1+1=2

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 こちらで日本語を教えるために、何冊もの本を読んでいるのですが、ある本に、筒井清忠氏(京都大学、帝京大学の教授)の文章がありました。

 『フランスでは、ラ・フォンテーヌやヴィクトル・ユゴーの詩文の暗誦を、初等教育で徹底的にやっている。これによって文章のリズムと言うものを身体を通して体得し、かつまた長い風雪に耐えてきた、人間にとってどうしても欠かすことのできないヒューマニズムというものを自然に身につけていくようにしているのである。』

 この「ラ・フォンテーヌ」はいつごろの人だったのかといいますと、1621年~1695 16年の人ですから江戸時代初期、ヴィクトル・ユゴーは、1802年~1885年の人ですから幕末から明治期だったことになります。そうしますと、日本でしたら、「近松門左衛門」の戯曲や、近代日本語を作ったと言われる「夏目漱石」の作品を読むことが必要なのかも知れません。さらに、「古典」と言われる作品、「万葉集」や「源氏物語」や「古今和歌集」にまでさかのぼって学んだらいいことなのかも知れません。

 日本人の語学力の弱さが叫ばれて、外国語の学習が奨励されていますが、やはり、それ以前に「母国語」を正しく理解しておかないと、外国語の理解も十分ではなくなると言われています。私の受けた国語教育を考えてみますと、少なくとも小学校と中学と高校で12年間、大学の4年間も日本語で学んできましたから、都合16年間学んだわけです。ところが一般的に、日本人は、自分の考えや思っていることを言い表すことが下手だと言われています。それで、『私は話し下手で・・・』と言い訳をします。それは『話は下手だが、やることはやる!』といった自負が隠されているようです。本当にそうでしょうか。

 一昨日、私たちの若い友人が、一人の友人を連れて相談にやって来られました。標準語と方言を混ぜながら話をし、通訳してもらいながら、4時間ほど交わりをしました。大学の法学の先生と、夫人と子どもの問題の相談所の責任をされていらっしゃる方でしたが、実によくお話になるのです。その前の日は、7人でひとつのテーブルについて、新年の食事会にまねかれたのですが、中国のみなさんは、しっかりと「自己主張」をし、テーブルを白けさせない努力をされているのです。日本人だと、座が白けてしまうのに、そういったことがないのです。もちろんん話が混線するほどに、自分の話をしているので、私たち日本人に比べて、はるかに話術に長けているのです。

 『男は無口がいい!』と言われて育てられてきたのが仇になっているのでしょうか、弁舌の達人を、『おしゃべり!』と言って軽蔑されてきたのが、日本の社会ではないでしょうか。『話さなければいけないときに話せない!』これが、私たちの課題です。◯☓式〉の教育で、オートメーションのベルトにのせられて画一な教育を受けて、大量生産されてきた結果なのではないでしょうか。「弁論術」などは、まったく学んだことがないのです。数学で、『〈1+1〉は、どうして答が〈2〉になるのかを、文章で言わなければならない』、理科で、『落葉を観察して、どうして葉が落ちるのかを文章で説明すること』、これが欧米の教育なのだそうです。微分や積分が理解できても、クラスの前で、『どうしてか?』を述べることがなされないと、本当の教育ではないのかも知れません。このような教育がなされたら、日本人はもっと有為に世界に貢献できそうですね。

(写真は、「坊ちゃん(英語版)」の表紙です)

運転免許証の更新

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 去年帰国した時に、所要があって高知まで出かけました。その時、高知龍馬空港で、「レンタカー」を借りたのです。2006年の夏に、中国に来ましてから、運転をしたのは、帰国時に、3度くらいでしょうか。しかも短時間の運転でした。こちらに来まして、友人がいる街にでかけて、『運転をしてみてくれますか!』と、免許を取り立ての青年から頼まれて、場内で運転をしてみました。もちろん左ハンドルで、夜間でした。前後にも対向車線にも車がないので、全くスムーズな運転ができたわけです。初心者のかたに、『流石ですね!』と褒められてしまいました。私は、アメリカで運転免許証をとりましたので、左ハンドルは苦にならなかったのです。

 ところが、高知空港から、国道に出て高知市内のバイパスを通っていた時に、つい進路変更をしてしまいました。ところが追い越し路線に入るタイミングが悪くて、大クラクションを鳴らされてしまったのです。40年も運転してきましたが、運転にブランクがあると、感覚が戻ってこないという危険を感じてしまいました。幸い衝突を免れたのですが、大変に迷惑をかけてしまったわけです。全く、青葉マークの初心者の車線変更だったわけです。この経験から、どんなに経験が長くても、実務から離れていたら、やはり「初心者」なのだということを学ばされたのです。

 路面凍結でスリップしたり、高速道路で前方が渋滞しているところに猛スピードで突っ込みそうになって、ものの30cmで止まったことなどが思い出されます。相当危険な経験だったことになります。鋼鉄の塊が、スピードで走るのですから、いかに危険であるかということも知らされてきました。運転のうまさというのは、速さでも、ハンド巧者でもなく、「安全第一」の運転であるということを学んだわけです。

 ニュースによりますと、日本の最近の自動車事故の死亡件数が、ひところ1万人以上だったのが、半減してきているそうです。罰則規定が厳しくなった効果なのかも知れませんが、好いことだと思っています。それでも、日本でも、ここ中国でも自動車事故は日常的に起きています。こちらでよく見かけるのは、「電動車(バッテリー自転車)」と車の接触事故です。交差点が最も多いようで、便利で速い乗り物ですが、実に危険だということが分かります。それで家内は、『絶対ダメ!』と、買おうとする私を留めるのです。この電動車は、エンジン音がないので、歩行者にとっても危険極まりないのです。何度引っ掛けられそうになったか知れません。みなさん、車も電動車も自転車も歩行者も、あまり信号とか規則を頓着しないのに、思ったほど事故が起きないのを見て、われわれ外国人は不思議に感じてしまうわけです。暗黙の掟があるのでしょうか。

 昨年の秋に、向かいのアパートの駐輪場においていた自転車がなくなってしまいました。頑丈なチェーンで、鋼鉄製の車止めと自転車をつないでおいたのですが、チェーンを切られて運び出されたようです。まあ、『乗らないで!』というサインかも知れません。来たばかりの頃は、免許証を取ることを考えていましたが、もう今はその願いはどこか霧散してしまいました。ただ私の日本の運転免許証が、この17日で失効します。海外にいた証明があれば、更新が可能ということですから、帰国しましたら、免許センターまで行くことにしています。きっとあまり運転の機会はないのかも知れませんが、「身分証明書」の代わりに、持っているべきだと思って、そうすることにしています。日本では正月明け、正月気分の全くない華南の静かな午後であります。

(写真は、高知市の「高知龍馬空港」に着陸体制の飛行機です)

『話せばわかる!』

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新年早々から、こんなことをブログに書くのを躊躇(ためら)ったのですが、意を決して書くことにしましょう。中学生の時に、「真空地帯」という映画を観ました。木村功という俳優が好きになったてしまった作品で、1952年に、野間宏が、日本の陸軍の「内務班(軍隊の営内居住者のうち軍曹以下の下士官及び兵を以て組織された居住単位である )」の実態を書いた小説の映画化でした。

海軍の家系の父から生まれた男の子として、平和な時代であったのですが、少々「軍国少年」のような考えをもっていたのが、中学時代の自分だったと思います。海軍兵学校の制服に似ていて、釦(ぼたん)でないホックで前を留める制服を着用していたのも、なんとなく気分を高揚させていたのかも知れません。バスケットボール部に所属していました。高校生、卒業していった大学生や社会人の先輩たちが、しょっちゅう出入りしていた運動部でしたから、そこで「男学」を学ばされたのです。産毛の中学1年生が、この世の荒波に揉まれていったわけです。そんな時期だったでしょうか、この映画を見て衝撃を受けたのです。

軍隊とは、「武士集団」で、男の鑑のような人たちの世界で、勇気とか果敢さとか、「滅私奉公」の心意気で、凛々しい男の世界だと思っていたのです。ところが、映画の中の軍隊は、古参兵が新兵を訓練するといって、暴力を振るうのです。誰かが過ちを犯すと、全体責任で、一列に並ばされてビンタを張られるわけです。「伝令」とか、「鶯の谷渡り」とか言われた体罰をさせられ、それを眺めて卑しく笑う古参兵の姿が描かれていたと思います。エンピツを指に挟んで、それで指をギュッと握られるような、拷問も行われていたようです。『エッ、栄えある日本の軍隊ってこんなだったのか。嘘だろう。これって脚色され誇張された、誰かの創作ではないのか!』と思わされて、それでも、『軍隊の実態は、こんなだったんだろうか?』と思ったりしていたのです。

この映画で木村功が演じたのが、木谷一等兵でした。軍隊生活4年の古参兵で、陸軍刑務所から出獄してきて、その内務班にいたのです。彼が、古参兵の特権で、ビンタを張る場面がありました。「皇軍(天皇の軍隊と言われていました)」の輝きなど全くない陰湿な世界に、「軍国少年」の夢や憧れは、無残にも砕け散ってしまったのです。そういった世界の影響でしょうか、運動部が強くなるための精神性を高めるために、この軍隊方式を受け継いでいたのです。横並びにされて、ビンタを張られたり、殴られたことは何度もありました。本当に、男は、こういった世界で生きることによって、「男になる」のでしょうか。それで、下級生をビンタし、ビンタされた下級生がが、またビンタを張るといった悪弊が受け継がれてきていたのです。

今朝のニュースで、「体罰を受けたバスケットボール部の主将が自殺」と言った記事がありました。顧問の教師から体罰を受けたのを苦にしての自殺だったようです。二十一世紀になっても、こういった「蛮風」が残っているのですね。そこまで追い込む体罰が、運動部を強くするのでしょうか。自分を殴った上級生や先輩の顔が浮かんできます。自分が殴った下級生の顔も思い出してしまいます。スポーツの世界が、健全な精神を涵養することを忘れて、「勝つこと」だけが目的になってしまうと、おかしなことが起こるのでしょうか。やはり、人間を狂わせてしまう「暴力」は、どんな理由があってもいけないことです。かつて犬養毅首相が、青年将校たちに言った、『話せばわかる!』は、忘れてはいけない言葉ではないかと思わされたのです。

(イラスト画は、http://sauber.yaekumo.com/prof/p_inukai.htmの『まあ待て。話せばわかる!』と言った犬養毅首相です)

快活に生きよう!

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   2013年、愛するみなさまにとりまして、祝福に満ちあふれる一年でありますように
  心から願い、年頭のお挨拶を申しあげます。

 この朝、私の思いにやってきたのは、『偶然の一日でなく、必然の今日を喜び楽しむ!』でした。きっと一日一日に、意味や価値や目的があるに違いありません。眠れたことを喜び、清新な新しい朝の空気を、腹一杯にすい、快活に生きようと心に決め、精一杯の一日を明るい光の中に生き、夕べに一日を感謝する、『これが365日の一日一日であってほしい!』と願いました。病む日も腰痛の日も、落胆も悲しみもあることでしょう。その様な日は、いち早く頭を上げて、心の思いを温かさや希望で満たそうと思っております。

 困難なことにばかりに目や心を向けていると、生きる意欲や楽しみがそがれてしまいます。ですから「見ること」と「思うこと」の心の領域が、いつも明朗で、澄んでいるようにしたいと、また心に決めました。好奇心や探究心や意欲といったものを忘れないようにとも思っております。ちょっと欲張っていますね。そんなことを思っております。

 新しい年に期待し、みなさまのご健康と平安を心からお祈りしております。
 よきお交わりをいただけますように願っております。

2012年を想う

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                     2012年を想う

 『・・・2012年が、起死回生の祝福の年となりますように、この大晦日の午後、衷心から祈り、切に願っております。「生きている幸せ」を、思い起こさせてくださって、一言お礼を申し上げます。ありがとうございました。
 追伸;私の左手首には、『 Unite To  be ONE! がんばろうNIPPON 』のリストバンドが、いまだにはめられたままです。 』

 この文章は、昨年の大晦日の〈2011年度最後のブログ「悠然自得」の記事の終りの部分〉です。私が、「起死回生」を願った2012年が終わろうとしています。私たちの国が、自然災害が起こりうる不安、原発事故による被災地の復興の遅れ、日本を代表する企業の業績不振からくる経済の落ち込み、政治の迷走と交代、9月以降の領土問題を中心に、外交関係の緊張と硬直、そんなことが国内にありました。一方、アメリカ大統領選挙、中国や韓国の指導陣の交代(実際には2013年に入ってからですが)、ギリシャの経済破綻によるヨーロッパ圏だけではなく世界への影響、アメリカ経済の不安、銃の乱射事件、国際社会にも、大きな課題を残したままの越年となります。多くの喜ばしいこともありましたが、その筆頭は、山中教授の「ノーベル賞」の受賞でした。生き方も、奥様の愛し方も一流でした。

 私たちは、こちらでの生活が七年目になりました。家内も私も、それぞれに母親と死別をし、家内は上の兄とも死別をした年でした。今は悲しさも癒えて、前を向きなおしております。とくに、生涯の十分の一の年月を、外国で過ごすことになり、今さらながら不思議な導きを感じております。故国にあったものをすべて処分してしまいましたから、国籍と法的な住所を残すのみです。私の、こんな歩みについてきてくれた家内は、あちらこちらと跳び回って、友人たちや病んでいる人たちを訪ね、中学生たちに日本語を教えたりして、大陸の生活を楽しんでいます。『心配ないの?』と聞くと、『全然ない!』と答えています。

 私は、学校で日本語を教えており、感謝なことに、来学期も来年度も機会が与えれています。とても身の引き締まる思いをしております。この9月15日の前後には、多くの教え子や、友人たち、天津で中国語を教えてくれた教師までもが、『大丈夫ですか?』、『何かあったら助けますので、遠慮なく言ってきてください!』、『こんなことになってごめんなさい!』など激励やお詫びがあました。つらい思いはしましたが、いつもと変わらず過ごしております。1月の下旬に帰国を予定しております。「査証」の更新の申請をしなければなりませんし、「運転免許証」も更新期限を過ぎましたので、これもと思っております。もう一つ、大切な用がありますので、このためにもすべきことがあります。福州にいることが最善だとするのなら、その必要も満たされ、「査証」が取得されれば戻りたいと思っております。

 この2012年のみなさまからの激励や援助やお便りに、心から感謝しております。 新しい年の祝福を心からお祈り申しあげます。(添付の写真は、今夏8月に訪ねた島で、若い友人に出迎えてもらった時のものです。)
                       2012年大晦日

ハイデルベルク

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『生きている間に一度行ってみたい外国の街!』の一つは、ドイツのシュトゥットガルトの近くにある「ハイデルベルク」という街です。ドイツの地図を見てみますと、ライン川の支流のネッカー河畔にあります。街の中心に、ドイツ最古の大学があり、また歴史的な王城もある学術都市なのだそうです。ロンドンやパリやベルリンではなく、『ここがヨーロッパを最も感じさせてくれる街ではないのか!』と、昔から思っていましたので、とても惹きつけられているのです。

もう何年も前に、あるドイツ人の伝記を読んで、とても感銘を受けたことがありました。その本を翻訳された方に手紙を書きました。そうしましたら丁寧な返事をいただき、一緒に、『むずかしくないのでこれを読んでみてください!』と、その伝記の主人公に関する「ドイツ語資料」のコピーを、しかも大量に送ってくださったのです。学者というのは、ドイツ人に関心がある人は、みんながドイツ語を理解できると思っておられるのでしょうか。ある方に翻訳してもらおうと、お願いしたのですが、その方の行方が不明になってしまい、そのまま書類が消えてしまったのです。この方は、先年、召されたと聞きました。本当に申し訳ないことしてしまったと思っております。

その主人公が、ハイデルベルクを含むのでしょうか、シュヴァーベンという地方の出身だったのです。そういった人物を輩出した地に、なんとも言えないほどの関心があって、もし許されるならと思っているのです。もう少し生きていられる間に、訪ねられたらいいのだがと思っております。今年、私の長女が、出張でヨーロッパのいくつかの街を歴訪して、色々とメールで知らせてきてくれました。どうも、ドイツに行って、美味しい「ドイツ料理」を食べる機会があったようです。その話を聞きましたら、今度は、「脳」だけではなく、「胃袋」も、ドイツに行きたくなってしまったようで、なんとも食いしん坊が露見してしまったようです。

日本という国が、大きく変化してきた歴史的な要因を調べてきますと、ヨーロッパ視察をしてきた人たちが、ヨーロッパの文明や思想、さらには高度な科学技術を、実際に見て、手で触れた報告をされてからだと思うのです。『天は人の上に人を造らず、人の下の人を作らず』という思想を知らせた福沢諭吉のようにです。どれほど日本が立ち遅れているかを痛感させられて、「欧化政策」を急進的にし始めていくのです。アジアでは、そういった動きをしたのは我が国だけでした。死にものぐるいの努力で、まあ肩を並べるところまで到達し得たのかも知れません。そんなことから、やはりヨーロッパ、ヨーロッパでもドイツといった思いが強いのかも知れません。

学校を出て、最初に務めた職場に、ある体育大学の先生が、非常勤研究員の一人としていました。彼は、ドイツに留学して、学んで帰るときに、ドイツ人の奥方を連れて帰国していたのです。どうも日本人とドイツ人は似ていて、相性がいいのだと言われていたのを、この方が証明していたのです。ヨーロッパ圏で国境を超えて侵略したドイツと、アジア圏で隣国を侵略していった日本とは、やはり政治的、外交的にも似ているのかも知れません。『ダンケシェーン(ありがとう)』だけしかドイツ語を知りませんが、片言が話せたらいいなとも思っていますが、まあ、してみたいことが多いというのは、気が若いのでしょうか。困ったものです。

(写真は、ハイデルベルクの街の風景、下は、ドイツの地図で南部にハイデルベルクが位置しています)

『よくやった!』

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 長女と同学年だったのが、松井秀喜でした。北陸の球児として、高校時代から注目されていました。一方、彼より二級上の息子も、小学校から中学まで、『お父さん僕がプロ野球の選手になったら、家を建てるし、新車も買うからね!』と言って、野球をしていました。親としては、その彼のことばが嬉しくて応援していたのです。中学の部活動の中での出来事は、彼が大人になってから語ったことばを間接的に聞きまし、彼の取り扱いについて、彼が愚痴ったり、監督批判をしたことがありませんでしたから、寝耳に水でした。それで、『そうだったのか!』と驚いたわけです。どうも公正な扱い方ではなかったようですが、彼が腐らなかったことを褒めたいのです。「もし」と言う仮定はないのですが、励ましがあったら、180cm以上(大学では187cmでしたから)の恵まれた体躯を持っていまし、運動神経もあったので、可能性があったかも知れません。でも、「巨人の星」の星飛雄馬やイチローの父親のようではなかったので、彼は花開かなかったわけです。それで中学を終えると、友人がいたハワイの高校に進学していき、野球からは離れて行ってしまったわけです。

 昨日、『松井引退!』というニュースが、ネットで伝わって来ました。心から、『ご苦労さま!』と言いたいのです。その日の試合が終わって、記者が取材をすると、毎試合、驕(おご)らず衒(てら)わず、質問に答える姿が、実に好印象でした。こちらで開かれた講演会の講師が、リベラ投手の知り合いで、『松井はじつにいい青年だそうです!』と、公演の中で言っておられました。日本人の評判を高めた、彼の功績は大きいのだと思われます。渡米してアメリカのプロ野球界に在籍して10年になるのですね。そうしますと、野球の選手生命は、30代の後半で終わるのでしょうか、短いですね。政治家の世界では、世襲でない限り、まだお茶汲みの時代で、まだ半人前です。学問の世界でも、「博士号」をとって、大学に残ったら、助手か専任講師くらいで、優秀だったら副教授といったところでしょうか。相撲の世界は、もっと短いようで、30の声を聞くと「ベテラン」と言われてしまいます。 

 野球が面白くなくなってから、日本のプロ野球に、この松井が登場して、人気が回復してきたのではないでしょうか。その彼が移籍してしまったのは、大きな穴があいてしまったようでした。しかし、メジャーの世界で、実力をいかんなく発揮したので、今度は、アメリカ野球が面白くなってきたわけです。陰のイチロー、陽の松井秀喜、そんな両者の活躍は、興味が尽ききませんでした。年齢的に、そろそろ終焉に近づいているのはわかっていたのですが、『ついに来たか!』といった感じです。

 私は野球は素人ですが、日本人が、アメリカ野球で活躍する上で、体格や体力の面に、大きな問題があるように感じたていたのです。試合数も多く、アメリカ中を西に東に、南に北に移動しなければならない環境で、ついていくのは、大変なことだと言われていました。ゴルフのトーナメントでも同じです。投手なら、ローテーションがあるので休みを取れますが、松井やイチローは野手ですから、休むすきがないのです。イチローは、入団当時と体型も体重も、殆ど変化がないのですが、それに比べ、松井は、ある時、外国人並みの体を作って、彼らに伍してやっていこうと、改造をした時期があったのではないないでしょうか。筋力のアップ、体を大きくする工夫を心がけたのです。彼の「膝」の問題は、このへんに問題があった様に、感じてならないのです。

 まあ、それは結果論で、『よくやった!』でいいのでしょう。また野球がつまらなくなってしまいました。どの世界でも、性格の良い人が一番ですね。『驕らず、衒わず」!』です。彼のような選手は、百年に一人ほどでしょうか。3Aでプレーしていた時も、ひたむきに野球に向う姿勢に、子どもの世代の彼から学ばされました。改めて、『ご苦労さまでした!』

『来年こそ一度行ってみたいところ!』

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 『来年こそ一度行ってみたいところ!』の一つは、北海道の「帯広」です。こちらで家内が知り合いになった方が、そこの出身なのです。家内が出かけていて留守の間に、夕食に招いて下さり、北海道の名物料理、「ちゃんちゃん焼」をご馳走してくださったのです。サシミで食べられるような生きの良い鮭をふんだんに使って、『これこそが北海道の味!』と思うような美味しさでした。異国の地での「ちゃんちゃん焼」に感動してしまいました。

 ご主人は、こちらでお仕事をされていますが、9月以降の騒動の中で、事業展開が大変なのだそうです。『リスクが高すぎること、どうなるか先行きが読めないので考え中です!』と、今度は、奥様が帰国され、家内もいないときに、数度、私の手料理にお招きした時の弁でした。大きな企業での仕事なら持ちこたえられるのでしょうけど、個人事業は、なおのこと悩んでしまうのでしょう。赤ちゃんが生まれて予防接種を受けるために帰国中に、ちょっとした〈男の弱音〉を聞いてしまったわけです。

 その奥様がこちらに戻られてから、相談されたのでしょうか、来年は引き上げを考えているとのことでした。彼らの可愛い「マゴ」を見た、おじいちゃんやおばあちゃんは、そばに置きたくて仕方が無いことも、ひとつの理由なのかも知れません。天津にいた時に、スイスから来ていた夫妻が、私たちを食事に招いてくれました。医者として、中国の大学病院で奉仕しようと、語学勉強をしたり、機会を待っておられる時でした。その招待の理由というのが、私たちの三番目のマゴが、アメリカで生まれ、その同じ時期に下の子を、天津の病院で出産していたのです。『マゴを抱きたいだろう!』と察して、家内と私を、家に招いてくれたのです。彼女は、上の子も中国で生んで育てていたのですから、さすがはお医者さんだなと思って感心してしまいました。今は北の方の大学で教えていることでしょうか。彼らのように「中国愛」に溢れている方々との交わりから、遠のいてしまったのですが、人様々に異国の地で生きているのを知って、自分たちも、存在の意味を自らに問い直したりしています。

 先日は、務めている学校の「晩餐会」があり、家内と二人で参加しました。ホテルのレストランでの会食で、中国料理というのは、驚くほどの種類があるのには、いつも驚かされるのですが、とても美味しく頂戴しました。その折、わたしの「査証」のことで、学校の責任の方が、ご心配くださっていて、そのお話もしました。先ほどの日本人経営者の話ですと、『ビサの発給がだいぶ難しくなっていて、私も来年は難しいかも知れないようです!』と言っていましたので、そんなことを察して、心配してくださったのです。もう60の後半に差し掛かっていますのに、未だ続けて働く機会を与えてくださる学校側のご好意に、心から感謝した次第です。

 帰国してから、どうなるかですが、家内も私も、こちらでの生活を続けたい願いがありますが、日本にも、しなければんらない大切な要件がありますので、そちらも考えなければならないようです。股旅の旅がらすなら、『なるようにならあな!』とでも言うのでしょうか。裕二郎なら、『明日は明日の風が吹く!』とでも言うでしょうか。また、上海から船に乗って帰国をしようと準備中です。ですから、今回は「帯広行き」はお預けで、来夏には実現したいと思っています。もちろん家内と一緒にですが。

(写真は、帯広に春を告げて咲く「辛夷(こぶし)」の花です)

『来年こそ一度やってみたいこと!』

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 『来年こそ一度やってみたいこと!』の一つは、「歌舞伎」を観に行って、役者の屋号である『中村屋!』とか、『播磨屋!』と言って、掛け声をかけてみたいのです。歌舞伎座でかけられるような本格的なものを観たことがないのです。よく父が、『昔から、歌舞伎役者を〈河原乞食〉と言って軽蔑されていたんだぞ!』と言うのを、子どもの頃から聞かされていたので、つい足が遠のいていたからです。こちらに来て、「京劇」、「川劇」、「闽劇」という中国の歌劇の観劇招待状をいただいて、観る機会がありました。相互に影響しあったと言われる「歌舞伎」を、そんなことで、一度観たくなったわけです。そして、腹から、『三河屋!』を屋号を呼んでみたいのです。

 そういった呼びかけというのは、中国の劇にはなかったと思います。みなさんは静かに観ているのです。でも、『何を言ってるのかチンプンカンプン!』と、こちらの方がいうのを聞いて、『じゃあ、分かりっこないよね!』と家内と言ったりしておりました。それでも、娯楽の少ないこちらでは、ずいぶんと人気があるようです。テレビでも専属チャンネルがあって、年寄りは、楽しみにして観ていると聞いています。

 長野県の大鹿村に伝わる「大鹿歌舞伎(農村歌舞伎)」を観た時に、ほんとうに『面白い!』と思ったのです。何時もは、みんなと同じようにはしない私ですのに、「おひねり(お金を紙に包んでひねってあるのでそう呼びます)」を、舞台に投げて楽しんでみました。演目は「藤原伝授手習鑑~寺小屋の段」でした。江戸時代の農村で、ご禁制でありながら、密かに残され楽しんでいた娯楽で、それを観た時に、『きっと、平家などの落ち武者が、この山岳地帯に流れてきて住み着いたけれど、「武士(もののふ)」の血が騒いで、鋤や鍬を持つ手を休めて、剣や槍で演じ、また観てきたのだろう!』と思わされたものです。終演の時は、大きな拍手をしてしまいました。

 何時か、また大鹿村に行って、この農村歌舞伎を見てみたいと思うのです。桜の春と、紅葉の秋、年二回の公演をしていて、映画にもなったことから、全国的な人気が出てきたのだろうと思います。長野県には、この大鹿村だけではなく、他の村でも、伝承されて、公演が行われていると聞いたことがあります。そいうえば、ずっとこの村に住んでいる人の顔をよく見てみると、『あの平清盛は、こんな顔をしていたのだろう!』と思ってしまうような、凛々しい男性がおられました。ここでは、役者が素人の住民ですから、屋号はないでしょうね。野菜を売っている店の主人が出てきたら、「やお屋」とでも呼んでみましょうか。きっと顰蹙(ひんしゅく)をかうことでしょうけど。

(写真は、「大鹿歌舞伎」の観劇風景です)

「別れ」

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 「別れ」、この2012年に、愛する人との別れが三度ありました。先ず、ブラジルの義兄でした。昨年、発病して手術を受け、回復して、自営の仕事に復帰していたのです。今年の元旦でしょうか、家内に、『電話してみない?』と言って、国際電話をかけたのです。久しぶりの会話を家内は楽しみ、私も懐かしい渋い声を聞くことができて喜んでいたのですが、その後、間もなくして召されたとの連絡が、互いの子どもたち、従兄弟同士の連絡網で、私たちのところにも知らせてきたのです。すぐに、義姉に電話を入れて、告別式には行かれないこと、気を落とさないで過ごして欲しいむね伝えました。

 アルゼンチンの会議の後、私は、サンパウロから車で、1時間半ほどのところにいる、義兄を訪ねたのです。移民した中では、大きな敷地の中に一周するとそうとな時間のかかる池を持つ、そのような「屋敷」に住んでいましたから、農業では成功しませんでしたが、まあ成功の部類に入るのでしょうか。高校を卒えた春ですから18歳で、船でブラジルのサントス港に向い、一度も帰国をしないまま、移民先で召されたわけです。『移民仲間が、あまりの辛さと孤独で自死してしまい、なくなく墓をほって埋めた!』と、話してくれました。義兄の友人で、リンゴ栽培と、貯蔵しての出荷に成功をした親友がいました。お母さんが離婚され、親戚と一緒に、3,4人の子どもを連れてやって来たのだそうです。赤貧水を洗うが如き時を過ごして、林檎栽培を始めたのだそうです。私の訪問時に、日本のものと遜色ない「フジ」を一箱届けてくれたのです。食事をご馳走してくれましたが、食べ切れませんでした。

 そして、3月31日、母が九十五歳の誕生日に、天に帰って行きました。出雲で生まれ、東京に死したのです。母の体が荼毘(だび)にふされた時、自分を妊娠して、十月十日の間いた母の胎が灰になっていくのを目の当たりにして、なんとも言えない寂寞とした思いを感じていました。『人生短し!』、まさのこの実感でした。甲州街道に面していた時計屋の小父さんが、母の通りすぎていく姿を、じーっと見つめて目で追っていた光景を覚えています。ちょっと肌が黒かったのですが、「今市小町」と言われていたと、母の幼馴染に聞いたことがあったのです。母親との死別のコメントを、これまで何度も読んできましたが、自分の母との場合は、格別なものがありました。帰国して、すぐに跳んで行く場を失ったこと、いや話しかけたり、手を引いたりすること、おぶうこともできなくなったことは、言いようもなく寂しいものです。

 さらに、母の死の後すぐに、母の大切な友人で、家内の母も、私の母を後を追うように、天に帰って行きました。筑後川で泳いで、夏は真っ黒になっていたのですが、「久留米小町」と言われていたようです。子供の頃から優しい人で、貧しい人を見ると、家の蔵に跳んでいって、米を分け与えるのを常としていたそうです。そんな義母を、母親は黙ってみていたのでしょう。昭和天皇だったと思いますが、久留米に行幸された時に、選ばれて、お茶の接待役をしたとも聞いています。子育てや夫婦関係で悩んでいるお母さんたちの相談にのり、離婚してしまい、つらい気持ちを聞いて上げて、一緒に泣いて上げた義母でした。私の母とは、甲州街道の路上で、初めて出会って、それから親交し続ける「親しい友」となったのです。6つ年上でしたから、101歳で、義母は召されたことになります。

 この方々との別れは、寂しくも悲しくもありますが、やがて「再会」の望みがあって、『また会えるね!』と思えるので、いつまでも悲しまないことにしましょう。歌の文句に、『会うは別れの始めとは・・・』と言うのがありましたが、生まれた時に、『こんにちは!』でしたが、『さようなら!』が続くのだという人の世の常が、しみじみと感じられた一年でありました。でも、『さようなら!』よりも、中国方式で、『再見!』と言うことにしましょう。

(写真は、陽の光を受けて陰影を見せる雲です)