巴波の漣

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 まだ春本番ではないのですが、散歩帰りに、巴波川河畔を歩いていましたら、流れの漣(さざなみ)が春の光を感じて、喜んでいるように、キラキラと輝いていました。光一つ、春への願いを見せているかのようで、寒い日はあっても、自然界は春に向けて準備中です。

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夢を見る

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 『その後われ吾靈を一切の人に注がん 汝らの男子女子は預言せん 汝らの老たる人は夢を見 汝らの少き人は異象を見ん 。(文語訳聖書 ヨエル228節)』

 どこへ行っても、どなたと会っても、私たちの世代が語る話題は、過ぎ去った時のことばかりです。過去にあった出来事ばかりを語ったり、書き記したりするのは、どうも年老いて来たことの徴(しるし)なのでしょう。自分のブログも、老いを意識していない頃とは、主題も内容も、過去の出会いや出来事ばかりのようです。

 聖書に、預言者ヨエルが予言しているのですが、「老たる人は夢を見」と言っています。本来、若者が、星雲の志をもって、溢れるほどの可能性のある未来に目を向けて、様々に夢を描いては、それを語り、記し、その夢の実現に向かって生きたのです。

 それは、自分にもあったことですが、今や年老いて、曜日感覚も鈍くなってしまっています。テレビなしの生活で、番組にも誘われないわが家では、曜日の一日一日が、ゴミの種分けでの曜日や図書館行きのための開館日などだけが気になるだけなのです。

 かつて、ここ下野国の人たちは、海外雄飛など考えてみることなどまったくなかったのでしょうね。また京の都上りなどを願うことだってなく、幕末になってから、やっと長崎や横浜に学びに行こうと、若者たちが、わずかに現れたのでしょうか。庶民は、まず無理で、武士階級か豪商か豪農の若者たちだったわけです。

 江戸時代の寺小屋に学んだ子どもたちでも、どんなに優秀であっても、藩黌(藩の学校です)で学ぶことは、稀にはあっても、京や江戸に遊学するなど考えられないことだったに違いありません。

 十七の私は、南半球の南十字星を見上げられる南米に行きたかったのです。アルゼンチンは、憧れの地でしたし、それが可能でした。と言うよりは、未知の世界を知りたかったのか、現実逃避だったのか、不安定な年齢期の麻疹のようなものだったのでしょうか。

 与えられた仕事、奉仕の機会に従って生きて来て、家内の病気を期に、退職しての今の生活は、終り方としては思い定めた通りではなく、中途で終わったようにも思えますが、一仕事をし終え、もう行程を走り終えて、人生のゴールへの助走をしているような感じがしています。「人生至る処青山あり」と言われ、青山に向かって歩み続けて、今や、その山陰に歩を進めているのでしょうか。

 聖書は、『夢を持て!』と語り掛けています。『年少きものもつかれてうみ壮なるものも衰へおとろふ。然はあれどヱホバを俟望むものは新なる力をえん また鷲のごとく翼をはりてのぼらん 走れどもつかれず歩めども倦ざるべし。(文語訳聖書イザヤ4030~31節)』

 未来に向かって、望みうることが、まだあると言うのです。

 『ヤコブの家よイスラエルのいへの遺れるものよ 腹をいしより我にはれ胎をいしより我にもたげられるものよ 皆われにきくべし。なんぢらの年老まで我ははらず白髪となるまで我なんぢらを負ん 我つくりたれば擡ぐべし我また負ひかつ救はん。(文語訳聖書 イザヤ463~4節)』

 もし足腰が弱ってしまったら、主なる神さまは、『背負う!』と言ってくださるのです。どこに導くのかと言いますと、

 『彼は萬物を己に服はせ得る能力によりて、我らの卑しき状の體を化へて、己が榮光の體に象らせ給はん。 (文語訳聖書 ピリピ321節)』

 「栄光」へと導いてくださると言うのです。十字架によって贖われた私を、十字架の主と同じ「栄光」の姿に変えてくださり、永遠のいのちを与えてくださるのです。ですから、老いは、人生の終点ではなく、輝ける「栄光」への Step なのです。『さあ夢を見ようではないか!』と、私を造られ、導かれ、負われる主が言っておいでなのです。

(窓際で一生懸命咲いてくれている胡蝶蘭です)

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時の流れへの波乗り

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 ちょっと季節外れですが、「波乗り」をされたことがありますか。湯河原に吉浜という海水浴場があります。高校2年の夏に、兄の後について、海水浴に出かけたのです。そこは、東京でガラス店を商う会社の職員のみなさんのための「夏の家」があって、兄の同級生のお父さんが、5人ほどの子どもさんの夏休みの利用を兼ねていました。二週間ほどいたでしょうか、その間に、会社の人は見かけないで、息子さんたちの学んでいた大学の運動部のみなさんの休暇の家のようでした。

 アメリカンフットボール部や弓道部や他の部の大学生がほとんどでした。弟さんたちが台所の世話をしてくださって、3食の賄いとおやつもあって、昼間は泳いで、昼に食事に帰って、また昼寝の後に午後は夕方まで泳いだり、砂浜で大学生たちの会話を聞いていたでしょうか、小難しい知的な話はなかったようです。

 夜はゲームをしたり、スチールギターやギターでハワイアンを演奏してくれたり、一夏をそこで過ごしたのです。漁師さんが、朝獲った小鯵を、『手の指で割いて、わさび醤油で食べると美味しいんだよ!』と、教えてもらって食べたのは、鮮度抜群で美味しくて、何匹食べたか覚えていないほどでした。

 さて、その「波乗り」ですが、サーフボードなどなかった時代でしたから、体一つで、それに興じたのです。弟さんが、その乗り方を教えてくれ、けっこう上手く乗れるようになったでしょうか。そんなで、一度台風接近で、海が荒れ始めて、遊泳禁止に中、引き潮がとても強かった日がありました。それでも波乗りをしていましたら、引き潮に連れられて、危うく沖に流されるところでした。命の危険を感じていたら、大きく寄せる波が来て、フワッと砂浜に連れ戻してくれたのです。

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 漁師さんたちは、その引き潮を「ミオ」と言って、沖に流されて亡くなることがあると言って注意してくれました。遊び呆けていて、危なく水死するところを、奇跡的に助かったのです。あんなに怖かったことはありませんでした。でも、波乗りの水遊びは、最高にに面白かったのです。

 今、多くの若者が、時の流れに、正しく乗れないで、人生を棒に振ってしまうことが多いようです。何学年か後の世代に、「70年安保」があって、学生運動が勢いをつけて、『安保粉砕!』の叫び声を上げていた時代です。反政府、反米の運動で、政府転覆計画の暴力闘争がありました。全共闘、革マル、連合赤軍とかが、ヘルメットとゲバ棒で身を固めて、学園占拠、成田三里塚騒動、原子力船エンタープライズ佐世保寄港の反対運動、新宿駅の騒乱事件など、実に賑々しかったのです。

 ある党の指導者になった人物たちの中には、デモの第一線には出ないで、第二、第三線に隠れるようにしていたりして、活動を助けていたのです。ある学校に私は転職することになって、卒業と成績の証明書が必要で、学んだ学校に出かけた時、正門がバラ線に巻かれて barricade をされていて、横にならなければ入れないほどの通り口を通った時、悲しかったのを思い出します。

 そんな過激な学生運動を利用して政治家になった者たちがいたのですが、麻疹(はしか)のような学生運動が収まりながらも、身の振り方を誤ったのでしょうか、時代の〈波の乗れなかった者たち〉が、少なからずいました。先日ニュースが二件ありました。刑期を終えた女性の活動家の出獄のニュースと、末期ガンで名乗りを上げた連続企業爆破事件で指名手配されていた男のニュースでした。

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 正義感に燃えてもいたのでしょうか。自分の生まれ育った国を愛していたのでしょうか、でも、その方法を間違えてしまった人たちの〈其の後〉です。内部の主導権争いもありました。そいえば、人の集まるところに、指名手配犯の写真が掲出されてありましたが、その中に、過激学生運動家の男女たちのものもあってよく見ました。同世代人だったからかも知れません。彼らは、自分の人生の生き方を誤ったに違いありません。ある人は、軌道修正ができなかったのです。

 あさま山荘の立て籠り犯もいましたし、ヨド号のハイジャック犯も、クアラルンプール事件犯もいました。死刑判決、無期懲役、懲役刑、そして国際逃亡で指名手配された者もいたのですが、追随者たちも含めて、彼らはその後をどう生きたのでしょうか。

 新宿騒動の参加者は、20000人もいたようです。口を拭って、過去を隠して、敗残者のようにひっそり生きているのでしょうか。あのことを糧に、様々な分野で生きて活躍した人がほとんどでしょうか。でも「後の後悔先に立たず」、時流に〈乗り切れない〉ままで、自分の人生を棒に振ってしまった人もいたのです。

 同世代、下の世代、みんな後期高齢者になって、騒がしい国際状況下、彼らは「今」何を思っているのでしょうか。

(ウイキペディアによるサーフィン、今のJR新宿駅七十年安保の学生騒動です)

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ジョーク九話

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 《中国ジョーク集》の中に、面白く、世の中の有り様、諸相を、痛烈に風刺したものがありましたので、もう帰国しましたので、みなさんにご紹介しようと思います。

[第一話]

記者:もし10ム◯(約992平方メートル)の土地を持っていたら半分を共◯党に寄贈することに同意されますか?

老人:もちろん!

記者:では家を2軒持っていたら?

老人:もちろん!

記者:車2台なら?

老人:もちろん! :もちろん!

記者:牛が2頭いたら?

老人:ダーメ!

記者:なんで牛だけダメなんですか?

老人:だって牛は本当に持っているからね。

[第二話]

宇宙船・◯舟10号の打ち上げが成功した!喜びに沸く人々。記者は老人に取材した。

「ご老人、◯舟10号の打ち上げ成功は何を意味していると思いますか?」

「汚職取り締まり、教育、住宅、医療、食品安全・・・これらの問題は・・・『天に昇る』、より難しいということじゃよ。」

(「天に昇るより難しい(比登天還難)』という慣用句とロケット打ち上げをかけたジョーク)

[第三話]

記者:ご老人、市長が誘拐されました。犯人は身代金1000万◯(約17000万円)を要求しています。支払わなければ市長をガソリンで焼き殺す、と。現在、寄付を募っているのですが、あなたはいかほど寄付なさるおつもりですか?

老人:(ガソリン)10リットルってところじゃな。

[第四話]

記者:ご老人、◯州では63000万◯(約106億円)を投じ公共墓地を整備するそうですが、党幹部しか埋葬できないそうです。どう思われますか?

老人:生き埋めかい?

[第五話]:

記者:ご老人、新政権の汚職取り締まりは本気のようです。どう思われますか?

老人:っていうと、今までの取り締まりはお遊びだったのかい?

[第六話]

記者:ご老人、お子さんは何人おられるのですか?全員学校に行かれましたか?

老人:男の子二人は行ったよ。女の子は行ってない。

記者:なぜですか?男女差別は批判されますよ!

老人:だって校長は男だもの。

(校長先生が小学生女子をホテルに連れ込む事件があったので)

[第七話]

公用機が墜落。乗っていた政治家は全員死亡した。調査グループは現地の老人に事故当時、本当に生存者はいなかったのか質問した。

すると老人は笑いながら答えた。

「いたよ。ワシの足にすがりつきながら、オレはまだ死んでないって言っていたよ。ただ皆さんご存知のとおり、政治家は本当のことを言わないものだからね。だから埋めておいた。」

[第八話]

記者:こんにちは。ご老人、いくつか質問させてください。以前、農民は牛馬に劣る生活を強いられていたそうですね。今ではどうなのでしょうか?

老人:今かね、願い通りになったよ。牛馬の生活を超えたからね。

[第九話]

記者:ご老人、なんでも最近100万◯(約1700万円)もうけたそうですね。本当ですか?

老人:そうさね。ある日、携帯電話をひろったんだがね。それにメールが届いたんだ。「◯局長、あの件をお願いします」ってね。すぐにワシの銀行口座番号をメールしたってわけさ。

 いかがでしょうか。旧ソ連のものも、ユダヤ人のものも、とても痛烈な joke があります。

(ウイキペディアによるトランプの「ジョーカーです))
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古代の音の世界

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 自分が越して来た街に、古代人の住居跡があることを知って、『どんな場所で、自分の祖となる同時代人たちがいて、どんな風に生活をし、泣いたり笑ったり、悲しんだり喜んだりしていたことだろうか?』と思いの中に湧き起こって、学校から家に帰って、ランドセルを投げ置いて走って訪ねたのです。

 そこは多摩川を見下ろせる、そう高くない高台でした。あの頃、人はまだ井戸掘りはしなかった時代でしたから、やはり水場に近い場所に住居を構えたのでしょう。魚をとったり、タニシやしじみも 野うさぎや鳥などもとって、食料にしていたことでしょうか。

 そんな古代人の生活の場や生活ぶりを想像しながら、木の枝を手にして、懸命に土を掘ったのです。土器のかけらや鏃を見つけて大喜びをしたのです。何かTime slip するような思いもしたようです。父や母、祖父母よりも遥か昔の人たちの生活に触れているようでもありました。

 意思伝達の会話があり、不和による言い争いも、愛情表現も、労りのことばもあったはずです。でも、土を掘っているだけでは、話し声を想像することも、鳥の囀りや獣の吠える声や風や雨の音、木々の葉を揺らす音さえも、想像できず、音が聞こえなかったのです。無音の世界でした。

 そんなことはあり得ません。人だって、鳴き声や笑い声や、怒鳴る声だってあったはずです。歌だって、楽器だってあったはずです。草笛や木で叩く音や貝をすり合わせる音、土器や動物に骨を、叩いて音を出して、それに合わせて歌を歌うことだってあったに違いありません。自然界には「音」があふれていたはずです

 土取利之と言われる音楽家がおいでです。打楽器が専門で、ジャズの世界で、名drummer だそうでです。その彼が、音楽の根源を探るために、アジアやアフリカの民族音楽を訪ね歩いています。そして、古代にあったであろう音を訪ね始めるのです。そして、縄文時代にあった音を再現するために、ご自分で、縄文人のようになって、さまざまな物を叩いて、擦ったりして音を出して演奏する performance をしてきています。

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 そして、2007年に、「縄文と音(青土社刊行)」を出されたのです。有史以前にあった「音」を求めて、縄文人のように音を作る作業をし続けておいでです。木板や土器をたたき、野の獣や鯨の骨をたたいておいでです。鹿の角や草や木などで笛を作り、三味線などの絃楽器の元となるような、動物の腱(けん)などを用いて、弦に結んで、きっと演奏が奏でられていたことでしょう。

 そういえば、旧約聖書の最初の書の「創世記」には、『其弟の名はユバルと云ふ彼は琴と笛とをとる凡ての者の先祖なり (文語訳聖書 創世記4:21)』とありますから、琴と笛という楽器が、『何故に汝潛に逃さり我をはなれて忍いで我につげざりしや我歡喜と歌謠と鼗と琴をもて汝を送りしならんを (同3127節)』とあるように、歌謡と鼗(とう/太鼓の一種です)と琴を奏でています。

 人類誕生の間もない頃には、もう楽器が奏でられ、歌が歌われて奏でられていますから、人は、楽器を奏でていて、神礼拝に、それらによって賛美がささげられていたことになります。

 BC1000年頃の人であるダビデの時代には、『ダビデおよびイスラエルの人はみな歌と琴と瑟と鼗鼓と鐃鈸と喇叭などを以て力をきはめ歌をうたひて神の前に踊れり。(歴代上138節)』と記されていますから、歌と琴と立琴と手鼓とシンバルとラッパと踊りをもって、主なる神さまをほめたたえていたのです。

 わが家には、電子ピアノ、ハーモニカが3本、ウクレレ、タンバリンなどの楽器があります。この21世紀に「音」を奏でる楽器があるのですから、人類の始祖たちも、様々な楽器を奏でながら、神礼拝をし、余興を楽しんで生きていたのでしょう。

(ウイキペディアによるタンバリン、「縄文の音」P、177の古代の楽器の写真です)

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病室名主

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 『われらが年をふる日は七十歳にすぎず あるひは壯やかにして八十歳にいたらん されどその誇るところはただ勤勞とかなしみとのみ その去ゆくこと速かにしてわれらもまた飛去れり。(文語訳聖書 詩篇90篇10節)』

 病院の外来模様について、先日投稿したのですが、私は、家の近くに、掛かり付け医がいます。このお医者さんに決めた理由が、いくつかあるのです。病院の壁に掲げてある絵が unique で、それは、イギリスの人気画家、マッケンジー・ソープ(Mackenzie Thorpe )の描いたもので、「希望」、「愛」、「喜び」を伝える画家だそうです。とても貧しい幼児期を過ごしたそうで、その幼い日々の慰めは、絵を描くことだったのです。そんな背景や思いの画家の好きな医師を知って、私は安心したわけです。

 また通院日に、早めに参りましたら、駐車場の周りに植えてある花壇に水遣りをしておいででした。私が、自転車で来院したことを知って、ホースの水の栓を止め、そままにして、医院の裏の入り口から入って、カーテンを開け、テレビにスイッチを入れ、病院の玄関を開けてくれたのです。定刻時前でしたから待たせればいいのに、わざわざそうしてくれたのです。

 もう一つは、待合室に自分で出て来られて、患者の名を呼んで、一緒に診察室に案内をしてくれるのです。そんな経験がなかったので、嬉しくなったこと、そんなことがあって、「主治医」をお願いして、昨日も、雪の中を、長靴を履いて出かけたのです。

 目を向けて顔も見ないで、書類や計器の数値ばかりを見ている医者もいます。そんな中で、みんな資格を持った技術者や医療者も、ただの人なのですね。人当たりのよい方もいますし、そうでない方もおいでです。《赤ひげ先生》もいれば、ヤクザまがいの方もいるようです。だから患者は、好い方を選べばいいわけです。

 そう言った安心感があって、診察をしてもらうと、きっと治癒力も上がってくるのではないでしょうか。

 それで、久しぶりに、昨年の11月に入院生活を一週間しました。それで、入院にまつわる母の話をしてみたいのです。私が高校二年生の時に、母が、ダンプカーの車輪のボルトに、両足が触れて、大怪我をしたとがありました。担ぎ込まれた街の医者の応急手当てが悪くて、細菌のために切断の危険性がありました。それで、隣町の共済病院に転院して、一年近く入院生活をしたのです。

 その入院生活の病棟は長期入院患者たちがいて、母の病室には、10人以上がいたでしょうか。そこには、「病室名主」、あの「牢名主」と同じで、親玉がいたのです。取り巻きの子分患者たちがいて、仲間になって、新入りの患者に干渉し、いじめるのです。内科病棟だったのでしょうか、外科の母も、長期だったので、そこにいたわけです。

 母は我慢強くて、意に介さない強い心を持っていたので、馬耳東風で、聞き流していたりしていたのです。古い入院患者には、もうお見舞い客が少なく、稀にしかなかったのですが、私は、毎日のようにバスに乗って、母のもとに出かけ、父が作る「野菜スープ」」などを持って見舞ったのです。それも気に食わない名主が、陰険にいじめていたのです。

 長期入院で、治る見込みのない患者さんは、気も塞ぐし、否定的なものの考え方をし、暇に明かして新参者をいじめる、その心理は分かるのですが、その当事者は溜まったものではないわけです。そんな病室で、お湯をくんで、母にタオルを渡し、母の体拭きの助けをしていたのです。そう言った妬みもあって、やはり病室の社会というのは独特でした。

 怪我などで、何度も自分が入院したのは、多くが外科病棟でしたから、回復に望みがあって、明るかったのです。とくに札幌の整形外科に入院していた時には、道内のあちこちから来ている方たちばかりで、子どもの頃の話や仕事の話など、食事に時は花が咲くほどでした。夜中になると、こそっとカップラーメンをいただいて、『これって美味いんです。どうぞ!』で二、三度ご馳走になったり、見舞客からいただいた食べ物のお裾分けもあったり、まあ和気藹々でした。

 それでも、いじめられて、病室を移って来た方がいて、励ましたり、慰めたりもあったでしょうか。土地の世話をするから、近くに越してくるように、強く勧める方もいたりでした。

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 さて昨年11月には、心房細動(不整脈のことです)が原因で、脳梗塞を起こして、家内の入院した同じ獨協医大病院に入院したのです。処置が早かったために一週間の入院でした。『もう来ないでください!』と看護師さんに言われ、『来ないで済むように注意します!』と笑って返したのです。

 今月に入って、その折の入院治療費の総額を、県後期高齢者医療広域連合から知らせて来たのです。89万円でした。驚くばかりの高額だったのです。保険制度がなかったら、大変だったのに、一割負担で済んだのにも驚きます。そうしましたら先日、高額医療費の申請を、市役所でするようにと連絡が来たのです。それで、市役所に出向いて、手続きを済ませましたところです。支払った分が返ってくるようです。

 そうしましたら、市の健康福祉センター(保健所です)の一人の婦人職員から電話がありました。『先週、お受けになられた「検診」の結果で、緊急にお知らせしたいことがあるのでお邪魔したいのですが?』と言うのです。担当医師の指示で、「精密検査」の必要を伝えに来てくれたのです。実は、雪の昨日、ちょっと心配でしたので、電話を入れて急遽、主治医の診察を受けたばかりだったのです。『異常はみられないので、様子をみましょう!』との診察でした。そんな保健所が知らせをしてくれるのにも驚いたのです。次回の通院の折、精密検査を大きな病院でしたいむね、相談してみるつもりでいます。

 もう、ラジオ体操のみなさんとの話題も、同世代ですから、病気や医者や薬、健康食の勧めなどで溢れています。病気と無関係な若い世代が、どなたにもあったのですが、もうそれは戻ってはきませんし、あちこちボロが出てきている、そんな世代になりました。この心臓ですが、生まれてから動き続けて、今に至っているのは、驚くばかりです。主治医は、『もう八十に近いんですから!』と、老いや病と仲良くやっていきなさいと勧められているこの頃です。

(ウイキペディアによるマッケンージ・ソープに出身地イギリスのヨーク地方の風景、心臓です)

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情熱、責任感、判断力を

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   地方でも国でも、その職員になりたかったり、教員になりたかったら、政治家さんや県の幹部職員さんに、『小判を底に、隠し入れた菓子折りを届けるべし!』と言う昔ながらの賄賂方式があるようです。

 江戸時代だけではなく、令和の御代にも通用するそうです。実力がないのに、〈金力〉で機会を掴めるイチバンの方法のようです。就職を頼むだけではなく、昇格や昇給時にも、結婚だってそうかも知れません。利かせ薬をするのだそうです。その賄賂や利かせ薬も、「裏金」と言うのでしょうか。闇の中で動く、最も効果的な働きをするモノです。

 その裏金には、政治献金の中から、別にされて、闇の中で、隠し使われるお金のことなんだと、今回ニュースで知りました。国の政権を担ってきたJ政党の議員さんたちが、未申告で、政治資金として隠して手元に置き、「利き薬」として、票集めや私的な遊興に、自在に使える汚れたお金であります。

 話は、150年も遡りますが、明治のご維新で、尊王攘夷のもとに、明治維新政府が、欧米に真似て始まります。有能な人材が病没、暗殺、戦役で亡くなってしまって、近代日本の政党政治による政府が誕生して、その要に座ったのは、某藩の農民の子で、足軽の身分を掴み取った父親の子で、下級武士でした。松下村塾での学びを、教室の外で、正規外で立ったままで、学んでいた男でした。結局、ハルピンで、朝鮮族の革命家に狙撃されて死んでいったのです。

 もちろんお百姓さんだって、志が高く、高潔な人格で、有能な人はたくさんおいでです。身分にはよりませんが、野卑さを持ったままの人が、野心に燃えて、権威の座につくと、やはり問題はおきかねません。

 英雄ではないのに、色を好んだ男で、そう言った女色好みというのは、〈お金好み〉と共に、日本の政治家のDNAに受け継がれたのかも知れません。そういった輩が、政権を担い、国家を動かしていかなければならない立場に就いているのが、おかしいのです。

 聖書は、『さればわれ第一に勸む、凡ての人のため、王たち及び凡て權を有つものの爲に、おのおの願・祈祷・とりなし・感謝せよ。(テモテ後書21節)』と、「凡て權を有つものの爲に」、良い意味でも悪い意味でも祈ることを命じています。国や都道府県や市町村の政権を委ねられている政党、首長のために祈るべきなのです。

 日本で、「オッペケペー節」を唱えて、壮士芝居をした川上音二郎と、同年生まれのマックスウェーバーと言う社会学者が、次のように言っています。

 『政治家に必要な資質は、情熱、責任感、判断力である。』

 政治不信、政治家不信の元凶の中で、「金力」や「派閥」や「縁故」や「名門」や「血筋」などを表看板にしない、真に、情熱にあふれ、責任感に長け、判断力が明敏で、無欲な人が、政治家になって欲しいと願うのです。

 『精神なき専門人、心情なき享楽人、この無なるものが、人間性のかつて到達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れている。(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」から)』

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 実業家も、教育家も、政治家も、精神や心情を欠いて、自惚れてしまうと、情熱が冷め、責任を放棄し、判断力が鈍ってしまい、傲慢になってしまうのです。ちなみに、川上音二郎が唱えた「オッペケペー節」は、次のような揶揄するような歌詞で歌われていたのです。

♯権利幸福きらゐな人に自由湯をばのましたい
オッペケペ オッペケペッポーペッポーポー
堅い上下角とれて マンテルヅボンに人力車
意気な束髪ボンねット 貴女(きじょ)に紳士のいでたちで
外部のかざりはよけれども 政治の思想が欠乏だ
天地の真理が解らない 心に自由の種をまけ
オッペケペ オッペケペッポ ペッポーポー

不景気極る今日に 細民困窮みかへらず 目深に被ふた高帽子
金の指輪に金時計 権門貴顕に膝をまげ 芸者たいこに金をまき
内には米を倉につみ 同胞兄弟見殺か
幾等慈悲なき欲心も 余り非道な薄情な 但し冥土の御土産か
地獄でゑんまに面会し わいろ遣ふて極楽へ 行けるかえ ゆけないよ
オッペケペ オッペケペッポーポー

亭主の職業は知らないが おつむは当世のそくはつで
ことばは開化の漢語(かんご)で みそかのことわり洋犬(カメ)抱いて
不似合だ およしなさい なんにも知らずに知ったかほ
むやみに西洋をはなにかけ 日本酒なんぞはのまれない
ビールにブランデーベルモット 腹にもなれない洋食を
やたらに喰ふのもまけおしみ なゐしょで後架(こうか)でへどついて
まじめな顔してコーヒのむ おかしいね
エラペケペッポ ペッポーポー

儘になるなら自由の水で 国のけがれを落したい
オッペケペッポヘッポーポ
むことけ島田に当世髪 ねづみのかたきに違いない
かたまきゾロゾロ 引づらし 舶来もようで りっぱだね
買う時ア大層おだしだろう 夏向アあつくていらないよ
其時ァおっ母が 推量(すいりょ)して お袖に隠して一走り
細工にいてくるよ ヲヤ大きなこゑでハ いわれない
内証だよぶたいハ結構(けつきやう)だ ごめんなさい
オッペケペ オッペケペッポ ペッポポ ♭(以下省略)

 一国の国民を、誇りある国民として、平和を享受できるようにと、公平な政治に献身し、政(まつりごと)に従って欲しいと、令和の政治家のみなさんに、政治家を目指すみなさんに願ってやみません。もちろん、素晴らしい軍人も政治家も少なからずいたことは事実です。でも、注意すべきは、軍人と政治家の「驕り」ではないでしょうか。明治以降の今世史をみると、そのことが警告的に分かるのです。

(ウイキペディアによる慶長小判、川上音二郎夫妻です)

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春立つ

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 明日は「立春」です。文化遺産の一つと言われるのが「二十四節気(にじゅうしせっき)」でしょうか。占いとか方位とは関係がなさそうで、中国大陸の黄河流域の一年間の気象や植生などをもとにしてでしょうか、春夏秋冬の四季の移りによって定められていて、たとえば「立春」と聞きますと、『あっ、春!』と思わず思われてしまうのですが、そうしますと、どうしても心の中がポカポカしてくるではありませんか。

 この二十四侯は、それぞれが三区分されて「七十二侯」になっているのです。これからの248日頃を「東風解凍(とうふうこおりをとく)」、2913日頃を「黄鶯見睆(こうおうけんかんす)」、21418日頃をl「魚氷上(うおこおりにのぼる)」と、三区分されています。この日曜日からは、東風(こち)が吹いてきて、結氷した氷を溶かし始める時を言っています。

春立ちて まだ九日の 野山かな   芭蕉

 芭蕉は、どこを訪ねたのでしょうか、山を見渡して眺めていたのでしょう。まだ九日しか経っていないのに、野山の木々の芽や、枯れ草の中に新しい若芽が生い始めているのを見つけたのでしょうか。きっと、春というのは、感覚的なもので、先取りしたい思いが反映しているのかも知れません。それほど、寒い冬を超えてきたので、期待感が強いからでしょうか。

 「暖冬予報」だったのが、実際は、厳冬だった今冬ですが、そういえば、もう陽の光は強くなり、空気は冷たく風は寒風が吹いていても、暖かさが感じられます。位置的には、ずいぶん違う大陸の黄河流域の気象による一年の区分なのですが、そう思わされ続けてきた遠い日本の現代人の私たちは、移り変わる気象を、同じように感じてしまうのでしょうか。大きな被害をもたらせた能登半島地震のあった元旦に比べて、1ヶ月経った今は、春が待ち遠しくて、明るく暖かな春に期待するのでしょう。

春立つや 山びこなごむ 峡つづき   飯田蛇笏

 暦を見ると「立春」、昨日と今日はほとんど違いがないのですが、立春だと思うほどに、山側に立って、その山に向かって叫んでみると、山びこが返ってきたのです。その山まびこの響きも、何やら心が弾むような、和むような感じがしていたのでしょうか。

 十七文字で、季節を謳う俳人のみなさんの感性には、驚かされ、日本語の素晴らしさを感じずにはおかれません。

春立つと 聞けば聞くほど 暖かく

1 春よ来い 早く来い
  あるきはじめた みいちゃんが
  赤い鼻緒(はなお)の じょじょはいて
  おんもへ出たいと 待っている

2 春よ来い 早く来い
  おうちのまえの 桃の木の
  蕾(つぼみ)もみんな ふくらんで
  はよ咲きたいと 待っている

 作詞が相馬御風、作曲が弘田龍太郎の「春よ来い」ほど、春待望を強く願った歌はありません。メロディーも春立つ感じにあふれているようです。

(ウイキペディアによる春に花「さくら」です) 

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最近の病院外来模様

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 一日、平均して数千人の患者さんが、家内も含めてですが、五十年の歴史のある医科大学病院にやって来れられておられます。みなさんは、穏やかな面持ちで、《待つこと》に徹しておられるのです。7、8分ほどの診察のために、順番を待っているわけです。こんな忍耐深い国民は、世界でも珍しいのかも知れません。

 今は病院も電子機器や電光掲示板の時代です。まず検温機の前に立って、手の消毒をし、受付機に診察券を入れますと、患者番号が印字された番号札が出てきます。受付順番の番号と、受診番号の二つの番号が印字されてあるのです。2枚同じものです。一枚には、このまま採血、採尿、レントゲン撮影に直接行くようにと指示されてあり、もう一枚は、受診時や支払い時に、掲示板に自分の番号を見つけて、診察室に入ったり支払い機の前に立つ時に必要な番号なのです。その一片の印刷紙が、一日コースをとどこおりなくすまさせてくれるわけです。

 受診業務を円滑にするために、この5年の間には、工夫と改善がなされているのに、驚かされます。研究している部門があるのでしょう。透明ファイルを持ち歩くことが少なくなってきています。

 病院医療事務というのは、大変なことのようですし、医療に携わる医師や薬剤師や医療技師や清掃や運搬や警備など、様々な分野に、数千人の従事者がいるのです。病院社会は。肥大化しているのです。

 もう様々な人が往来する病院世界に、圧倒されるのですが、まれにしかないと思えるのですが、高い声を上げて、自己主張している患者さんが、この五年間、何人かおいででした。これだけ多くの人の社会の中では、実にわずかな割合なのです。ほとんどの患者さん、私たちのように付き添い人も含めて、《待つ》のです。

 先週の家内の通院日に、 支払いをしようとしていましたら、七十代ほどの人が、声を荒げて、『50分も待たせやがって!』と、カウンター側に立って、中の事務員のみなさんに向かって、初めは小声だったのですが、激昂していくうちに、大声に変わって、『さっき、俺を睨んだだろう!』と言い始めたのです。聞き流していた女子事務員の方は、無言で仕事をしていたのですが、『こういう顔なんで、すみません!』と言ってしまったのです。

 そうしましたら、『責任者を出せ!』と言い始めたのです。その事務の方が、『私が責任者です!』と言ったら、しばらくゴモゴモ言と口ごもりながら、何か言って、悪態を吐きながら去っていったのです。退屈な病院受付で、一悶着を眺めていて、間に割って入ろうとしましたが、どうも自分の介入する仕事ではないなということで、傍観していたのです。

 病情が重かったり、で、なかなか待つのが厳しくなったりするのでしょうか、2年ほど前には、四十代ほどの人が、『お待たせしました!』と名を呼ばれたのです。最近は、名前では呼ばなくなっていますが、番号だけで呼び、確認は小声で名前を聞いています。『お待たせじゃあねえや。何十分も待たせやがって!』と、周りに緊張が走るようなやり取りをしていたのです。

 なかなか待てない時代になっているのかなと思いますが。大人の世界にも、様々なことがあるのでしょう。その他の週日、他の時間帯には、もっと激しいことがありそうです。華南の街の市立総合医院に、家内が入院していた時には、医師と患者がつかみ合いの喧嘩を目撃しています。あちらの医院は、前払いで治療が行われているのです。故意に支払わないのを防ぐためなのでしょうか。治療をやめられて、耐えられずに、患者が医師につかみ掛かったのです。

 どこもかしこも、人の集まる所は、悶着、不和、争い、闘いが起こるのでしょう。でも、ほとんどの人は、忍耐深く生きておいでです。胃が痛かったり、偏頭痛があったりしたら、堪忍の緒が切れてしまうこともあるのでしょうか。だから、世の中は面白いのかも知れませんが、そんな面白い光景を見せてしまわないように、自分はしたいものです。

(ウイキペディアによる獨協医科大学病院です)

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