あさがお

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   今季のアサガオの咲く様子は、ちょっと遠慮がちのように思われます。例年、これまでもかこれまでもかと咲き争うかのように咲き続けていたのに、ちょっと様子が、この夏は違うのです。昨年、咲き残った種が、flower pot の中で自然発生的に芽を出して、いつもより遅く芽が出て、2株ほどはひ弱くて伸びずに終わってしまいました。それでも、隅の2株が生き延びて、咲き始め、ご覧のような咲きっぷりになっています。

 華南の街のベランダに咲き始めた、日本から持っていた種から発芽した朝顔が、咲き出した「喇叭花labahua」は、あたりを圧倒するほどの咲っぷりでした。幼い日の朝顔の印象が、すこぶる良かったのか、花などに鼻をかけなかった自分が、家内が種を蒔いて、鉢に咲かせた朝顔に心が癒されるのを楽しむようになって、毎年、この花を楽しんできています。難しい顔も素振りもしない、幼子のような花の姿が好きなのです。

 夏目漱石は、旧制五高、現在の熊本大学で英語を教えていたことがあります。肥後熊本に、29歳で赴任し、1896年(明治29年)から4年間いました。その熊本にいる間、朝顔を詠んだ句が多くあるのです。

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 朝顔の黄なるが咲くと申しきぬ

 熊本には、「肥後六花」と言って、椿、芍薬、花菖蒲、菊、山茶花、そして「肥後朝顔」があります。明治二十年代に、朝顔の栽培が流行したそうで、淡青色の花が主流だったのですが、「黄色」の朝顔が、品種改良で誕生し、その驚きを漱石が作句した次第です。

 奈良時代に、遣唐使が、帰り船で持ち帰った朝顔が気に入って栽培がなされていったようです。二十一世紀に入って、華南の街に帰る時に、わたしは、種苗店で買った「朝顔の種」を、荷の中に忍ばせて持ち出したのです。そして、当時住んでいた集合住宅の7階の台所の流しの下で、家内が芽を出させた小さな苗を、flower pot に植え替えて、ベランダに置いたのです。

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 里帰りの朝顔は、ふるさと回帰を喜んだのか、旺盛に咲き、ベランダいっぱいで咲き続けたのです。その咲き終わった種を持ち帰って、栃木市の沼和田の軒先に植えたのです。行ったり帰ったり、子や孫の代の朝顔は、綺麗に咲いてくれました。残念なことに、十九年の秋の洪水で種を失ってしまいました。

 大型薬販売店の店頭にあった、袋に入った種を買って蒔いた種の子種が、この上の写真の朝顔の花なのです。

 今年もと 咲くを楽しむ 喇叭花

(昨日の朝顔、肥後朝顔、華南の町に咲いた時の喇叭です)

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こんな視線を向けて

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 作詞が林 柳波、作曲が松島 つねで、「おうま」という童謡があります。戦時下の1941年(すぐ上の兄が生まれた年です)に発表された歌で、軍部が、軍馬を取り上げて歌い上げようと、作詞者の林柳波に依頼したのですが、その国策の考えに同意できなかった柳波が、こんな優しい歌詞に仕上げたのです。

おうまのおやこは なかよしこよし
いつでもいっしょに
ぽっくりぽっくりあるく

おうまのかあさん やさしいかあさん
こうまをみながら
ぽっくりぽっくりあるく

おうまのおやこは なかよしこよし
いつでもいっしょに
ぽっくりぽっくりあるく

おうまのかあさん やさしいかあさん
こうまをみながら
ぽっくりぽっくり

 毎週のように送られてくるビデオ映像や画像があります。外孫の従兄弟にあたる、二歳の女の子が、主役です。高校で野球をやっている、実際は、Home school で学んでいるのですが、街の高校に、色々とプログラムがあって、それに参加して活躍している16歳の孫に、肩車をされた写真も、最近送信されて来ました。まさに、ジャイアンツと幼子なのです。

 孫たちの育っていく様子を、ほとんど見られなかった、大陸にいた私たちには、この子の成長ぶりに、目を細めてしまっているのです。この子にも肖像権があるので、この Blog に、正面からアップできないのが残念で仕方がないほど、可愛いのです。

 この子が、腰に手を当てているのでしょうか、スカートをさわりながら歩く様子を見てたら、この歌を思い出したのです。ふざけてるのか、おどけているのか、真っ直ぐに歩かないで 、あっちにちょっかいを出してはと、humorous な素振りが、ぽっくりぽっくりと歩くように思えてしまうのです。

 自分の4人の子に、こんな視線を向けた記憶がないのが、彼らに申し訳ないのです。食べさせ、着せ、学ばせ、遊ばせで、子育てに精一杯で、ゆとりがなく育てたからでしょうか。セッカチでありながら、〈30分前主義〉の父親の行動に、つきあわされた彼らに、こんなゆったりした目線を送ってあげたかったなと、遅きに失した反省をしている今なのです。

 仕事に出るお母さんが、次女の家に預けていく女の子で、娘を、〈ゾオミ〉と呼んでくれると、嬉しそうに言ってきます。こんな平和で和やかな光景を見ることが、わたしにはできるのですが、戦乱の巷となっているウクライナではとてもとても難しいのでしょう。同じ年頃の幼い子たちが、砲弾の下にあるのが悲しくて仕方がありません。

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捲土重来の夏

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 四字熟語、漢字の面白さ、奥深さ、広がりを感じさせる中国語の凄さを感じさせられます。

 秦の時代の末期に、項羽が自害をして果てます。その死を悼んで、詩人の杜牧が、「烏江亭に題す」に書き残したのが、「捲土重来(けんどじゅうらい、けんどちょうらい/両方の読みが正しいとされています)」の四字熟語の出典元なのです。「楚漢戦争」で、劉邦と戦いましたが、善戦及ばず負けて、「四面楚歌(しめんそか)」の状況下で、自ら命を絶ってしまうのです。武将は、一度は負けても、その恥を忍んで、その負けを盛り返して、再び戦おうとして欲しかった思いを、杜牧が、そう詠んだのです。

 国学院大学栃木高校が、長年の県高校野球の王者の作新学院を破って、全国高校野球選手権大会に、栃木県代表として出場し、第二回戦の相手、昨年の覇者の智弁和歌山高校と対戦し、逆転勝利で第3回戦の進出を、今日(13日)決めました。

 『・・・3月11日の練習開始前、柄目直人監督は選手たちに向かって、語りかけた。この日は、東日本大震災から11年目。指揮官は「今から11年前の今日、大震災が起こった。東北では津波によって多くの命が失われ、君たちと同じ高校生も命を落とした。あの災害を忘れてはいけない。震災の爪痕がまだ残っている中で、野球ができることに感謝しなければいけない。コロナ禍で練習が制限されているが、今この瞬間を大切にしよう。」と語ったそうです。

 今年の「国栃」野球部のクラブ・スローガンは、その「捲土重来」なのです。大平山に散歩に出かけることのあるわたしは、学校の横の坂道を登っていくのですが、その左脇に、「国栃」があります。陸上のトラックは見えますが、野球場は目に入りません。栃木市民としてもあり、地元出場校の応援、またこの学校の大学を出た、高等部の国語教師に、中学生のわたしは、「漢文」や「奥の細道」を教えられたことを思い出して応援しているのです。

 屈託がなく、Sports man spirit をもって戦う、高校球児の姿は、汗にまみれ、土に汚れながら、泣いたり笑ったり、悔しがったり喜んだりする姿は、どの出場校も素敵です。県代表になれなかった年月を思い返して、悔しい想いを受け継いできたので、「捲土重来」と、平和なスポーツの場面で、正直に、そして若者らしく感じたからなのでしょう。健闘を期待します。
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にがくも楽しい思い出が

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 まだ熊本の天草では、「ハマボウ」が綺麗に咲いているでしょうか。18の夏に、九州旅行に出かけ、小倉や別府や宮崎、長崎と平戸、熊本や鹿児島を訪ねました。結構大掛かりな貧乏旅行で、そこを訪ねたのです。

 熊本から、船で天草に行きました。まだ島と島とを結ぶ橋ができる前だったのです。天草の本渡に着いた日は、『台風が来る!』言っていた日でした。宿を、案内所で見つけたのですが、夜中の暴雨風で、窓が壊れてしまい、その晩は眠ることができなかったのです。天気予報に注意していたら、別のコースをとれたのにと、悔やんだものでした。でも実に美しい海の景色を見せてくれた所でした。

 そこ天草は、江戸時代の初期に、「天草四郎」という人物がいて、今の長崎県で起こった「島原の乱」のことを学んでいましたので、そこが、天草四郎の生まれた地であったことを思って、はるか昔に思いを馳せることができました。この天草四郎も、「ハマボウ」を眺め、朝日や夕日に映える故郷を楽しんでいたのでしょうか。

 ここは、島原半島と並んで、「からゆきさん(唐行きさん/”とは外国のことを意味していました)」として、東南アジアに売られて行った女性を、多く輩出した地であったそうです。「サンダカン八番娼館(山崎朋子作)」で有名になったのですが(ボルネオ島の西部にある街)、そこに、「娼館」があって、異国の地で亡くなった方の墓があったりと、悲しい物語を伝えています。

 この天草は、もう一度行って見たい思いがしています。滞華中に訪ねました、友人の故郷の東シナ海の「東壁島」も美しい島でした。そこで生活をするのは、かつては大変な苦労があったことが分かる、島の雰囲気を感じたのです。貧しさを克服するために、海外に出ていかざるを得なかったのでしょう。その海外からの仕送りで建てられた、まるで御殿の様に石造りの家が立ち並んでいたのです。また弟のために、シンガポールで働き、激しい労働で稼いだ金の仕送りで、大学で学ばせてくれた兄への想いを、大学教授を退職した弟さんがが話してくれました。

 それを見るほどに、漁業だけでは生きて行けませんし、農業にも土地が向いていない、さらに工業誘致もままならない中で、豪華な家々は、ミスマッチだったのです。一年に一度、「春節」に帰って来て、親族を招き合って、共に交わりをするための家なのです。計り知れない苦労や刻苦が感じられてなりませんでした。その様な光景は、天草では見られなかったのです。その島で、「ハマボウ」の様な花を見かけませんでした。

 わたしたちの世代は、日本が一番元気になろうとしていた時代、地方から大都市に向かって、中学校を卒業して、集団就職列車に乗って、大阪、名古屋、東京に十五歳のみなさんが出掛けていきました。一所懸命に働き、伴侶と出会って、家庭を築き、子育てをして、この国を支えて来た世代です。今温泉は、仕事を終えた企業戦士たちが、静かに目を閉じて湯に浸かり、椅子に座して時を静かに過ごしています。

 ハマボウの花ことばは、「楽しい思い出」なのだそうです。苦しさも、年を重ねた今になると、苦しかったことは忘れてしまい、全てが懐かしく、思い出にふけるのでしょうか。楽しかった過去の思い出が、一コマ一コマと瞼(まぶた)映し出されて来ます。悔いも涙もないのです。

(天草市の市の花のハマボウです)

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あの空間と雰囲気が

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 昨日の朝のベランダで、秋風を頬に感じたのです。立秋を過ぎた残暑は、今朝6時の時点で、35の予報が出て、酷暑の日が続いていますが、それでも着実に季節は移ろいゆこうとしています。そう言えば、飛ぶ赤とんぼも見かけ、蜩(ひぐらし)の鳴き声も聞こえ、高級葡萄がスイカに代わって、店先に並んでいます。

 季節の先取り、昨日は、美味しい梨(幸水でした)をいただき、『今年は皮が硬め!』と言ってナスを、ゴーヤと一緒に、家内の友人が持って来てくれました。今日は、わたしの恩師の息子さんが、家族で訪ねてくれました。

 『家族でおいでください!』と、年に一、二度、必ずと言って招いてくださって、乗り古した車に、4人の子を押し込んで、国道を南下して、訪ねたのです。太平洋からの潮風を感じて、大海原を眺めると、ホッとさせられたのです。それ以上に、招いてくださる、二十歳年上で、誕生日が同じの宣教師の家の二階で、あんなにゆっくりした時を持たせていただいた日々が忘れられません。

 その方の息子さんで、ご両親と同じく日本を愛して、宣教の業をなさっていて、親子二代で、わたしたちに好意を示し続けてくださっているご家族なのです。13年の間、support  し続けてくださり、中国から帰国すると、教会に招いてくださって、泊まったことのないようなホテルに部屋をとってくださったりしたのです。

 家内が入院してからも、退院してからも、そして今日は、三人のお子さんたちを伴って奥さまと訪ねてくれました。彼のお父さまの教会では、交わり会が持たれ、単身で訪ねましたし、日曜礼拝に説教の機会を備えてくださったり、ご子息も、お父さまの世話に預かったわたしたちを、まさに親子二代でもてなし、訪ねてくれるのです。

 お父さまの教会で、ご馳走になった、〈タコライス〉のTochigi version で、お昼を用意したのです。ご飯、とんがりコーン、牛のひき肉、炒り卵、トマト、キュウリ、レタス、ブロッコリーsprout 、ソース(ケチャップ、コンソメ、擦りリンゴ、擦りスモモ、etc )、果物のデザート、コーヒー、ジュース、クッキーで準備したのです。好評でした。

 《2階の食卓の空間》で時を過ごして、時を共有し、もてなしを受け、激励されて、再び、自分の任地に戻った日を、忘れたことがありません。無言の激励は、まさに宝でした。その息子さんが奥さまと、よく子育てをされていて、あの親の恩を子と孫とにお返しした、「愛の交換」の〈山の日〉でした。

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良い態度を持つように

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 くり返し、諭すように、わたしを、〈伝道者〉に育ててくださった方が、言われたのは、“ Having a good attitude “ でした。つまり、『良い態度を持つように!』とでした。そして、この方の友人たちが来ると、オウム返しのように、同じことを言っては帰って行かれました。

 相当、わたしの態度が悪かったからなのか、キリストとキリストの教会に仕える者が、どうしても持っていなければならない資質や生き方や在り方が、《良い態度》だからでしょうか、それを身につけるようにと、彼らは願ったのです。人生の初めの時期に、これを学ぶことこそ、人生を成功的に生きていける秘訣に違いありません。

 この人は、キリスト教会の伝道者ではありませんし、会ったこともない方ですが、映像で見たり、文章で読んだりして、この《態度の素晴らしい人物》がいます。MLBで大活躍している、日本人選手の「大谷翔平」さんです。

 プロ野球の選手としての成績はもちろん、人間性についても、悪く言う人がいないほどに輝いているのです。プロ野球の世界は、成績だけが問題にされるのですから、このような人間性については、法を犯さなかったり、人の道を踏み外していない限り、問題視されることはありません。

 ところが、日本のマスコミの偏見なのではなさそうで、アメリカの野球関係者も、大谷選手を高評価をしているのです。昨年の活躍は周知の通りでして、今年度の成績も素晴らしいものがあります。今日の試合で、バッターとして25ホームランを打ち、ピッチャーとして10勝を上げたのです。アメリカンリーグの「ベーブ・ルース」に並び、「シーズン2ケタ勝利&2ケタ本塁打」に達成したのです。

 驕ることも、高ぶることも、横柄な振る舞いをするでもなく、バッターボックスで〈ゴミ〉まで拾い、ball boy にも紳士的にやさしく接しているのです。岩手県が生んだ、素晴らしい青年です。「爽やかさ」と「素直さ」が、彼なのです。今日は、良い成績だからではなく、《良い態度を身につけている人》として、わたしは彼を誉めたいのです。

 同じ今日は、孫が今春入学した学校が、甲子園で勝利をおさめたのです。ヒットを打つと、「立てよいざ立て主の強者」をブラバンが演奏していました。野球部ではなく、陸上部に入部した彼は、昨日新幹線で出掛けて、今日の試合の応援をして、夕刻、帰って来たようです。「バーチャル高校野球」が配信する動画の中に、その試合に釘付けにされた家内は、応援団席にいる孫の無事を祈りながら探していました。

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良き友、メンターを持つこと

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イスラエルの国に伝わる故事に、王である父親に、弓を引いて、謀反を起こした息子の物語が残されています。息子が自分の野心を成就するためにしたことを、国民の「心を盗んだ」と、そこに記されています。

 父親に相談を求めて、訪ねて来る者を、父の家の門に通じる道のそばに立って、その一人一人の訪問客を、その息子は呼ぶのです。そして、『お前はどこの町の者か?』と問い掛けます。どこの部族かを聞き出すと、今度は、『お前の訴えようとしていることは好くて、正しい。でも、王の配下には、お前の訴えを聞いてくれる能力のある器はいない!』と言って、暗に、自分には、その能力があり、その器であることを示すのです。

 自分に挨拶をして、近づく者全てに、この息子は、手を差し伸べて、抱いて、口付けまでするのです。人を、<手懐ける術>に長けていた息子は、そのようにして、人の心を盗んで、自分に靡(なび)かせていったのです。どうも、そのような術策を、彼に勧めた腹心の部下がいた様です。人は、どんな人格、どんな価値観、どんな計画を持つ者を、自分の「相談者」にするかによって、成功と失敗の違いをもたらすのです。

 父親は、そんな巧みな方法で、野心を遂げる息子に手出しをしませんでした。自分の街や国に混乱が起こるのを避けて、泣きながら都落ちをします。その時、父親は、かつて自分の優秀な議官であった者が、息子の<メンター/ mentor /助言者>になったことを、部下から聞くのです。この息子の助言者は、驚くほどの知恵者であったのです。父親は、『もう駄目だ!』と思ったのでしょう。でも、息子をなじることはしませんでしたが、『この助言者の語る言葉が、愚かなものになる様に!』と叫ぶのでした。

 その叫びが叶うのです。息子の助言者になっていたのが、もう一人の自分の部下でした。父親は、この部下に、『あなたのお父上の議官をした方の今回の謀(はかりごと)は良くありません!』と言わせるのです。息子は、その助言を聞いてしまうのです。結局、この策謀が成功してしまいます。自分の進言が取り上げられないことを知った、智者は、家を整理し、故郷に帰って、自殺をしてしまったのです。

 正しくない心を持つ助言者の末路は哀れです。結局、父は、息子を討ち取ることになります。その死んでしまった息子の亡骸を抱いた父親の嘆きは、人並みではなかったのです。戦乱の世とは、実に大変な時であるのですね。この父親のことが、次の様に書き残されています。『すべての国民を、あたかも一人の人の心の様に、自分に靡かせた!』とです。

 私たちの国の政治指導者が、どんな助言者をもっていたのか、また、どんな財政的な援助者がいたのかが露呈して、この「故事」を思い出しました。指導的な立場の人が、どんな助言者、メンターを持ち、どんな進言や助言、試案に耳を傾けるのか、興味津々で見守っていきたいと、思わされています。願わくば、人や祖国への愛とか優しさとか、公正さとか正直さを持つ助言者を、持たれるように、心から願うものです。そして、わたしたちも、どのようなメンター(忠告者)を持ち、どんな忠告や進言や術策に耳を傾けるかは、とても大切なことであります。そして、「良き友」を持つことです。彼こそはメンターとなりうる人だからです。

( “ キリスト教クリップアート“ のイラストです)

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悲しい別れ

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 このブログは、16年前の2006年3月26日に投稿したものの再投稿です。

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 『俺って、お袋に抱かれたことがないんだ。オヤジが誰なのかも分からない。生まれて、すぐに道端に捨てられていたから。拾って抱き上げて育ててくれた人がいる。あの日に死んでいたはずの俺なのに。この人は、震えていた俺を抱いて、あやして名前までつけてくれた。

 でも、世話をし続けることが出来なくなって、別の家族に引き取られてしまった。そこでも、十二分の愛情を注がれて育てられた俺だけど、外の世界の自由な空気を吸いたくて、ついに飛び出してしまった。生きる術などまったく知らなかったし、どうやって、自分で食べて行ったらよいのかも学んでいなかった。外の世界の現実は冷たかったのだ。物音におびえ、足音や車のきしむ音が聞こえると影に身を潜めた。

 おなかのすいた俺は、申し訳ない思いを持って、主人の所に舞い戻ったのだ。そこには、俺を養い育ててくれた人が、心配して外で帰りを待ち望んでいたのだ。そこに申し訳ない思いを込めて、『ニャーオ!』と鳴いて走り寄って、主人の腕の中に飛び込んだ。食べることも、眠ることも出来なかった俺を、再び暖かく迎え入れてくれたのだ。感謝なことである(「放蕩息子物語~ネコ・バージョン~」)。』

 この「俺」は、猫の「タッカー」なのです。南信の飯田の町の道端で震えて鳴いていたのを、娘婿が拾い上げて家に連れ帰って、育てた猫です。アメリカに帰って行く時に、どうしても連れて行くことが出来なくて、私と家内が adapt アダプトしたのです。来客があったとき、玄関から走り出て二泊三日の「脱走」をしたました。娘が、「ネコ寄せネズミ」を置いていったので、それを持っては外に出て、玄関で振っては、帰りを待っていたのです。

 すると、『ニヤーオ』と一声鳴いて車の陰から走り出て来たではありませんか。食べられない眠れない数日を過ごした彼の帰還を祝って、その晩、缶詰を切ってお祝い会を開いて上げたのです。実に美味しそうに食べ終えたら、彼の所定の場所、茶箪笥の上に行って、そこで2~3日、眠り続けていました。実はもう一匹、娘婿が拾ってきた「スティービー」も我が家にいるのです。彼女は、タッカーの脱走中に、三日ほどまったく落ち着きを失って、異常な行動をとっていたのです。

 ところが、《お兄ちゃん》が帰って来ましたら、その歓迎振りはすごいものでした。二匹とも野良猫だったのを拾われた境遇を同じくしていたので、兄のように慕って、共に過ごしてきていましたから。

 まったく捨て猫で野良猫のような私を、万物の創造の神が、御子の十字架の血の代価で、買い戻してくれて、養子縁組によって、「子」の身分を与えてくれたのです。そして、何と「共同相続人」にもしてくれたわけです。ところが自分勝手の道に迷い出た時も、しっかりと見守っていてくださって、『帰って来る!』と確信して待ち続けてくれたのです。帰って来た時、わたしを見つけ、走り寄り、ハグしてくれ、口づけまでしてくれました。ボロ着を脱がせて一番上等な着物を着せてくれ、指輪をはめ、靴を履かせ、祝宴を催してくれたのです。

 今回のタッカーの脱走劇から、なぜか二重写しに自分の姿を見たようでした。私は、『大好きな俺のとうちゃん!』と、父なる神を呼べるように復権してくださったわけです。感謝なことであります。

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 この投稿から4ヶ月後、わたしたちは、香港経由で北京に行くことになったのです。この二匹の猫を、保護センターに連れて行かなければなりませんでした。情が移っていた二匹と、そういった別れをしなければなりませんでした。

 猫嫌いなわたしが、猫の可愛さを知って、懐かれ、すり寄られる喜びを知っての別離は、泣きたいほどでした。持ち物のほとんどを処分してしまっても、生き物との別離は悲しかったのです。冬用のセーターを、中国に持っていったのですが、家内は、スティビーの毛を、そこに見つけて泣いていました。

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山口県

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 フグ料理のフグ刺しで有名なのが、「下関」だと言われていて、下関市の唐戸市場で行われる、「ふくの競り」が有名です。下関では、濁音で言わずに、「ふく(福に因んでの呼び方をするようです)」と言い、初めてのただ一度の「ふく刺し」を、ご馳走になって以来、「永遠の幻のふく」なのです。
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 テレビの番組で見た、腕カバー( arm cover  )のような袋の中で、売り手の競り人と、買い手の卸商が、指を触れ合いながらする「競り」が有名で、「南風(はえ)止まり市場」で行われている、この「ふくの袋セリ」と言う実に独特な光景があります。

 そんな関係で、山口県は、心のふるさとでもないのですが、「美味いもんのふるさと」と言えるでしょうか。一緒に出張した研究員で、父よりも少し若かったでしょうか、親の世代の方が可愛がってくれて、「ふく刺し」を、『こんなに美味い物があるのか!』と、感動的に初めてご馳走になったのです。

 干した河豚は食べたことがありますが、あれ以来、五十数年経ちますが、二度目はまだなのです。子育て中にも、子育てが終わった今でも、【ふく刺し=贅沢】が心と胃袋に刻まれていて、弱虫なわたしは、食べたさに耐えている現状です。ただ、どなたかに二度目を要求しているのではありませんので、お心遣いなさらないでください。

 山口県の第一は「ふく刺し」ですが、第二は、長州藩士の高杉晋作を生み出した地であることです。明治維新前夜、憂国の士として活躍した高杉に、青年期のわたしは、強烈な印象を受けたのです。1835年(天宝十年)に、日本海側に面した「萩(はぎ)」の長州藩士の子として誕生しています。

 この長州藩の祖である、毛利元就(もとなり)には、「三本の矢」という、有名な逸話が残されています。元就自身、幼少年期には辛い経験を解いたのですが、養母の愛に支えられて成人し、武に長け、知にも長けた戦国の武将でした。授かった三人の息子を寄せ集めて、教訓を垂れたのです。

 隆元・元春・隆景の息子たち三人に、一本の矢を持たせて、それを折らせます。その後、各自に三本の矢を持たせて折らせると、折れなかったのです。父亡き後、三人が心を合わせ、協力し、助け合うなら、毛利家は子々孫々安泰であることを教えたのです。それは長州藩の藩訓であったのです。

 藩黌の「明倫塾」、吉田松陰の「松下村塾」、幕府の学問所の「昌平黌」に学び、「柳生新陰流」の免許皆伝で、尊王攘夷を掲げ、日本の変化を求めた幕末の志士でした。
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 1862年に、上海に派遣されて、そこで目撃した当時の清国の窮状、アヘン戦争後に起こった、洪秀全らによる「太平天国の乱」の乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)の実情とアヘンに苦しむ支那人の様子を見て、『支那の次には、日本も欧米諸国に植民を許してしまう!』との危機感を、高杉は感じたのです。

 また、〈試撃行〉、つまり『剣術修行を兼ねて各地を回りたい!』と願って、晋作は、武者修行に出立します。茨城や栃木を訪ねたのですが、どこでもその機会を得なかった晋作は、三万石の鳥居家の城下町、壬生で念願の手合わせをします。その相手は、神道無念流の斎藤道場の剣士たちでした。晋作は、21歳、相手の松本五郎兵衛は58歳でした。他の門弟を相手にしましたが、晋作は一本も取ることができなかったと、言われています。

 その後、剣術の修行をあきらめた晋作は、「奇兵隊」を指揮し、幕府軍と戦ったりしましたが、明治維新の前の年、1867年(慶応三年)に、下関市桜山にて、27歳で、肺結核によって亡くなっています。有名な辞世の句は、「面白くなきを世をおもしろく」だったのです。

 高杉晋作は、伊藤博文や木戸孝允に勝る人材だったそうですから、病没しなかったら、維新政府の牽引者となったと惜しまれた逸材でした。わたしたちの住む栃木の巴波公園の中に、長州藩士の墓が残されています。戊辰戦争の小競り合いが行われ、長岡、宇都宮、会津、五稜郭(函館)と戦いが続けて、この戦いは終わっています。

 長州、薩摩両藩が、明治維新政府の要職について、日本の政治や行政が行われ続けて行ったわけです。もう何年も前に、次男が仕事で、会津に出掛けて、タクシーに乗ったのです。運転手との話の中に、会津のタクシーには、『長州人は乗せない!』との不文律があるのです。100年も前の戊辰戦争の時の長州藩士の所業を、今もなお赦せないでいる会津の怨念(おんねん)を感じているのだと、話してくれたことがありました。

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 この長州は、毛利家への徳川幕府の改易、減封などで、やはり徳川への遺恨があったのです。豊臣氏寄りの毛利の立場に対しての徳川家康の恨みが原点にありそうです。派遣争いは、この世の権力者間の常であって、「遺恨」は付き物なのでしょうか。「江戸の仇を長崎で」、関ヶ原の恨み、会津の恨み、人間の恨みが非建設的であって、聖書が説く「赦し」や「和解」に現代人のわたしたちは聞くべきなのでしょう。

 律令制下では、長門国(ながとのくに)と、周防国(すおうのくに)、人口は132万人、県都は山口市、県花は夏みかんの花、県木は赤松、県鳥はナベヅルです。ここも馴染みの少ない県なのですが、下松市で行われた教職員研修会で、出張したことがありました。でも、その時のことのきおくがほとんどないのです。

 日本の政治指導者を多く輩出した県で、先頃、テロ事件で亡くなった安倍元総理の父親も祖父も、この県下の選挙区から政界に進出していて、「長州」の威光は、明治150年を経ても、今なお輝き続けているのです。ただ、母の父親は、下関の人だったと聞いたことがありますので、血統的に、この県は近いのかも知れません。

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行く夏を惜しむ

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 2010年の8月、多摩川の河川敷で行われた、聖蹟桜ヶ丘花火大会に出掛けました。次男が、母親とわたしを招待してくれたのです。残念ながら家内は、どうしても他に用があって行かれなかったのですが、わたしだけが、テーブルと椅子の置かれたれ一等席に座って、tablet で注文してくれた デリバリーのビサを食べながら、見上げたのです。

 隅田川、新潟の長岡の信濃川の花火大会が有名でしたが、行ったことがありませんでした。尾崎士郎の「人生劇場」を読んだとき、吉良常が、上海で花火師となって、夜空を彩った記事に触発された、高校生のわたしは、実現しませんでしたが、〈花火師〉になろうと思ったのです。

 父が、夏になると花火を買って来てくれて、庭先で火をつけてくれて、楽しんだこともあって、楽しい思い出の夏だったのを感謝しています。これは、その夏に書いたブログの記事の一部です。

 『江戸・隅田川の花火を観に行きませんか?』、『長岡・信濃川の河原の花火を観に行きませか!』、と誘われたことがありましたが、一度も出掛けたことがなかった私は、行き帰りの交通の混雑や人ごみを嫌っていたのです。『遠くから眺める街の花火大会で十分!』と決めていた私ですが、今夏の花火大会は、劇場の舞台で見られる演劇のような、実に「観劇」の気分でした。

 無作為に、ドーン!ドーン!と上げているものとばかりだと思い込んでいた私は、裏切られたからです。コンピューター制御で、流行りの歌が流れる中、それに呼応して打ち上げられ、打ち上げられる間隔、間が計算しつくされ、終演の最高潮の場面では、実にその巧みな演出に感激してしまいました。

 しかも、相撲なら「砂かぶり席」、眼の前の上空で、花開く花火は圧巻でした。しかも水面にも写っていたでしょうか。このような経験は初めてのことでしたから、今は、『花火は遠くからではなく、見上げる真下でもなく、特等席で、眼の前の上空で開花する花火に過ぎるものはない!』と言う結論に至りました。

 『来年はお母さんも一緖に観たいね!』と息子に言いましたが、一卓四席で3万2000円だと値段を聞いて、中国のお父さんは驚いてしまったのです。大きな犠牲を払って、楽しませようとした心意気に触れて、親冥利に尽きる感じがいたしました。

 それにしても、 iPadで注文してくれ、配達されたピザを、花火を見ながら夜風に吹かれて食べた味は、表現の仕様がなく格別な味でした!道道買ってくれた「たこ焼き」も、飲料も、飲みながら食べながらの、綺麗で美味しい2010年の8月の猛暑の夏の夕べでありました。』

 1年ぶりに帰国していた私たちが、中国に戻る前に、親を楽しませようとしてくれたのです。今年は、足利でも、小山でも、ここ栃木でも、「花火大会」があるそうです。やはり「夏の風物詩」、行く夏を惜しむ思いを、花火は煽るのでしょうか。

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