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「主はこう仰せられる。「剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ。(新改訳聖書 エレミヤ31章2節」)
人気を保つために、結婚を禁じられ、家庭を持たないまま、隠れた生活をしながら生きなければならない様に、強いられて、そんな慣習に縛られた、「アイドル」とされた男女がいます。心も体も休む暇のない人たちなのです。
アイドルであるために、強いられた生き方を、大人たちにさせられて、人本来の幸せを満喫することもなく、無節操な世界に身を置いたのです。やがて、人気に翳(かげ)りが来ますと、表舞台から去って行き、噂にも上らなくなってしまうのです。もうすぐに、次のアイドルが誕生するのです。きらびやかであった銀幕や舞台のスターたちが、そう言った人生を歩む様子を見聞きしてきました。
みんな大人の都合なのです。大人が生きていくための tool(ツール/道具、手段)、いえ収入源、生活原資を確保するための「ドル箱(円箱と言わないのが面白いですね)」として、人気取りの世界が蠢いています。次から次へ誕生しては、消えて行きます。〈夢を与える〉のに、夢を奪われて、惨めな結末で去っていくのです。
モデルを勧められ、誘われたことも、ないではない自分ですが、その一見して輝かしく見える世界が、実は闇の世界だということを感じたからでしょうか、そに誘いにのりませんでした。あの日に、闇深い金づく、色づくの闇の世界に引きずり込まれないで、打ち勝てたのは、自分が強かったからではありませんでした。私をみちいてくださった永遠の御手であったに違いありません。
芸術だと言いながらも、その内実は、名誉欲や肉欲や物欲の蠢く世界で、若い頃にあった輝きや注目は、年老いて衰え、無理な生活の刈り取りで、身体も心も病んで、人々に忘れ去られ、見る影もなく寂しく去って行った人たちが、数限りなくいます。いつの間にか、輝かしい舞台の上から消えてしまったのです。
お父さんがしていた医者の跡を継がないで、芸能界で生きた一人のスターがいました。映画の世界で、若い頃に、とくに輝いていました。しかし最後は、私が住んでいた街の隣街で、病んで、孤独の内に亡くなってしまいました。往年の大スターでした。上の兄の二級ほど上の年齢でしたが、その70年ほどの生涯は、実際には孤独だったのです。虚構や嘘の世界で、自分でない他人を演じるというのは、観る人には娯楽であっても、演じる人は矛盾を抱えて生きさせるのでしょう。自分を失ったに違いありません。もちろん全ての俳優が、そうだとは言えません。立派な人格者もおいででした。
子どもの頃、街の空き地に、小屋がかけられ、チャンバラの時代劇が演じられていました。男がお白粉で化粧をし、赤い口紅をつけ、黒いクマを目の周りに塗って、かつらをかぶって、尻っぱしょりの着物で、各々、役を演じていました。客席からは、演じる役者の名が呼ばれ、お囃子が流れ、太鼓が打ち鳴らされ、投げ銭が飛んで、全く別世界がありました。
農耕に疲れた村人が、農閑期に、しばしの休みと、近郷近在から呼び集められ、そう高くない木戸銭を払って、夢の様な舞台を眺めて、娯楽を楽しんだ名残が、銀幕の映像が映し出された映画に変わったていったのです。
その映画に、小学生の私は、魅せられてしまったのです。父が転校した旧制中学校に、何級か先輩で、有名な映画俳優がいました。そんな親近感があったからでしょうか、その出演映画が観たくて、隣街の映画館に、週末になると、弟を誘って出かけたのです。チャンバラ映画です。
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それに、若くて、これからの映画界を背負って立つ、俳優たちを観たくてでした。ところが、その多くの方が、若くして亡くなってしまいました。無理が原因してなのでしょうか、不摂生な生活を強いられ、奢侈贅沢な生活が続いて、ついに心も滅ぼしたのか、身体を壊し、夢を売ったにしては、ご自分としては、ずいぶんと不幸な一生だったのです。
一度だけでしたが、ある仕事を頼まれて、あの映画俳優や舞台俳優や歌手が、スポット・ライトを当てられて、舞台の上に立ち、歩む姿をライトで追われる様な中を、歩む経験をしたことがありました。そのライトを当てられた時、舞い上がる様な高揚感に包まれたのです。まるでマジックにかけられたかの様でした。人々が客席にいて、自分だけが一人、脚光を浴びていました。
あの気分を味わった私は、一度だけだったのは良かったと、つくづく思うのです。あの舞い上がる様な気分は、今でも忘れられないからです。常にそんな立場にいたら、スポット・ライトが当てられなくなって、銀幕や舞台から去った後の落差は、如何ばかりに大きいいことだろうかと思えたのです。
スーパーマーケットで働きながら、二足の草鞋(わらじ)、三足の草鞋を履きながら、家内と二人で、教会の用と子育てをした日々を思い返し、感謝が尽きないのです。真夜中に、スーパーやコンビニの床清掃もしました。学校に行っていた頃、外資系のホテルのバイトで、ポリシャーを回した経験もあって、それで請け負ったのです。
たくさんの方々の助けで、その事業を始めましたら、『他の支店もして欲しい!』とか『コンビニでもして欲しい!』と頼まれ始めましたが、会社組織は作らなかったのです。自分に与えられている時間を、正しく管理する必要を感じていたからです。それでバイト感覚でやり続けました。子どもたちの教育費をそれで捻出したのです。20年近く、それを続けたでしょうか。使徒パウロが、天幕づくりをしながら、宣教活動をしたのに倣って、清掃の仕事をしたことは感謝でした。
そうやって、伝道者として過ごした日々を思い返して、決して guilty (罪悪感でしょうか)に責められることなないのです。その働きが、社会的に評価され、感謝されたからでもありました。家に帰って来た子どもたちも、一緒に働いて、助けてくれ、子どもたちの学業が終わる頃には、その事業も終わったのです。
まさに「万事あい働きて益」であったと感謝したことです。「わが生涯に悔いなし」と今、深く思わされております。ワックスの注文を忘れてしまった夢を、今でも、時々観るのです。そんな私で、もう何もしない様な今も、あの頃と同様に感謝が溢れ、喜べるのです。
オランダの歴史学者のホイジンガーが、「労働と遊びの両立」を、その彼の著書で言っていました。月に2度、真夜中の労働は、実は辛かったのです。でも親の責任を果たすために、また同労の働き人の生活援助のために、献金のためにも頑張れたのです。疲れ切って、白む朝を迎えた日々が懐かしく思い出されます。
その街には、山際に日帰り入浴施設が多くあって、川の対岸の壁に、ぎっしりと氷柱が下がっていた温泉もありました。あの湯につかりながら眺めた光景は、感動的で忘れることができません。ちょうど真冬の季節の厳冬で、凍てつく日が続いていた日だったと思います。春の新緑、秋の紅葉、自然に触れて力付けられた、あの一息つく時々、「遊び」があって、生活にリズムや休息が与えられていたことになります。けっこう質の素敵な生き方だったかなと、そんなことを思い返して、自負している今であります。
(ウイキペディアによる熊本の古閑の滝の氷柱、チャンバラごっこです)
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