟知しているのです。
子どもの頃、父の机にあった、モールス信号機に、強烈な興味を、私は持ちました。無線で、要件を届けることができると言う機械装置の不思議さに圧倒されてしまったのです。それで無線通信士になろうと思いました。それには,船に乗るのが一番でしたから、船や海にも、果てしなく関心が向けられていました。木製の船の模型のキットを買っては、作ったこともあるほどです。
船の舵と同じ様に、人間の「舌」も大きなことをするのです。私の愛読書に、「舌は小さな器官だが、大きなことを言って誇る。」と書いてあります。そして、「舌は火であり、不義の
世界だ。」とも言っています。さらに、『人は,この舌を正しく制御できないこと』についても触れているのです。そういえば、言葉で失敗する人って、どこの国でも、結構多いのではないでしょうか。
戦後日本の舵取りして、名相と言われた吉田茂総理大臣でさえも、国会・衆議院を、口を突いて出た一つ言葉で、解散しなければならなかったのです。質疑応答の折、西村栄一議員の言葉と態度に怒ったのでしょうが、自席の帰り際に、小声で、『バカヤロー』と言った言葉を、マイクロフォンが拾ってしまって、小声では済まされなくなって、結局、衆議院が解散したのです。1953年のことでした。
『あの一言を、言わなければよかった!』と思っている人は,大勢いらっしゃることでしょう。人間の舌、語りだされる言葉は,実に影響力が大きい様です。東日本新大震災と、原発の事故で、福島から横浜の小学校に転向しなければならなかった少年に、“バイキン“というあだ名をつけたり、保証金があるのだからと、『お金を持って来い!』と言われ続けた、《いじめ体験》を記した手記が、あの頃問題になっていました。
この子は、不登校を続けていたのですが、こんなことも書いています。『いままでなんかいも死のうとおもった。でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた!』と。故郷ではない横浜で、いじめに潰されないで、健気に生きている少年がいたのです。
小学生のいじめに、《大人の不用意な言葉を、家庭やどこかで聞いて、学校でオウムの様に語る》、こう言ったことが背後にありそうです。誰にでも起こりうることを、自分の問題として引き受けられないことが、こう言ったいじめを生みます。
この手の《言葉の暴力》は,どこにでも、限りないくありそうです。《不義の世界》、舌を正しく使える本物の人間に、人は育たなければなりませんね。「言葉は剣(つるぎ)」となることが多々あるのです。
(〈剣〉の様な形のペーパーナイフです)
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長く住んだ街に、そろそろ吹き始めるのが、「八ヶ岳颪(おろし)」でした。冬の到来と共に、何もかも凍りつかせてしまう様な、刺す様な冷たい風でした。若い頃から、真冬に雪が降っても、ズボン下を履く習慣がなかったのですが、五十代の後半になって、〈見栄〉をはる必要もなくなり、暖かく過ごせる様に、「タイツ」を履き始めたのです。
でも、動くとすぐに汗をかいてしまうので、困ったのですが、一月に、こちらに住み始めて、ズボン下を履きませんでしたが、今冬は、使うことにします。引越しの荷物に中に、見つけたからです。長男の嫁御が、数年前に、裏地のついた「暖パンツ(冬用のナイロン製のズボン)」を買ってくれたことがあって、それが、とても暖かで、履き始めたら、もう離せません。
群馬名物の〈空っ風〉の「赤城颪」が、隣県のこちらでは「男体颪」になるのでしょうか。今年の一月、二月は、その「暖パンツ」が、体を温めてくれましたので、もうタンスの中に準備中ですので、間もなく引っ張り出すつもりでおります。
寒さ対策は整いました。車に乗らなくなったので、しっかり冬用の備えが必要でしょうか。家内の通院用に、その「暖パンツ」を買って上げなくてはいけないのです。ナイロン製品のなかった子ども時代には、母が綿入れの寝間着や、防寒上着を作ってくれました。起毛の暖かな毛布などなかったのに、寒くて寝れなかった記憶はないのです。
それにつけても、朝起きた時に、襟元に、雪が積もっていたという、北海道開拓部落で子ども時代を過ごした〈道産子おじさん〉の話には、驚かされました。もっと寒い話は、シベリヤに抑留されて、極寒の冬を生き延びた人の話です。極端に少なく、栄養補給などできない食料で生活していた寒さは、想像に絶します。
異常な暑い夏の裏返しに、異常な低温の冬がくる様に感じてしまいます。はたして、どんな冬がやってくるのでしょうか。明け方近く、今朝はエアコンを入れてしまいました。スイッチひとつで、こんな「暖(だん)」が取れるのが、不思議に感じてしまう朝です。
(冬用の上着の「綿入れ」です)
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先日、高根沢町に滞在中に、お隣の矢板市の一軒の家を訪問しました。そこに、消防士に転職された、一人の青年がおいでになっていたのです。消防と救命救急のお仕事を、自分のなすすべき仕事と決めた方です。
国を守る兵士も、国の治安に当たる警察の公安も、この青年の様に、消火活動や救命活動などに就く方たちによって、国の安寧秩序が守られて、安心して社会生活が送られているのを知ります。素敵な顔と考えを持たれた若者でした。
このところアメリカのカルフォルニア州のロスアンゼルスと、オーストラリアの頭部のサウスウエールズ州やクイーンランド州などで、山林火災が起こっているというニュースが報じられています。森林を焼き尽くして行く火が、都市部をも焼き続けている様です。
それは落雷による自然発火だそうです。このところ、火山の爆発、地震、台風、そして火事と、自然災害が頻繁に起こっています。まさに、「地震」、「雷」、「火事」、「親爺(台風のことを言っているという一説があります)」の猛威です。
台風の暴風雨に熊本の本渡で見舞われ、落雷の危機に八王子で遇い、台風の大波に湯河原海岸で引き込まれ、階上のガス爆発で家具一切が使えなくなる経験を中部山岳の街でしたことが、これまで私にはありました。ところが、この10月の台風19号の浸水被害にあったのには、ほんとうに驚きました。〈100mmの暴雨〉の話は聞いていましたが、風呂桶をひっくり返した様な雨に遭って、家が浮いて流れてしまうのではないかと、ちょっと大げさに思ってしまったのです。
今回、市から「罹災証明書」が発行され、〈家屋の半壊〉という認定でした。そんな経験から、『上階に住みたい!』との家内の願いを汲んで、この家に住むことを決めたのです。被害の大きさは少ないのですが、こんな危機に、手を伸べて助けてくださったみなさんに感謝でいっぱいです。
下の息子が、まだ4歳ほどの頃でしたが、『消防車になりたい!』と言ってたことがありました。消防士の勇気ある活動を、何かで知って、自分も「消防士」になってみたかったのです。「クルマ」も「ヒト」も同じに感じた幼い次男の言葉が新鮮でした。
前の家も今回の家も、メディカルセンターに近いせいで、救急車がサイレンを鳴らして、日に何度も何度も、近くを走って行くのを頻繁に聞くのです。 人の生死に関わるお仕事に従事されるみなさんがおいでで、私たちは安心して、生活することができます。
あの日、この若き消防士が、“ ラザニア ” を作って来られました。非番の日に、家内と私が来ると知って、腕を奮ってくれたのです。“ 餃子 ” ではなく “ ラザニア ” だったのが、素敵で、美味しかったのです。
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転んでしまって泣いている子どもに、『チチンプイプイ!』とか、『痛いの痛いの飛んでけ!』などと、親が、痛い箇所に手を置いたりして言ってあげると、激しく泣いていた子どもが泣き止むことがありました。同情してもらって嬉しくて激しく泣く子と、かえって泣き止む子とか、色々といるようです。
世界中に、どれほどの種類の「薬」があるでしょうか。その中に、「偽薬(ぎやく)」と呼ばれるものがあります。砂糖や澱粉を薬仕立てにして、『これを飲むと好くなりますから!』と言って病人に飲ませると、治ってしまうことがあるのです。それを「プラセボ効果」と言っています。
医科大学の先生が、こんなことを言っていました。『薬の数が多いのは、みんな効かないからです!』とです。効かないはずの澱粉が、薬効など全くないのに、『鰯の頭も信心から!』と言われるように、信じて飲むと、心理作用で効いてしまうのです。人間とは不思議な存在ですね。
としますと、どんなに辛く悲しいことが起きても、心持ち次第で、それを乗り越えることができるのでしょう。古今東西、恵まれない家庭環境の中で育った子どもの方が多いおいでです。彼らは、それを跳ね返して、たくましく生きていけるのです。もちろん人の一生に、偽物はありません。一回切りの人生を、みなさんが、懸命に生きてきています。
『笑う角に福来る!』とも言います。“故事ことわざ辞典に、『いつも笑い声が溢れる家には、自然に幸運が訪れる。明るく朗らかにいれば幸せがやってくるという意味。また、悲しいこと・苦しいことがあっても、希望を失わずにいれば幸せがやって来るということ。』とあります。
それは 、浮世の辛さの真っ只中で、生きる現実の厳しさの中で、《楽感的に生きて行くように》との勧めなのでしょう。泣き明かして生きるよりは、朗らかに生きたほうが得策です。生きている限り、生かされている限り、好いことがあるからです。“Hasta mañana/アスタマニャーナ"、スペイン語のフレーズで、『何とかなるさ、クヨクヨすんな!』だそうです。
(地中海原産の「オレガノ」の花からオイルがとれます)
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芸能界には、あまり関心がないのですが、『山口百恵、還暦!』と聞いて、ちょっと驚いています。次男が生まれる頃に、歌手生活から引退して、家庭主婦となった、「稀代の歌手」で、歌の上手さは抜群でした。表彰されることが少なかったりで、妬まれる様なことがあったのでしょうか、ちょっと不運だったのですが、銀幕の舞台から潔く退いて、一般人として、幸せに生きてきた様です。
この山口百恵は、中国の若者たちの心を、強烈に捉えたのです。外国の文化や芸能が受け入れられる様になった時期に、「映画」では高倉健が、「歌」では、この山口百恵が、数億人単位のフアンの心を掴んでしまったのです。
1978年10月に、鄧小平氏の訪日後に、未曾有の〈日本ブーム〉が嵐の様に、中国全土を巻き込みました。その最たる出来事は、高倉健が主演し、中野良子、原田芳雄が共演した、映画「君よ憤怒の川を渉れ(1976年日本で公開)」でした。中国で「追捕(zhuibu)」というタイトルで、1979年以降、上映され、何と3億人が観たと言われています。隣の村まで歩いて出かけて、観たという人にも会いました。
外国映画の中から、日本映画が第一号として解禁上映されたわけです。また、栗原小巻や中野良子、そしてこの山口百恵は、中国青年の憧れのスターとして喝采を受けたのです。私が会った、五十代から六十代以上のみなさんから、「杜丘(duqu)」の名前を聞きました。誰だか分からないでいると、高倉健が演じた主人公の名前だったのです。『 “ shankou” も知ってる!』と聞かれました。『アッ、「山口(百恵)」だ!』と言ってしまったほどです。
その山口百恵が、〈六十歳〉になったのですね。世の中が、まるで無色で、娯楽も何もない時代に、日本人女性、《スター(中国語では〈明星mingxing〉)》の代表の様な彼女でした。この名を言う時に、これ以上できない様な満面の笑顔で、十代の男の子の様に、はじけて、恥じらって、五十過ぎの大学の音楽教師が聞いてきました。
それは、彼には、いえ彼らには衝撃的な出来事だったに違いありません。同じ様なスタイルの服装をし、靴も帽子もバッグも、何もかも〈ニッポン〉への憧れで溢れていた時代を生み出した、山口百恵の《還暦》なのです。
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