「かあさんの歌」

 1956年に 窪田聡の作詞・作曲による「かあさんの歌」が発表されています。

     母さんは夜なべをして
     手ぶくろあんでくれた
     こがらし吹いちゃ
     つめたかろうて
     せっせとあんだだよ
     ふるさとのたよりはとどく
     いろりのにおいがした

     母さんは朝いとつむぐ
     一日つむぐ
     お父は土間でわらうち仕事
     おまえもがんばれよ
     ふるさとの冬はさみしい
     せめてラジオ聞かせたい

     母さんのあかぎれいたい
     生みそをすりこむ
     ね雪もとけりゃ
     もうすぐ春だで
     畑が待ってるよ
     小川のせせらぎが聞こえる
     なつかしさがしみとおる

 「凩(こがらし)」とか「囲炉裏(いろり)」とか「土間」が出てきますから、日本の地方の農村を舞台に、子育てをしてくれた、「日本の母」を歌っています。窪田聡は、東京の下町で生まれましたが、戦時中、長野県にあったの父親の実家に「疎開(そかい、gooによりますと、『空襲・火災などによる損害を少なくするため、都市などに集中している住民や建物を地方に分散すること』)」をしたこと、母が家出先に送ってくれた手紙や小包をもらった経験から作詞をしました。歌っていると、絵が見えるような歌で、私も、母や故郷を思い出してしまいます。

 私を育ててくれた家でも、お金が無いこともあったのでしょうか、運動会ではく「足袋(たび)」が買えなくて、母が明日の運動会のために、夜遅くまでかけて、手縫いでこしらえてくれたことがありました。結局、鈍足な私は、賞を取ることが、いつものようにできませんでしたが、『参加に意義あり!』の精神は果たすことができたのです。その母が召されて、ちょうど一年になります。時々思い出してしまいます。生きていたら、『お母さん。大陸の片隅で元気に生きていますよ!』と便りをしたいところです。詠み人のいない手紙は書けませんので、ただ懐かしく、母の手を思い出している、「彌生」の末の週日の朝であります。

(マンガは、「毎日新聞」2013年3月17日付の「毎日かあさん」です)

「江戸しぐさ」

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 いっとき、「江戸しぐさ(仕種・礼儀作法のこと」ということをよく耳にしました。「礼儀正しい日本人」という高評価を得た私たちは、そのルーツを、江戸時代に求め、江戸の街中、特に江戸の街中で生活をする庶民が、周りの人々に「気配り」をした生き方を、そういったことばで表現したようです。そう言えば、母が、『人さまに迷惑にならないようにするんですよ!』と、よく言っていたと思います。あまり細々としたことを注意しなかった母ですが、さすがに日本の母親として、「処世術」を躾てくれたのだと思います。

 この「躾(しつけ)」という文字は、実に素晴らしく意味深いのに驚かされます。しかし、漢和辞典で調べてみますと、「漢字」にはなく、「国字(我が国で作れた文字)」で、どなたかが、『身を美しく飾りたい!』との願いを込めて作字したのでしょう。町中や農村といった狭い社会の中で生きていくためには、人と人の距離が近いので、相手を気遣わないといけなかったのでしょうか、『ここまで気配りをするのか?』と思うほど、日本人は注意深く生きてきているわけです。

 家族の中では、とくに甘やかされた私は、傍若無人の振る舞いがあったのですが、〈病弱〉に免じて許されていたのです。最悪のケースでした。それで小学校4年くらいの時に、多摩川の河原の土手の上で、父親に説教されました。そもときの光景も、父の表情も、いまだに忘れないのですから、肝に命じたのだと思います。それを契機に反省した私は、気配りが出来るようになったのかも知れません。それでも、結構やりたい放題だったのですが。そんな私を煙たがらなかった兄や弟には、頭が上がりません。

 駅の近くで、甲州街道から少し入ったところに、「銭湯」がありました。家に内風呂があるのに、広い浴槽と、よく滑るタイルがはられていましたので、格好の遊び場でした。手ぬぐいに銭湯代を手に、近所の仲間とよく行きました。下湯を使ったり、静かに浴槽につかったりしないので、しょっちゅう怒られて小言を言われていました。それでも当時のおじさんたちは、制限内で遊ばせてくれる〈おおらかさ〉があったのだと思います。使った桶や腰掛け(これが当時あったかどうか覚えていませんが)を片付けることも教わりましたから、〈実教育の場〉でもあったのだと思います。

 聞くところによりますと、江戸っ子たちが「銭湯」に、入るときは、『冷えもんでございます!』と、一声かけて入ったのだそうです。冷えている体で、お湯の中に入るので、湯加減をぬるくしてしまう無礼を一言詫びたのです。意味は、『失礼をいたします!』でしょうか。そういった「ことば」と「行為」が、集団の中で生きていく礼儀と術(すべ)を身につけていったのでした。それを聞いている子どもたちは、『そう言うんだ!』と教えられたわけです。こちらには「銭湯」はありませんので、こういった経験はないのですが、雨の日に通りを傘をさしてで歩いていますと、向こうから来る人は、江戸の街中で見られた、「傘かしげ」をしてくれます。江戸の「専売特許」と思っていたら、この町の「仕草(しぐさ)」、「所作(しょさ)」でもあるのです。まあ、相手への配慮は、万国共通でしょう。〈ニューヨークっ子〉だって、〈ベルリンっ子〉だって、きっと、そうすることでしょうね。

(絵は、『火事とけんかは江戸の華』の「出初式(江戸/明治・歌川広重画)」です)

黄河の砂の中から

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 先ほど電話があり、『去年、船の中でお会いした◯川です!・・・・沖縄に関係がある遺跡に来て、会えるかと思って、近くの師範大学に行ったら、親切な方が調べてくれ、お宅の電話番号を教えてくれましたので電話しました。』と言っておられました。私が教えているのは、師範大学ではなく、別の大学なのに、どうして私の電話番号が分かったのか、じつに不思議です。◯川さんがお会いしたのは、どんな「親切な方」だったのでしょうか。実は、我が家の電話番号を知っておられるのは、ほんの僅かな人だけですから、私の働いてる大学も知らないはずなのに、いわんや師範大学では調べようがないのにです。ちょっと、《狐に摘まれている感じ》でおります。多分、『Z女史にちがいない!』と思っていますが如何に。

 500万人もいる省都の中で、外国人の私の家の電話番号、そして電子メールのアドレスを知っている方から、教えられたというのですから、黄河の砂の中から指輪を探し出すようなものです。こんな人と人との出会いがあるのでしょうか。隣に背中合わせにいても、すれ違ってしまって、二度と会えない知人同士、恋人同士だっていると聞きますから、摩訶(まか)不思議です。『これから午後、別の町に行くことになっていて、ちょっとお会いしたくなって・・』と言っていました。しかし私は、『学校があって、今日は時間がとれないので・・・』と、電話でやり取りをしました。

 この方とは、去年の8月から3ヶ月の間、中国中を一人旅すると言って、上海の埠頭で別れたのです。私の名前、この街にいることは覚えておられたのですが、聞いた大学の名を忘れ、多分と思って訪ねた大学で、「親切な方」に借りた電話でかけてきたわけです。昨年の9月15日の事件の最中も、旅行をされて11月に帰国されたのだと言っていました。私の娘婿が働いていた飯田市の出身で、東京に隣接する街に住んでおられ、退職後奥様の許可を頂いて旅行をしていると言っていました。私より1つほど若い方です。

 今電話をしましたら、やはり「Z女史」でした。今日は旧キャンパスで教えていたら、知り合いから電話があって、私の電話番号を教えたのだそうです。この知り合いで、「親切な方」は、私のことを知っていて、それなら「Z女史」に聞けば分かるだろうと思って、聞いてこられたそうです。500万もの人の群れの中にやって来て、訪ねた人が私を知っていたというのは、「千載一遇」という出会いなのでしょうか。いやー、ほんとうに驚きました。今日の午後、授業がなかったら、跳んでいけたのですが、まあ、次回の楽しみにしようと思います。◯川さんたち三人の旅の無事を願いつつ、「親切なか人」にも感謝して。

(写真は、黄河中流の「壺口瀑布」の花です)

春風

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 私の長女が小さい頃のことです、おめかしをしていましたら、ある女性が、『◯◯◯ちゃん、「馬子にも衣装」ね!』と言いました。きっと、『よく似合いますね!』と言おうとしたのですが、言葉を間違えたのだと思います。「ことわざ辞典によりますと、『どんな人間でも身なりを整えれば立派に見えることのたとえ。』とあります。まあ善意に解釈すると、普段、褌を締めて粗末な身なりをして働く馬子だって、きちんとした衣服を身につけたら、お大尽にだって見えるのです、とです。人は身なりの外見によって判断できないものだというふうに取れなくもないのですが。しかし、この言葉は、「侮辱(ぶじょく)」の思いが込められていて、使われるのが普通です。あのような場合に使う言葉ではなかったわけです。

 もし私が、みなさんが綺麗に着飾って私の前に立たれた時、『「馬子にも衣装」で、今日はとても美しいですね!』といったら、きっと憤慨して、私とは二度と口をきいてくれなくなることでしょう。娘に、そういった方は、若い時に、小学校の先生をしていた方ですから、「諺」の真意を理解していたに違いありません。きっと私と家内へ特別な感情があって、こういった言い方をしたのだとしか思えないのです。でも、私は、その方をよく知っていたので、腹が立ちませんでした。かえって「気の毒」に思ったほどです。そう言われた娘は、ほめられたと思って、ルンルン気分でスキップしていたのです。

 子どもっていいですね。「馬耳東風」、「馬の耳に念仏」、言葉の意味や語る人の悪意にかかわらず、快活に生きていけるからです。この子は、優しくて敏感な心を持っていますが、大らかなのです。まだ幼かった長男が硬い桃をかじりあぐねていた時に、『お兄ちゃん、こうやって食べるんの!』と言って、『ガブリ、ムシャムシャ!』と、二歳違いの彼女は食べてしまったのです。柔らかい桃しか食べていなくて慣れなかった長男に、どんな硬さでも美味しく食べられる、「臨機応変」な生き方を身につけていたからでしょうか。

 体格も大きく育ったので、クラスのリーダーだったのです。上級生にいじめられてる同級生を助けたり、高校の時には、先生の人生相談をしたりしていました。ピアノが好きで、音楽大学に進学したかったのですが、叶えてあげられませんでした。それで、東京の夜間の短期大学に進学し、昼間は働きながら卒業し、働きながら蓄えた資金と私の兄に借りたお金で、アメリカの大学に留学してしまいました。しっかり学んで卒業したら、ロスアンゼルスで働き始め、今はシンガポールで働いています。すでに借りたお金は、きちんと返済しています。留学先から帰ってくると、妹と同じスーパーで、ピンクの制服で身を包み、『いらっしゃいませ!』のレジのアルバイトを、ずっと続けていました。

 何を言われても、すぐ忘れてしまえるのは、ああいって揶揄されたり、侮辱されても、それを跳ね返せて、平気で生きていける心の質を持っているからなのでしょうか。それは素晴らしいことだと思います。ちやほやされたり、甘やかされなかったことが、人のことに気配りできる優しさを培ったのでしょうか。会社の中枢になっている今、時々、私たちを気遣っては、『元気?』と電話をくれます。まるで「春風(しゅんぷう)」をうける「福寿草)ふくじゅそう)」の花のようです。

桜だより

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      さまざまのこと思ひ出す桜かな    芭蕉

 この時期にしては珍しく、『寒い!』のです。30度以上の日も数日あったのに、この数日は、北の方の冷たい空気が流れ込んできているのでしょう。今朝、長男の嫁の iPHON から写真の送信がありました。「花見」の様子を撮ったものです。シートの上で、美味しそうなお弁当を広げ、寝そべって本を読み、春の陽を浴びて満足そうにしているスナップでした。もう関東は、満開なのです。それを見に、子どもたちを連れて出かけたのでしょうか。この日本人の「余裕」がいいですね。あくせくと働いて、何かと言われてきたのに、「花を愛でる心」が受け継がれているのです。この心を、「世界遺産」にしてもらいたいほどです。秋になると、「紅葉狩り」もしますから、自然の恵みを良くした日本列島に生まれ育った者の心に宿る、「美的鑑賞」は、世界に誇っていいのだと思います。

 花の咲き誇る木の下で、ゴザを広げて家族や友人や同僚と、「桜」を楽しむのですから、外国人の目にしてみれば、不思議な感じがするのではないでしょうか。こちらに来てから、緑の多い土地柄で、次々に華南の花が咲き始めますが、こちらの方は、花の咲いた木の下には来ません。その美しさを、遠くから眺めているだけです。ところが、私たちは、手や目で「触れられる春」の下にやって来て、明日への英気を養うのです。子どもたちを育てた地方は、「水蜜桃」といったほうがいいでしょうか、桃の産地でした。桜が散った後に、桃の花が絨毯のように、一面に咲き始めるのです。でも、だれひとり「桃の花の木下」で、ゴザを広げようとしません。家内が一度、桃の花の下で食事をしたいといって、子どもたちを連れて出かけたことがありましたが、一度きりでした。


 
 どうしても、「桜の花の木下」にやってくるのが日本人なのです。それでも、父に誘われて、花見をした記憶はないのです。激動の中を行きてき、四人の子育てに精一杯で、「風流」を楽しむゆとりはなかったのでしょう。母も、そんなことを言って外に連れだそうともしなかったようです。第一、花なんか女々しいと思っていた私は、きっと誘われたとしても、ついては行かなかったことでしょう。それなのに、今になりますと、桜の木の根本に座っていたいような思いに誘われるようになりました。

      世の中に たえて桜の なかりせば 
      春の心は のどけからまし      在原業平

 この和歌の意味は、「この世の中に、もし桜がなかったなら、春を過ごす人の心は、さぞかしのんびりと落ち着いたものであっただろう。」というそうです。さて「目黒川の桜」は、どれほどたわわかと思いが膨らんで来る、日本からの桜だよりを聞いた午後であります。

(写真上は、紹介のブログの主撮影の飯田市・中郷黒川の「しだれ桜」、下は、「そめいよしの」です)

食事処めも

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 偶然に出会ったブログに、「゜+.(・∀・)゜+.゜伊那市近辺の食事処めもー!」があり、もう何年も愛読しています。どうして愛読してるのかといいますと、「食べ物屋さん」を、食後談と写真とで紹介しているからです。奥様と一緒にでかけて、美味しかったり、印象的だったことを記されています。おもに、長野県南部「南信」を中心に紹介されていますが、時には、京都や佐渡や東京や沖縄などにも行かれて、その記事もあります。

 どのような仕事をされている方なのかわかりませんが、写真撮影の技術が素晴らしいのです。ずいぶん高級なカメラを使っておられるのを写した写真がありました。だからといって写真屋さんではないようですが。『写真使用可!』とのことで、私のブログにも、この方の写真を使わせていただいたことがあります。最初の孫が、飯田市で生まれましたので、この地域の名物である「蕎麦」や「ローメン(羊の肉を使った焼きそば風の麺類)」や「ソースカツ丼」などを、婿殿に誘われて食べる機会があったのですが、それらを商う「食堂」が紹介されているのです。『帰国したら、「南信」で、あまり口いしたことのないフランス料理を!』と思うのですが、一人での帰国で、わざわざ出かける勇気もないまま、行かずじまいで、こちらに戻ってきてしまうのが常なのです。

 こちらにも、「日本料理店」が多くあります。私たちのアパート群の道路を挟んだ向こう側の「モール」の中には、寿司屋が二軒もあります。バスに乗ってでかければ、新鮮なネタの刺し身も食べられるのです。前期の授業が終わって、食事に招いてくださったのも、そんな店でした。大陸で、鮮度の高い生物が食べられるというのは、砂漠の旅人が「オアシス」に巡り合うような感じなのかも知れません。ときたま人が来られた時など、『「清水の舞台」から・・・』で、でかけて贅沢をしています。でも、山の中の南信の「食べ物屋さん」が作る、写真に写る「焼き魚」や「丼物」の日本料理には、目が引き寄せられて、つい涎が出てきてしまうのです。何十年も食べてきたものは、そんなものなのでしょうか。

 もちろん中華料理は美味しいのですが、「化学調味料」と「油」が強いので、サッパリ系(!?)の私は、毎回は無理なのです。それでも、この地方独特の「麺」があって、家内と帰りがけが昼には、ちょくちょく食べます。数種の野菜と肉と牡蠣と蛯などが入ったもので、好物の一つです。実は昨日の日曜日も出先から戻って、アパートの正門の近くで、食べてしまいました。どうも食べ物の話になったと思いましたら、「お昼」が近くなって来ましたので、それでは。

(写真は、このブログに掲載されている「ローメン」と「フランス料理」です)

迷宮

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 新宿も、渋谷も、都電が走っていた小学生のころから、時々、乗り降りしていましたから、駅の構内や乗り継ぎがわかっていました。ところがオリンピックが開催される前後から、町も駅も大きく変わっていったのです。新宿駅の出口がなかなかわからなくなってしまったり、乗り継ぎに苦労してしまいました。渋谷の駅も、以前は乗り継ぎが簡単だったのですが、近年、ずいぶんと複雑になってしまい、たまに行くと、もう「お上りさん」然として、迷ってしまいます。それは東京全体の事になってしまったようです。

 長男が志木市に住み、次男が代官山に住んでいます。東急東横線で渋谷に出て、そこから東京メトロ副都心線が乗り入れしてる東武東上線直通で、次男の家から長男の家に行く便利さを楽しむことができます。ところが、この3月16日から、東横線と副都心線が直通になったわけです。それはそれは便利になったので、今度帰国したら、ぜひ利用しようと思っています。

 ところで、交通工学の専門家ではないのですが、東急東横線の地下への移動し、副都心線に直結する計画があると聞いたころから、なんとなく思っていたことがありました。渋谷から乗り込む副都心線ですが、いつも乗客が少ないのです。また、副都心線の渋谷での降車客も、他の路線とくらべて『少ないな!』と感じていました。利用客数から言うと、東横線は、「銀座線」とつなげたほうが便利なのではないかと思っていたのです。そうならなかったのは、たぶん渋谷の駅の構造からして、たぶん無理だったのかも知れませんが。

 昨日の渋谷駅の「地下迷宮(めいぐう/めいきゅう)化」のニュース記事を読んで、そう思っていたことが正解だったのではないかと思ったのです。『日本の土木工学の技術でしたら、さして問題ではないのでは?』と思っているのですが。もう、「後の祭り」になってしまいました。何十年も電車を走らせてきた会社が、頭脳を働かせて計画したのですが、現実は厳しいようです。世の中が複雑怪奇になって、駅までもが、「迷宮」になってしまったら、実に面倒でついていくことができません。

 今度帰ったら、渋谷からではなく、恵比寿の駅から歩いて、次男の家に行こうと思っています。来月帰国をする家内にも、『渋谷でまごまごして迷子になるよりも、恵比寿のほうが・・・』といってあります。街は生きていて、大きく変化してしまいます。何年ぶりかに帰ってきた人にとっては、大変なことではないでしょうか。子どもたちがアメリカで学んでいた頃に、いない間に引越しをしてしまい、帰ってくる家が、何度も変わっていて、慌てていたことを思い出します。「引越し魔」の父親を持ったことの悲劇でしょうか。

 昨晩は、大家さんが、ご自宅に、食事に招いて下さり、家内といってきました。大変なごちそうを作ってくださったのです。中国人の「もてなし」には、いつも驚かされます。今度わが家に招くとき、「タコライス」をしようかと考えています。何度も作ってお客さまを迎えたことがありましたので。久しぶりなので、楽しみです。

(写真上は、「東急電鉄・渋谷駅[東横線と副都心線の駅名表示]」、下は、かつての「東横線ホーム」です)

恩師

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 「水呑み百姓」とは、gooの辞書によりますと、『江戸時代、自分の田畑を持たず、検地帳に登録されない小作・日雇いなどの下層農民。貧しい農民。無高百姓。 』とあります。一般的に、貧乏な農民を、そう呼ぶようです。そんなことを興味深く聞いたせいでしょうか、小学校の授業で、一番好きだったのが「社会科」でした。地理も、政治や経済のことも好きでしたが、最も興味を覚えたのが「歴史」でした。しかも、「日本の歴史」だったのです。興味があるので成績もマアマアだったのですが、K君にはかないませんでした。お父さんが、紳士服の仕立てをしていて、彼は、「小学◯年生」の付録に、いま習っている個所の「学習補助書(アンチョコ)」を持っていたのです。それを読んでは、いろいろな答えを誰よりもしていたのです。そのことを知る前は、『どうして、そんなことまで知ってるのか?』と感心しながら、彼の答えを聞いていたのです。ところが、だいぶたってから、「付録」からの知識だと知った時から、『何だそうだったのか!』と思ったのです。

 だからといって、私は、父に、『月刊の「小学◯年生」を買って!』と、ライバル意識を燃やして頼むことはしなかったのです。そのかわり、教えてくれたことを、興味津々で聞き続けたわけです。小学校を三月に卒業しようとしていた、年の暮れに、父が私立中に行くように言ってきたのです。兄たちと同じように、町の中学に行こうとしていたのにです。それで、「受験勉強」をし始めました。当時、私立中学に行くのは、田舎町の同級生では、国鉄の駅の近くで、工場を経営していた家の女子だけでした。彼女は、同じ学校の女子部に行きました。私の同級生には、医者、中央競馬会の調教師、大きな商店の息子たちが多くいました。入れてもらった中学の担任(三年間)だったのが「社会科」の教師だったのです。K先生は、三十代の中頃だったでしょうか、頭は薄かったのですが、髭の濃い方でした。4、5人の級友とで、お宅に押しかけた時、お兄さんの家の二階に、ご家族で居候していました。りんご箱が、机だったので、驚きました。「東大卒」と「りんご箱」が繋がらなかったのです。

 始業のベルが鳴る前に、この先生は、壁掛けの地図などの様々な補助教材を手に抱えてやってきて、必ず教壇から一歩降りて、挨拶をしていました。また復習のために、B4版のわら半紙を、4分の1に切った用紙に、問題を作って配布してやらせてくれました。当時は、「ガリ版印刷」でしたから、手間隙をかけて、丁寧に教えてくれたのです。そのおかげで、ますます「社会科」が好きになったのです。ところが、中学2年の夏ごろから、バスケット部にいたせいもあり、意志が弱かったこともあり、烟草を覚えたり、大人の世界に興味を向けて、勉強から遠ざかってしまったのです。それでもなぜか、「実力考査」の成績はまあまあだったのです。中3の最後の成績表の中に、『よく立ち直りました!』と、担任が書いてくれました。そのままズルズルと行かなかったのは、父や母の陰からの応援のせいだったのでしょうか。まあ危機を越えたのでした。

 そんなこんなで、母校の担任の同僚の先生の紹介で、仕事にありつき、教員にならせてもらったのです。しかも、担任と同じ「社会科」の担当でした。こういうのを「三つ子の魂」なのでしょうか。ところで、あの頃のライバルのK君は、どんな道に進んだのか知りませんが、私は好きな「社会科」で飯を食う事になったわけです。人生の導きというのは、実に不思議な「出会い」があってのことだと、振り返って、つくづくと思わされています。恩師の消息を聞きませんが、お元気でしょうか。そんなことを思っている週末の土曜日の朝であります。

(絵は、江戸期の農村風景です)

「尋ね人の時間」

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 日本放送協会を「NHK」と言いますが、テレビが放映されるまで、毎日の情報は、このラジオ放送と新聞が担っていました。父の家の茶の間で、炬燵の周りに座って食事をとった部屋の壁際に「物入れ」があり、その上に、「ラジオ」が置かれていました。寝る時以外、家に誰かがいる間は、何時も放送が流れていて、なんとはなく聞いていました。とりわけ病欠児童だった私は、学校にいなければならない時間帯に、咳や微熱に苦しみながら、布団の中で、耳を傾けていたのです。ですから、同世代の中で、ラジオ放送を、最も多く聞いていたのではないでしょうか。だから「ラジオが友達」といった感じでした。

 放送されていて記憶が鮮明なのは、午前中は「名演奏家の時間」でした。寝ていても、お腹だけは空いた食いしん坊の私は、「ひるのいこい」のテーマ音楽を聞いて、『お昼だ!』と知ったのです。その番組の中には、「◯◯(名前)農林水産通信員」の報告などがありました。どの番組も、 テーマ音楽が、始めと終わりに流れていたのです。あのメロディーがふと思い出されては、「胸キュン」になることが時々あります。

 そんな中で、最も印象的だったのが、午後に放送されていたと思うのですが、「尋ね人の時間」でした。その頃の放送内容が、ウイキペヂアに、次のように書き込まれてあります。

  『旧満洲国黒龍省チチハル市の○○通りで鍛冶屋をされ、「△△おじさん」と呼ばれて
  いた方。上の名前は判りませんが・・・ 』

  『ラバウル航空隊に昭和19年3月まで居たと伝え聞く○○さん、xx県の△△さんがお捜
  しです・・・ 』

  『昭和○○年○月に舞鶴港に入港し引上船、「雲仙丸」で「△△県の出身と仰りお世
  話になった丸顔の○○さん・・・ 』

  『これらの方々をご存じの方は日本放送協会まで手紙でお知らせ下さい。手紙の宛先は
  東京都港区内幸、内外(うちそと)の内、幸いと書いて「うちさいわいちょう」です 』
  
 父は軍人ではなく、「軍需工場」の仕事に従事していましたので、戦地には行きませんでした。また、山の奥に住んでいましたから、戦災に遭わず、母も兄たちも家にいました。それで、「尋ね人」が、よく理解できなかったのです。でも、家族や知人を捜している人が多かったことだけは分かりました。家内が育った北多摩の街には、「引揚者住宅」があって、同級生の何人もが、そこから学校に通っていたのだそうです。お腹をすかして、貧しかった時代でしたが、一生懸命に生きていたのです。わが家は、「すいとん」をよく食べましたが、食べ物に窮することはなく、恵まれていたのかも知れません。感謝なことです。

(写真は、1955年当時使われていた「ラジオ」です)

陸奥の歴史

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 上海の街中を、「黄浦江 」が流れていて、この流れの岸に、「上海国際港」があります。1月に乗った「蘇州号」が、週一の往復便で、大阪との間を航行する発着港も、その「外灘」にあります。最近の上海のニュースで、「豚の死骸」が、その上流から1万3千匹も流れてきたと報じていました。どうも、その上流の養豚農家が、病気に感染したので、処分に困って、[水に流した」のです。この「水に流す」を、goo辞書で調べますと、『過去のいざこざなどを、すべてなかったことにする。「これまでのわだかまりを―・す」』とあります。

 この言葉の意味を教えてくれたのは、国語の教師ではなく、歴史や地理の「社会科」を教えてくれた中学の時の担任でした。「陸奥」、東北地方では、冷害などで凶作に見舞われることが多かったのです。今でこそ改良に改良が加えられて、新潟や秋田などでは、「こしひかり」とか「あきたこまち」の人気銘柄が収穫されるようになってきていますが、この地域は、かつての凶作地でした。現在では、米作農家は、豊かな時代を迎えていますが、かつては極貧に甘んじていたのだと教えられました。

 農家では、赤ちゃんが産まれると、『食べていけない!』という現実に、生まれてくる子どもを処分をしてしまったのです。「間引く」という言葉も、本来は、米の成長に不要な苗を引きぬくことを言った言葉でしたが、こういった場合にも用いられた言葉でした。さて、「水に流す」というのは、その生まれてきた赤子を籠に入れて、川の流れに、流してしまったのです。先に生まれてきた子どもたちの生き死にを考えた結果、どうしても子育てが出来なかった農家の若夫婦は、その赤ちゃんを「水に流・・・」してしまったわけです。どんなにつらい決断だったことでしょうか。

 北上川という川が、岩手県から宮城県にかけて流れていて、石巻で太平洋に至ります。この川は、くねくねと蛇行していているのです。その蛇行するところに、「地蔵」が多く見かけられるようです。どうしてそうなのかといいますと、「水に流した」赤ちゃんが、その浅瀬に流れ着いていたので、地元の人たちが、亡くなった赤子のために作ったからだそうです。ずいぶんと悲しい歴史が、日本、とりわけ東北地方にあったのだと、教えられて、胸が詰まったのを覚えています。このことは、温々と大事にされて育った私にとっては、『そんな出来事が本当にあったのか!』と思わせた、衝撃的な学びだったのです。

 東京オリンピックのために、高速道路やビルのなどの土木建設が行われ、特別な産業がなかった、東北の農家の働き手が、その労働力として求められ、いわゆる「出稼ぎ」が行われたのです。今では、言葉だけが残ってしまった感がいたしますが。その労働者たちの悲哀を歌ったのが、「山谷ブルース(岡林信康の作詞、作曲、歌)」でした。経済大国になった影に、そういった過去を持つ世界があったということは、忘れてはいけないことのようです。

 そんなことを教えられた私は、東北が怖くて、なかなか旅行することができませんでした。高校の時の修学旅行が北海道でしたが、その時の列車に乗せられて、車窓から東北の夜の町を眺めたのです。その教わった悲しい過去が思い出されて仕方がありませんでした。どこにも、誰にも、人に語れない過去があるのでしょうか。いまの平和と繁栄に感謝するとき、覚えておくべきことの一つかも知れません。

(写真は、東北有数の河川の「北上川」です)