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あの頃は 俺がお前の 盾だった

この川柳には、『でも今は お前が俺の 盾になり』とつながるのでしょうか。あんなに丈夫だった家内が、闘病している今、家内が、一番気にしているのが、私のクシャミと咳なのです。コロナウイルスではないのですが、風邪で倒れて欲しくないからです。それだけ、再び「盾」にと、頼り甲斐にされて、家内の世話をさせてもらってるからです。

来年の4月は、私たちの“ golden year ” なのです。結婚以来、掃除、洗濯、ご飯作りの家事、妻業をしてもらい、後半の13年間は、私の念願、恩師の勧めの〈中国行き〉にも付き合ってくれた年月でした。働いて糧を得、社会的な責務を果たしてきた私を、影になって支えてくれたのが家内でした。

昨日は、昨年の正月以来かかっています、獨協医科大学病院に、「PET検査」に参りました。転移の有無の検査です。一年経ちましたので、『そろそろ2度目の検査しましょうか!』と主治医に、そう促されましたので、朝、タクシーを呼ぼうとしていたのです。そこにメールが入ってきたのです。『病院まで送ります!』と言って、ご夫婦で、県南の町から30分も車を運転してきてくださったのです。

それは、昨年の台風に被災して、ボランティアで来てくださって、助けてくださった夫妻でした。奥様は、私たちが過ごした華南の街の隣の省の出身で、日本に留学し、日本人の男性と結婚されています。初めは、両毛線、宇都宮線、路線バスで行くか、タクシーにするか迷っていたところへの《助け舟》でした。

昨年は、多くの「盾」に支えられ、守られ、励まされた年でした。私は、洗濯や掃除をし、洗濯物を取り込み、買い物をし、食事を作り、茶碗を洗い、また市役所や郵便局にも行く日を過ごして、『何も仕事していないな!』と思っていました。そうしたら、『準、今していることがあなたの〈仕事〉だよ!』と言う声が聞こえてきたのです。それで、『そうか!』と、思いを強めたのです。

何もしていないのではなく、50年あまりしてくれた家内への《お返し》だけでもなく、彼女が《妻》だから、そうするのだと得心がいったのです。中国の華南の街で、歳を重ねた日本人の夫婦が、一緒に街を歩き、人を訪問し、倶楽部に出掛けたりする様子を、けっこう多くの人が見ていた様です。若い人たちが、羨ましそうに、それを見ていました。

新しい年の最初の月が行こうとしています。中国語で、『时间过了很快 shijianguolehenkuai/時間ってこんなに早く過ぎていくんだ!』と言うのですが、時間だけは誰にも公平に備えられているのですから、無駄にしないで刻一刻、日一日、年一年と、《生一生》を過ごしていくことにします。そう、盾同士だったら、矛盾は起こり得ませんから。

(湖北省武漢の市花の「梅」です)

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竹馬の友

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幼児期に見上げたり、抱きかかえてくれた自分の父親は、体は大きくて逞しく、何でもできて、何でも知っている、そんな「絶対的存在」でした。鞍馬天狗や月光仮面やスーパーマンなどの英雄に、勝るとも劣らない、実に頼り甲斐があった父でした。ただただ『すごい!』存在でした。子どもの発達段階で、この様な父がいてくれることは、必要だと言います。

ところが、そんな父親に欠点や弱さが見え始めてくる頃になると、次には、「友」が必要とされてきます。〈親離れ〉をして、家庭からも一歩出た外の世界で、子どもは「友」を求め始めていきます。これは、《社会性の発達》のために不可欠なことなのです。異性愛に向かう前に、この過程を踏む必要があります。「女の愛にも勝る友情愛」に触れられたら素晴らしいことです。

「竹馬(ちくば)の友」とか「畏友(尊敬する相手のこと)」とか「刎頚の友(ふんけい/生死を共にして、その友のためなら首〈頸〉をはね〈刎ね〉られても悔いのないほどの相手のこと)」とか言います。肩を組み合って歩き、自分の好きな女の子の名を告げ合え、自分の心の中を見せることができ、秘密を露わにでき、その秘密を厳守し合える友を、そう呼んだりするのでしょうか。

中国の「晋書 殷浩伝」に、殷浩(いんこう)と桓温(かんおん)という二人の軍人が登場します。この両者は、幼い日を共に、親しく関わって過ごしていました。「三国時代」の終わり、「太平の時代」を迎えようとしていた頃のことです。その晋王朝が、異民族の襲来に滅ぼされてしまいます。そんな状況下で、「殷浩」の方が名声を上げていたのです。幼馴染みの「桓温」が、『幼き頃、殷浩とは、竹馬で遊んだものだ。私が竹馬を棄てたら、殷浩がそれを拾って遊んでいたのだから、私の方が上だった!』と立場を主張したと言うのです。

それで、幼い日の友のことを、「竹馬の友」と言う様になったのだそうです。私は、竹馬も自転車も、乗り方を、兄に教えてもらったのです。私が好きな格言は、『友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。』です。歳を重ねた今も、そんな友や兄や弟がいるのは、なんと言う幸いでしょうか。それでも親爺の背中は、子どもの私の目に大きく広かったのです。
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武漢加油! 衛生の普及

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毎年、インフルエンザが流行し、昨年末からは、「コロナウイルス」による肺炎が、湖北省武漢から、世界に蔓延しています。

世界中から、「武漢加油wuhanjiayou『ガンバッテ!』」という声が上がっています。武漢への思いを、次の様に表している方がいます。

武汉!武汉!你不孤单,⇨ 一人じゃないよ
武汉!武汉!擦干泪眼,⇨ 涙を拭いて
武汉!武汉!你要壮胆 ⇨ 強く雄々しくあれ

古来、「疫病」とか「感染症」である、ペストの流行や、黒死病の蔓延などで、人類は、多くの「疫病」の脅威にさらされてきています。その原因は、劣悪な衛生状況にあると言われています。私たちの国の「衛生」の普及や確率のために貢献した人に、長與 專齋がいます。

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長與 專齋(新字体:長与 専斎、ながよせんさい、天保9年8月28日(1838年10月16日) – 35年(1902年)9月8日)は、日本の医師、医学者、官僚。本姓は藤原氏、号は松香、諱は秉継。

肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)に代々仕える漢方医の家系に生まれる。大村藩の藩校である五教館(長崎県立大村高等学校の前身)で学んだ後、安政元年(1854年)、大坂にて緒方洪庵の適塾に入門し、やがて塾頭となる(福澤諭吉の後任)。のち大村藩の侍医となった。

文久元年(1861年)、長崎に赴き、医学伝習所にて、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。その後、ポンペの後任マンスフェルトに師事し、医学教育近代化の必要性を諭される。明治元年(1868年)、長崎精得館の医師頭取(病院長)に就任する。明治維新により同館は長崎府医学校(現長崎大学医学部)となったが、マンスフェルトと共に、自然科学を教える予科と医学を教える本科に区分する学制改革を行った。

1872年、ベルリン留学時代の長與   明治4年(1871年)、岩倉使節団の一員として渡欧し、ドイツやオランダの医学および衛生行政を視察した。
明治6年(1873年)に帰国。明治7年(1874年)、文部省医務局長に就任する。また東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長を兼務する。同年、東京司薬場(国立医薬品食品衛生研究所の前身)を創設した。
明治8年(1875年)、医務局が内務省に移管されると、衛生局と改称して、初代局長に就任する。コレラなど伝染病の流行に対して衛生工事を推進し、また衛生思想の普及に尽力した。「衛生」の語は、Hygieneの訳語として長与が採用したものである。しかし明治16年(1883年)に内務卿となった山縣有朋とは肌が合わず、衛生局は業務に支障を来したため、軍医本部次長の石黒忠悳が兼務で衛生局次長に迎えられ、衛生局内では長與局長に劣らない力を持った。石黒の紹介で、愛知医学校長兼愛知病院長であった後藤新平を見出して明治16年(1883年)、衛生局に採用し、明治25年(1892年)、衛生行政の後継者として後藤を衛生局長に据えたが、後藤が相馬事件に連座して失脚するとこれを見捨て、以後は石黒が医学界における後藤の後ろ盾となった。
1886年(明治19年)4月27日、元老院議官、1890年(明治23年)9月29日、貴族院勅選議員に就任する[2]。明治24年(1891年)に衛生局長を退いて後も、宮中顧問官、中央衛生会長などを歴任した。また、石黒忠悳、三宅秀、佐野常民らと大日本私立衛生会(のち日本衛生会、現日本公衆衛生協会)を興し会頭に就任するなど、医学界および衛生行政に重きをなした。また、種痘の普及に甚大な功績があった。

(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
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駅弁

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何年か前の帰国時に、以前に次男が住んでいた代官山から、タクシーで品川駅に行き、そこから東海道線の鈍行に乗って、家内と一緒に、掛川の友人宅まで出かけたことがありました。時間がたっぷりあって、急ぐ旅ではなかったので、品川で駅弁を買って乗車したのです。

昔の旅を味合おうとして、東海道を京に向けて、品川を発った江戸っ子の旅の様でした。箱根峠の茶屋で、団子を食べるわけにはいきませんでした。「幕の内弁当」だったでしょうか、久しぶりの「駅弁」でした。母の故郷の出雲に連れて行ってもらった時に、4人の子のために、食事時には、母は、その駅弁を買って食べさせてくれたのでしょう。食べたことを覚えていませんが、ひもじい思いをした思い出がなので、しっかりと食べたに違いありません。ただ長い旅であったことだけは覚えています。

大人になって、後で分かったのは、母の「家出」に、4人の子が付き合わされて、母の故郷に行った旅だったのです。母と父との間にも、四十年ほどの結婚生活に、様々なことがあったのは事実でした。でも、父も母も養育を放棄することなく、育て上げてくれ、教育も施してくれたことは感謝でいっぱいなのです。

『・・・駅弁は、栃木県の宇都宮駅で販売されている「滊車辨當(きしゃべんとう)」です。この「滊車辨當」から、日本の駅弁の歴史は始まりました。発売されたのは、1885(明治18)年7月16日。日本初の私鉄である日本鉄道が延伸され、宇都宮駅が開業した日です。駅のホームでは、竹皮に包まれたおにぎりが販売されました。これが駅弁誕生の瞬間と言われています(櫻井さん)』、だそうです。
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次男が好きだったのが、信越線横川駅の「峠の釜めし」でした。益子焼の器に入っていて、確かに美味しいのです。この日曜日に、所用で宇都宮に出掛けたのですが、東武宇都宮線の「東武宇都宮駅」で下車したのです。ところがJR宇都宮駅ではなかったので、本邦最初の駅弁を買い求めることができず、結局、昼食は、東武デパートの八階で、「宇都宮餃子」を食べてしまいました。それに、「佐野ラーメン」の小を注文し、家内は水餃子、私は焼き餃子でした。

〈駅弁発祥の地〉には、諸説あるそうですが、宇都宮駅版には、文書の記録が残されていて、やはり説得力がありそうです。松本清張の原作の「張込み」や「点と線」が映画化され、その中に、確か「駅弁」の場面があったと思うのです。東京で起こった殺人事件の容疑者を確か佐賀に、香椎(かしい/福岡市)で起きた事件で東京駅まで、刑事が事件を究明していく中に、その場面があったのです。そんなことを思い出していたら、駅弁が、また食べたくなってしまいました。

(宇都宮駅の駅弁の復刻版、横河駅の「峠の釜めし」です)
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越前岬

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越前岬では、「水仙」が満開だと知らせてくれました。HPの“ Blue Signal ”に、次の様にあります。

『水仙は、地中海沿岸を原産とするヒガンバナ科の球根植物である。学名のナルシッサスは、ギリシア神話の美少年ナルキッソスに由来する。日本に渡来したのは平安時代の末期といわれ、シルクロードを経て中国に伝わった原種が、海流に乗って日本の海岸沿いに漂着したとも考えられている。こうして帰化したものが日本水仙と呼ばれる自生種で、水辺に咲く姿を仙人にたとえて、「水仙」と名づけられたという。その名がはじめて文献に登場するのは、室町時代の漢和辞書『下学集[かがくしゅう]』(1444年)で、「水仙花」とともに「雪中花」の名も記されている。この頃から、水仙は日本文学に登場するようになり、江戸時代からは特に俳諧における季題として多くの俳人に詠まれ、名句が残っている。 』

中国の長江か黄河、その他の河川の流れに乗って、大海に流れ出た球根が、海流に乗って流れ着いたと言う経路は、実に浪漫にあふれています。多くの海岸に漂着して、根をおろし、美しく咲きだしたのでしょう。友人に、越前出身の方がいます。北陸人の強さを見せてくれた人でした。五年ほど一緒に過ごしたでしょうか。お父様からお米や松茸をいただいたことが何度かありました。この花が、雪の中に咲いた様をいう、「雪中花」には、この友人の強さと通じるものがありそうです。

前に住んでいた家と県道との間に、この水仙が咲いていていましたが、今度、咲いているかどうか確かめに、出掛けてみることにします。今頃咲くのは、「日本水仙」と呼ばれるもので、『漢名の「水仙」を音読みして「すいせん」になった。漢名は「仙人は、天にあるを天仙、地にあるを地仙、水にあるを水仙」という中国の古典から。きれいな花の姿と芳香がまるで「仙人」のようなところから命名された。学名でもある英名「ナルシサス」はギリシャ神話の美少年の名前で、泉に映った自分の姿に恋をして毎日見つめ続けたら いつのまにか1本の花になってしまった。”ナルシスト”の名は、ここからくる。 イギリスの国花の一つ。』だそうです。

其のにほひ桃より白し水仙花   芭蕉「笈日記」

華南の街で住んでいた時、水仙の株をいただいて、ベランダに置いて、咲いた花を楽しんだこともありました。難しくややっこしくない咲きっぷりが、実にいいのです。

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洋上交流

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これまで、一月末の今頃、華南の街から帰国をしていたのです。最初は、二年に一度のビザの更新のための帰国でしたが、その後は毎年帰国していました。学校の前期の授業を終え、期末試験を終え、採点、成績表の提出を終えての帰国でした。一人で帰る時に、夜行バスや動車(中国版新幹線)で上海に行き、外灘(waitan)の波止場から、大阪行きの船を利用したことが何度もあります。

丸二日の洋上の生活は、同じ様に教師をしておいでの年配者、旅の途中の欧米人の若者、留学生、日本で働くために出かける若者たちが、同船しておいででした。冬場の船は、波に揉まれて、結構きつかったこともありました。私が乗った船には、お風呂があって、目の前に波頭が見えて、船の中なのだと納得したりでした。

その中に、武漢で教師をしていた方もおいででした。教材や資料が欲しいと言われて、送って差し上げたこともあったのです。中国が好きで、日中交流の名目で、南京に住んでいて、3ヶ月ごとに、大阪のお住まいとを往復されていた方もいて、メールの交信を続けていた方もいました。

大阪の空襲で、家族を亡くして、猛火の中を逃げ回って、生き延びたと言っておられる方もいました。飛行機だと、隣の方と、これほど話を交わす余裕はないのですが、二日という時間を、楽しく過ごせたのです。西安大学に留学していた青年に、何か相談されたこともありました。

ああ言うのを〈洋上交流〉と言うのでしょうか。内陸の街の学校を出て、日本語を学んで、これから日本で働こうとしていた、中国内陸部の街からの5人の若い女性の一団もいました。いろいろ質問してきたので、答えてあげました。『辛いことがあっても、忍耐してね!』と言って大阪港で別れたのです。

その乗船した船の「メンバーカード」が、カード入れに2冊残っていて、〈復路半額〉になるのです。まだ利用していないので、いつか使ってみたいと思っているところです。上海の近くの海の上にはカモメが飛び、それが見えなくなると、飛魚が船の進む方向に飛んでいたりしていました。水平線上に昇り降りする太陽を見て、感動した時もあったでしょうか。

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rétro

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『狭い日本、そんなに急いでどこへ行く!』と言う、交通標語のことばを、以前、よく耳にしました。その狭い日本全土に、JRの新幹線網が広がり、飛行機利用以外で、東京から鉄道利用でも日帰り旅行ができる様になってきました。

それ以前は、「寝台列車」が列島を駆け巡っていたのです。その中で、「あさかぜ」は、東京と博多を結んだ、JRの特急寝台列車でした。旧国鉄時代に、数度私は利用したことがあります。学校を出てすぐの頃に、勤めていた教育研究所の「九州地区」の研修大会に、開催者側のお手伝いで、この寝台特急で出かけたのです。

そこに勤務していた頃、兄が、福岡県久留米市で仕事をしていた関係で、熊本に出張のついでに、博多まで「あさかぜ」に乗って、訪ねたこともありました。筑後川の舟運の街で、家内の母の実家がありました。あの「久留米絣(かすり)」の発祥地で、ブリジストンの石橋氏の誕生地でもありました。

九州全域を統治する「太宰府」に行ってみたくて、大分日田出身の知人に案内していただいて訪ねたことがあったのです。『7世紀後半から奈良・平安時代にかけて、九州を治め、外交・軍事・経済を担った役所が置かれた所である。平面復元された建物の礎石が往時を偲ばせる。「都府楼跡」の名でも親しまれ、史跡公園となっている。春には桜が楽しめる。』都観光案内にあります。京の朝廷から、政略で失墜させられた、菅原道真は、ここで没しています。

若い頃に、九州に度々、旅をした私は、聞くのに慣れた〈九州弁〉の言い回しが好きなのです。時々真似をして見るのですが、中部山岳の山猿の私は、九州男児の様に喋れないのです。それでしょうか、初めて乗った寝台特急の「あさかぜ」が、とても懐かしいのです。独特な国鉄、車両、寝台の匂いがしてきそうです。

食べたり飲んだりした駅弁、土瓶のお茶、凍ったみかん、列車食堂の朝食の味も、列車の旅にあったので、今も、その匂いと味がしてきそうです。旧国鉄の最初の〈ブルートレイン〉が、この「あさかぜ」で、1956年に運転が開始され、1994年に、飛行機に押されて、東京と博多間の運行が終了し、ほぼ半世紀後の2005年に営業を終えています。

私の沢山ある夢の一つは、アメリカ合衆国の大陸横断鉄道に乗ること、または、北京からヨーロッパまで、列車の旅もをしてみたいことなのです。〈駅弁〉も〈氷みかん〉なんかは、日本の文化ですから、なさそうです。でも中国国内には、車内販売で弁当が売られていました。《レトロrétro/懐古趣味》な私は、そんな過去と将来に思いが向いてしまいます。

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水漏れ

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台風19号による、水害を被災したサルビヤは、高根沢町にも疎開し、こちらにも一緒に引っ越して来ました。このアパートのベランダでも、大寒の陽の光を受けて、きれいな紫色に咲いています。この花への愛着は強く、《戦友》への気持ちって、これに似ているのかも知れませんね。水遣りをし続けたのですが、押し寄せた泥水を被った朝顔もハイビスカスも、ついに倒れて、ハイビスカスだけが残りました。

『水も滴るいい男』と、見目かたちの好い男を言うそうですが、この一、二週間、引っ越してきたアパートの玄関が、〈水も湧き出す濡れ三和土〉になったままです。水漏れの現場を見てもらって、一週間以上も音沙汰なしでしたので、隣町の住宅管理会社に、今日、電話をしたのです。夕方、再び現場を見に来てくれました。どうも大工事になりそうで、見積もった建築会社と大家さんとの間で、折衝中だと、答えてくれました。

水の動きが、もう一つ分からないのですが、地下の水道管の水が、何かの加減で、四階のわが家に上ってきて、水漏れをしているという訳です。専門家の見立てですから、こう言ったことはままあるのだそうです。私の思いでは、またの引越しになる様な予感がしているのです。

もう両手、両足の指では数えきれなくなってしまう引越し回数です。どこへ行くのか、「旅鴉(たびがらす)」の心境です。若い頃に歌った、

♯ この世では 
貧しい家に住んでいても心楽し
みくにでは黄金の道を手を繋いで歩こう ♭

が口を突いて出てきます。でも、この家は、日当たりがよいので、気に入ってるのです。築20年、引っ越してきて3ヶ月、20年前の設備が、耐用年数を過ぎているのです。さらに台所の換気扇が故障し、水道栓が壊れ、浴室の排水溝から汚臭が立ち上ってきています。昨日、業者の方に点検してもらいました。交換や、大掃除になりそうです。

「人間(じんかん)五十年」と織田信長が謳ったのですが、七十年も生きると、自分自身にも、様々な故障や老朽化が起こって当然なのでしょう。点検整備は、建物だけではない様です。人間は、修理と交換で片付きませんね。でも《生かされていること》を感謝しているところです。それにしても暖かな一月です。
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大寒

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「夫唱婦随」、ネットの辞書には、『夫が言い出して妻がそれに従うという意味の、中国『関尹子(かんいんし)』による格言。夫が言い出して妻が従い、オスが走ってメスが後を追い、オスが鳴いてメスが答えるのが天下の道理であると『関尹子』では説かれるが、現代では単に夫婦仲がよい形容として用いられている。しかし、「夫」も「婦」も音が同じ(中国語でも同じ)であるから、昔の聖人君子がいくら「女はでしゃばるな」と力説しても、現実としては「婦唱夫随」のほうが、仲のよい例えとしてはしっくりくるように感じられる。(CAS)』とあります。

「関尹子」の格言を、まるで、そのままをしている夫妻が、五日間の日程で、家内を見舞ってくださり、週末に、華南の街に帰って行かれました。知人の夫人の運転する車で、JR宇都宮線の古河(こが)駅まで送ってくださり、上野経由で成田空港まで行かれました。京都から訪ねてくださった若き友人が、私に代わって送ってくださったのです。

雪の降らない華南の沿海部の海辺で生まれ育った夫妻は、友人の案内で訪ねた日光の戦場ヶ原の降り積もった雪に、感動したのでしょう、ご主人は、幼い子供がするように、雪原の上に身を投げ出してはしゃいだのそうです。若い人たちの育成に当たっている彼らは、好き夫婦の《モデル》の様に慕われています。

今回も、話の輪の中で、夫人は、夫の語る言葉に頷き、小声でことばを加えておられました。多くの華人のみなさんには、ちょっと〈自信過剰〉の傾向が、日本で育った私には感じられのですが、このお二人は、物をはっきりと言うのですが、遜っておられるのです。お茶注ぎは、若者、しかも女性と相場が決まっている、私たちの社会ですが、私たちの客人が、テーブルを囲んでいるみなさんに、お茶を注いでおいででした。

何度も食事を一緒にしたのですが、夫人が、いつも後片付けを手伝ってくださり、食器洗いをし続けてくれたりでした。華南の街のこの方たちの家でしておられる通りに、わが家でもしてくださったのです。13年前に、天津の周恩来記念館を訪ねた時、結婚間近の若者たちが、そこを訪ねいました。周恩来夫婦が、《理想的夫婦》で、それにあやかろうとしての訪問だと、出会った若者たちが言っていました。

中国でも、夫婦や家庭の問題が、大きな社会問題となっていますから、周恩来夫妻も、今回訪ねてくだったご夫妻も、社会の混乱の中の《道標(どうひょう/みちしるべ)》の様に思われているのです。家内も私も大いに、この再会を楽しむことができました。もう「大寒」です。

(ご夫妻の出身の海辺の様子です)
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日本と日本人

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「物議を醸(かも)す」とは、世間の論議を引き起こすことを言っている様です。使い方を間違えて、「問題発言」や「失言」のことを、そういう風に理解している場合が多いのだそうです。

先日、福岡県直方(のうがた)市で行われた国政報告会で、『2千年の長きにわたって、一つの民族、一つの王朝が続いている国はここしかない。』と、ある政治家が言いました。私は、母が島根県の出身ですから、地理的に考えてみて、きっと、朝鮮半島からの渡来人の血を引いていると、今でも思っています。それで、キムチが好きなのかも知れません。

残念ながら、私たちの国、日本は単一民族国家ではありません。この方の言う「二千年」の間、いえ、それ以前からでしょう、、大陸や北方や南方から、やって来た人たちが住み着いた地であって、「大和民族」だけの国であって欲しくても、そう思うだけで、歴史的、人種的な事実ではありません。

高校の卒業旅行で、北海道に行きました時に、観光化したアイヌのみなさんの村を訪ねたことがありました。明治以降の北海道開拓の動きの中で、農耕や狩猟の民族なのに、自分たちの耕地や猟場を奪われ、村を追われる悲劇を被ったのは、歴史の事実です。その事実を押し隠して、〈単一民族〉だと言うなら、随分浅薄な日本人論をお持ちです。

ブリヤート人の持つ染色体と、弥生人のそれと近いと言われていましたから、弥生人の末裔の私たち日本人の一つの原点は、シベリヤにあるのでしょう。でも、もっと辿るなら、〈エデンの園〉に至るのでしょうか。

札幌の病院に入院した時の病友に、「オホーツク文化」を説かれて、樺太や黒竜江流域に、強い関心を呼び起こされた私は、いつか、網走や樺太やイルクーツクあたりに行ってみたくて、ウズウズしているのです。

さらに私の知人には、東南アジア系の方と見間違う様な方が、何人かおられました。私たちの事務所を訪ねて来られた、東南アジア諸国からの方たちと、瓜二つなのに、日本人なのです。多様性があっての日本人であることを認め、様々な背景の一人一人が、〈醸し出す雰囲気〉で、互いを認め合って、この国の上で生きていきたいものです。

(ブリヤート共和国、ブリヤートの家族です)
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