華々しいオリンピックの陰で

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「ですから、私(パウロ)は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(新改訳聖書 2コリント12章10節』

 六十一の時に、家内を誘って、お隣の国に参りました。念願の中国の学校に留学して、中国語を学習し、教会の活動に参加するためでした。天津の街の外国人専用の「中国語中心」の学校でした。交通大学の附属校だったのです。イギリス、ドイツ、ニュージーランド、オーストラリア、カナダ、アメリカなどからの留学生たちがおいでで、同じアパートに住んで、交流もあったのです。

 自転車通学で、大通りを懸命にこいで、通学したのですが、帰りには、街中に行ったりしました。日本の牛丼の「吉野家」が開店されていて、ドイツから夫妻で来られておられた方に誘われてお昼御飯時にうかがったのです。漢字の屋号は、まさか日本の店だとは気づかないでいたので、『この店は日系なんです!』と、得意になって教えてあげました。

 ここには、トヨタ自動車の工場があって、そこに勤務する日本人が多くおいでで、「日本面包(mianbao/パン)店」や「伊勢丹」まであったのです。アンパンを、家内が小一時間の距離を、よく出かけて買ってくれたのです。寸分違わない味がして、急に日本が恋しくなってしまいました。

 その様な日系企業の展開を、身をもって触れてみた反面に、明治以降の日本の大陸進出、侵略の名残も目にしたのです。この街の中に、博物館があります。語学学校の研修の一環で、見学会があって参加したのです。どこも同じなのですが、その規模の大きさに驚かされるほどで、有史以来の街の歴史が、「panoramaパノラマ」の様に工夫されて、展示されてありました。

 日本軍の放った火で、街が真っ赤に燃え落ちる様子が、壁面に大きな規模に描かれていたのです。当時の天皇や政府の指導者や軍の幹部の名前も写真も掲げられて、そこにありました。

 この街に、「五大路」と名付けられ、表示のある交差点があります。この近辺は、「租界(そかい)」のあった地域でした。その岐路の食べ物屋やホテルや商店があった様な、街並みが現存していました。goo辞書に、「租界」が次の様に記されてあります。

「中国の開港都市において、外国人がその居留地区の警察行政権を掌握した組織および地域。1845年、英国が上海に設けて以来、一時は8か国27か所に及んだが、第二次大戦中にすべて返還された。一国が管轄する専管租界と複数国による共同租界があった。」とあります。日本の租界の入り口には、『中国人と犬は入るべからず!』と掲出されてあったそうです。」とです。

 上海の他に、天津、漢口、杭州、蘇州、重慶などに租界があって、いわゆる治外法権の「外国」だったのです。いろいろな蛮行が行われた街だった様です。私は、この博物館に滞在した間、頭を上げられないような思いで過ごしたのを、昨日に様に覚えています。

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 先日、友人牧師の便りの中に、100年前に開催された「パリオリンピック」の400m競走で、金メダリストに輝いた、Eric Liddell (エリック・リデル )が活躍したことが記されてありました。このエリックが生まれたのが、この天津でした。エジンバラ大学に進学して、陸上競技選手として花開き、イギリス代表として活躍しました。その彼を主人公に、「炎のランナー」という映画が、上映されました。

 エリックは、大学を捨業すると、両親のいる天津に、宣教師として出かけました。カナダ人の婦人宣教師と結婚して宣教を開始しますが、間もない1931年に満州事変が勃発し、1941年には、本国のイギリスから、退避の勧告がなされ、夫人と子どもは帰国させ、リデルは単身天津に留まるのです。1943年には、天津から遠い、山東省濰坊にあった「捕虜収容所」に送られ、そこで病を得て、1945年2月21日に、エリック・リデルは亡くなるのです。

 この収容所でに出来事を、次の様に期した記事がありますので、引用してみます。

『・・・敵国人収容所でも、エリックは聖書の勉強会を開き、子どもや若者たちの心を魅了します。その中に17歳の少年もいました。「汝の敵を愛せ」と、エリックは説きます。が、敵である日本人を愛することなどどうしてできるでしょうか。スティーブン(Steve Metcalf)の自伝によれば、日本人の中国支配は凄惨を極めます。西洋人は闇市で捕まっても1~2週間の独房入りで済みますが、中国人は電気柵で首を吊るされ、見せしめにされたそうです。無抵抗の中国人漁師が日本軍の戦闘機に銃撃され、殺害されるのをスティーブンは間近で目撃したこともあるといいます。

 この若者は「汝の敵を愛せよ、という言葉は理想に過ぎない。日本人、特に日本の憲兵を愛することなど現実的には不可能だ」という結論を出そうとしていました。そのとき、エリックは静かに語ります。「聖書には『汝を迫害する者のために祈れ』という言葉があります。私たちは愛する者、好きな人のために祈ります。しかし、イエスは、好きではない人のために祈りを捧げなさいと教えています」。そして、こう続けます。「人を憎むとき、あなたは自己中心的になります。祈りを捧げるとき、あなたは神中心の人間になります」、と。

 スティーブンは伝説の金メダリスト、エリックと二度一緒に走り、一度だけ勝ったことがあるそうです。エリックはスティーブンに「君のシューズはもう修理できないほど擦り切れているね」と言ってランニングシューズを手渡してくれました。その3週間後の、1945年2月21日、エリックは他界します。スティーブンはエリックからプレゼントされたランニングシューズを履いて棺を担ぎます。「日本人のために祈りなさい」。この言葉を神からの「啓示」として受けとったスティーブンは、後にエリックのバトンを受け継ぎます。

 広島、長崎への原爆投下で、戦争は終わります。スティーブン少年は生き延びて、オーストラリアに移住しますが、マッカーサー連合国軍最高司令官が1948年、日本へのキリスト教伝道のために若い宣教師を募っているのを知り、神学を学んで、1952年日本へ行く決心をします。戦争の「隠された記憶」の一つです。私たちはこの記憶を若い世代に継承していく責任があります。それもまた教会の宣教の重要な責務の一つではないかと思うのです。』(真駒内教会 高橋 一牧師記)

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 青森市で伝道した方の、その様な証を読みますと、自分の母教会を開拓してくださった宣教師、その宣教師の証に啓発して、日本に来てくださった宣教師たちが、この方に続いたのです。私の知っている婦人宣教師は、日本軍が、戦場で繰り広げた兵士たちの酷い行いを目撃し、こんな蛮行をしている日本人には、「キリストの福音」だと信じ、戦争が終わってから、日本にやって来られて、「十字架に死なれて蘇られたキリスト」を述べ伝え始めたのです。

 日本占領軍の司令官が、日本宣教に、多くのアメリカ人宣教師を送ったのです。その内の一人が、母教会を始められた宣教師さんでした。病んだ若き日の家内を、大変支え、仕えてくださったご夫妻でした。ここから、幾つもの教会が、各地に建て上げられて行きました。教会は、多くの苦労を経て、その地域に確立されて行きます。どの働きも困難の後に、この牧会を任される日本人牧師の伝道の基礎を築かれたのです。尽きるところ、教会は「キリストの体なる教会」なのです。天津にあった教会も、華南にあった教会も、米英から遣わされた宣教師のみなさんによって始められていました。

(ウイキペディアによるエリック・リデル、天津の位置、青森市の市街地です)

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この夏、パリであったこと

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 よく泣きじゃくっている女の子を、昔、目にしました。わが家の娘たちは、ポロリと涙を落として、くやしさを飲み込んで、『まあいいか!』で、思いを変えて、前を向いてまた歩き始めていました。

 そんなことを思い出させた出来事が、花のパリであった様です。あたりかまわず号泣したのです。それで、男でなかったのが分かって、ちょっと安心しました。子どもっぽくて、いいなと思ったのです。そうそうできないことを、今回して、すっきりしたことでしょう。一度してみたかった私ですが、そんな機会が残されているかなの、猛暑の夏です。

(ウイキペディアのエッフェル塔とセーヌ川です)

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子育ての頃に

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Pearl Harbor, Hawaii (Aug. 29, 2003) — Sailors and Marines aboard the amphibious assault ship USS Peleliu (LHA 5) render honors to the USS Arizona Memorial and the Battleship Missouri. Peleliu will be inport for a couple of days before heading out with Expeditionary Strike Group One (ESG 1) on deployment. An ESG constitutes a new naval strike force designed to equip amphibious forces with added firepower and operational capabilities. The seven ships of ESG 1 include, USS Peleliu (LHA 5), USS Germantown (LSD 42), USS Jarrett (FFG 33), USS Ogden (LPD 5), USS Port Royal (CG 73), USS Decatur (DDG 73), and USS Greeneville (SSN 772). U.S. Navy photo by Photographer’s Mate 1st Class William R. Goodwin. (RELEASED)

 

 「ピューリタン(清教徒)」の信仰を受け継いだのでしょう、アメリカ人の宣教師さんは、テレビを持ちませんでした。ジョージアの田舎町で、GEの大きな電気店の御曹子でしたが、日本語が分からないこともあり、テレビを観ませんでした。アメリカ建国初期の信仰者の生き方を受け継いだのでしょう、けっこう世俗から距離を置いて生活をしていた様です。でも禁欲主義者ではありませんでした。よくマクドナルの店で、ハンバーグを美味しそうに食べてるのを、通りがかりに見かけました。

 この方と九歳違いの私は、世俗の人間で、巷をウロウロしながら生きてきて、25でやっと母の信仰を継承しました。この宣教師と一緒に働きましたから、子育て中、テレビを置きませんでした。それでも子どもたちは、友だちの家に遊びに行っては観ていた様です。私は、その自由を彼らに与えました。

 テレビのこれでもかこれでもかの攻勢に勝てなかった私は、個人的な理由もあって、テレビを置かなかったのです。そんな家庭で育った子どもたちでしたが、親の信仰を継承し、決して変人にはなりませんでした。長男は、牧師になってしまいました。ハワイの高校で、『真珠湾攻撃を、どうしてくれる?』と責められた彼は、それに抗して、『それでは広島と長崎はどうしてくれるのだ!』と言い合いをして、それが喧嘩になってしまったのです。そんな喧嘩のできる子で、安心したのを思い出します。

 喧嘩両成敗で両者が停学になっています。それでも、牧師夫妻が息子を理解してくれて、次の学年は、カリフォルニアの学校に転校したのです。三年時には、再びハワイの学校に戻ることができ、なんと優等生で卒業したのです。その学校側の言い方が、面白かったのです。『日本人なのに、よくがんばったで賞!』だったのです。

 「蹉跌(さてつ)」という言葉があります。主に青年期に、未熟さが原因するのでしょう、物事がうまく運ばないで、失敗経験をすることがあります。挫折やつまずきのことです。そんな風に決定した学校も寛容だったのでしょうか、復学の機会を与えてくれたのです。失敗で、一生を棒に振ることがなかったのは、彼にとっては救いだった様です。

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 学校を終えて親元に帰って来て、その秋に、オレゴンのコミニティー・カレッジに入学をしたのです。授業料が安かったからです。けっこう地味な科目を専攻して、三年時に、州立大学に編入し、卒業をしたのです。留学時には、中学での英語は得意でしたが、ハワイ英語に慣れるまでは、チンプンカンプンだったそうです。親の援助を当然とは考えず、彼を受け入れてくださった教会と牧師さん、ホームステイをさせてくださった教会のメンバーの方の好意があった学びの時でした。

 家内と彼の卒業式に参列しました。日本で見られる様な、きちんと整列などしない卒業生たちは、思い思いに自己表現をしていました。後ろの席で、風船を膨らませて飛ばしてもいたのです。式の流れを損なうことのない、その自由さを見て、アメリカ教育の良さを再評価した時でした。

 ハワイに戻った彼は、その牧師さんの勧めもあって、教会スタッフとなって、教会の中で多くを学びながら、奉仕をし、神学校で学ぶ機会を得たのです。15の日本の男の子を受け入れて、お世話くださったみなさんとの関わりで、彼は伝道者の道を選んだのです。その牧師さんの人格的、信仰的な感化を受けたからでした。その経験は、彼の生涯の宝物に違いありません。

 今は、一緒に学んだ方と、一つの教会を導いて、次世代の二人の子の父親として、子育てにも当たっている今であります。人との出会いは、その人の人生を変えるのでしょうか。ビジネスマンになって生きていくのだろうと思いましたが、自分と同じ道を選んだことを、家内と感謝しているのです。

 この兄の進んだ道に倣って、妹たちと弟は、ハワイやオレゴンで、同じ様に学び、教会と関わりながら、それぞれの道で生き始めて、今や子育ての後半期に至っています。もう40〜50代の彼らなので、家内も私も歳をとるわけです。この二人、テレビなしで、今でも生きているので、やはり変人なのでしょうか。

(ウイキペディアによる神獣湾のアリゾナ・メモリアル、ハワイ島にあるカメハメハ大王像です)

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教会の願う「マラナ・タ」

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「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。

ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。

私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、

その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。

しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、

キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、

どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、

キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(新改訳聖書 ピリピ3章3~14節)」

 これは、十数年前になりますが、アメリカのフラー神学校の研究報告の一部です。

  1. 毎月1500人の牧師が辞めていく。理由は道徳的失態、霊的枯渇、教会内での対立など。
  2. 結婚した牧師のうち半数は離婚に至っている。
  3. 牧師のうち8割は自信喪失や失望を感じている。
  4. 5割の牧師は失望して職を辞したいと考えるが、代わりに生計を立てる職の見込みはない。
  5. 神学校、聖書学校卒業生で牧師になった者のうち8割は、最初の5年以内に職を去る。
  6. 7割の牧師たちは鬱を抱えている。
  7. 約4割近い牧師が牧師になって以降不倫を経験している。

 アメリカという社会と、キリスト教世界と同じように見るべきではないのですが、教会もまた例外なく、この世の動きに強く影響され、反応しています。一旦牧師になって、生涯、その召命を全うするには、その人の努力ではなく、「召命の確かさ」が必要だと言うことでしょうか。その召命を確かにされるのは、「教会の主」であるキリスト・イエスさまでいらっしゃいます。

 主に仕えたい願いは、誰にもあります。すでに亡くなられましたが、ビリー・グラハムやアフリカ伝道をされたドイツ人のラインハルト・ボンケなどの働きに啓発されて、献身した人たちが大勢おいでです。グラハムの場合ですが、第二次世界大戦の終わった後、アメリカのキリスト教界に、三人の若い伝道者が立ち上がりました。

 その一人が、ビリー・グラハムでした。他の二人は目覚ましい働きをして、アメリカ社会から脚光を浴びました。一人は、Hollywoodの映画スターの様に光輝いた働きをしたのです。ところが残念なことに、女性問題を起こして、伝道の世界から間もなく消えて行きました。もう一人の若き伝道者も、たくさんの人を救いに導いた成功的な伝道者だったのですが、大いに用いられながらも、麻薬問題で身を誤り、成功的な伝道を終えてしまいました。

 残ったグラハムは、その二人に比べて目立つことのない、地味な奉仕をしました。それは堅実で、その99年の生涯、伝道の働きに留まり続けました。主なる神さまは、彼を用いられたのです。もちろん人間的な弱さは、グラハムにもありましたが、主の名を汚すことなく、主のみ許に帰ったのです。

 貶されたり、非難されたり、非難を受け、また叩かれ、鍛えられ、純化され、《謙遜さ》を身に付けられるようにして、グラハムは奉仕を続けたのです。成功しても驕ることなく、たとえ失敗しても卑下しないでいました。神に召された人は、その神に依り頼み続けることが肝要です。忠実さが、彼の働きの輝きだったと言えます。

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 キリスト教伝道は、自分の願いではなく、たとえ自分の願いであっても、時間と経験によって試されて、「召命されたこと」が、多くの教役者たちによって、承認される必要があります。そして、これが大切な要点ですが、複数の教役者が、その人に、務めへの召しがあるかないかについて、証明してもらう必要があります。教会の主でるイエスさまは、聖霊なる神さまと共に、主に仕える者を、「按手」によって膏油注ぎをされます。

 すでに主に支えてきた経験豊富な教役者たちの按手によって、霊的な承認がなされる必要があるのです。「教会の主」に仕え、主の働きの責任を確かにすることです。その任職が、人間や団体によるだけではなく、「教会の主」から出たことであることを立証する必要があるからです。

 また、伝道者として奉仕する上で、“ mentor ” を持つ必要があります。もし人格上や行動の中に、相応しくないところがあるなら、端的に指摘し、責めてくれる人を持つことです。涙を流して祈って、助言してくれる器です。また同輩の教役者がいて、霊的にも人間的にも、互いに感化し合い、刺激し合い、指摘し合い、叱責し合うことを必要とします。

 パウロは、宣教奉仕の上で、起こった問題の解決を、エルサレムに上って、そこにいる使徒団(イエスさまの弟子たち)に、相談したり、意見を求めて、委ねました。また、宣教の働きが一段落すると、アンテオケの教会(多分母教会でしょう)に帰ったのです。そこでは、一人の信徒としてでしょうか、その群れの中で時を過ごしています。

 祈りの必要を、自分を委ねた群れへの奉仕を、物心両面で支援してくれることを、その教会に要請し、祈って支えてもらいました。その様な時を過ごして、再び宣教のビジョンを持って、他の地に出掛けて、宣教を再開し、継続したのです。テント(天幕)を作りつつ、実業にもついて宣教をしています。一匹狼的な牧師は、神の国の進展のためには、奉仕を続けることは困難なのです。

 本当の意味で、叱責してくれる先輩教役者、同輩、霊的な頭が必要です。そう言った器を持っていないなら、それを、主から頂かなければなりません。それで、「謙遜」を学ぶことができるのです。イエスさまこそ、謙遜なお方でいらっしゃったからです。

 教役者、主の働き人は、主が選ばれて、任職されます。選ばれたら、それを奉仕によって証明しなければなりません。そのためには教会の中に、祈ってくれる兄弟姉妹が必要です。霊的にも、精神的にも、経済的にも支えてくれる兄弟姉妹を持つことです。エジプトの奴隷の家から、同胞を導き出したモーセは、義理の父親の助言を受け入れました。主が、モーセを教え、導くのに、異教徒の義父を用いられたのです。

 教役者は、その選びの故に、尊敬されるべきです。人間的には、低い教育しか受けていなくても、話し方が上手でなくても、主と人とを愛しているなら、主の御用に用いられます。不足やおかしいところがあれば、主は、様々な方法で、その器を変えて、矯正してくださいます。

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 牧師が信徒を育てるだけではありません。信徒が牧師を育てて行くのです。神学校が育てただけではありません。遣わされた地方教会で、育つていくのです。そう言った献身、奉仕の道があっていいのです。学位とか教科の履修も必要かも知れませんが、主の僕としてのあり方は、初代教会に見られた養成のかたちでも良いのです。

 ある一人の牧師にあったことです。神学校を出たてで、牧会者になった方が、まだ経験的に若かった頃、いつも反対意見を言い、自分の言うことを聞いてくれない老信徒がいたのです。ところが主の日、日曜日の礼拝になると、その方は、早めに教会に来て、いつも座る自分の席に着いていました。『今朝の日曜礼拝で、主は、この牧師を通して何を語ってくださるか!』との怖れと期待とを持って傾聴したのだそうです。

 「神のことば」を待ち望み、経験の浅い教役者の語る説教を、真剣に聴いてくれたそうです。長い牧会をへて、この方は、教団の議長にもなるほどでした。この牧師は、その若い頃に、自分の教会にいた年配の老信者が、『私を育ててくださいました!』と述懐していました。

 ホーリネス信仰に立つ、牧師のお父さんは、戦時下の弾圧で入獄中に獄死しています。15歳で刑務所に、お父さんの亡骸を、お母さんと二人で貰い受けに行きました。戦争が終わり、彼は献身し、叔父さんに導かれて神学校に行き、お父さんと同じ牧会の道に進みます。

 お父さんの再臨一辺倒な聖化だけ、伝道の熱心さを強調する教えの信仰上の不足、脆弱さを反省したのです。しっかりした「信仰告白」の大切さを大事にして、立派な教会を作り上げられたのです。

 どこの国にも、特別な事情や背景があります。でも、どのような体制下の教会でも、「教会の主」は、イエスさまです。聖霊は、十字架に死んで、贖いを成就されたイエスさまの働きを、共に継続して行われます。「教会の主」は、教会を確立されるのです。その証を強くされます。そして待ち望む私たちを、やがて迎えに来てくださるのです。伝道者の必須の経験は、「聖霊に満たされること」ではないでしょうか。

 神学校で学んで、優秀な成績を修めた方は、優越感と闘い、そういった教育を受けないで伝道者となった方は、劣等感と闘うのです。不足を覚えているということが、健全性や霊性や品性を保ってくれるのです。人を自分よりも優った人と認めつつ、自分を卑下し過ぎないことも大切です。そこに健全な「福音」に従う群れ、教会が起こるのです。

 人の集まる教会には、様々なことがあります。それでも、教会は、「主の教会」、「キリストの教会」であります。人間の集合体でありながら、神に属するのです。この教会を、間も無く迎えに、イエスさまはきてくださいます。それゆえ、教会は『マラナ・タ(1コリント16章22節、主よ来てください)』と言うのです。

(Christian clip arts によるイラストです)

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私の美しい心臓を見て

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『それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。
私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。(新改訳聖書 詩篇139篇13~16節)』

 これまで、「幸福論」を書き著した人がたくさんおいでです。何冊も読みました。それは取りも直さず、『人は誰もが幸せになりたい!』と言うことと、『だれも幸せの境地に達していない!』との結論になるのでしょうか。なんだか蜃気楼のようなもので、近づくほどに遠のいてしまい、煙のようにつかむことのできないものだと言うのでしょうか。

 南カリフォルニア大学教授のリチャード・イースタンが、「幸せをもたらす要因」を上げていました。『愛する者との質の高い時間、健康、友人、楽観人生観、自制、高い倫理基準を保つことです!』との報告ででした。これは、1975年以降、1500人/1年間の長年にわたる調査結果によるものなのです。この調査報告を読みますと、この6つの条件を満たすことによって、人は幸福になることができそうです。これを要約しますと、〈時と人と自分を大切にすること〉が、幸せになるための要点になるのでしょうか。

 家内の母方の祖母が、『人生って、「こんにちは!」を言ったら、もうすぐに、「さようなら!」を言わなければならないよ!』と言ったそうです。自分の生きてきた方を振り返って見ても、なんと時間の経つことが速いことでしょうか。立川の超満員の映画館で、大人たちの背中が邪魔で、スクリーンが見えなかった時に、『早く大人になりたい!』と本気で思いました。

 タバコを吸ったりお酒を飲んだりして、早く大人になりたくて、背伸びばかりしていた中学3年くらいで、ほぼ大人並みの身長173cmに私はなりましたから、背格好だけは大人になりつつありましたが、肝(きも)は小さくて幼く、まだまだ未熟な自分を強烈に感じていました。

 『もっと確り勉強しておけばよかった!』と、後になって悔やむような学生時代を過ごしました。中高の恩師の紹介で、社会人になり、一人前の顔をして、あちこちと出張して、本物の大人の社会に突入したのです。そして、ついに一人の「佳人(かじん)」と出会って結婚し、子どもが四人与えられて、二人で夢中で育てました。かつて親にしてもらった様に、自分に養育を委ねられた子どもたちにもしてあげることに責任を感じたのです。

 下の息子が二十歳になって、『バプテスマを授けたい!』と言って帰ってきました。山間の清流で、長男と二人で、彼にバプテスマを施し終えた時、『親がすべき義任を果たし終えた!』と思ったのです。それでも、大人になっていく四人の相談に乗ったりしてきましたから、親子の交わりは、親である私たちにも子どもたちにも必要でしたし、これは子どもたちがいくつになっても変わることのない、〈親子関係〉に双方があるからなのでしょう。

 その子育て中ほど、充実していた時代はなかったのではないでしょうか。もちろん仕事をしながら、父親としての責務を遂行していたのですが、夕には疲れて熟睡し、朝には目覚めて新しい日の責任を負いながら、日を重ねていたのです。私は疲れれば、車を走らせて山奥の温泉につかったり、蕎麦やラーメンを頬張りに行ったりして、気分転換をはかる機会もありました。

 ところが家内は、四人分のオシメの洗濯の日々を重ね、三度三度の食事を用意し片付けるという、とてつもない同じような日々を積み重ねて(もちろん四人の子どもたちの成長を実感する喜びはあったのですが)、まあ息をつく暇さえなかった年月だったのです。『申し訳ない!』、『女、いえ母親は強いなあ!』、と言う想いです。病む暇のなかった家内が、隣国で病を得て、今も治療薬の後遺症と闘っている家内を見ての率直な思いなのです。

 そんな家庭でしたが、人の出入りが多かったのです。一時は十人くらいで、一緒に生活をしていたこともありました。『あの人たちは、今、何をしているんだろう?』と、消息のわからない方が何人かいて、少々気がかりです。タバコも酒も飲まず、悪い遊びをしないで過ごした日々は、まあまあ質の高い日々だったでしょうか。

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 友人も、中国にも日本にもアメリカにも、そこそこいますし、健康であったと言えるでしょうか。39才の時に、ドナーとして腎臓の摘出手術をしたり、屋根から落ちて肋骨を折って入院したり、自転車で転倒して腱板断裂で入院したことはありましたが、総じて健康だったと思います。

 まあ〈短気〉は、どうも治りきらなまま持ち越してきていますから、落第点かも知れません。これだって、『正直だから腹がたつんだ!』と自己弁護の内です。家内に厳しいことを言って気まずかった時も、寝て起きると忘れてしまっているので、楽観主義者、利己主義者(被害を被った家内は気の毒ですが)だと思っています。

 最後に、イースタンが言った、「高い倫理基準」を保つことは、若い日に出会い、共に奉仕し、学んだ宣教師さんや兄や友人たちから、徹底的に叩き込まれましたから、心の戦場では、金と女と名誉との激烈な戦闘を繰り返しながら、なんとか負けずに、今日を迎えています。まあまあ及第でしょうか。ただし、これは自分の意志の強さなどではありません。

 そうしますと、イースタン説によって、総合点で合格すれすれ、まあまあ幸福な生き方を、これまでしてくることができ、これからも、残りの幸せを噛みしめることができるのではないか、そう自負しております。こんな自己採点を、このところしております。青い鳥が運んでこなくても、ごく至近、自分の心の内に、幸せって小さくあるのではないでしょうか。p

 隣国で13年も過ごし、家内の病での帰国、入院と闘病、後半期は、そんな年月なのです。年を重ねて、綻(ほころ)びが出てきて、思ってもみなかった病気になっている今です。誇り、感謝してきた健康に、この2年ほどには、陰りが見え始めています。通院、入院、検査、飲薬と、忙しくなってきているのです。人生には、次々にステージが用意されていて、好むと好まざるによって、それぞれwを踏んで、ゴールに至るのでしょうか。

 弱さを覚えつつ、何も誇れないのですが、こんな私に、あの青年期に、生きる意味と目的を与えてくださったり、罪の赦し、魂の救い、永遠のいのちの付与をしてくださった、「キリスト」であるイエスさまに、ただ感謝でいっぱいなのです。教会に仕えることができたこと、『こんな自分でもいいのだろうか?』と思いつつの年月は、有り余るほどの恩寵でした。

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 思えば、ずっと薬など飲むことなく生きてこれたのですが、今は六種類ほどの薬を、娘の買ってくれた「薬仕切り箱」に入れて、朝な夕な飲んでいます。もう少し生かされるでしょうか。近所に、『友人だ!』と言って、同じ病院の主治医を、私に紹介してくださり、診察の感謝まで医師に言ってくださる方がいて、交流が与えられているのです。

 川を挟んで向き合っていて、ご夫妻で住んでおいでの隣人なのです。同病のご主人の助言で、とても助けられております。これも幸福の一つに違いありません。今週の通院日に、月初めの診察でしていただいたCTの映像を、主治医が見せてくれました。自分の「心臓」を見て、その心の思いに汚されずに、驚くほどの美しさを見せているのに、息を呑んだほどの感動を覚えたのです。

 80年間も、一日も、いっ時も、いっ瞬も、休まずに動き続けてくれた心臓です。この映像は白黒ですが、見せていただいたのはカラーで、立体映像でした。こんな驚くほどの臓器を持って生まれてきて、今も動き、働いている、神の創造の神秘を覚え、驚いた酷暑の今週でした。

(Christian clip arts のイラスト、ウイキペディアの長く住んだ華南の街の河川、自分の心臓のCT映像です)

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朝顔

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 今の朝顔は、花を咲かせないままなのです。散歩道にも見つけられません。そんな中で、別の鉢に、苗を植えた朝顔だけが、この写真の様に、白色の花を咲かせています。

 年によって、当たり外れがあるのでしょうか。これまで毎年の様に、朝顔栽培をし続けてきたのに、今季の様に、花が咲かないのは実に珍しいことなのです。

 華南の街の借家のベランダでも、朝顔が綺麗に咲いてくれていたのです。一月になっても咲いていました。台風で川が氾濫して、洪水に見舞われて、床上浸水を経験した、以前住んでいた家の庭にも、綺麗に咲き続けていたのです。

 子育てをしていた時に、『はえば立て、立てが歩め!』の思いをイッパイにしていたのと同じで、朝顔の成長にも、そんな育て親の心を向けているのです。

 野の花も、ベランダの花も、天に向かって咲くのです。創造者である神を、ほめたたえていて、そんな姿を見て、水やりをしている私たちは、喜んでいるのです。

 実は、「風鈴」の音色が好きな私は、軒下の窓際に吊るしたいのですが、集合住宅なので、きっと嫌いな人だっていそうですから、遠慮したままでおります。

 関東にも、「風鈴市」の立つ街もある様ですが、日本の夏の風物詩でもあり、涼を呼ぶ風鈴の音を、吹く風が生み出す姿が、涼しいのです。

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品性を完成するために

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 『大正十五年七月二十八日、星野温泉若主人のために草す。』と添え書きがありますから、温泉業、旅館業にあたる若い経営者に向けて、旅館業の門外漢である、内村鑑三が、書き記した教えが残されてあります。事業のノウハウの教えではなく、経営者の在り方、信条を記したのです。

 この旅館は、当時、名だたる高級旅館であったそうです。教えを受けたいと願った主人も、そこかしこにいるような経営者ではなかったのでしょう。ですから教える進言者も、時流に乗った経営理論とは、まったく違った知恵に富んだ進言だったのでしょう。一体、どんな進言だったのでしょうか。

  「成功の秘訣」  六十六翁 内村鑑三

一.自己に頼るべし、他人に頼るべからず。

一.本を固うすべし。しからば事業は自づから発展すべし。

一.急ぐべからず。自動車の如きも成るべく徐行すべし。

一.成功本位の米国主義に倣うべからず。誠実本位の日本主義に則るべし。

一.濫費は罪悪なりと知るべし。

一.能く天の命に聴いて行うべし。自ずから己が運命を作らんと欲すべからず。

一.雇人は兄弟と思うべし。客人は家族として扱うべし。

一.誠実によりて得たる信用は最大の財産なりと知るべし。

一.清潔、整頓、堅実を主とするべし。

一.人もし全世界を得るともその霊魂を失わば何の益あらんや。人生の目的は金銭を得るにあらず。品性を完成するにあり。

以上

 商人が、「儲けること」は、理にかなっています。大切なのは、どう儲けるかなのです。商品の仕入れをし、それを求める人たちの必要に届くために、原価の二割とか三割の利益を加えるのは良いのです。仕入れのための諸経費、売るための経費、働く人たちの給金、売れ残り商品の処分での損失、宣伝費、減価償却費などを計算し、損得の中から、次の仕入れをしていくための資金、事業拡張のための備蓄なども必要なのです。

 遠方に行って買ってくることを考えるなら、大量に仕入れる商人からなら、物の単価は低くなります。ですから、その利便性を考えて、仕入れの費用を計算して、正直な儲けなら良いわけです。サーヴィスを提供するのも同じなのです。

 この「儲(もう)ける」と言う漢字の解字は、「人」と「言(ことば)」と「者」によってなっています。買う人と売る人、生産や加工をする業者と仕入れ人、商人と卸し屋、サーヴィスする人と受ける人、人と人が関わる場面で、言葉が介されて、この社会が成り立っています。

 私の住む街に、明治5年に、県の中央部の茂木町で創業した商店が、今はスーパーマーケットになっていて、その支店があります。その企業理念が、「正直」だと掲げているのです。この創業者は、近江(滋賀県)の出身の方だそうで、いわゆる、「近江商人」です。

 この近江商人の商法に、「三方よし」があるそうです。「買い手」も、「売り手」も、「世間(社会)」も、すべてが満足できるための事業のことなのだそうです。もう一つ商人で有名なのが、「甲州商人」です。『甲州商人が通った後は、ぺんぺん草も生えない!』と言われたほどに、抜け目ない商いをしたのだ様です。

 甲州人であることが嫌いな甲州人から、こんな話しを聞いたことがあります。『夏になると、「蚊帳(かや)」を担いだ商人が、門先を訪ねて売るのです。蚊に刺されて悩まされている人は、上手な口上にのせられて、これを買い求めます。夜になって、蚊帳を吊りますると、天井の部分のない、故意の不良品だったのです。売り手は名刺も残していませんから、苦情を訴えることもできず、泣き寝入りになる、甲州商人の悪徳商法の一例です!』

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 甲州人がみなさんそうだと言うのではないのでしょう。それほど儲けるためには、なんでもしでかす危険性があると言うのでしょうか。私たちが便利に利用している東武鉄道が営業不振だった時に、甲州人の根津嘉一郎が、テコ入れをして営業成績を回復しています。あの根津財閥を興した方で、大学を開学したり、下野(しもつけ/栃木県)や上野(上野/群馬県)の奥地にまで、この鉄道を敷設して、首都東京と結び続けている功績は大きい様です。

 暴利を求めず、買い手が幸せになり、社会が円滑に機能するのは良いことです。内村鑑三の掲げた理念や信仰が、実社会の中にも生きている証であるのが、私には嬉しいのです。学者や教育者だけではなく、商業界やホテル業界にも、人のあるべき生き方に、善い感化や浄化が及んでいるのは、一人の人として感謝なことであります。そんな理念で経営してきた、群馬、下野国の星野温泉に、一度は泊まってみたいと思いつつ、果たせずにおります。

(ウイキペディアによる「星野温泉」の一郭にある温泉、東武電鉄の車両です)

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七月下旬に咲いた朝顔

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 待ちに待った、遅咲きの今季の赤色の朝顔です。白色の朝顔は、別の鉢で育って、もう何日も前から咲き続けています。どうも異変は、朝顔の世界にもあるのでしょうか、この地域では、どの家も、『まだ咲かない!』と、咲くのを待ちわびているようでした。

 昨夕、蕾が大きくなっていましたので、『明朝は開きそう!」と思っていて、寝覚めと同時に、ベランダに目をやりましたら、朝顔棚の上部に、二輪の朝顔が咲いていました。何か、いい知れない安心感がやってきて、本物の夏の到来を喜んだ次第です。

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同情と懐古の思いで眺めて

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 近代建築資材を使って建てられた家々の間に、廃屋の様な、戦後間もない頃に建てられたかと思える家や作業所が、この街のそこかしこに残されています。

 古建築が取り壊されている街中で、取り残されている家々の写真です。持ち主が見つからないのでしょうか、税制とか、消防法上の理由で、取り壊される運命にありそうです。

 二十歳の時に、中央自動車道の計画路線上に、父の家があって、それを父から請け負って、解体して、更地にしたことがありました。廃品回収業のおじさんに、トタンで葺いた屋根を剥がしてもらい、この方は、そのトタンを持ち帰って売った様です。

 昭和二十年代に建てられた、お金のかかっていない家を父は買ったのです。十五年ほど住んだのですが、立ち退かなければなりませんでした。父は、県有林の払い下げで、木材を京浜地帯に売っていた木材業を、戦後は経営していたのですが、その木材を使って、自分の家を建てることもできたのでしょうけど、それをしなかったのが、父だったのです。

 二十万円ほど父にもらったのですが、取り壊しを手伝ってくれた弟の同級生たちに、バイト代、昼飯代で、ほとんど使ってしまいました。でも、けっこう面白い作業で、あのまま解体会社を興していたら、学校に行くよりはよかったかも知れません。でも金儲けに興味はなく、学業を続けたかったのです。ほどほどのバイト代で十分だったからです。

 この写真の家で、子育てをして、子どもたちを独立させたのでしょうか。今では歴史を感じさせる建物で、なんとなく味があります。自分が老いてきて、故障箇所が身体に出てきているので、けっこう同情や懐古の思いで、スマホ撮影をしてしまいました。

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呼び水をするようにして

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 この街のあちらこちらに、こんな「手押しポンプ」が残されてあります。この写真と同じポンプが、父の家にあって、母の炊事や洗濯や風呂のための水を汲み上げるために、手伝いをしたことがありました。けっこう深い井戸に、このポンプの鉄管が固定されて、地下水の箇所に下りていたのです。時々、水が落ちてしまうので、バケツに隣の家の水をいただいて、「呼び水」として注ぐ必要がありました。しばらくポンピング(pumping)していると水が上がってきて、バケツに溜めることができ、母の必要のために、それを運んだのです。

 この写真のポンプだって、ゴムのパッキンを交換して、呼び水をすれば、地下水を汲み上げられそうです。それで、取り払わないで、残してあるのでしょうか。下のポンプは、代官屋敷跡の近くにあって、ポンピングしましたら、水が出てきました。この街には、奥日光の方から、良質な地下水の水脈があり、湧き水も多いと聞いています。

 結局、あの家事手伝いで、自分の体力をつけることができたのだと思います。それだけでなく、お風呂を沸かすための「薪」を割る手伝いもしたのです。丸太を切って荒く割ってある薪が、店から届けられると、それを細かくするために、鉄の重たい刃のついた「薪割り」を振り下ろして割りました。病欠児も、風邪をひかないでいると、母が家事の手伝いをさせてくれたのが、回復のためによかったわけです。

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 その細かく割った薪で、焚き口で火をつけて、お風呂を沸かしたのです。ポンプから、ブリキで作った「トイ(樋、父の家では〈トヨ〉と言ったでしょうか)」で井戸から汲み上げたみずを、風呂桶に張ることもできたのです。その家事の手伝いをして、夕方、東京から電車で帰宅する父に、一番風呂に入ってもらいました。

 何時ごろからでしょうか、電気式で揚水できる様になって、『なんて便利な時代になったんだろうか!』と感心しました。今は4階の部屋に住んでいますが、こんな高いところで、蛇口をひねると、水が出るのが不思議でなりません。よその家で井戸から、鶴瓶(つるべ)で水を汲んだことがありましたから、地下に敷設された水道管から配水する、電気式を考えついた技術にも驚かされます。

 人間が持っている「可能性」を、地下水に例えると、その水を生活用水として使うために、「ポンプ」が必要なように、また水が落ちた時の「呼び水」が必要なように、また水を通す「トヨ」のような道具類には、大きな役割がありました。この「可能性」を引き出すのが、「教育」なのでしょうか。意欲や興味を引き出すために、教師の一言が、大きな役割を果たすのです。” educate “ は、「引き出す」というラテン語から来てると聞き覚えがあります。

 こればっかりで、申し訳ありませんが、『よく分かったわね!』と、言ってくれた小学校2年の時の担任の先生の一言が、私には忘れられません。相対性理論やハインリッヒの法則を教えてくれたのではないのです。たった「一言」が、病欠児で、自信喪失の自分の意欲を引き出してくれたのです。

 そう言った「ポンプ井戸」や「呼び水」の様に、「トヨ」の様に働きかけてくださった方々がいて、今の自分があるのだと感謝しているのです。

(家の近くと代官屋敷跡のポンプ井戸、ウイキペディアによる薪割り〈斧〉です)

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