壽衛子笹

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春の山野に目、土を割って芽出す草、咲く花、飛ぶ鳥や昆虫、うごめく虫などを観察して、写真を撮って、配信してくださる「里山を歩こう」を閲覧(えつらん)させていただくと、一緒に山野を歩いてみたい誘惑に駆られてきます。名を知らない花が綺麗に咲き、名を知らない草が生い出ている様子を見て、『誰が、どんな風に命名したのか?』と、思っていましたら、植物学者の「牧野富太郎」の名を思い出しました。

この方の命名された草に、「スエコザサ」というものがあるそうです(添付の写真です)。家の家計など、全く関心を示さないで、植物研究に没頭する夫を、陰で支えたのが、奥様の「壽衛(すえ)」でした。その愛妻の名を、この新種の笹に命名して、「和名」になったのだそうです。この牧野富太郎は、小学校を中退し、独学で研究を進めて、東京帝国大学の講師になり、《理学博士》の学位を取得したのです。

牧野富太郎の言葉に、『雑草という名の草はない!』があります。どんな草花も、一括りで<雑草>と呼ばない、自然界の植生への畏敬の思いが、そう言わせたのでしょう。この言葉を聞いて、一つの話を思い出しました。『子は鎹(かすがい)』と言います。両親(夫婦)を、しっかりつなぎとめる役割が「子」にあるので、どう言われ続けてきました。一人のお母さんが、『子は滓(かす)がいい!』と勘違いして聞いて、どうにもならない息子を忍耐して育て、更生させたのです。

「滓の様な子」をありのままで受け入れて、育てて一人前に育てたお母さんの《勘違い》がよかったわけです。造られた物に、<雑>や<不要>や<無価値>なものなどないのです。牧野富太郎は、ひっそりと、日陰で生きている草花に、愛情を向けたのでしょう。薔薇や桜や菊などの誇り高い花にも匹敵する、《美》を見出したのでしょう。

日本の学問の分野には、《在野の研究者》の功績が多くあるのです。牧野富太郎の編んだ、「植物図鑑」は、研究者が今日でも参考にする、貴重な本、図鑑なのだそうです。それを編むことにできた背後には、「スミコ」さんがいたわけです。男の背後に、母や妻がいるのを、忘れない様にしたものです。

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地球

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帰国中、今回は、日本橋の三層の首都高速道路を、窓から間近に見られる、友人の社屋の5階にある、"ゲストルーム"に滞在させてもらっています。首都高の結構高い壁(走行の車のタイヤやエンジン音を遮断するものです)の上方に、通行中の大型のトラックやバスの上部を見る事できます。

日中に比べ、夜間と早朝は、貨物輸送のトラックが、引っ切りなしに通過して行きます。帝都・大東京の物流、物凄い量なのだと分かります。"玄関から玄関へ"の至便性から、トラック輸送の数量が、どこの国でも一番多いのでしょう。でも、燃料資源の埋蔵量には限界がありますから、将来に向かって、どうなるのか、やはり心配になってしまいます。

帰国するので、私たちの街の国内空港、香港国際空港、成田国際空港と乗り継いで、航空機を利用したのですが、どの空港も離発着の航空機の数は、数え切れませんでした。3つの空港でも、そうなのですから、世界全体では、どれだけの数があるのか、その使用燃料を考えますと、天文学的な量になるのでしょう。地球が埋蔵している化石燃料は、あとどの位残されているのでしょうか。

実は、昨年末の自分の誕生日は、<運転免許証>の更新日でした。あいにく、国外におりましたので、更新猶予期間があって、管轄の運転免許センターに行って、今回の帰国時に更新する事ができます。今回、『どうしようか?』と考えた末、"限りある資源を大切に!"に呼応して、自分で自動車を所有して、運転するのをやめる事にしたのです。排ガスで地球を汚染しない事にもなります。

それに、私は、2006年に、中国での生活を始めましたので、12年の間、車の運転から、ほとんど遠ざかっています。この間、高知に行った時に、竜馬空港から明徳義塾高校に行く時に、レンタカーを運転しました。中国の大きな工場の構内で、知人の車を運転しました(無免許運転にはなりません)。そして、帰国時に、坂道を運転するのが怖い義妹に代わって運転したのです。12年の間、たったの、この3回でした。

若い頃の運転スキルに戻すには、ブランクが長すぎるのです。また、事故を起こした事や違反をした事を思い出して、<加害者>にならない様に思って、運転免許証の《自主返納》を決めたのです。グアム島で、アメリカの運転免許証を取り、次いで、日本の運転免許証を取ったのを思い出して、淋しくなりますが、最善の決定になるのだと思っているところです。

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婚礼

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私たちには、四人の子どもが与えられ、次男が二十歳になった時、その《子育て》が、『終わった!』と思いました。長男から数えて、《28年》の年月だったでしょうか。みなさんが、そうなのですが、初めての親業を始め、"クスグッタさ"を感じながら、自分の父親の事を思い出し、失敗も多かったのですが、結構真面目に、家内と二人、親をやって来たと思い返しています。

自分の欲しい物を買いたかった事もあったのですが、"我が儘"を引っ込めて、子ども優先で後回しのまま、先週末、次男の婚礼に出席しました。《男児佳人を得》、次男に最善の伴侶が与えられて、その二人を眺めた感情は、《平安 》でした。また、《責任の完了》を感じて、肩の荷がスルリと降りた様です。

次男は、八つ違いの兄の司式で、"Better half"と、互いへの責任を約束し合う事ができたのは、新しい一歩としては、最高だったに違いありません。社会的な責任をとって、素敵な家庭を作り上げ、訪ねてくる人たちが、日常のプレッシャーから癒されたり、新しい生き方を見出して救われたり、ホッとできる場所になったらと願いながら、式の間、会堂の席に座って、そんな事を願っていました。

『溢れる恵みが満ち満ちる様に!』と、次男が生まれた時に願った日の事を思い出しています。これから始まる二人に、47年の結婚歴の私たちと、時の後先はありますが、《好い家庭》と《好い関係》と《好い空間》、そして《溢れかえる恵み》を願う、新緑の四月朝です。

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昨日今日

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昨日から、二十代で出会った若い頃からの友人たちと、多くは夫妻で14人ほどが集まって好い時を過ごしています。この写真は、朝5時半に、泊まったホテルの5階の窓から、周辺を写したものです。曇りですので、ぼんやりしていますが、様々な緑が、昨日は陽を浴びて輝いていました。

九州、近畿圏、首都圏から互いにやって来た仲間と、近況を語り合っております。これから朝食をし、交わりの続きをし、昼過ぎに解散になるでしょうか。私たちは、8年ぶりの参加で、私たちの帰国に合わせての交流会です。かつては来日されていたアメリカ人企業家も、ここに加わっていましたが、彼らはすでに召されてしまっています。和やかな交わりが継続しているは、彼らのお陰でもあります。

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深山カタバミ

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この花は、先日も掲載させてもらった、「ヒトリシズカ」です。「静御前(しずかごぜん)」にあやかった命名だと、「里山を歩こう」に、解説されてありました(「帝釈峡」に咲いていた様です)こんなに清楚に、凛(りん)と、義経の前でしていたのでしょうか。京の白拍子で、義経の愛妾だった人です。

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これは、「ミヤマカタバミ」だそうです。「深山」に咲くから、そう命名すたのでしょう。野山を歩いて、見た花に、この様に命名した人たちは、すごい連想の能力を持っていたのですね。

都会の喧騒から離れて、山野を巡り歩いて、自然観察をする方が多くおいでなのですね。この魅力に取り憑かれたら、雨の日でも苦にならないにでしょう。このブログを書かれておられる方は、雨の日に出かけたそうです。若い時に、「蜘蛛博士」がいました。みんながそう呼ぶほど、蜘蛛収集が好きでした、写真屋さんで、素人の研究者でした。元気なら、今も、捕虫籠を腰に、出かけておいででしょうか。

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大人

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「大人」は、中国語の漢語では、"daren"と読みます。

1. 對德高或地位尊者的稱呼。 徳や地位の高い敬うべき人
2. 對父母或尊長的稱呼。 尊敬すべきすべき父母
3. 對權貴或官吏的稱呼。 お役人
4. 成年人。相對於小孩而言。 子供に対して成長した人
5. 巨人。 大きな人(たぶん人間的に大きい事でしょう)

そんな幾つもの意味があって、ここ中国では、古来、使われてきている様です。私も、『早く大人になりたいなあ!』と仕切りに思ったのは、映画を観に行った時でした。子どもの頃の映画館は、他に娯楽がなかったからでしょうか、いつも満員、映画全盛期でした。大人ばかりの中で、背中が邪魔でスクリーンの映画が観えなかったので、そう願っていたのです。タバコが吸えて、お酒が飲めるからではありませんでした。

この「大人」を形容詞化したことばに、「大人しい」があります。"語源辞典”によりますと、『成熟さや思慮分別が備わって、成人になった事。穏やかで、静かで、落ち着いた様を持つ事。さらに、素直さや従順さを持ち合わせてる事。』とあります。としますと、多くの大人は、決して<大人しくない>のが現実に違いありません。

ある中学生が、『大人の大人になりたい!』と言っていたそうです。人に会ったら、挨拶をする様に教えてくれたのに、言った本人の<大人>が実行しないのです。お役所や国会といった、<大人社会>が、嘘や誤魔化しや不正、最近流行っている「改竄(かいざん)」などで溢れているのを知ってしまったからです。

そういえば、私の父に、嘘をつかれたことや、約束不履行はありませんでした。母は、正直な人でしたから、人の悪口を言ったのを聞いた事がありません。でも一旦社会に出ましたら、嘘や非難や批判、相手への侮辱は日常的に行われていました。いわゆる、<汚い大人>だらけでした。私を人間として整えてくださった方たちは、《大人しい大人》でした。

まず私が、<小人国>の中で、《大人らしい人》になるのが先決なのでしょう。"精神的ガリバー"が、昔は、多くいたのではないでしょうか。彼らの生き方に倣って、そうなりたいと、この中学生の声を忠告に、耳を傾ける事にしましょう。

香港

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1時間ほどの延着で、香港空港にいます。"transit"で、午後3時20分発の成田便に搭乗するために、待機中です。いつもと違う"ランチ"を食べたところです。そう、12年前の8月に、香港に家内と一緒にやって来て、一週間過ごして、寝台列車で、北京に着き、語学学校のある天津に向かったのです。この12年の始まりでした。

最初の香港訪問は、北京、呼和浩特(フフホト)、上海、広州を訪問した後に、帰国するために、広州から出て来て、1日過ごしたのです。知人が市内を案内してくださって、大陸の街との違いを感じたのが昨日の様です。その後、再び、ここを訪れ、ビルの林立する香港の街中で過ごすのかと思っていましたら、緑が青々とした林の中に連れて行っていただき、全く違う香港を、快適に過ごしたのです。

ここから北京行きの、寝台夜行で、26時間ほどで、翌日の夕方に着き、迎えのバスで、天津に着いたのでした。一緒に行ったブラジル人の婦人が、アメリカから来た親戚の青年と、同じ列車の中で、偶然に会って、驚いたのを思い出します。

12年前と違って、空港が移転してしまっている様で、周りを見回しますと郊外の感じです。明後日、次男の婚礼があります。好い時である様に願って、そろそろ搭乗手続きをしようと思っています。

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独り静か

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この花の名は、「ヒトリシズカ」と言うそうです。今朝配信して頂いた、「里山を歩こう(広島県庄原市東城町・帝釈峡にて) 」にアップされていたものです。どなたが命名されたのでしょうか。じっと見つめていたら、そんな雰囲気を感じて、それが 「名」になったのでしょう。

父が、生まれたばかりの私を見て、「準」と名付けてくれた時も、何かの雰囲気を感じたのか、インスピレーションがあって、『こんな人であって欲しい!』と期待を込めて、呼んでくれた事でしょう。

若い頃に奥多摩の山歩きを、時々しました。南信州の高遠出身の上司が、よく誘ってくれたのです。この方も、木や草や花の名をよく知っておられました。季節季節の植物があって、あの山道の自然の匂いが懐かしく思い出されてきます。今ごろは、いいでしょうね。雨の中を歩かれたそうです。

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ゴミ

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私たちの子どもの頃は、三角ベースで、しかもゴムボール(軟式テニスボールの様で品質の悪い硬いゴム製でした)を手打ちでする野球に興じていました。しかし、正式の野球は、本塁から、一塁方面から右翼ポールまで、三塁方面から左翼ポールまで、一直線に伸びた石灰で引いた白色のライン内で、試合が行われます。そのラインの内側に、打ったボールが落ちればヒット、外だとファールになるのです。

今日、大谷翔平についての記事を、ネットの中で読みました。四球を選んだ大谷選手が、一塁に向かいますと、そのファールラインの内側に「ゴミ」が落ちていたのだそうです。そのゴミを、彼が見付けて、拾って、ラインの外に放ったのです。そのままでも、試合進行に支障はないのに、見つけた責任上、そうしたのでしょうか。

"キリキリ"した緊張の時に、そんな心の「ゆとり」が感じられる行為を、てらわずにしたのに驚かされてしまいます。『放っておけ!』で好いのに、放っておけなかったのでしょう。大観衆の目が、その一挙手一投足に注目を浴びる"スター選手"なのに、その観衆の視線を気にしない振る舞いを、自然にできるのには驚かされるわけです。

自慢話にならない様に願っていますが、7年間、こちらの学校で、「日本語」を教えたのですが、私も心掛けた事がありました。中国の学校の教室は、綺麗ではないのです。各教室の棟に、家族や夫婦で住んでいるのか、出勤してくるのか、管理人がいるのですが、手が行き届かないでいるのです。

前日の最終講義の後、机で食べた食事だか、おやつの残飯やゴミや空ボトルが、引き出しや床に、そのままなのです。どうも自分で始末ができない学生が多いのです。また、掃除人がいるんだから、捨てなくても好いのだ、とも考えている様です。私のクラスは、ほとんどが第一時限目で、そんな教室に、30分前に入ると、そのままにできなくて、ゴミ掃除をしてしまったのです。

机も拭いたでしょうか。気持ち好く教えたいし、みんなが気持ち好く学べる様に願ったからです。授業が終わると、板書した黒板を拭き、ゴミが落ちていたら拾い、机の中に忘れ物がないかを点検して、ドアーを締めて終えたのです。そんな年月を、中国の最高学府で過ごすことができたのです。それって、私には苦にならないのです。父親が几帳面でしたから、その感化かも知れませんし、仕事をしながら、大きなスーパーマーケットの清掃を請け負って、長くサイドビジネスをしていましたから、掃除は、お手のものでした。

23歳の卓越した、一人の人としての大谷選手の仕草に、驚かされます。肝っ玉が据わっているのでしょうか、大谷選手には、とても好感を持ってしまいました。これからの野球人生には、スランプ、低迷、迷いの時がある事が予測されます。しのぎを削るプロの競争の世界で、彼の魂が、さらに強靭にされ、技量が磨かれ、ごく自然体で、自分に「定められた時」を、精進しながら活躍して欲しいと願う開幕当初の4月です。

(大谷選手も高校時代に戦った「甲子園球場」です)

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