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サルビアと朝顔が、今朝のベランダで綺麗に咲いています。九州南部の豪雨で、多くの方々が被災され、亡くなられた方も多くおいでです。ここも今朝は雨降りです。生かされてここにあるのは、大きな恵みだと感じております。友人や兄弟や妻や子に思いを向けています。病んでいたり、悩んでいたり、被災されたりしておいでのみなさんが、今日一日の命に、祝福がある様に願うのです。好い一日をお過ごしください。
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明日、七月七日は「七夕(たなばた)」、伝説によると、織女星と牽牛星が、天の川で、年に一度だけ許されて逢瀬を果たす昔話です。星雲を、天空に流れ大河の様に見上げた、古代の中国の人々の感性に驚かされます。
この「天の川」を、「銀漢(ぎんかん)」だと教えてくれたのが、葉室麟が書き表した「銀漢の譜」でした。何年か前に、訪ねてくれた友人が、《面白い本》だと言って、置いて行ってくれた書籍です。そのAmazonの読者の書評に、次の様にありました。
『やられた・・・・久しぶりにすごい作品に出合ってしまった。武士も百姓も関係なく、こころざし高く気骨のある人間がみせる武士道精神。うなるような気迫と生きざまに震えた。濡れ衣を着せられ暗殺された父の仇を討つため、最後は家老にまで のし上がった男。家老になる決め手となった手柄は、藩を揺るがす百姓一揆の弾圧で、その一揆は、皮肉にも身分の違う幼き頃の親友3人が、指揮官と鉄砲隊員 対、百姓一揆のリーダーとして向い合った事件でもあった。私欲を捨て大義のために生きぬいたつもりでも、ほんの少しの気のゆるみやなにげなく振り払った火の粉が、知らないところで人に致命傷を与えているという人間界の非合理さを思い知らされた。現代人が武士の言動に感動するような ぬるい時代小説ではなく、江戸時代の武士が読んでも、きっとこの作品に共感し感涙したはず。 本気で骨太作品です。』
著者は、宋代の「蘇軾(そしょく/蘇東坡<そとうば>とも呼ばれています)」の詩「中秋月」を引いています。蘇軾は、四川眉山の出身で、政治家であり、書家でもあった人です。
暮雲収盡溢清寒 銀漢無聲轉玉盤 此生此夜不長好 明月明年何處看
☞和訳「中秋の月」
暮雲 収め尽くして清寒溢れ
銀漢 声無く 玉盤を転ず
此の生 此の夜 長くは好からず
明月 明年 何れ(いずれ)の処にて看ん
宋代の中国と日本との間には、「日宋貿易」が頻繁に行われ、政治も経済も文学も、多大な影響を受けています。宋銭が日本に持ち込まれ、流通の面で用いられたりしています。この世の雑念を離れて、「銀漢」で友情を回復したいとの願いから、方や上級武士の将監が、百百姓の倅(せがれ)の十蔵に、この詩を書いて渡す、「友情」が素晴らしいのです。蘇軾の生まれた眉山も、島流しにされた海南島も、亡くなった常州(江蘇省)も、どんな所なのでしょうか。千年も前の人なのです。
(”百度全科”の銀漢を撮影したものです)
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日本が《文化的な国》であることを言い表すかの様に、銀座のど真ん中に、1891年に開業した本屋さんがあります。今では、世界中からの観光客、訪問客が闊歩する街、観光の名所にあるのです。かくいう私も、学校の前の停留所から、15円だかの往復切符で都電にとび乗って、お上りさんの《銀ブラ》をしていました。財布に入れるほどのお金を持たないで、ポケットにねじ込んだ、わずかな金しか持たない若者には、目の出る様な値札が付いた物が、あふれるほどに店頭に並べて売られていました。
その本屋の社長で、ある新聞の社主に、何かの用で面会に行ったことがありました。父の知人でした。『今何をしておいでですか?』と聞かれて、アメリカ人起業家のお手伝いをしながら学んでいる旨答えたのです。そうしましたら、この方が、『外国人に雇われているよりも、僕がやっている学校で学んだ方がいいですよ。奥さんは、僕のやっている保育園で働いて、経済的に、あなたを支えられるから!』と言われたのです。
ずいぶん積極的な生き方改革の勧めでしたが、私は、現状維持こそが、導きと言って、そこを辞しました。この方は、旧南満州鉄道の役職に就いておられ、戦後間もない頃には、アメリカ人が開催する講演旅行で、通訳をされていたそうです。外国人に雇われたことで、あまり良い印象が、外国人になかったので、そんな勧めをされた様です。
あの頃、地方にいないで、『東京に出て来なさい!』との勧誘の機会が多かったのです。前の職場で、一緒に働かせて頂いた、父ほどの方から、『用があるから出て来ませんか?』と、あるホテルに呼び出された私は、食事をご馳走になったことがありました。同席していたのがある私立高校の理事長夫妻で、『私たちの学校で働きませんか!』と誘われたのです。
驚いたのは、同時に、私の弟が、その春から教壇に立つことになっていた学校だったのです。弟の話が出て来て、『実は、私の弟です!』と言ったら、ご夫妻も、私を連れ出した方も、目を丸くして驚いていたのです。こんな奇遇なことってあるんですね。また、この一緒に働かせて頂いた方の勤めていた、ある女子大学にも誘われたこともあったりで、やけにこの方に気に入られたことがありました。
そんな著名な哲学者のご子息の誘惑をくぐり抜けて、地方の街で36年、恩師から受け継いだ、日本サイズの小さな倶楽部で働かせてもらいました。それは実に素敵な年月でした。自分の人生の最善の時を、家内と4人の子と、平凡な日々を、精一杯生きたのです。今になって、その街で出会った多くの人たちを思い出しております。まさに瞬(まばた)きの間の出会いと出来事でした。
(“朝日新聞社“による都電です)
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作詞が北山修、作曲が加藤和彦で、アメリカ人のベッツイ&クリスが歌ったフォークソングの「白い色は恋人の色」は、1969年に、多くの若者を虜にしていました。
花びらの白い色は 恋人の色
なつかしい白百合は 恋人の色
ふるさとのあの人の
あの人の足もとに 咲く白百合の
花びらの白い色は 恋人の色
青空の澄んだ色は 初恋の色
どこまでも美しい 初恋の色
ふるさとのあの人と
あの人と肩並べ 見たあの時の
青空の澄んだ色は 初恋の色
夕やけの赤い色は 想い出の色
涙でゆれていた 想い出の色
ふるさとのあの人の
あの人のうるんでいた 瞳にうつる
夕やけの赤い色は 想い出の色
ベトナム戦争の反戦ソングが、日本の若者にも支持され、その流れの中で、多くのフォークソングが生まれました。この歌もそうで、やはり「昭和の歌」という感じがしてしまいます。泥沼の様にベトナム戦争が続き、中国では文化大革命が行われ、わが国では、成田に新東京空港の建設が着手されたりしていた時代でした。
日本人歌手が、アメリカの歌が翻訳されて、それを歌うことばかりでした。そん中、外国人の女性が、ギターを奏でながら、日本語で歌うということは、それまでありませんでした。しかもケバケバしくなくて、清楚な服装で、楚々として歌ったのですから、日本人、とくに若者たちが騒ぎ立ったのです。かくいう23の私も、アメリカ映画に出てくる様な、真っ赤な口紅と深いアイシャドウの出で立ちでないのが気に入ってしまいました。
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作詞の北山修は、作詞家ですが、精神科医で、大学教授を歴任しています。隣の小山市にある白鴎大学の副学長を勤めたりした方です。作曲をした加藤和彦は、”ザ・フォーク・クルセダーズ“ のメンバーの一人で、当時、日本の社会に衝撃的をもたらせた「帰ってきたヨッパライ」を作曲しています。友人に精神科医の北山修がいながら、軽井沢で60過ぎてから、うつ病が昂じたのでしょう、自死してしまいました。多くの人に、感動や安らぎを与えた人のその後の人生には、違ったことが起こってしまうのは、残念なことであります。
私は、社会人2年目で、全国で開催される研修会のお世話で、飛び回っていました。この歌がはやる前年の暮れに、〈三億円事件〉が、府中市内で起こり、私の働いていた職場にも、刑事がやって来たのです。事件は、未解決のまま今に至っていますが、犯行現場は、高校の運動部の冬季練習で、塀の周りを三周した、府中刑務所の北側の塀の外でした。
久しぶりに、この「白い色は恋人の色」を口ずさんで見ると、幼い日や、青春の日々が思い起こされてきます。ふるさとの野花や夕焼けは、瞼(まぶた)の底に焼き付いている様です。父や母がいて、兄たちや弟、近所の遊び仲間、学友などもいて、そんなに豊かではなかった時代の中で、嬉々として遊び、喧嘩し、悪戯をしていた日々が幻の様です。「白い花」が眩しかった50年も前の《わが世の春》でした。
「“Photo Chips”から白い花、ベッティとクリスです)
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昨秋11月1日に越してきたアパートの4階のベランダに、今季第一輪目の「朝顔」が、開花しました。大陸から、悲しいニュースを聞いた翌日の朝顔です。華南の街の家のベランダでも、毎年咲かせてきたのですが、今年は暗い思いの朝の開花なのです。
成績表を、学校の教務課に、定期試験の成績表を提出して、ビサの更新もかねて帰国を考えて、いつもの街と関空や成田からとは違うコース、香港経由で帰ろうと計画していました。それが実現し、香港空港でのトランジットで、空港で過ごした時は、言い知れない〈自由〉が感じられ、肩の緊張、いえ心の緊張が、〈プツン!〉と弾け飛ぶ様な経験をしました。
そんな気分が、もう味わえない様な時代を迎えてしまった様です。同じ中華系の人でも、この国の人たちの表情が全く違うのは、シンガポールや金門島に行った時に感じたのと同じです。2006年の夏に、この香港で、1週間過ごして、九龍駅から北京行きの寝台列車に、ブラジルやイギリスやアメリカからの若者たちと同乗の旅でした。なんとも言えない気の張り詰めた思いで、北京南駅の駅頭に立った日が、記憶に鮮明です。この国の祝福と、この国のみなさんの平安を願っております。
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八王子に、「千人町」という町が、甲州街道(現国道20号線)沿いにあります。戦後間も無く、父は、中部山岳の山の中から、四人の男の子たちの将来の教育を考えて、この八王子に引っ越したのです。戦時中に、軍需工場の軍務を果たし、戦後は、鉱石を運んだ「策動」を使って、国有林や県有林から木材を伐採して、京浜などに送り出す仕事をしていましたが、父の転居の理由は、山の中での仕事が一段落したからでもありました。
そして今、家内の入院、退院後の治療のために、ここ栃木に住むことになったのですが、その八王子と、ここ栃木とには、かつて近い繋がりがあったのだそうです。その八王子には、甲州路から、江戸に入る甲州街道沿いに、江戸防備のために「八王子千人同心」を配備されていたのです。後に、東照宮の「火の番」の日光勤番が命じられて、居住地の八王子から、裏街道で四十里で、ここ栃木を経て、日光との間を、三日半で駆けつけて任務に当たったのです。
それが「千人同心街道」と呼ばれていたのそうです。ここ栃木の宿も、交代勤務の40人ほどの同心の常宿だったかも知れません。または、夜通し歩いて通り過ぎたことも考えられます。その道中記に、次の様に記されています。
『八王子千人同心が日光東照宮勤番のために整備した街道で、甲州街道・横山宿先の千人町から日光東照宮までの40里(約160km)。宿次も整備された脇往還。 街道名は日光脇往還、日光火之番街道、日光裏街道などとも呼ばれ統一された街道名は無かった。八王子・千人町を出発した街道は多摩川を渡って拝島に入り、入間、坂戸、東松山、行田、館林を通って栃木県佐野の天明宿まで。その先は 例幣使街道、 日光西街道、 日光街道を通って日光東照宮に至っている。』
八王子市史にも、次の様にあります。
『千人同心に命じられた重要な役目が、慶安5年(1652年)から勤めた日光火の番でした。日光は、東照大権現として家康がまつられた東照宮があり、幕府の精神的なよりどころでした。
千人同心は、その東照宮の防火と警備にあたり、境内や町内を見回り、いざ出火となれば消火活動にあたったのです。八王子から日光までは、当初は江戸に出て千住から向かうルートを通っていましたが、多くは八王子から拝島方面へ向かい、松山(埼玉県東松山市)・佐野(栃木県佐野市)を経るルートを利用しました。三泊四日の旅程でした。
当初は千人頭2名と100名の同心が担当し、50日期間で交代する体制でした。その後何度か変更され、最終的には寛政3年(1791年)に千人頭1名と同心50名で半年交代で務める体制になりました。この役目は江戸時代を通じて勤められ、慶応4年(1868年)に千人同心が解体するまで続きました。
この年、既に幕府は瓦解し、新政府軍と旧幕府勢との間で戦いが始まっていました。やがて新政府軍は日光にもやって来ました。この時、日光火の番を勤めていた千人頭が、石坂弥次右衛門義礼(いしざかやじえもんよしかた)でした。義礼は、刀を交えることなく新政府軍に明け渡し、東照宮を戦火から救いました(その後、義礼は八王子に戻りますが、責任を追及する声もあり、帰郷した夜に切腹してしまいます)。』
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如何に、江戸幕府、徳川体制が強固なものであったかが理解されます。私の弟は、その同心の一員の末裔の方と懇意で、子どもの頃に遊びに行ったりして、いろいろな話を聞いていた様です。徳川幕府の防備の任務を託された誇りが、昭和の八王子同心の末裔にも宿っていたのです。
毎年、京都を四月一日に発って、十五日に、日光に到着した「例幣使」は、年に一度の務めでしたが、「千人同心」は、四十里を歩き、半年交代の五十人体制の勤務を、八王子、そしてここ栃木を経て、日光に至る道を辿って、倒幕まで勤番を勤め続けたのです。千人町の街道筋、今の20号線の沿道は、「銀杏並木」があって、秋の紅葉の紅葉の時期には、黄金色に彩られて、それは見事です。
(日光杉並木の古写真、〈八王子いちょう祭〉の様子です)
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「観天望気(かんてんぼうき)」とは、生物の行動や自然現象(雲や霧の様子)を観察して天気を予想することです。
例えば、観天望気には、
「夕日が出ると次の日は晴れる」
「おぼろ雲(高層雲)は雨の前ぶれ」
「山に笠雲がかかっていると雨が降る」
「カエルが鳴くと雨が降る」
「猫が顔を洗うと雨が降る」
「ツバメが低く飛ぶと雨が降る」
などがあります。
高層雲は温暖前線の接近を、笠雲は水蒸気を多く含んだ空気が強風によって山にぶつかる事でできます。必ずそのような天気になるとは限りませんが、登山などの際には観天望気によって事前に注意する事ができます。
これからの天気の兆しが、自然界に現象として現れるので、いろんな〈お天気の諺〉があるのです。下駄履きの子どもの頃、本気で履いてる下駄を、足で放り上げて、『明日天気になーれ!」と願ったことがありました。
“ Red sky at night shepherds’ delight ; Red sky in the morning, shepherds’ warning.”
(イギリス/夜の赤い空は羊飼いの喜び、朝の赤い空は羊飼いへの警告)
日本の表現は、「夕焼けは晴れ、朝焼けは雨の前兆。」
“ The ash before the oak、Choke, choke, choke,The oak before the ash、Splash, splash, splash.
(トリネコが先なら 乾く・焦げる・枯れる オークが先なら 水が雨がザブン, ザブン, ザブン)
[意味] トリネコの木がオークの木より若い芽を出したとき, その年の夏は乾燥が進むであろう. 作物にとっては厳しい環境になるだろう. オークの木が先に芽を出したならば, その年は温かく湿った空気が入るだろう, 雨がいっぱい降る事を示している.
「東の虹は晴れ、西の虹は雨」
「アリが巣をつくると雨が降る」
「綿雲は雨が近い」
「朝、入道雲が出ると午後は大雨」
中国の農村で言い伝えられている天気を予報した諺です。
それにしても、近年、気象異常が続き、その激しさは増し加わっています。中国の南部は大雨で洪水、東北部は雨が降らずに干ばつだと言ってきました。長江の上流では、洪水が頻発していて、「三峡ダム」は、いつでも崩壊の時を迎えるのではないかと警告されているのです。
長崎県下では、異常な豪雨だったと聞いて、わが家の眼下の「巴波川」は、今年は、どうなることかと思ったりしております。昨秋以来、四階住まいですから、洪水に襲われても、床上浸水の心配はなさそうですが、増水で外出ができなくなる可能性がありそうです。それで、雨靴と長靴を、ホームセンターで買ってきました。
また次男が、携帯用のソーラー充電器を持ってきてくれました。また娘がカンテラを買うと言ってくれました。電池と水と携帯ガスコンロなども、言われて買い求めてあります。食糧の備蓄でしょうか。備えあれば憂いなし、ですね。
(“weather news”の環状アークの映像です)
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空から降ってくるのは、普通ですと、雨や雪、ほとんどないのですが、季節によっては雹(ひょう)などがあります。先頃、上海の街で、時々、豆腐や墨汁などが降っているとのニュースを読んだばかりです。そうです、空からではなく、屋上階の窓から捨てられた物なのです。
私たちが住んでいた華南の街の師範大学の教員住宅の建物で、『ボタン!』と音がしたので窓から見ると、ゴミの入ったプラスチックの袋が、見事に破れて、残飯が飛び、建物の間の通路上に散っていました。最近入居された上階の人の仕業でした。それまで、そんなことはなかったからです。
そこから移り住んだ、その街で、二番目によく管理されていると、高く評価された小区の中の一棟の二階に住んでいた時、時々、窓の外で、便や尿の臭いがするのです。なんだろうと思って、植え込みを見ますと、〈あのペーパー〉が引っかかっているのです(ごめんなさい尾籠な話です)。
中国では、シェアーハウスの様に、一軒の家に、複数の世帯で、多人数で住む場合が多くあるのです。天津で住み始めた時、一軒家に、8人の社会人が住んでいました。家賃を分け合って住んで経費を節約するためなのです。それで問題は、トイレの数です。間に合わない時に、何らかの方法で用足しして、処分に困って窓から遺棄するのです。
まさに異臭は、それが原因でした。幸いなことに、管理事務所に言う前に止みましたが、私は、その非常識にフンガイしたのです。常識は文化が決めるので、現実を認める以外に、違った文化圏で生きられないことになります。それでも中国で日常茶飯事の問題を規制する動きが、最近になって出てきているそうで、法整備がなされ始めています。住む街は、亜熱帯気候地帯でしたから、夕立や雷雨の激しい雨が洗い流してくれるのは感謝でした。
実は、ロンドンでも、パリでも同じ問題が、前近代にはあったそうです。上階の窓から、道路の上に、なんでも捨てられていたそうです。そのことを思い出して、”サモアラン“ で、その街で生活していました。
今、6階建てのアパートの4階に住んでいますが、騒音も物捨ても放置も、まったくありません。気遣いをしながら、みなさんが生活されておいでです。この春、隣家に生まれたスズネちゃんの元気な泣き声だけが、時折聞こえてきます。今は、長閑(のどか)な日々であります。
(友人が送信してくれた「大平山」の山麓の紫陽花です)
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