八花繚乱

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 春の陽を浴びて、ブラリと散歩道を行くと、こんなに綺麗に花が咲いて、来た春を彩ってくれていました。これらの花の一つほど、装うことにできない、路に映る自分の影を、しばらく眺めていたのです。

 この季節に、礼拝や聖書の学び会、祈り会の時に、歌った歌に、「春に若草が」がありました。

原に若草が 青く萌え出すと
雪解けの水が 高く音立てる
※ 私たちも春の喜びを歌おう
春を造られた神さまを歌おう

風がやわらかく 野原を通ると
木の枝が揺れて さらさら囁く

遠くで家畜の 声が聞こえると
近くで小鳥が 何か歌いだす

造られたものは 春の日を浴びて
春を造られた 神さま誉めてる

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。(新改訳聖書 イザヤ43章4節)』

『わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」(イザヤ44章22節)』

 こんなに薄汚れているのに、いえ、こんなに汚れ切っているのに、神さまは、ご自分の御子のゆえに、イエスさまの十字架の贖罪のゆえに、無条件で、赦し、子としてくださり、義としてくださり、聖としてくださり、やがて栄光化してくださるのです。

 功(いさお)ない私に、これほどの身分を与えてくださって、「高価」で、「尊い」としてくださり、『愛している!』と言ってくださいます。魂の敵の手から、奪還してくださり、「子たる身分」を、無代価で与えてくださり、イエスさまと「共同」の「相続人」にしてくださったのです。

 もちろん、暑い夏も、みのりの秋も、凍える冬も、神さまはお作りくださったのです。そんな四季を喜び楽しませてくださるのですね。

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わたしを呼べ、そうすれば

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 父の仕事仲間が、流行りつつあった Golf の事業を新規に始めたとかで、十代の終わりの頃だった自分のために、「ゴルフセット」を手形とか、体重と身長、スポーツ歴などを科学的にデーターをとって作ってくれたのです。兄たちは仕事のために家を出ていた頃でしたから、三男の私のために注文してくれた父でした。それをかついで、家の近くの多摩川の河原に出かけて行って、スイングの練習をしたのです。

 練習場だって、どこにでもない時代でしたから、正式にトレーニングするには、お金が必要だったのですが、父に練習代をくれとは言えないで、そのままになってしまいました。いつのまにか、すぐ上の兄が担いで持っていってしまい、それっきりになってしまったのです。

[ダビデの賛歌(祈り)]

『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(新改訳聖書 詩篇23篇)』

 ゴルフは、起源に諸説あるのですが、『韓民族が始まりです!』と言う、桜にしろ、起源への拘りで有名な朝鮮族は、『私たちの国が!』とは言っていない様で不思議ですが、アジアではなく、どうもスコットランドにあるのが、定説なのだそうです。

 なぜかと言いますと、そこは牧羊業が盛んな地で、牧夫の手には、羊を導く杖と、鞭とがあると、詩篇には記されていますから、昔から、ここスコットランドでも、野に羊を導く牧夫は、羊の首を抑えるクエッションマーク「?」の形状の杖とか鞭になる棒を、道具として使っていたのです。

 それで遊ぶこともあったのだそうで、牧羊地に転がっている手頃な石を、足で蹴らずに、棒や杖で打って、穴に入れる遊びをしていた様です。やがて、それがスポーツになっていき、今の様に、“ コンペ( competition )”  とか言って競技会が開かれています。

 莫大な額の賞金に驚かされてきましたが、このゴルフの”Masters “ と呼ばれる一大ゴルフ競大会の行われる、ゴルフ場のコースには、聞き覚えのある「アーメンー・コーナー (amen corner )」があるのだとか。つまり、クリスチャンは、祈りをした最後に、『主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン!』と言って、父でいらっしゃる神さまに祈り、最後に、『その通りです!」という意味で、『アーメン!』と締めくくります。

 つまり、この「11番ホール」あたりは、難易度がとても高く、祈りを必要とするほどにという意味で、そう名付けられたのです。祈らなければならないほどに、風向きや芝を読んだり、クラブを変えたりしなければならないほど、考え悩む困難な箇所なのだそうです。

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。(エレミヤ33章3節)』

 これまでの自分の生きて来た道にも、難易度の高い難関な箇所がありました。家族や友人たちに祈ってもらい、自らも祈って、自分の信仰生活と普段の生活をして参りました。この祈りには、[聴かれる祈り]、[聴かれない祈り]、[待たなければならない祈り]があると言われています。それでも、祈りは、ただ人生上の困難な局面にあるからだけではありません。

 『くれ!』だけの祈りではなく、感謝な思いでする祈りもあるのです。つまり、この神さまは会話の相手となってくださるので、心を友人に開く様にして、神と会話をするのが、この「祈り」なのです。

 感謝なことに、そんな「祈り」を自分のものにして、今日まで生きてくることができました。ことのほか、病弱な私が健康を回復したり、オッチョコチョイの私が、よく怪我をして来たのですが、死なないで、ここまで生き延びられてきたのは、その「他者の祈り」があったればこそだと感謝するのです。

 私たちの4人の子どもたちは、小さい頃から、『お父さん、お母さん、祈って!』と言われて祈ったことが、よくありました。もう親元を離れた子どもたちから、「祈りの要請」が届くのです。自分が祈られて来たのだと感謝があるからでしょうか、夫や妻や、彼らのご両親のために、また子どもたちの必要に、私たちに、『祈って!』と言って来るのです。

 私たちの子どもたちは、実体験として「祈りの力」を認めているからなのでしょう。理解を超えている人生上に起こる、人の力を超えた現実、出来事の中に、神信頼があると言うのは、驚くほどの助けなのです。

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 1903年(明治36年)藤村操が、日光の華厳滝で自死したのですが、その「辞世の句」が残されています。

『巖頭之感 悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小軀を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。我この恨を懷いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巖頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。』

 この人は、盛岡藩士の孫であったのですが、人生の不可解さに押しつぶされた青年として、社会を騒がせたのですが、16歳の第一高等学校の学生でした。同じ盛岡藩士の子に、新渡戸稲造がいました。藤村操の死の2年後に、新渡戸は一高の校長になっています。この青年に、いのちの付与者への「祈り」があったら、神への呼びかけがあったら、「アーメン」があったら、『死ね!』と迫った誘いを押しのけて、「不可解」を押しのけて、死なないで生きられたのではないかと思うこと仕切りなのです。

(Christian clip artsの「祈り」、ウイキペディアによる岩手県の県花の「霧の花」です)

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アネハヅルの驚異的な飛翔が

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 戦時下に、十代後半を過ごして、軍需工場での仕事に従事したことを、「わたしが一番きれいだったとき」で読んでいます。それは、19歳だったと、茨木のり子が、自分で書き残しています。そんな詩を詠んだのり子が「鶴」を詠んでいます。

 1995年に、NHKが、「謎のヒマラヤ越え〜飛行ルート5000kmを追う〜」を放映したことがありました。「アネハヅル」の驚異的な飛行の様子を記録した秀作でした。そのアネハヅルの神秘的な習性を、映像で観て詩作をしたのです。その驚きの思いが伝わってきます。

 鶴が
ヒマラヤを超える
たった数日間だけの上昇気流を捉え
巻きあががり巻きあがりして
九千メートルに近い峨峨(がが)たるヒマラヤ山系を
超える
カウカウと鳴きかわしながら
どうやってリーダーを決めるのだろう
どうやって見事な隊列を組むのだろう

涼しい北で夏の繁殖を終え
素だった雛もろとも
越冬地のインドへ命がけの旅
映像が捉えるまで
誰も信じることができなかった
白皚皚(はくがいがい)のヒマラヤ山系
突き抜けるような蒼い空
遠目にも賢明な羽ばたきが見える

なにかへの合図でもあるかのような
純白のハンカチ打ち振るような
清冽な羽ばたき
羽ばたいて
羽ばたいて

わたしのなかにかわずかに残る
澄んだものが
激しく反応して さざなみ立つ
今も
目をつむればまなかいを飛ぶ
アネハヅルの無垢ないのちの
無数のきらめき

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 昔から、日本にも鶴が飛来して、「鶴の恩返し」の民話や、木下順二作の「夕鶴」などがあり、読んだ覚えが私にもあります。鶴の変身とか、生まれ変わりなど、「異類婚姻譚」と言う話は、この日本だけではなく、世界各地にある様です。

 シベリアやモンゴルの草原の地で、鶴は誕生して、親鳥に養われて、育ったばかりの子の鶴を従えて、冬場の餌を求めて、温暖な地に移動します。インドやパキスタン、中東、北東アフリカに渡って行くのですが、あのヒマラヤの8000m級の高さを飛ぶ様子は、驚きです。聖書にも、鶴が登場しています。

『燕や鶴のように私は泣き、鳩のようにうめきました。私の目は上を仰いで衰えました。主よ、私は虐げられています。私の保証人となってください。(新改訳聖書 イザヤ38章14節)」

 人は、自分の現実に生活に中で、泣いたり呻いたりします。それは、燕や鶴や鳩の様だと、預言者は言っているのでしょうか。

『空のこうのとりも、自分の季節を知っている。山鳩も燕も鶴も自分の帰る時を守る。しかし、わが民はの定めを知らない。(エレミヤ8章7節)』

 アネハヅルは、故郷回帰の時も、また冬がやって来る前に、餌のある地を求めて渡る時期を知っているのです。動物は、生きて子孫を残すと言った使命を、本能的に知っているのです。とくにアネハヅルは、世界中に15種類ほどいる鶴の中で一番小さく、体長は90cm、体重は2~3kg、翼開長は150~170cmの体格を持っている様です。生後3ヶ月になる、秋には親鳥と一緒に、インド行などの2000kmも0の遠距離距離を、さらにアフリカにまで行くのだそうです。8000〜9000mもの高いヒマラヤ連峰を越えるのです。


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 神さまは、生き物のえ種類に従って、生き延びるための「本能」を与えておいでです。1ヶ月で成鳥となり、3ヶ月ほどすると、渡りの群れに加わるのです。その寿命は、20〜25年ほどで、それだけの年月の間、渡りを繰り返すのです。帰巣本能は、創造主が与えられていて、帰るべき地に帰って行く時を心得ているのです。

 昨日、まだ巴波川に鴨たちが餌を認めて川面を泳いで、鯉と餌取りの争いをしている鴨の様子が見られましたが、もう残っている数は少なくなっていて、多くがすでに、シベリヤに帰っているのです。間もなく、残りも北帰行していくのでしょう。鴨の一生は、5〜10年ほどだそうですが、この群れも来ては帰るを毎年繰り返すわけです。一ヶ所に定着したと思うと、引っ越して行く私も、何か、「渡り鳥」に似ているのではないかと思うことがあります

『また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」 また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。(新改訳聖書 黙示録21章1~6節)』

 人は、天、神の御元から下って来る、「新しい天」と「新しい地」に、永遠に住むことができるのです。としますと、天国に行くと言う表現よりも、実際には、やって来る「神の国」、永遠の御住まいに、死んでいた者は蘇って生き、生き残った者たちと共に生き続けるのです。悲しみの涙はぬぐわれ、死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもなく永遠を、父、子、聖霊の神さまと共に過ごすのです。

 アネハヅルの翼を、茨木のり子は、「純白のハンカチ」でもあるかの様に詠み、上昇気流に自らの体を任せて、「無垢ないのち」の躍動を思ったのでしょう。生きるために、天空を舞い上がって、ヒマラヤの頂を越えて行くのです。そんな風に表現をしたのです。あんなに小さな体で、あの高度まで昇るほどに、神秘なことはありません。いのちの付与者が、その習性を与えられたからなのです。希薄な酸素、空気圧、マイナスの気温を考えるに、耐性を備えられた神の傑作に違いありません。

 それよりも、神に似せられて造られた私たち人は、神の最高傑作なのです。帰って行く「天の故郷」への想いを持って、多くの愛兄姉が、この馳せ場の地上を、定められた年月生きているのです。巴波川の鴨を見て、そんな思いにさせられております。

(ウイキペディアの「アネハヅル」」、「シベリヤ」、「ヒマラヤ」です)

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力と富と勢いと誉と賛美を受けるに

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 関西漫才で、圧倒的な人気を得ていたのが、横山やすしでした。確かに、問題児でしたし、漫才の稽古も好きではなかったのです。ところが相方の西川きよしの忍耐強いpartnershippで、稽古に引っ張り出したのだそうです。

 アドリブなのか、むちゃくちゃに勝手に、調子に乗って喋くっていた様に見えたのですが、あれだけの人気を得た芸のためには、忍耐強い稽古があったからでした。何と一つの演目のためには、40回も重ねた稽古があったと、西川きよしが言っていました。あの二人の芸は稽古の賜物だったのです。

 私は、キリストの教会の責任を、宣教師さんから受け継いで、牧会という奉仕をさせて頂き、主に日曜日ごとの礼拝の中で、説教者として長く生きてきました。週日には、聖書研究会もあったでしょうか。特に日曜日に、来る一週一週ごとに、説教壇に立つという奉仕は、けっこうきついものでした。

 宗教改革以降、教会の礼拝では、祈りと讃美と献金と、そして説教がなされてきていました。ジュネーブの宗教改革者のジャン・カルバンは、礼拝の中で、「主の日」と言われた日曜日ごとに、それを実行し、聖書を、章ごとに講じる「講解説教」をしたのです。会衆は、それを神のことばとして聞きました。

 日曜日の説教作りで、朝になっても作り上げられないままのことが、たまにありました。そのまま説教壇に立ったこともありました。構想や思想がわかず、筋道をつけての準備も、説教のまとめもできないのです。一週間のサイクルで、新しい説教を、聖書をテキストにして作るのですが、それは簡単ではありませんでした。

 『今日の説教を聞いて、死のうと思ってやって来ました!』と、死の覚悟をして来られる方もおいでなのです。だったら、命懸けで、説教の準備をしなければならないからです。笑いをとろうとして説教を作っていましたら、家内に注意されたことがありました。笑わせるのが説教ではなく、「いのちのことば」を、彼女は宣教師から聞き続けてきたからでした。

 神の言葉、思想、想いを、そして命に預かるために、愛兄姉がおいでなのです。説教の巧者と評され、聞き手を話しに引き込むことに長けていたスポルジョンは、バプテスト派のロンドンにあったタバナクル教会の牧師さんでした。

 このスポルジョンが、説教を終えて、教会のドアーを出て、家に帰ろうとしていた時、前を歩いていた二人の兄弟が、『今日のスポルジョン牧師の説教は良かった!』と言うのを耳にしたのです。それでスポルジョンさんは、踵を返して教会の建物に戻って、祈ったのだそうです。

 『今日の説教で、あなたではなく、自分を印象付けてしまったようで、本当にごめんなさい!』と、悔いて謝ったのだそうです。『あなたの説教は、つまらない。お隣の街の牧師の様に、上手に話されてはどうででょうか!』と臆面もなく言って、教会をさって行ったしまいがいたことを、ある牧師さんにが言っておいででした。

 とても感動して読んだ本があって、その著者を訪ねたことがありました。自分の説教をカセットテープに録音したのを持参して、牧会相談に上がったのです。その方は、独学で聖書を学んだ方でした。こう言われたのです。

 『上手な説教をされたのは、救世軍の山室軍平でした。この方は、同じ説教を繰り返されたのです。ところが聞くたびに違っていて、いつも会衆に、新しい主への感動を与えていたのです。』と。

 スポルジョンも山室軍平も、その牧師さんも、みことばに啓示されている、イエスさまを、難しくなく、簡明に話して、愛兄姉を養ったのです。良い牧者が、きれいな水と栄養豊富な牧草に導く様にしてでした。見本は、イエスさまだったのではないでしょうか。神学や教理ではなく、「いのち」を語ったのです。あの若い日に訪ねた牧師さんへの私の弟子願望は、返事を頂けないままで終わりました。

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『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。(新改訳聖書 ホセア6章3節)』

 イエスさまが、どなたかを知ることこそが、儀式偏重から、宗教改革者が回復した「説教」だったのです。「賛美」も、みことばを歌うことも、回復されて、今に至っています。私を導いてくださった宣教師さんの愛唱コーラスは、

  ほふ(屠)られた子羊(こそ)は 力と富と知恵と勢いと 誉と栄光と賛美とを受けるにふさわしい(お)方です 🎶

と、「ヨハネの黙示録5章12節」に、ご自分でメロディをつけて、祈り会にも聖書勉強会の時も、礼拝にも、よく賛美して、主イエスさまを褒め称えておいででした。今、それを思い出して、時々口ずさんで、私は賛美するのです。良き賛美を受けるのふさわしいお方が、イエスさまだからです。

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『賛歌。新しい歌をに歌え。 主は 奇しいみわざを行われた。 主の右の御手 聖なる御腕が 主に勝利をもたらしたのだ。(詩篇98篇1節)』

 ある方に紹介された牧会者に、ドイツのシュバーベン地方(メットリンゲン)で牧会をした父ブルームハルトがいました。一人の教会の姉妹であるゴットリービン・ディトウスが、霊的な束縛を受けていて悲惨な状態でした。そんな彼女に働く悪霊との対決を、村の村長さんや教会の長老さんたちと決心します。その霊的戦いの終盤に、天から与えられた詩に、当時はやっていたメロディーを加えて、賛美したのです。

🎶 イエスは勝利の王である、

イエスはすべての敵を征服した。

全世界はやがて、圧倒的な愛により

イエスの足下にひざまずく。

イエスは我らを御力をもって導き、

暗闇から輝かしい光へともたらす。♬

 この賛美で、霊的な自由を与えられた、その教会の姉妹だったゴットリーベンが別な所で、同じ歌詞とメロディで賛美していたのです。父ブルームハルトの働きを継承し、バート・ボルの教会で牧会した、子クリストフ・ブルームハルトも、この「天来の勝利者の賛美」を歌い続けたのです。

 ヤスキヨコンビの40回の漫才の稽古のあったことに驚かされました。一回の説教を、40回も繰り返してから、説教壇に上がったことは、私にはありませんでした。次に、説教する機会が与えられたら、それほどの真剣さ、必死さでしたいと思うのです。ある説教者は、全く準備をしないで、講壇に立つのだそうです。立ったら、聖霊なる神さまが、話すべき内容を、啓示してくださるからなのだそうです。

 でも、そういった説教は、稀なことなのです。この方は、同じことしか、同じ思想しか話しませんでした。やはり周到な準備をして立つのが好いのです。そういった姿勢に、会衆は応答し、教会の主は喜ばれることでしょう。

 けっきょく自己満足ではいけないからです。主は、自在に話されたのです。深い祈りや黙想、いえ父なる神との交わりがあって、御父から与えられたことば、御父のみ思いを、イエスさまは語られたのです。いのちの付与者としてでした。それで、聞いた人はいのちを得たのです。

(ウイキペディアの「ドイツのシュバーベン地方」、「バート・ボルのクア・ハウス」、「Christian clip artsのイエスさま」です)

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牢の中で起こったことが

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 東京都内の有名私立の高校を出た、作家の阿部譲治が、実体験をもとに書いた本、「塀の中の懲りない面々」が何度か映画化やテレビ化されています。その刑務所の内部を、まだ知らない私は、本は読みませんでしたが、興味深く、テレビ版を見たことがありました。

 塀の中とは、「府中刑務所」のことで、関東では最大規模、最大収容人数の刑務所なのだそうです。江戸時代、寛政2年(1790年)2月に、時の老中松平定信が、墨田川河口の石川島に、「人足寄場」を設けたのだそうです。そこが母体で、大正末期の大正13年(1924年)に、都下の府中市に移転、昭和10年(1935年)6月に、府中に刑務所を開所しています。

 収容の定員は、2668名で、2024年3月末現在、日本人受刑者1190名と外国人受刑者350名を収容しているそうです。外国人が多くて、中国やベトナムやメキシコを国籍としている収容者が多くいます。

 高校の頃の冬場、この時期に、「府中刑務所」をひたすらに三周する、運動部の練習をしていました。オフシーズンで、試合もない、ただ一途に走り込んだり、うさぎ跳びをやったり、単調な練習に日々を送っていました。電信柱から電信柱を、ダッシュと流しを繰り替えすロードもさせられました。

 一番つまらなかったのが、その塀の周りを三周ほどする走りでした。薄汚れた灰色の高い塀の周りをただ走るだけでした。『何時か、このムショの中に、自分の生涯で入ることがあるだろうか?』などとぼんやりと思いながら走っていました。いつも時計の反対周りをするのです。早く三周が終わるのを待ちながらです。

 その時の思いが、ある時、実現したのです。もう何年前になるでしょうか、私たちの住んでいた華南の街から南に行った海岸部の街から、五十代のご夫婦が、わが家を訪ねて来ました。私たちが、ビサの更新で帰国する時期の前だったのです。その時期に合わせての訪問でした。

 どなたかに、私たちの帰国のことを聞いたからでした。この夫妻の息子さんが、日本に密入国をし、窃盗罪を犯して懲役刑になり、服役しているのだと言われたのです。あの冬場に、「府中刑務所」の外を走りながら思ったことが、そんな形で実現しそうになったのです。『持病があるので、息子の様子を見てきて欲しいのですが?』とのことでした。

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 帰国した私は、川向こうに、母の面倒を見ている下の兄が住んでいて、次兄の家を訪ね、兄の自転車でこの刑務所を訪ねたのです。受刑者としてではなく、訪問者として足を踏み入れたわけです。色彩のない、ビラが掲示板に貼ってある、無機質な感じの刑務所の事務室を訪ねたのです。服役囚とは別の門があって、そこから入ったのです。

 面会したい旨を申し出ましたら、刑務官がしばらく検討されたようでしたが、結局、親族以外の面会はできないとのことで、預かってきたご両親の写真とメモを、刑務官に託して辞したのです。その人が、いつ出所したかは確かめませんでし、このご両親も、会えなかった旨を話しただけで、そのままになってしまいました。

 それで、どんな収容生活をしていたかを、その「懲りない面々」の生活ぶりを、テレビ番組で知ったのです。作者の安倍譲治のムショ体験からの映画でしたから、おおむねは、テレビ番組通りだったのでしょう。

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 2000年も前の監獄での出来事が、聖書の「使徒行伝」の中に記されています。マケドニヤのピリピの町を訪ねた、異邦人伝道に召されたパウロは、この町で伝道をしたのです。その時、占いの霊につかれた女奴隷と出会います。パウロたちの跡をついて来て、

『彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けた。 幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言った。すると即座に、霊は出て行った。 彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。(新改訳聖書 使徒16章17-19節)』

    パウロとシラスは、この女奴隷の雇人から訴えられて、鞭打たれて、牢に入れられてしまいます。なんと、パウロたちは牢の中で、賛美したのです。マケドニア最大の町の牢の中で、不自由な囚われの身を呪うのでもなく、喜びにあふれて、主をほめたたえたのです。

 真夜中に、賛美をしましたら、パウロたち囚人たちを繋いでいた鎖が解け、牢の扉が空いてしまったのです。自害しようとする牢番に、

『そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。(28節)』

のです。どうしたらいいのか戸惑っている牢番に、パウロは、

『そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。(30-31節)』

のです。ピリピの牢番は、牢から出されたパウロたちを引き取り、鞭打ちで負った傷の手当てをした後、その家族はバプテスマを受けて、救われたのです。

 一人の牢番の救いが、家族の救いとなった出来事が、このピリピの町で起こり、それ以降、世界中の街街で、「家族の救い」が成就するのです。「孤独な牢」の中にいたように感じていた一人っ子の母が、山陰の町で、14歳で救われ、やがて、夫も子たちも、そして孫たちも、キリストの救いを受けたのです。これが、私の家族の救いであります。

(Christian clip artsの「獄中賛美」、府中刑務所の航空写真、ピリピの町の遺構です)

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来た春が行くかの様です

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 『愛しい風が吹く!』のだと、ラジオで聞きました。北風とか寒風や空っ風から、春の「愛しい風」に変わったかと思っていましたら、河津桜や八重桜が咲いたと思っていましたら、ソメイヨシノが咲き始めました。

 昨日の夕方は、空が、かき曇ったったと思ったら、「雷(らい)さま」が鳴り轟いたら、強い雨が降り始めました。ソメイヨシノも、もう少し頑張ってほしいと願っているのに、花吹雪の乱舞前に、散ってしまうのでしょうか。

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 桜花が散ると、何だか春がいってしまう様で、惜しむ思いが強くなります。新栃木の駅に行く駅前通りの路側帯に、思川桜が植えられていて、その花も咲いているのを見たり、天平の丘の史跡跡に植えられた淡墨桜も綺麗に咲いた春でした。

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 その雷さまが止んだら、西の空に太陽が顔を出したのです。東の空を見ますと、虹がうっすらと出ていました。春は行ってしまうのでしょうか。市内の小学校では、この水曜日に、入学式があって、式の帰りの親子連れの姿を見かけたのです。わが家の子どもたちの入学式が、思い出されてまいります。

 早咲きも、まばら咲きも、咲き誇るのも、散るのも、吹雪く様になるのも、濡れるのも、葉桜になるのも、そしてポツンと存在を表す山肌の桜も、どこに咲いても、春の到来を告げる、どんな花も趣があって、いい季節です。そう夏だって、秋だって、冬だって、四季折々に自然界は、人に語りかけてくれます。来た春が行くかの様です。

(家内の撮影した写真です)

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失敗、そして勝利者となる

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 『失敗を避けて勝利者になりたい!』と、誰もが願っています。それでも人は失敗をし、国も企業も団体も失敗を繰り返しながら存続してきているのです。確かに、『失敗は成功の母!』なのでしょう。失敗を繰り返さないことこそが、失敗者の行く道なのです。

 昨年のMLBの最終戦で、アーロン・ジャッジが、打者のボールを補給し損なって、落球してしまったのです。ランナーの動きを気にして、一瞬目線がボールから離れていました。それで、正確に補給できず、それが大きく原因して、チャンピョンシップを逃したのです。誰がジャッジをジャッジできるのでしょうか。誰もいないはずです。

 高校時代に、そうしても避けられない事態が起こったことがありました。母が交通事故で大怪我をして、担ぎ込まれた病院での初期手当てが不十分で、傷口が化膿してしまい、両足切断の危機にあったのです。それで10ヶ月ほど入院生活をし、幸い切断はえ免れたのです。自転車を降りて、路側に寄って、大型ダンプカーをやり過ごそうとしていたところを、すれすれを通って行った車輪のボルトで、両足に深い傷を負ってしまったのです。

 母の入院で、家には父と弟と私がいました。兄たちは、静岡県の島田と千葉に就職していて、家にいませんでした。父が、会社を部下に任せて、家事をしてくれたのです。母の必要に届くために通院したり、中・高生の二人の食事の世話をしてくれていました。私は、それを見かねて、クラブを休部したのです。

 私のいたクラブは、卒業生たちがインターハイでも国体でも何度も優勝していた名門校だったのです。練習がきつくて、入部者が少なかった関係でですが、センターフォワードを任されていたのですが、やむを得ませんでした。その年の夏の大会では、東京都予選の決勝で都立のライバル校に負けて、全国大会を果たせませんでした。

 伝統ゆえの厳しい練習で、全国制覇を期していたのです。日没の薄暮の中、ボールに石灰を塗ってまでして、仄暗い中をパスやシュートの練習をしたのです。水も飲めませんし、お腹は空くし、それほどの練習を積んだと言う自負心で大会に臨もうとしていました。それが自信につながるからです。精神性を高める監督の策だったのでしょう。ところが2年連続で、インターハイと国体に出られませんでした。そんな苦い経験があったのです。

 誰もが失敗するのです。必要なのは、寛容であって、裁きではないのです。誰も裁くことはできません。プレッシャーに勝てないと、自分の人生の勝利者にはなれないのです。それはスポーツの世界だけではなく、信仰の世界も同じなのです。

『私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(新改訳聖書 ローマ8章35〜37節)』

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 あのニューヨーク・ヤンキースのアーロン・ジャッジは、生まれて2ヶ月目で、養子に出されています。養父母の元で育った彼は、自分の過去を、『神さまがぼくたちを引き合わせてくれたのです!』と、受け止めたのです。もう運命の悪戯などではないという無言の告白でした。唯一の父と母こそ、この養父母だと、自分の出生とその後のことを、事実として受け入れたのです。そしてベースボール・プレーヤーとなって、ヤンキースの花形選手となっているのです。

 今季のアーロン・ジャッジは、今日の時点で、打率3.54ホームラン6本の成績だと、ニュースは伝えています。今年も大谷翔平と競っていくことでしょう。ご両親は、「善良な人間」になることを願って、彼を育てたそうです。生みの親ではないことを知っても、アーロンは両親への感謝と尊敬を失っていないのです。彼は、クリスチャンであることを告白する大リーガーなのです。

 失敗は避けられませんが、それを超える力を、神さまは用意しておいでです。そして、「圧倒的なえ勝利者」とされるのです。

(ウイキペディアのMLBの試合、511勝の名ピッチャーのサイ・ヤングです)

キリスト者婦道記の母バージョン

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 山本周五郎に、「日本婦道記」という時代小説があります。厳しい規則や掟が、「武家社会」には定められていた様です。男には「武士道」があり、婦人には「婦道」があり、厳格に「家」を守る勤めが、婦人にはありました。夫のため、子のため、「家」のために生き抜いた日本婦人は、強く凜とし、忍耐強く生きていた様子を、感動的に記した作品が多いのです。

 母は、炊事洗濯など家事一切を、黙々とこなしてくれていました。編み物をし、和服の仕立てなおし、繕いなどをしている姿も覚えています。母は、山陰の出雲が故郷でしたから、関西圏に近いので、関西風の味の中で育っていて、養母から、細かく学んだのでしょう。結婚し、子が与えられ、育てていく中で、父の味で料理をし、関東風の味付けをしてくれました。

 子育ての間、お雑煮も蕎麦も関東風でした。よく作ってくれたのが、すき焼き、トンカツ、ハンバーグ、硬焼きそば、焼き魚、酢豚、ライス・カレーなどでした。食欲の旺盛な私たち4人の子に、喜んで食べさせてくれたのです。自分は、もらいっ子で、兄弟がいなかったからでしょうか、いつも甲斐甲斐しく、嬉しそうに家事をしていました。

 子どもたちを送り出すと、時々、新宿に電車で出て、都会の空気を吸っていたのだと、後年言っていました。どこかでお昼を摂って、買い物をして帰宅した様です。婦道だけの江戸時代とは違って、戦後の民主化、婦人の地位の向上の中、息抜きも必要だったのでしょう。

 そんな母が、狭い庭に、父の和装を解(ほど)いて、反物の幅と長さに布を、一尺ほどの幅に、竹で作られた、両方に針を埋め込んだもので、張りながら、長く干していました。洗い終えた布を庭いっぱいに広げて、干し上げては、それを縫い直していたのです。その張り棒を、手作りの弓で、的を射て遊んだことがありました。

 父が亡くなった後に、父の着物を、私の体に合うように、母が縫い直してくれたことがありました。次女が、祖母の出席を望んだので、母と次男と私たちで、オレゴンの街で持たれた結婚式に列席したのです。その時、母と家内と私は、荷物になりましたが、着物を持参したのです。

 泊めていただいた婿殿の家で着付けしてくれました。その着物に羽織袴で列席させてもらいました。アメリカで、みなさんは、私たちの和装を初めて見て、喜んでくれたのです。若い頃に、父が誂えた「大島」という生地の和服でした。母が、驚き喜んでいた旅だったのです。

『ふたり(パウロとシラス)は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。(新改訳聖書 使徒16章31節)』

 そればかりではありませんでした。母は、日曜日になると教会の礼拝に、忠実に出席していました。14歳でキリスト者となった母は、聖書を読み、祈り、証しをし、聖書研究に出席し、祈り会に加わり、礼拝を守る、信仰生活を忠実にしていたのです。父の仕事の関係で、山の奥に住んでいた頃には、街から牧師さんがやって来られ、家で集会をしていた時期もありました。


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 母はカナダ人宣教師の家族の暖かさに憧れて、十代の初めに教会に行きながら、信仰を持ち、生涯に亘って、キリスト信仰を全うしたのです。東京に出てきてからは、伝統的な教会に導かれていまして、私たち子ども4人を引き連れて行ってくれたのです。ところが牧師館に、子どもさんの位牌が置かれていて、そこに線香が点されていたのを見て、その教会を母は去りました。

 宣教師さんに、子どもの頃から、聖書を学んでいたからでしょうか、何か違ったものを、その教会で感じたのでしょうか、その後は、隣町の婦人の宣教師さんの教会に導かれれていたのです。そこにも連れて行ってもらったことがあり、宣教師宅にもお邪魔したこともありました。

 ところが、住み始めた街の路上で、一人のご婦人と行きあった時、互いを引き合わすものがあったのでしょうか、互いがキリスト者だと知って打ち解けたのだそうです。そして、その街に駅近くに教会があって、そこにはアメリカ人宣教師さん夫妻が牧師の教会に誘われ、母は参加するようになったのです。その母が会った婦人が、家内の母親だったのです。

 しっかりと家族への食事の用意をし、洗い物をして、日曜礼拝や終日に集会に、母は出掛けて行っていたのです。父は、その母の信仰、教会生活を認めていました。家事万端をし終えていたこともあり、幼い頃からの信仰を、高く評価していたのです。その母の祈り、生活、生き方を通して、やがて私たち4人の子が、そして父も、母の信仰を受け継ぐのです。

 そればかりではなく、近所の方を信仰へと、母は導いてもいました。母は週刊誌を読んだりしませんでしたが、だからと言って、信仰一辺倒な、宗教的変人でもなかったのです。一緒にテレビを見ては、笑ったり泣いたり、豊かな感情を表していたのです。確かに神がいて、母を支え、生かしているのが分かったのです。だからでしょうか、やがて母と同じ信仰者とされたのです。

 その母の教会の宣教師さんの後の牧師に、私の上の兄がなったのです。母は、それを喜んでいて、父も、『俺の腰から出た子が、聖職に就くのか!』と驚いたのを、母に語ったのだそうです。父の祖父に連れられて、横須賀の町の教会に、子どもの頃に行っていたことがあったのです。

 そんな父や母を、今、感謝と共に誇るのです。そして、子どもたちが、孫たちが、三代四代に亘って、キリスト信仰を継承しているのです。一人の父(てて)無し子が、本当の創造主である父なる神に見出され、一緒を送り、天に凱旋した母だからであります。

 恵まれない星のもとに生まれ、孤独を覚えていた母、真っ黒になるほど遊んでいたお転婆だった母が、仏教と神道との盛んな山陰で育ち、14歳で頂いた信仰で、95年の生涯を送りました。その信仰が継承されているのです。それは実に喜ばしいことに違いありません。まさに「キリスト者婦道記」の母バージョンであります。

(ウイキペディアの出雲の日御碕、カナダ産のメープルシロップです)

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日本の夜明けの一幕が

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 横浜に、「関内」と呼ばれる地域があります。町名ではなく、地域名で、横浜の中心地であり、JR根岸線や市営地下鉄の駅名にもなっています。日米友好通商条約が結ばれて、横浜が開港した時に、開港場の周辺をそう呼んだのです。

 日本の幕末史の中で学んだ、大名行列の前を横切ったイギリス人を、日本の武士が無礼打ちした「生麦事件」以降、外国人は危険にさらされていました。商人や外交官たちに他に、宣教師たちがいたのです。時代は、まだキリシタン禁制の中でした。勤王攘夷を掲げる志士たちの動きを幕府は取り締まるために、外人居留地への通行を取り締まり始めたのです。そんな危険地域に、「関門」が設けられ、行動を規制していたのです。それで「関内」と呼ばれたわけです。

 幕府の厳しい監視があり、米価の変動も、令和の世と同じで、一年一年と高騰していくほど、物価が高く、生活は困難な時でした。1859年の秋に、横浜の港から上陸しのが、アメリカ人宣教師(医師)のジェームス・ヘボンとクララ夫人でした。宣教の一環として、おもに眼科治療の施療所を開所し、治療を始めたのです。このヘボンは、ヘボン式のローマ字を作り、和英辞書を作成し、聖書を翻訳し、学校を始めています。

 そのキリシタン禁制のまだ続く幕末に、若者たちに福音を伝えたのです。英語を学ぶ若者たちが、創造の神とキリストを信じることを願って伝道をしたのです。ヘボンの行動を内偵し、不穏の行動をとるなら切り殺そうと使用人に扮した武士が、ヘボンの住んだ成仏寺に住み込み始めます。しかし、そのヘボンの人格の高さから、暇乞いをして去って行ったほどでした。

 そんな動乱の中、9人の学生が、奉行所の役人と共に、ヘボンのもとにやって来て、英語の他に、数学と化学とを学びたいと申し出ます。その中には、長崎で、シーボルト医学を学んだ、長州人の医者の大村益次郎がいました。兵学者でしたが、明治維新政府でも軍事畑で、近代兵学で力を発揮するのを期待されたのですが、維新政府誕生の翌年、没しています。

 ソニー創業者の井深大の親族である、会津藩士の井深梶之助も、ヘボンに学び、明治学院の2代目総理に就任しています。下総佐倉藩の藩医の子の林董(はやしただす)は、「ヘボン塾」の最初の生徒であり、後に留学生として英国で学んでいます。明治維新政府の英国大使、外務大臣、逓信(ていしん)大臣を務めています。この林董は、ヘボン夫人クララから母親のように愛情に満ちた英語教育をうけた恩を忘れずに、後年になっても「学歴」の項には「ヘボン塾出身」と書いていたそうです。


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 また、総理大臣・大蔵大臣を務めた仙台藩の足軽の子の高橋是清、三井物産の創始者である益田孝、日本最初の医学博士となった三宅秀など、明治期に活躍した人材が多くいて、ヘボンらの感化を受けています。

 彼らを教えた英語テキストには、宣教師としても第一の来日目的を果たすために、ヘボンが選んだのは、「航海者(ボーデイッチ著)」だったのです。キリスト教の真理が、そこには多く記されていて、多くの学生が聖書に興味を持ち始めていたそうです。漢訳聖書も英訳聖書も、学生たちの中には、すでに持っている者もいたそうです。

 ヘボンのもとにやって来た学生たちは、『主なる神さまが、彼らにその願いを入れられたからだ!』と確信していたそうです。でも、彼らは、出身の藩に呼び戻されて、一人去り、二人去りして、「ヘボン塾」は閉鎖されてしまいます。それに屈しないヘボンは、なおも、難しい状況下で宣教を続けていきたいます。

 ヘボンと妻クララは、3人の子どもたちを病気で亡くしていますが、長男も祖父母にではなく、知人に預けて、キリストを宣べ伝える働きをし始めたのです。殺伐とした幕末の世情、動乱の日本での人間的には困難極まりない中を、宣教を続けたのです。聖書翻訳にも尽力しています。それらが、主なる神さまの御心であり、そう導かれたという確信で、宣教の業を多岐にわたって推し進めたのです。

 日本宣教のために献身した宣教師の働きがあって、日本の近代化の一つの礎石が置かれたことになります。ヘボン夫妻、そして彼らのもとにやって来た同じ宣教師のみなさんは、初期には、仏像の安置されている成仏寺でも、礼拝を守ったのです、同じ様に、神さまに遣わされた宣教師たちが、戦後にやって来られました。

 母は、カナダ人宣教師に導かれて信仰を持ち、私たち兄弟も、亡くなる直前の父も、宣教師さんたちの働きの中で、キリスト者とされたのです。その宣教の働きによって、キリスト信仰を持つにいたり、いくつもの教会が、建設されていきます。子どもたちも孫たちも、同じ信仰を継承してきているのです。
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 81歳になった高橋是清は、青年将校たちが昭和維新を掲げて暴挙に走った「二・二六事件」の青年将校たちによって、自宅で暗殺されています。軍の台頭と、軍による大陸進出の前夜に起きた、さまざまな動きのあった1936年のことでした。ますます軍国主義化していき、教会への弾圧が増し加わりく、結局は敗戦を迎えます。戦後、多くの宣教師が欧米諸国から来られて、福音宣教が再び行われていくのです。

 日本の夜明けに、福音の光を輝かせた宣教師のみなさんの多くの犠牲とたゆまない奉仕によって、日本が近代化し、民主化していったことになります。日本最初のキリスト教会は、横浜の地に建て上げられていきました。みなさんの祈りが積まれて、その実を実らせたのです。そしてヘボンこそが、聖書翻訳を通して、日本語を作り直した人でもあったことを忘れてはないらないのです。そして、戦後の混乱した日本に、再び灯火が点されたのでもあります。

(ウイキペディアのヘボン夫妻たちの集合写真、日本最初の横浜の教会、ヘボン夫妻の住んだ成仏寺です)

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昭和ノスタルジーのあふれていた頃

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 幼稚園児だった長男を連れて、芝公園の近くある「東京タワー」の見学に行きました。展望台に上がる料金の高さに驚いて、上の展望台に息子を連れていって上げることができませんでした。慎ましく生きていた頃で、貧乏性の私は、『もうすこし奮発すべきだった!』と、後になって悔いてしまいました。

 神の子にされていたのに、神の教会の働きに就いていたのに、その上、この神さまはRichなお方なのに、ちんまり生きる様になっていました。その惨めさに、『もう貧乏くさく生きるのをやめにしよう! 』と決心したほどでした。

 万物の所有者の神の子であり、神のいのちで買い取られた教会での奉仕に召された者なのだと、自分の意識を改めたのです。それでも息子は、そこで買って上げた飲み物を、実に美味しそうに飲んでいて、満足そうにしていたのです。私の通っていた学校は、この1957年に竣工した「東京タワー」に近かったのです。

 当時、「都電(路面電車で今の地下鉄の路線の上にその多くが走っていたと思います)」に乗るとすぐの所にあったのですが、長男と訪ねるまで、一度も行ったことがなかったのです。2012年に、東京スカイツリーが押上にできるまで、東京のシンボルでもあったのです。高さが、ムサシ(634m)のタワーは、333mの東京タワーの倍ほどもあって、東武鉄道株式会社が設計し、竣工した電波塔です。

 あの東京タワー見学から、何年も経って、「ALLWAYS  三丁目の夕日」が劇場公開されました。2005年のことでした。この映画に、この東京タワーの建設工事の様子が、CGで描かれていたのです。

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 その他に、都電や「ミゼット」と言う小型三輪車も登場していました。とくに印象的なのは、東京オリンピックの開催に伴う「インフラ整備」でした。おもに北関東や東北地方からの労働者を、「出稼ぎ」で、「山谷」などの「ドヤ街」が受け止めたのです。「タコ部屋」と言われた悪どい社会現象もありました。

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 それと共に、産業界が活発になって、その担い手となる働き手を、中学校卒業者に求めて、大挙して東京に呼び求められた、「就職列車」に乗って、親元を離れてやって来た「集団就職」の若者たちでした。関東圏や関西圏などで見られた、これも社会現象でもありました。関西圏然りでもありました。

 上野駅に迎えに出た、鈴木社長が運転していたのが、その「東京タワー」の見える道を「ミゼット」で、自動車修理工場に連れて行かれたのが、「六子」でした。大きな会社に行くものだと思っていたのに、六子が着いたのは町工場だったのです。その近所に、駄菓子屋をしながら、懸賞小説を応募し続けている、出しても当選しない常連の小説家の茶川竜之介と、居候の古行淳之介少年たちが繰り広げる、大きく変化していく東京のど真ん中の「夕日町三丁目」の街の出来事が描かれていました。

 「昭和ノスタルジー」のあふれる街の佇まいと、そこで生活する、豊かになる前、昭和33年(1958年)の庶民の生活ぶり、「古い東京」のにおいがプンプンとしてくる街模様、人模様が、とても懐かしく感じられたのです。どうも古行淳之介は、自分と同世代かも知れません。ビルが林立する前の東京タワー建設は、東京の一大変化の発端となったのでしょう。東京人には東京が故郷で、よそに故郷を持つ人たちが住んでいる街なのです。

(ウイキペディアの1961年当時の東京タワー、ミゼット、駄菓子屋です)

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