朝顔

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 今の朝顔は、花を咲かせないままなのです。散歩道にも見つけられません。そんな中で、別の鉢に、苗を植えた朝顔だけが、この写真の様に、白色の花を咲かせています。

 年によって、当たり外れがあるのでしょうか。これまで毎年の様に、朝顔栽培をし続けてきたのに、今季の様に、花が咲かないのは実に珍しいことなのです。

 華南の街の借家のベランダでも、朝顔が綺麗に咲いてくれていたのです。一月になっても咲いていました。台風で川が氾濫して、洪水に見舞われて、床上浸水を経験した、以前住んでいた家の庭にも、綺麗に咲き続けていたのです。

 子育てをしていた時に、『はえば立て、立てが歩め!』の思いをイッパイにしていたのと同じで、朝顔の成長にも、そんな育て親の心を向けているのです。

 野の花も、ベランダの花も、天に向かって咲くのです。創造者である神を、ほめたたえていて、そんな姿を見て、水やりをしている私たちは、喜んでいるのです。

 実は、「風鈴」の音色が好きな私は、軒下の窓際に吊るしたいのですが、集合住宅なので、きっと嫌いな人だっていそうですから、遠慮したままでおります。

 関東にも、「風鈴市」の立つ街もある様ですが、日本の夏の風物詩でもあり、涼を呼ぶ風鈴の音を、吹く風が生み出す姿が、涼しいのです。

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品性を完成するために

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 『大正十五年七月二十八日、星野温泉若主人のために草す。』と添え書きがありますから、温泉業、旅館業にあたる若い経営者に向けて、旅館業の門外漢である、内村鑑三が、書き記した教えが残されてあります。事業のノウハウの教えではなく、経営者の在り方、信条を記したのです。

 この旅館は、当時、名だたる高級旅館であったそうです。教えを受けたいと願った主人も、そこかしこにいるような経営者ではなかったのでしょう。ですから教える進言者も、時流に乗った経営理論とは、まったく違った知恵に富んだ進言だったのでしょう。一体、どんな進言だったのでしょうか。

  「成功の秘訣」  六十六翁 内村鑑三

一.自己に頼るべし、他人に頼るべからず。

一.本を固うすべし。しからば事業は自づから発展すべし。

一.急ぐべからず。自動車の如きも成るべく徐行すべし。

一.成功本位の米国主義に倣うべからず。誠実本位の日本主義に則るべし。

一.濫費は罪悪なりと知るべし。

一.能く天の命に聴いて行うべし。自ずから己が運命を作らんと欲すべからず。

一.雇人は兄弟と思うべし。客人は家族として扱うべし。

一.誠実によりて得たる信用は最大の財産なりと知るべし。

一.清潔、整頓、堅実を主とするべし。

一.人もし全世界を得るともその霊魂を失わば何の益あらんや。人生の目的は金銭を得るにあらず。品性を完成するにあり。

以上

 商人が、「儲けること」は、理にかなっています。大切なのは、どう儲けるかなのです。商品の仕入れをし、それを求める人たちの必要に届くために、原価の二割とか三割の利益を加えるのは良いのです。仕入れのための諸経費、売るための経費、働く人たちの給金、売れ残り商品の処分での損失、宣伝費、減価償却費などを計算し、損得の中から、次の仕入れをしていくための資金、事業拡張のための備蓄なども必要なのです。

 遠方に行って買ってくることを考えるなら、大量に仕入れる商人からなら、物の単価は低くなります。ですから、その利便性を考えて、仕入れの費用を計算して、正直な儲けなら良いわけです。サーヴィスを提供するのも同じなのです。

 この「儲(もう)ける」と言う漢字の解字は、「人」と「言(ことば)」と「者」によってなっています。買う人と売る人、生産や加工をする業者と仕入れ人、商人と卸し屋、サーヴィスする人と受ける人、人と人が関わる場面で、言葉が介されて、この社会が成り立っています。

 私の住む街に、明治5年に、県の中央部の茂木町で創業した商店が、今はスーパーマーケットになっていて、その支店があります。その企業理念が、「正直」だと掲げているのです。この創業者は、近江(滋賀県)の出身の方だそうで、いわゆる、「近江商人」です。

 この近江商人の商法に、「三方よし」があるそうです。「買い手」も、「売り手」も、「世間(社会)」も、すべてが満足できるための事業のことなのだそうです。もう一つ商人で有名なのが、「甲州商人」です。『甲州商人が通った後は、ぺんぺん草も生えない!』と言われたほどに、抜け目ない商いをしたのだ様です。

 甲州人であることが嫌いな甲州人から、こんな話しを聞いたことがあります。『夏になると、「蚊帳(かや)」を担いだ商人が、門先を訪ねて売るのです。蚊に刺されて悩まされている人は、上手な口上にのせられて、これを買い求めます。夜になって、蚊帳を吊りますると、天井の部分のない、故意の不良品だったのです。売り手は名刺も残していませんから、苦情を訴えることもできず、泣き寝入りになる、甲州商人の悪徳商法の一例です!』

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 甲州人がみなさんそうだと言うのではないのでしょう。それほど儲けるためには、なんでもしでかす危険性があると言うのでしょうか。私たちが便利に利用している東武鉄道が営業不振だった時に、甲州人の根津嘉一郎が、テコ入れをして営業成績を回復しています。あの根津財閥を興した方で、大学を開学したり、下野(しもつけ/栃木県)や上野(上野/群馬県)の奥地にまで、この鉄道を敷設して、首都東京と結び続けている功績は大きい様です。

 暴利を求めず、買い手が幸せになり、社会が円滑に機能するのは良いことです。内村鑑三の掲げた理念や信仰が、実社会の中にも生きている証であるのが、私には嬉しいのです。学者や教育者だけではなく、商業界やホテル業界にも、人のあるべき生き方に、善い感化や浄化が及んでいるのは、一人の人として感謝なことであります。そんな理念で経営してきた、群馬、下野国の星野温泉に、一度は泊まってみたいと思いつつ、果たせずにおります。

(ウイキペディアによる「星野温泉」の一郭にある温泉、東武電鉄の車両です)

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七月下旬に咲いた朝顔

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 待ちに待った、遅咲きの今季の赤色の朝顔です。白色の朝顔は、別の鉢で育って、もう何日も前から咲き続けています。どうも異変は、朝顔の世界にもあるのでしょうか、この地域では、どの家も、『まだ咲かない!』と、咲くのを待ちわびているようでした。

 昨夕、蕾が大きくなっていましたので、『明朝は開きそう!」と思っていて、寝覚めと同時に、ベランダに目をやりましたら、朝顔棚の上部に、二輪の朝顔が咲いていました。何か、いい知れない安心感がやってきて、本物の夏の到来を喜んだ次第です。

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同情と懐古の思いで眺めて

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 近代建築資材を使って建てられた家々の間に、廃屋の様な、戦後間もない頃に建てられたかと思える家や作業所が、この街のそこかしこに残されています。

 古建築が取り壊されている街中で、取り残されている家々の写真です。持ち主が見つからないのでしょうか、税制とか、消防法上の理由で、取り壊される運命にありそうです。

 二十歳の時に、中央自動車道の計画路線上に、父の家があって、それを父から請け負って、解体して、更地にしたことがありました。廃品回収業のおじさんに、トタンで葺いた屋根を剥がしてもらい、この方は、そのトタンを持ち帰って売った様です。

 昭和二十年代に建てられた、お金のかかっていない家を父は買ったのです。十五年ほど住んだのですが、立ち退かなければなりませんでした。父は、県有林の払い下げで、木材を京浜地帯に売っていた木材業を、戦後は経営していたのですが、その木材を使って、自分の家を建てることもできたのでしょうけど、それをしなかったのが、父だったのです。

 二十万円ほど父にもらったのですが、取り壊しを手伝ってくれた弟の同級生たちに、バイト代、昼飯代で、ほとんど使ってしまいました。でも、けっこう面白い作業で、あのまま解体会社を興していたら、学校に行くよりはよかったかも知れません。でも金儲けに興味はなく、学業を続けたかったのです。ほどほどのバイト代で十分だったからです。

 この写真の家で、子育てをして、子どもたちを独立させたのでしょうか。今では歴史を感じさせる建物で、なんとなく味があります。自分が老いてきて、故障箇所が身体に出てきているので、けっこう同情や懐古の思いで、スマホ撮影をしてしまいました。

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呼び水をするようにして

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 この街のあちらこちらに、こんな「手押しポンプ」が残されてあります。この写真と同じポンプが、父の家にあって、母の炊事や洗濯や風呂のための水を汲み上げるために、手伝いをしたことがありました。けっこう深い井戸に、このポンプの鉄管が固定されて、地下水の箇所に下りていたのです。時々、水が落ちてしまうので、バケツに隣の家の水をいただいて、「呼び水」として注ぐ必要がありました。しばらくポンピング(pumping)していると水が上がってきて、バケツに溜めることができ、母の必要のために、それを運んだのです。

 この写真のポンプだって、ゴムのパッキンを交換して、呼び水をすれば、地下水を汲み上げられそうです。それで、取り払わないで、残してあるのでしょうか。下のポンプは、代官屋敷跡の近くにあって、ポンピングしましたら、水が出てきました。この街には、奥日光の方から、良質な地下水の水脈があり、湧き水も多いと聞いています。

 結局、あの家事手伝いで、自分の体力をつけることができたのだと思います。それだけでなく、お風呂を沸かすための「薪」を割る手伝いもしたのです。丸太を切って荒く割ってある薪が、店から届けられると、それを細かくするために、鉄の重たい刃のついた「薪割り」を振り下ろして割りました。病欠児も、風邪をひかないでいると、母が家事の手伝いをさせてくれたのが、回復のためによかったわけです。

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 その細かく割った薪で、焚き口で火をつけて、お風呂を沸かしたのです。ポンプから、ブリキで作った「トイ(樋、父の家では〈トヨ〉と言ったでしょうか)」で井戸から汲み上げたみずを、風呂桶に張ることもできたのです。その家事の手伝いをして、夕方、東京から電車で帰宅する父に、一番風呂に入ってもらいました。

 何時ごろからでしょうか、電気式で揚水できる様になって、『なんて便利な時代になったんだろうか!』と感心しました。今は4階の部屋に住んでいますが、こんな高いところで、蛇口をひねると、水が出るのが不思議でなりません。よその家で井戸から、鶴瓶(つるべ)で水を汲んだことがありましたから、地下に敷設された水道管から配水する、電気式を考えついた技術にも驚かされます。

 人間が持っている「可能性」を、地下水に例えると、その水を生活用水として使うために、「ポンプ」が必要なように、また水が落ちた時の「呼び水」が必要なように、また水を通す「トヨ」のような道具類には、大きな役割がありました。この「可能性」を引き出すのが、「教育」なのでしょうか。意欲や興味を引き出すために、教師の一言が、大きな役割を果たすのです。” educate “ は、「引き出す」というラテン語から来てると聞き覚えがあります。

 こればっかりで、申し訳ありませんが、『よく分かったわね!』と、言ってくれた小学校2年の時の担任の先生の一言が、私には忘れられません。相対性理論やハインリッヒの法則を教えてくれたのではないのです。たった「一言」が、病欠児で、自信喪失の自分の意欲を引き出してくれたのです。

 そう言った「ポンプ井戸」や「呼び水」の様に、「トヨ」の様に働きかけてくださった方々がいて、今の自分があるのだと感謝しているのです。

(家の近くと代官屋敷跡のポンプ井戸、ウイキペディアによる薪割り〈斧〉です)

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神さまからの素敵な贈り物です

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『彼衆多の民の間を鞫き強き國を規戒め遠き處にまでも然したまふべし。彼らはその劍を鋤に打かへ、その鎗を鎌に打かへん。國と國とは劍を擧て相攻めず、また重て戰爭を習はじ、 皆その葡萄の樹の下に坐しその無花果樹の下に居ん 之を懼れしむる者なかるべし 萬軍のヱホバの口之を言ふ 。 一切の民はみな各々その神の名によりて歩む。然れども我らは、われらの神ヱホバの名によりて永遠に歩まん。(文語訳聖書 ミカ書4章3-5節)』

 また、葡萄の季節が巡ってき、果物売り場に並び始めました。父が好きでしたので、父の友人から、苗木をいただいて、引っ越し先の庭に植えたことがありました。今の時期を飾っているシャインマスカットや巨峰やピオーネなどよりも、もう少し遅い時季に収穫されて、出回る種類の葡萄なのです。

 そのいただいた葡萄は、「スチューベン」という種類で、香りが良くて、今はやりの甘くて、大粒の改良種のものとは違って、懐かしさを感じさせるのでしょうか、父が好きだったからでしょうか、決して人気種ではないのですが、子どもの頃を思い出させてくれるので、それが特愛の私なのです。

 今は、主に青森県を中心に、生産されていて、貯蔵ができる糖度の高い葡萄ですから、年明けの、二月頃にも食べられるのです。市内の北、西方(にしかた)にある道の駅で売っているのを見つけ、時々買い求めていました。

 このスチューベンは、アメリカ産の葡萄で、ニューヨークの農園で、太平洋戦争後に栽培が始まったそうです。その苗木を下さった方は、日本橋で、二百年も営業してきた「千疋屋(せんびきや)」で長く働き、故郷の甲府に戻ってから、青果店をされた方で、青果商の組合の責任者として長く、八百屋さんや果物屋さんたちのお世話をされた方だそうで、父が懇意にしていました。なぜか、私を、『準ちゃん!』と呼んでくださった方なのです。

 果物屋さんの友人が、父にいた関係で、時折り、旬の果物が、わが家に送られてきたのです。その一つで、季(すもも)の一種で、「ソルダム」がありますが、これも父が好物だったので、よくいただいたのです。「父の嗜好」を子が受け継ぐのでしょうか、それとも、美味しそうに食べていて、それを食べさせてもらったからでしょうか、李の中では、このソルダムが一番に好きなのです。
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 このソルダムも、アメリカからやってきた果物で、プラムに次いで生産量の多い種類なのだそうです。先日は、「まちの駅」で、ネクタリン🍑を買ってきました。もう少し、追熟した方が良さそうなので、二、三日置いてから食べたのですが、美味しかったのです。

 また大きな庭でしょうか、畑をお持ちの友人が、ご主人のお父さまが、残した畑で、野菜や果物を、ご主人が、お仕事に出かける前の早朝や、お休みに日に、畑仕事をされていて、奥さまもお手伝いをしておいでなのです。時々、その労作の旬の物を届けてくださるのです。

 子どもの頃、街中に農家があって、柿や栗や無花果(いちじく)やグミやイチゴを植えていて、「農家の子」が羨ましくて仕方がありませんでした。とくに無花果が好きで、通学路をちょいと外れたところにあった家の庭、その道路寄りの箇所に、この無花果が植えられてあって、実りの季節になると寄り道をして、熟したのを失敬したのです。

 その家のご主人は、父の仕事上の知り合いだったようで、お嬢さんは、私が学んだ学校の先輩でした。ご主人とカルフォルニアで、今も日系人教会で牧会をされておいでの方なのです。いつでしたか、〈ごめんなさい!〉のメールを出したことがあり、笑われてしまいました。ご両親は、もう亡くなっていたからです。

 『李下に冠を正さず!』なのに、正すことなく、無花果下で盗み食いをしてしまった、しかも常習者であったわけで、お恥ずかしい限りです。それでもイチジクに目がないのです。もちろん今は、買って食べております。

 ついでにもう一つ、「桑の実(ドドメ)」があります。この実を砂糖とお酒で漬けた果実酒が美味しく、梅酒のように水で割って飲んだのです。礼拝にお見えだった老姉妹からいただきました。実に美味しかったのです。あの時だけでしたが、その後、飲んだことがありませんが、また飲んでみたいと、この街では、なかなか見かけることがありませんが、先週、売っていて買い求めました。懐かしい味がしてきたのです。

 このように、多種多様な季節毎の果物は、神さまからの素敵な季節季節の《贈り物》に違いありません。これから秋にかけて、果物の季節がやってまいります。

(ウイキペディアによる甲州葡萄、ソルダムです)

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ロマンも夢も涙も溢れていた

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 作詞が佐伯孝夫、作曲が佐々木俊一、唄が灰田勝彦の「野球小僧」がありました。この灰田勝彦は、明治政府の移民政策で、広島からハワイに移民した家族の出で、お父さまは、日系移民の医療にあたった医師でした。

🎵野球小僧に逢ったかい
男らしくて純情で
燃える憧れスタンドで
じっと見てたよ背番号
僕のようだね 君のよう
オオ マイ・ボーイ

朗らかな 朗らかな 野球小僧

野球小僧はウデ自慢
凄いピッチャーでバッターで
街の空地じゃ売れた顔
運が良ければルーキーに
僕のようだね 君のよう
オオ マイ・ボーイ

朗らかな 朗らかな 野球小僧

野球小僧が何故くさる
泣くな野球の神様も
たまにゃ三振 エラーもする
ゲーム捨てるな頑張ろう
僕のようだね 君のよう
オオ マイ・ボーイ
朗らかな 朗らかな 野球小僧 🎶

 この歌は、1951年(昭和26年)に歌われ始め、その軽快なリズムに、野球の面白さを、子どもたちに印象づけた歌でした。すぐ上の兄は、野球小僧でした。父も交えて、一緒にキャッチボールをしたり、当時の後楽園球場に連れていってもらったほど、野球好きの家族だったのです。

 同じ日系人で、昭和期の読売巨人軍で、大活躍をした、与那嶺要と言う選手がいました。MLB仕込みのスライディングに定評があり、打撃も抜群のセンスをもっていて、首位打者を3回、最高殊勲選手にもなっていて、個人的に大好きな選手でした。

 今や、日本プロ野球選手が、MLBで活躍しているのですが、それ以前、日本プロ野球界にやって来て、日本の野球を大きく変える役割を果たし、監督にもなったのが与那嶺要でした。

 栄養学など言われる以前、ひもじい中でも、丼飯に味噌汁に菜っぱに魚で、体力を保って、大活躍をした時代でした。故障する選手は、今のように多くなかったのではないかと思います。今は、とくに投手は、すぐに肩や肘を痛めてしまい、手術をして、数年頑張る、促成栽培の野菜にように、弱いのかも知れません。

 欧米人のような体格を、食べ物や栄養指導で作り上げて、何か〈人工ロボット〉のようになっていますが、鍛え上げ方が違う筋肉で、二、三年すると、成績が振るわなくなって、表舞台から消えていってしまっています。お父さんの伝馬船(てんません)の艪(ろ)漕ぎを手伝って、家計を助けたりして、少年期を過ごし、基礎体力を持っていた、あの稲尾和久投手は、強靭な腕から豪速球を投げ込んでいました。

 やはり、やっても観ても面白いスポーツであることは否めません。「三角ベース」でゴム毬と棒切れのバットで、暗くなるまで遊んだ子どもの頃でした。そういった子どもの影は、この頃の街中には見られなくなっています。中学も高校も、整備された野球場でできる時代ですが、以前には何はなくても、浪漫も夢も涙も溢れていたでしょうか。

(“ いらすとや” の野球イラストです)

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甲子園へ向けて青春を燃やせ

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 栃木市総合運動公園に、「とちぎ木の花スタジアム🏟️」という名の野球場があります。今朝も、ここに散歩したのですが、何時もは静かなのですが、応援の歓声とブラスバンドの太鼓やトランペットの音が聞こえてきましたので、それに誘われてしまい、800円でチケットを購入して、バックネットの屋根の下で、高校野球を観戦したのです。

 憧れの甲子園大会に向けて、県下の四つほどの野球場の一つで、高等学校野球選手権・栃木大会の熱闘が繰り広げられていました。あの直(ひた)向きな姿が、素敵でした。すぐ上の兄が、高校球児で、母校の栄誉を背に負いながら、汗と土にまみれて練習していた姿は、素敵でした。その兄が、今夏、八十三になるのですから、時の過ぎゆく早さに驚かされます。

 十六〜十八才の彼らが、健闘を讃えながら、直向きに野球に向かう姿は、清々しく、六十数年も前、Major な野球ではなく、Minor な送球部(ハンドボール)で、ボールを投げ合っていた自分のグランドの横で、練習をしていた野球部のことを思い出しながら、野球観戦を楽しんだのです。

 2012年8月に、上海で乗った蘇州号が、丸二日の航海で、大阪南港に、9日の朝、着岸したのです。その時は、久しぶりに、用のあった家内を残して、一人で帰国したのです。翌日の高速バスで、東京に行く計画で、その日は時間があったのです。ふと、『今頃、甲子園で高校選手権大会があるのではないか?』と思いついて、そばにいた方にお聞きましたら、やはり、大会の真っ最中でした。

 それで、地下鉄の乗り換え駅で、どう甲子園へ行くのか聞いたのです。聞いたおばちゃん軍団が、『私たちも応援に行くんです!』と言って、一枚余分のチケットがあると誘われて、盛岡大学附属高校(岩手県)と、淞南学園高校(島根県)の対戦を、島根県勢の応援団席で観戦したのです。

 『母が出雲の出身なんです!』と言いましたら、喜んでくれました。対戦相手は、前年の2011年に東日本大震災で被害を受けた県勢で、彼らにも、心の中で応援を自分はしていたのです。 Major league で大活躍できる今日日、大谷翔平や今永翔太を追いかける選手もいるのでしょうか。

 こんなに暑い中、スポーツ選手たちが、青春の火を燃やし続けられる今ほど、可能性を宿す彼らに、Yale を、スタンドから送れた一日でした。やはり夏は暑いのですが、まさに土まみれでsliding する高校球児、minor なスポーツを愛して走り跳び投げ、泳ぎ飛び込み、様々な姿が、美しいのです。勝ち負けにこだわらず、文化部でも、青春をして欲しいと願った一日です。次回の対戦は、県都・宇都宮で行われれる様です。

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