黄昏に光あり

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 「その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。(ゼカリヤ書14章6〜7節)」

 若い日には、思ってもみなかった年齢、想像したこともない「記念日」を迎えて、いろいろな感慨が、想いの中に浮かんできます。

 元気な父がいて、クリーニングに出したワイシャツにネクタイ、ピカピカに磨き上げた革靴、そんな出立ちで、朝玄関を出て行き、電車に乗って通勤し、一日働いて帰ってくる、そんな日を繰り返していました。休みには、家の前でキャッチーボールをしてくれ、たまに東京に連れ出してくれて、家では食べたこともない様な西洋料理を食べさせてくれました。観劇もさせてくれたのです。分厚い広辞苑や字源を買ってきては、黙って使う様にしてくれました。出張帰りには、焼売、温泉饅頭を、会社帰りには、ケーキや鰻や餡蜜やソフトクリームを買ってきてくれました。

 時々、社会情勢を聞かせてくれたりしました。小説とか週刊誌を読まない人でした。プロ野球の巨人軍のフアンで、家では、小型ラジオを耳につけて、横になって聞いていたのです。スタルヒンや沢村栄治を知っている世代でした。後楽園球場にも連れて行ってくれたでしょうか(兄に連れられて行ったかも知れません)。時代劇の好きな私に、俳優の実名を教えてくれたことがありました。知り合いだったのでしょう。

 中学校時代を過ごした、親戚の家に連れて行ってくれたこともありました。継母の葬儀に、電車に乗って、なぜか三男坊の私を連れて行ってくれました。布団の上で、羽交絞めされたり、抱きすくめたり、髭面でホッペホッペヨをされたのです。電車通学する高校生の私の後をつけて、私と父の間にいた女子高生たちの会話を盗み聞きして、家に帰ってきては『◯◯と、うわさしてたぞ!』と話してくれたこともありました。病気一つしないで丈夫でしたが、初めての入院で、そのまま家に帰らず、六十一で天の故郷に帰って行ってしまいました。

 母は、よく五人もの男の世話をしたものだと感心してしまいます。買い物をし、井戸から水を汲み、火鉢に火を起こし、料理をして弁当を含めて三食食べさせてくれました。電気洗濯機を家で使い始めたのは、上の兄が、運動部に入って、練習帰りに、上級生の泥で汚れた分厚い練習着を持ち帰ってきてから、父が買ったのです。それまでは盥(タライ)で、洗濯板を使っていました。掃除もし、学校から呼び出しを喰らうと、怒られに出掛けてくれました。

 愚痴など、父への不満など、近所の人の噂など、芸能界の話題など、母の口から聞いたことがありませんでした。近所の出戻りの若い女性や未婚の女性、弱っている人たちを訪ねては、教会にお連れてして、証をしていました。自分では聖書を読み、家族や知人たちのために祈り、賛美をし、献金もしていました。小さな体で、働き蜂の様に動き回っていた人でした。

 子どもたちが大きくなって、日中いなくなると、おめかしをして新宿などに出かけて、デパートで買い物をするのが唯一の楽しみだったそうです。トラックに轢かれて、両足切断も危ぶまれるほどの大怪我をして、一年近く入院しました。また卵巣癌で、これも一年近く入院したこともありました。相部屋には、長く治らないで居続ける〈病室名主〉がいて、みんなをいじめていると言っていました。ぶん殴ろうと思いましたが、母にやめさせられました。

 すぐ上の兄と義姉とが、父と母の《黄昏の日々》の面倒を、亡くなるまで看てくれました。父も母も満足だった様です。母は老齢年金があって、それを貯えていたのが、亡くなった後、だいぶ経ってから郵政省から連絡があって分かりました。お金を残してくれていました。家内が病んだので、大部分を兄たちと弟が、治療費に使う様にしていただいたのです。幸せの薄い父と母でしたが、二人とも信仰をいただいて、精一杯生きて平安のうちに、天に凱旋しています。

 父と母の黄昏には、光があったと思います。母は、一度も父に手を挙げられたことはなかったそうです。父の悪いことは一度も口にしませんでした。子どもたちに拳骨を落とす父でしたが、それも明治男の愛情表現だったのでしょうか。さて、お姉さんだった家内とお兄さんだった私も、今や人生の黄昏時を迎えています。五十一年めに入って今、今まで見たことのない光が輝いているのを感じるのです。

 上の娘が、聖書のことばを贈ってくれました。

 「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。(エレミヤ17章7〜8節)」

 まだ実らせる「実」があるのですね。あるご婦人が、『お二人は、私たちの手本です!』と言って励ましてくれました。うれしいことです。子や孫たち、友人たちが👍をしてくれました。

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四人四様

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 「幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。(詩篇127篇5節)」

 家内は、四人の子を産み、ひとりひとりを育ててくれました。立派に母業をし終え、今は、一人一人が、自分の責任で生きていること、また孫たちの成長を、遠くにして楽しんでいる母親とババをしています。

 長男が、幼稚園に通い始めて、担任から、『この子は異常だ!』と担任に言われてしまいます。けっきょく園長先生が、街の大学の教育学部の先生に息子を観察し、面接してもらうことになったのです。その結果、『この子は異常ではなく、リーダーシップと統率力があるので、将来が楽しみです!』と言われました。息子は先生よりも、クラスの子の心を掴んでいて、園庭を息子が右から左に走ると、みんな息子について走ってしまうので、新任の先生がクラス運営ができなかったのです。家にテレビがなく、遊びに自分流の工夫があったので、その独創性にクラスのみんなが注目していたからでした。
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 小学校二年の時に、隣町に引っ越しをして、学校が変わりました。前の学校で、もう一人いるとクラスの数を減らさないで済むので、転校した息子に、一ヶ月間だけ戻って通ってほしいと、校長先生に要請されたのです。息子は、『いいよ!』と言って一年生を過ごした学校に通ったのです。そのご褒美に、豪華な絵の具のセットをもらって喜んでいました。

 長女は、お風呂に入れる時、熱いお湯に『うーっ!』と言いながら、我慢していた子で、その動じなさに驚かされました。ほとんど、手のかからない子だったのです。中学の時、用があって家内が学校に電話した時、『ハンギョドン先生をお呼びください!』とお願いしたのです。電話を取った方は、長女の担任に連絡して、 『◯◯です!』と言って出てこられたのだそうです。家で、長女が渾名しか言わなかったので、その名が出てしまって、それを聞いた娘にものすごく怒られたことがありました。
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 上級生のいじめに憤慨した長女が、問題解決のために、暴力をいじめてに用いて、制裁したのです。高校では、担任が失恋したそうで、そのカウンセリングをして、帰宅が遅くなったのだと言ったことがありました。お節介だと言えばお節介ですが、そんな相談を生徒にする先生が、頼れるほどの娘だったのには驚かされました。

 次女は、幼稚園で、授業中に、園庭のブランコに一人で、平気でのる子でした。そんなことをすると、担任から、家に連絡がありました。家に帰ってきた次女に聞くと、『休み時間にあたしがブランコに乗ると、ほかの人が使えないので、だれも競争しない授業中にあたしが使えば、休み時間に友だちが乗れるから!』と、理由を言ったのです。作業の遅い子の世話を焼いて、自分のことができなくても平気な子でした。
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 15でハワイの高校に入学しました。友人の牧師がお世話くださると言うので、旅をさせたのです。同級生の中には、沖縄からも、Croatia(クロアチア)からも来ていた子がいた様です。彼女の教会でセミナーがあって、家内が出掛けました、次女の生活ぶりを見、励ますためでした。帰ろうとした家内を見送りに空港に来た次女が、大粒の涙を、ポロリと落としたのだそうです。いろんなことを経験し、辛いこともあったのでしょうか、意味深の涙だった様です。

 次男は、小さい頃、救急車で運ばれたことがあって、『こんなことで呼ばないで!』と家内が、隊員から注意されたことがありました。音感がよかったのです。音に敏感でした。中学に入ってから、スポ少でやっていたバスケットをすると思っていたら、ブラバンに入ったのです。パーカッションの担当でしたが、ほかの楽器もこなせたのです。担当の先生に見込まれて、大太鼓を叩く特訓を受けるために、よく太鼓の置いてるホールに連れて行ったことがありました。息子自慢になりますが、ブラバンのコンテストの折に、東京から来られた審査員も、次男に目を止めて、『数万人に一人の特別なものを持っている生徒です!』と言われたのです。
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 ドラムを上手に叩き、ギターも好きでした。ある時、私たちの最寄りのJRの駅前で、トラクトを足元に置き、ギターを弾いて賛美することが何度もありました。家内と二人で、そっと後をつけて、物陰から彼の賛美を聞いていたことがありました。自分の生まれ育った街の人に、福音を伝えたかったからでした。家内が最後に、三十代後半に産んだ子でしたから、子どもたちはみんな可愛い思い出がある中、仕舞いっ子は特別な想いがあるのでしょう。病んでから、優しく気遣う彼に会えない、コロナ騒動の渦中です。

 こんな出来事のあった4人の子どもたちです。一緒にいる時間って短いのを痛感しています。委任された子育てを終えて、もうずいぶん時間が経ちました。自分の親も、同じ様にして、一人一人、家から出ていくのを見送っていたのでしょうね。みんな神を畏れながら、一所懸命に、今を生きているのが、私たちには一番嬉しいことです。

(建築用の「鎹(かすがい)」です)

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入学祝

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 これまで何度も外科手術をしてきたなあ、と思い返しています。最近では、2017年4月15日に、札幌の整形外科病院で、左肩の腱板断裂の縫合手術をしていただきました。押しかけ女房の様に、帰国して、予約もしないで、成田空港から、その病院に宅配便で旅行鞄を送ってしまったのです。病院側は、当惑しながらも仕方なく、その日の手術に、もう一件加えて、私の手術に当たってくれたのです。
  
 そんな患者は、それまで一人もいなかったそうで、厚かましい私を、《中国からやって来た日本人の患者(ナースステーションの一人の看護士さんがそう言ってました!)》と呼んでいました。そんな私に、『私が治します』と言ってくれた担当医(中国の街からの私のメールでの問い合わせに回答してくださった医師で、この病院の理事長でした)から、手術が1時間で終わる旨、説明を受けました。「骨密度」は、青年並みだそうで嬉しくなりました。

 二日間は、病院の指定のホテルに泊り、《成田から宅配した旅行バッグ》を受け取って、15日の朝に入院し、着替えや本などを病室の棚に収納にしまったのです。看護師長さんが来られ、中国から頼って来てくれた《押掛女房》の様な私を、『O医師が、自分を頼って入院してくれたことが、いつになく嬉しそうでした!』、と言っておられました。前の日に夕食に、牛ステーキの全国展開をしている店で、《国産サーロインステーキ250g》を、娘が勧めてくれましたし、自分が食べたかったので奮発して、手術に備えたのです。
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 独身時代以降、そんな《独り贅沢》をしたのは初めてのことでした。痛がるだろう自分への《なだめの御馳走》でした。それで、朝昼なしでも空腹感が全くなかったのです。看護師の話ですと、夕方5時からの手術が終わって、麻酔がスッキリ覚めてから、夕食を取り置きしてあるので、出してくれると約束してくれていました。その日、O医師は、何と8件の手術を執刀して、最終に私を加えてくださったのです。

 すごくタフな整形外科医師ではないでしょうか。順調なので、1時間ほどで手術は終わったのです。その12年前の右腕の腱板断裂の手術の方法は、もっと時間がかかったでしょうか。あの時は、術後2日ほど、右腕を釣り挙げられて、ベッドに固定されてしまいました。看護師に『自殺者がいたんです!』と言われたほど、苦しい経験でした。それがすむと、アメフトのプロテクターをつけて、手を万歳したまま固定されていたのですが、札幌では柔らかな資材の装具を着けてもいました。腹部で支える様にされていました。

 術後、とっておいていただいた夕食を温め直してくれ、食べたのです。鷄肉の照り焼きとキャベツの炒めた物と薄い味噌汁と米飯だったでしょうか。その手術の専門病院でしたので、同じ様な装具をつけた患者でいっぱいでした。翌日には、何とリハビリが行われました。

 術後の長いリハビリを終えて、中国の華南の街に戻ったのです。戻って来た私に、『《術後の回復》のために!』と、自分のためにお母さまに買ってもらった、貴重な《肝油ドロップス》を、一人の高校生から、退院祝いにいただいたのです。この四月三日、帰国子女として合格した名門大学の入学式が行われ、校門の前で撮られた、お母さまと大学生になられた彼とお二人の写真が送られてきました。

 素晴らしく成長され、目が輝いた姿が写っていました。お父様も、お母様も、華南の街の省立医院に入院中に、家内をお世話くださったのです。お母さまは、家内のお世話に、毎日来てくださったのです。その病室で、息子の受験勉強のマメタンを、セッセと書き込んで作っておられました。素敵なお母さまで、帰国後には、お見舞いにもおいでくださったのです。

 彼の入学祝いに、何を贈ろうかと考えていましたが、《永遠のベストセラー》と言われ、世界で一番多く翻訳、印刷、刊行されている「聖書」を、彼に送りました。自分たちの孫が入学した様な喜びがしております。彼は、私の作るカレーライスが好きだそうで、コロナが終息したら、おいでいただいてご馳走したいと思っているところです。

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親方

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 これまで「親方日の丸」と言うことばを何度も聞いてきています。最近は、あまり聞かないかも知れません。”大辞林"には、『(親方は日本国である意)自分たちの背後には国家が控えているから倒産の心配はない,という公務員などの真剣味に欠けた意識を皮肉っていう語。』とあります。

 中国語にも似たことばがあって、「鉄腕飯Tiě wàng fà」と言うようです。陶器製の椀のように、欠けたり砕けたりしない鉄製の椀で食べることから、器が話題になっているのではなく、頑丈な椀に盛られた飯が、確かなものだと言うのです。それで、『食いっぱぐれしない!』ことを言い当てているそうです。

 『どう生きるか?』を考えていた時、安定した地方公務員になることに、一瞬、心が揺れたことがありました。でも『青年は安全な株を買ってはならない!』、すなわち安定志向の生き方を戒めることばを聞いて知っていたのです。一度きりの人生を、もっと冒険的に、攻撃的に生きるように決心して、公務員にはなりませんでした。実際はなれなかったのですが。それで母校の恩師が紹介してくれた職場に就職したのです。

 その頃、何度か、仕事で都庁に行かされました。その所轄の部署の職員の多さに驚かされたのです。用件が済むまで待たされた間、仕事ぶりを眺めていました。仕事を見つけるためでしょうか、ロッカーから書類を取り出しては読んでおいででした。そのバツの悪そうな顔をして、目が会うと、視線をそらしていたのが印象的でした。決して偏見の思いで眺めていたわけではありませんでした。『仕事はし過ぎても、しなさ過ぎても好くなく、ほどほどに!』と、この職場の仕事を聞かされていたので、納得したわけです。

 実力や実績のある「親方」の庇護の下に居られることを、「寄らば大樹の陰」と言うのでしょうか。そう言った大樹に出会わないで、一匹狼のようにして、孤軍奮闘してきたように感じた時期も、私にありました。そんな風に思っていた私のために、影になり日向になって、力になってくれて方々がいて下さって、今日があります。

 「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。 (ローマ8章31節)」

 実は、私には本物の「親方」がいるのです。いつか私の「親方」をお伝えすることができたらと、切に願っていましたので、ご紹介しようと思います。それは政治家でも、財界人でも、教育家でもありません。頼り甲斐があって、決して裏切らず、最後まで見捨てない方なのです。これを、「親方日の丸」や「鉄椀飯」になぞらえて、何と表現したらいいのでしょうか。私の50年来の親しいお方こそが、「親方」なのです。

 そう天地万物を想像し、それを支配し、しかも、この私をお作りくださり、支えていてくださる神さまなのです。神を、そんな表現で言うのは烏滸(おこ)がましいのですが、私のために執り成しをし、助け主聖霊をお遣わしくださり、私のために場所を設け、その場所が備えられたら迎えに来てくださるお方、父の御子イエス・キリストが、「・・・見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28章20節)」と言ってくださったのです。

 このお方が、私の「親方」なのです。若い時に出会い、今もその様に感じられ、《頼り甲斐にあるお方》でいらっしゃるのです。地震で揺らされても、暴雨が降っても、コロナの渦中にいても、私の「味方」で、どんな時でも「平安」でいられるのです。

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結婚

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「神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。(創世記 2章18節、24節)」

自分を見ますに、内側に、感情的な愛し合いされる必要、社会的な他者との交流の必要、肉体的な接触の必要があるのが分かります。人は、その様な必要を持って造られているのです。神さまは、最初の人に、「一人でいる」寂しさや不足感を知って、女性をお造りになりました。それで、「ふさわしい助け手」として、人のそばに連れてこられたのです。

1971年4月4日、日曜日、その朝の礼拝を守った夕方、上の兄の司式で、母教会で家内と私の「結婚式」が行われました。人を造られ、男から女を造られた、この二人は「結び合い」、「一体となる」と言われたのです。それは精神的、社会的、肉体的な「結合」と「一体」をもたらせて、その必要を満たされる様に願われたからです。

私は、パスカルが言った、『人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものよっては埋めることができない。』と言う「空洞」を持っているのに、心から同意していました。それは、父母や友人や妻によって満たす以外の「存在の空洞」であって、神以外に満たすことのない、「霊的な必要」です。

仕事を持ち、配偶者を持ち、子どもたちが与えられて、人は人となるのですが、神無しでは、真に人となることができないのでしょう。私の十代に、突き上げる様な強い欲求があり、二十代半ばの私の内側にも、同じく強い激しい欲求がありました。それは女性に触れたいと言う強烈な願いでした。まさに、マグマの様に突き上げてくる、思いの中にあった欲求です。人を創造された神さまが、人の内に備えられた欲求なのです。仕事をしたり、学んだり、社会的な活動をする以上の内的で個人的な欲求でした。これも神さまが「是(ぜ)」とされた、人が本来生まれ持った欲求なのです。

その欲求を正しく満たすための枠組みこそが、神さまの摂理の中の「結婚」だと言えます。家内は、純潔を守って処女のままで私の「妻」となりました。ところが私は、すでに女性を経験していたのです。聖書は、婚外の関係を「寝る」と言い、結婚の関係を「知る」と区別して記しています。

「姦淫してはならない。(出エジプト20章14節)」

なぜいけないのかと言うと、この性的な関係は、快楽や満足をもたらすだけでなく、新しい命の誕生につながるからです。命の付与者、創造者の神さまは、命の誕生の神秘さを保つために、婚外で生まれてくる新しい命が闇に葬られたり、不幸に生きていくのを避けるために、この戒めを人に与えられました。結婚していても独身でも、「純潔」を守ることを、人に要求されたのです。ですから「神聖さ」の中に、神さまは性を位置付けたわけです。神さまの定めを、人は守らねばなりません。結婚を神聖に、健全に保つための勧めなのです。
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私は、この戒めを知っていて、『いけない!』ことを重々分かりながら、悶々として苦悩していました。それが私の十代だったのです。けっきょく「結婚」まで待つことができず、守り切れませんでした。でも聖霊に満たされ、痛恨の悔い改めの涙を流した時に、その罪からの赦しを確信したのです。もちろん結婚する前に、妻と決めた家内には謝りました。

女子校で教え、同じ敷地内に短大生がいて、同僚にも、短大にも専門学校にも、独身の女性教職員がいました。attackしてくる女性軍の前で、身を固める必要を痛切に感じていたのです。牧師をしていた兄が、教会に行き始めた私に、一人の姉妹を紹介してくれました。母の同信の友人の娘で、ピアノの伴奏を、教会の礼拝でしていました。その彼女には、結婚を踏み切るために、私への一つの条件があったのです。それは《聖霊に満たされること》でした。それを主の前に求めたそうです。その条件を、私が満たして、彼女は結婚を決心し承諾したのです。

「あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。 (箴言5章18節)」

私の感情、社会的欲求、そして肉体的な欲求は、神が、私のそばにおいてくださった妻によって、満たされたのです。それは、霊的な欲求が、神さまとの和解を通して満たされたことによったもので、完全な自由を得たのです。後ろめたくなく、罪を赦され、若い時の妻を歓び楽しむことができたのです。同じ救い、同じバプテスマ、同じ聖霊に預かった妻こそが、「ふさわしい助け手」であったからです。

さて結婚後も、たびたび誘惑の手は、巧みに近付いてきましたが、はっきり拒んで今日まで、結婚の契約の中を生きてくることができたのです。それは、私の強い意思や不動の決心などにはよりませんでした。神さまからの意思の弱い私への憐れみによったのです。

危なっかしい私を、その契約に中に保ってくれたのは、もう一つは、主が私の傍においてくれた家内によります。けっこう家内は本能的に、危険な信号が点滅し、私に近付き始める誘惑を察知することができるのです。そんな誘惑の手に気付いていない私に、たびたび注意を促してきた、この《50年》でした。

主の祝福の中で、罪意識なく交わした「一体」によって、素晴らしい四人の子が与えらました。伝道者として働きながら、彼らを二人で育て、教育を受けさせ、その責務に専心しました。その四人の子が、今は立派に社会の中で責任を果たし、家庭を持っているのは大きな恵みなのです。

もちろん夫婦関係は、性的なものだけではなく、結婚の中に定められた社会的な意味、精神的な意味があり、さらに「霊的な意味」があります。それで私は、家内と一緒に祈り、学び、夢や幻を語り合ってきました。いつでしたか華南の街のアパートの門から入ろうとしていた時、もう薄暗かったのですが、一人のご婦人が、私たちを見て、『好夫妻呀haofuqiya/素敵なご夫婦だわ!』と言って通り過ぎて行きました。

きっと仲良く、かばい合いながら歩いている様子が、よかったのでしょう。教会の中にいた、結婚前の適齢期の男女も、老夫婦の私たちが、ともにいる姿を見て、安心を覚えて、自分たちの結婚のモデルの様に思っていてくれたのだそうです。

まさに家内が私に忍耐し続けた年月でした。もう原因を忘れてしまいましたが、3番目の子が、家内のお腹の中にいた時に、上の2人の子を連れて家出をしたことが、家内にありました。それが最大の結婚の危機だったでしょうか。八ヶ岳の清里の民宿に一泊して、その宿のクリスチャンの老夫妻に諭されて、二人の子の手を引いて、家内は私のもとに帰って来たのです。

我儘な私に、家内が耐えた年月でしたが、伝道の仕事をし、導かれて、中国の華南の街で過ごしたことも、病んで帰国したことも、みんな感謝な今のある、「ふさわしい助け手」と共に過ごしてきた《50年》だったのです。

(愛妻の好きな花「マーガレット」と「秋桜」です)

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チューリップ

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 昨年咲き終わった球根から、今年も「チューリップ」が咲きました。和名は「鬱金香(うこんこう)」と名付けられています。今、どこの庭先にも、いっせいに咲き出しています。昨日は、隣街にお連れいただいたのですが、ガソリンスタンドの前に、まさに赤、白、黄色と、綺麗に咲きそろっていました。近藤宮子が作詞、井上武士の作曲で、1930年に発表された「チューリップ」です。

さいた さいた
チューリップの花が
ならんだ ならんだ
あか しろ きいろ
どの花見ても きれいだな

 世界が戦争に巻き込まれていく中、この花に、「平和」を託して栽培され、世界中に広まっていった花なのだそうです。軍隊が、銃を自国民に向けて発砲し、多くの命を奪うと言った現実が、また二十一世紀になっても起こり、世界は対立と争いの坩堝(るつぼ)の中にあります。

 今だからこそ、「平和」を、切に願いたいのです。将来を奪われ、国に力が滅びていく悲しみに耐えられません。そん中で、「平和」を叫ぶかの様に、春の風に、花を揺らして咲いています。

 わが家のベランダには、赤い花が咲きました。一鉢は、先週末、家内を見舞いに、東京から来てくださった方の下のお嬢さんに、もう一鉢は、生協に配達を開いてくださる方に差し上げました。お嬢さんが幼稚園を卒園され、小学校に入学されると聞いて、お祝いに差し上げたのです。このお嬢さんたちの世代が、「平和」を享受できる様な時代になっているでしょうか。少なくとも、心の中には、「平和」がある様にと願う四月です。

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観桜

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 いつも連れ出してくださるお母さんとお嬢さんと、私たちで、小山市の思川の堤に咲く、「オモイガワザクラ(思川桜)」を観てきました。突然変異種として咲き始めた桜だそうで、コヒガンザクラよりは色が薄く、ソメイヨシノよりはピンクの色が濃い、実に綺麗な桜でした。満開直前の八分咲きくらいでしょうか、念願の観桜が叶いました。

 小山市は、鎌倉時代、源頼朝の配下にあった「小山氏」の所領で、近世には江戸と結ぶ思川の舟運で栄えた街です。近年、新幹線の駅も誘致され、首都圏に通勤できる、17万人弱の街づくりがなされています。
庭付きのパン屋さんで、四人でお昼をしました。小川の流れの様に「さらさらいくよ」の外出を楽しみました。

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自由を得る

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 子どもの頃、近所に、お父さんが電力会社に勤めているご家族がいました。弟と同級の男の子と、その弟がいて、けっこう親しい近所付き合いがあったご家族だったのです。弟の友だちなのに、私も出入りした家でした。ご夫婦は関西の出身で、物言いの穏やかな方たちで、みなさん病気がちでしたので、静かで穏やかな生活をされていました。それにひきかえ、道路を挟んだ反対側のわが家は、父を加えて男五人は、賑やかで極め付けに対照的でした。

 このご家族は病弱だったからでしょうか、何か信仰をなさっていて、結構熱心だった様です。わが家は、母がクリスチャンで穏やかだったのですが、父と4人の男がいて、みな自己主張が強かったので、日常的に父子喧嘩や兄弟喧嘩が繰り広げられて、近所を考えながら静かに喧嘩をすればいいのでしょうけど、みんな熱かったので、激しいやり取りの日々の連続でした。

 きっと養女の身の上で、実の父母も兄弟姉妹もなく育った母は、喧嘩騒動の絶えない家庭の粗暴さの中で、私たち4人の兄弟の絆の強さ、関係さの緊密さ、手加減を見て、子どもの時期に喧嘩相手もなく寂しく育ったので、羨ましくも思っていて、けっこう4人の火花を散らす如き喧嘩や叫び声や怒声を楽しんでいたのかも知れません。オロオロしたり、止めに入る様なことはしませんでした。私たちのゲームを楽しんでいた様な母だったかも知れません。

 ですからその街では、けっこう有名な家庭だったのです。家内は、その街の市役所に勤めていました。その上司が、私と結婚しようとしていた部下の家内に、『あの家族の兄弟の一人と結婚して、ほんとうに大丈夫なの?』と、大真面目に心配したのだそうです。ですから、そんな4人の将来を、その街の人たちは危ぶんで観察していたことでしょう。でも感情的に充分に発散していましたから、引き籠る様なこともなく、学校は面白いし、近所の子どもたちは遊び仲間でしたし、荒々しい家庭であった割には、父は、不義や不正や偽善を嫌い、しっかり拳骨で躾け、『金は残さないが、教育だけは受けさせてやる。あとは自分で生きてけ!』と、教育を受けさせてくれました。

 街のみなさんの心配をよそに、兄が都立高や大学に進んで、運動部で活躍したり、次の兄は高校球児でしたし、弟も体育や山登りの好きな元気な男の子でした。自分だけが私立の中学に入れてもらい、我儘に生きていたのです。それぞれ友だちが多くいて、やがて社会的にも、きちんと生きていく様になり、兄は大手の会社に、次兄は大学を出て外資系のホテルに、弟は母校の教師に、自分も教師になったりでした。

 子どもの頃を知るみなさんは、狐につままれた様に、私たち4人の生長の結果を見ておられました。その心配が裏切られた様に感じられたのでしょう。母の信仰を受け継いだ兄は、その街にあったアメリカ人宣教師が始められた教会の牧師になってしまい、私も兄と同じ道を歩んだのです。

 「ふたりは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます』と言った。 (使徒行伝16章31節)」
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 その信仰の原点は、カナダ人宣教師を通して、十四歳で信仰を持ち、八十年もの間、信仰を持ち続けた母の信仰を受け継いでいることでしょうか。日曜日になると母は、まだ子どもの兄たちと弟と私を、あのカルガモの親子の様に、電車に乗せて教会に連れて行ってくれました。それが母が願った、子への最善だったからです。信仰の種蒔きだったのです。

 そんな4人は、ある時点で、みな信仰を告白し、バプテスマを受け、家庭を持って行きました。あの近所のおばさんを訪問した時に、こんなことを私に言いました。『万ちゃんは、国体のラグビーの試合で、瀕死の大怪我をした経験から、クリスチャンになり、牧師になったのは分かるけど、準ちゃんは、そういった経験もないのに、どうして教会に行く様になり、牧師になんかなったの?』と不思議がって聞かれたことがありました。

 人には、だいたい入信の動機というのがあって、大問題、たとえば大怪我、大病、不幸、破産、家庭破壊、失恋などの辛い経験を経て、信仰を持つことが多いのだそうです。そのおばさんも、病弱の中で、関西圏で有名な宗教団体の会員になられた方だと、母に語っていました。〈健常者には信仰は不要〉という論理です。『将来を約束されているのに、牧師までならなくてもいいのに!』という考えでした。

 私たち兄弟は、母の祈りによって育てられたというべきでしょう。ところが表向きは真面目に見せていましたが、内実は罪だらけで真っ黒な私でした。あのおばさんは、心の中は見てはいなかったからです。そんな私が、学校出たてで、福岡県の教員研修会の開催で、水都柳川に出張したのです。当時、その近くの街に住んで、宣教師の帰国中の教会の世話を頼まれていた兄を、早めに出掛けて訪ねたのです。

 将来の役職を約束されていた兄が、期することがあってでしょう、その会社を辞めたのです。最初の子に期待し、望みをかけていた父の落胆は大きかったのです。そして献身し、わずかな若者たちのお世話を、九州の街でし始めたのに驚いたのです。蹴飛ばされ、殴られた私は、兄の激変振りを見届けたくての訪問でした。学生時代には花形運動選手で、オフシーズンには、酒に酔い、麻雀の虜になっていた兄だったからです。一晩、兄を連れ出して、その筑後の裏街の寿司屋に一緒に入りました。出張手当てで懐の温かい私が兄を、初めて奢ったのです。美味しかったのか、久し振りの高級寿司だったからか、兄が鼻血を出すほど満足した様子でした。
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 泊めてもらったのが教会の建物の離れで、『タバコ吸っていい?』と聞いたのです。『ここは・・・』と兄が言ったので、親に隠れて子どもの頃から吸い始めていた一服をやめただけではなく、出張先の料亭接待で出た酒は、美味しく呑んだのですが、タバコだけは吸わなかったのです。それで、出張を終えて、東京に戻ったわけです。

 実は、その兄家族の訪問が、まだ二十代前半なのに、いろいろなことがあって、一端の男をしていた私の人生を大きく方向転換させ、曲げたのです。『何が、あの兄を変えてしまったのか?』が、その訪問で分かったからです。次の年、ある学校から招聘されて、教員になるために、その職場を辞めました。その教員生活の途中で、殊勝にも私は教会生活を始めたのです。兄が東京に戻って、宣教師から教会の責任を受け継いだので、その応援のつもりでもありました。

 義理で日曜礼拝に出て、やがて水曜日の聖書研究会にも、ついには、自分の意思で祈祷会にも出る様になっていました。祈っていた時に、なぜかひとりの女子大生が私を、車で訪ねて来て、遊びに誘ったのです。それを断ったことがありました。断ることなどなく生きてきた自分にしては、自分でも呆れる様な出来事でした。

 「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。(ローマ人への手紙7章19~20節)」
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 『すまい!』と言って心に誓っのですが、大人の遊びに引き摺り込まれて、やめられないでいたのです。奈落の底に落ちる様な中から出る力がなく、ズルズルしていたのに、いわゆる断捨離ができる様になったのは、兄の劇的な変化の目撃でした。その頃から驚くべき力、恵み、憐れみが自分の人生にも、強く作用し始めたわけです。強烈な誘いを断わることのできる意思と力を与えられたに違いありません。それでトゲを抜かれて縮こまってしまった自分に、自分自身で驚いてしまっていました。それが次の一歩だったのです。

 異国のエジプトに、兄たちに売られたヨセフが、王の高官の夫人から誘惑された時に、掴まれた袖を残して、走り逃げた様に、誘いの時と場所から逃れる力って、何だったのだろうと思い返すと、その力の根源が分かったのです。

 教会生活を始めた頃に、ちょっと斜視で口髭を生やした、元ボクサーのアラブ人とギリシャ人の血を引くアメリカ人説教者が、来日して、兄の牧会し始めたばかりの教会にやって来たのです。アフリカに宣教に遣わされている教え子を訪問する途上のことでした。聖書の聖句をそのまま歌う “ chorus ” と言う賛美の歌を、力強く歌っては、聖書を理知的に説き明かす方でした。

 その特別な夕べの集いに、私も参加する様に招かれたのです。ところが強烈な力で、『行くな、出るな、よせ!いつもの様に下宿先に帰ったほうがいい、!』と、集会出席を阻む力が強烈に働いていました。何かが起こってしまうことを阻止しようとしてです。それでも、兄の教会で夕食を食べ、兄の住んでいた家に住み始めていて、都内に通勤していた私は、外食すればいいのに、次の晩も仕事帰りに、駅近の教会によって、食事をしてしまったわけです。
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 その食卓に、その元ボクサーが着いていて、青い目で私をチラチラと見ていました。まさに穏やかな視線だったのです。最初の晩には何も起こりませんでした。そうして次の晩も同じ様にして、教会の席の後ろの方に座って、この人の歌う賛美を聞き、説教を聞いていたのです。話が終わりかけた頃、『祈りますから前においでください!』と、彼が招きました。

 それを聞いた時に、『出るな、絶対出るな!』と、また強烈な内なる迫りが再びあって、自分の椅子にしがみつく様にして踏みとどまっていました。ところが私の席に来た兄に促されて、前に出てしまったのです。そんな私に、五十ほどの年齢のニューヨークの神学校の教授が、頭の上に手を置いたのです。そして、この方が異言で祈り始めたではありませんか。
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Dove. Continuous line art drawing. Pigeon. Vector logo illustration

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 この異言ですが、それを聞いていますと、通常の感情表現には思えず、知的な私には異常にしか思えませんでした。その言葉を、それまで母が導かれ、熱心に礼拝や聖書研究を守る教会で、ある時期から、時々、母に誘われて出席する集会で聞き始めたのです。とても嫌悪感を感じていたものでした。ところが、そんな私が、その異言を語り始めてしまったわけです。

 「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、(1コリント14章18節)」

 それは望外のことでした。突然、泉が湧き出す様に流暢に異言を語ってしまいました。私は冷静だったのです。異言を体験したことのない人たちが言われる、〈我を忘れた恍惚状態〉などではなかったと思います。神の存在は信じられたのですが、イエス・キリストの十字架が分からなかったのが、突然、『俺のためだった!』と分かったのです。同時に、私は激しく泣きました。悔恨の涙だったのです。それで赦された実感が心を満たしたからです。「義認」や「選び」を明らかにしたパウロは、「異言」を語ることの祝福を知っていて、賜物としての聖霊が語らせてくださる「異言」を語ることを恥じないばかりか、公言しています。

 17で信仰告白をしてバックスライドし、22でバプテスマを受けてバックスライドし、そして25で、その異言を語って、聖霊に満たされたのです。自分が何者かが分かり、罪が分かり、激しく泣いたのです。その体験によって、力と自由を、私は得たのです。それ以来、半世紀の年月が過ぎますが、強い誘惑は私を強烈に誘うのですが、それを拒む力が、その聖霊体験によって与えられたに違いありません。そればかりではありません、《献身の願い》が、同時に起こったのです。

 当時、私が働いていた女子高は、大正期に開学された伝統校でしたが、教師たちは驚くほどに低劣でした。三十代の音楽教師が、『廣田くん、ちっちゃな恋人(〈可愛い娘〉と言ってました)を持ってもいいんだよ!』とか、アメリカに旅行した一人の化学教師が、〈ポルノ写真〉を持ち帰って来て、『見ませんか!』と言うのです。また、生徒の帰った後の視聴覚教室で、あの類いの8mmフィルムを上映をすると言うのです。『みんなと一緒に準先生もどうですか?』と誘うではありませんか。

 かつて、そんな世界を彷徨っていた自分でしたが、教職者には無縁の世界のことだと思っていたのとは違う、あの女子校の教員たちの現実は、確かに職業とは無関係なことであっても、教育に命をかけようとしていた私とは別世界のことでした。生徒を教える教室で、あんなものを見ようとする彼らに驚き、怪しんだのです。二度と再び、吐き出した汚物の中に戻りたくなかった私でした。そんな魔界の誘いを唾棄する様に断りました。

 私は、それまで素晴らしい教師に恵まれて教えられ、矯正されたので、教育者となる機会が与えられて、この道で生きていく決心をしていたのです。そして将来は、その学校の系列の短大で教え、ある大学で講座を持てる様に道筋が、恩師によって、その青写真ができ上がっていました。しかし、私の願いではなく、神は、私を伝道者の道に導かれたのです。聖霊に満たされる以前に、伝道の道に生きる願いなど微塵もありませんでした。ところが、聖霊のバプテスマを受けた瞬間に、教会の主は、私の思いに中に、福音に仕え、教会に仕える様に導き、強い願いを起こされたのです。
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 翌年の夏休みに、結婚したての家内と、同世代のご夫婦と、当時、九州熊本の地で、友人の宣教師がアメリカに帰国中の教会のお世話のためにおられたA宣教師を訪ねたのです。その滞在の期間中に、青年キャンプが行われ、前もって、そのキャンプで、若いみなさんにお話をするように頼まれていました。それで、「箴言」をテキストに説教を準備して出掛けたのです。私の最初の説教は、熊本でなされたのです。それを終えて帰京しまして、しばらくして、その宣教師も東京に帰って来られたのです。

 この方が、東京を離れて別の街で開拓伝道をすると言うのです。伝道者の訓練を受けながら伝道の助手をしながら、彼から学ぶ様に、献身を挑戦されました。その頃、共に伝道者として仕え、助け手となれる一人の姉妹と、すでに結婚していました。翌年には子供が生まれる予定でした。また責任上、もうしばらくその学校で働くことにしたのです。家内と共に、主と教会に仕えるため、私は、その招きの応じて、躊躇なくその学校を、その年度で依頼退職しました。ある方が、転職していく私に、『教会の伝道者になるって、そんなに儲かるんですか?』と聞いてきました。儲かりませんでしたが、人に物を乞うことなどせずに今日を迎えています。真の自由人となった実感を得たのです。

 ある時、銀座にある教文館の社主を訪ねたのです。この方は父の友人でした。戦後、アメリカから宣教団が来日されたおり、しばらく通訳をされて、日本中の諸教会で奉仕された方でした。私が宣教師と一緒にいて、個人的な訓練を受けていること知って、『宣教師と一緒にいたってだめだよ。僕の神学校で学びなさい。奥さんは、系列の保育園で教えたらいい!』と誘ってくれたのです。つまり東京神学大学に推薦すると言ってくれたのです。私はパウロがテモテを育てた様な、初代教会方式に導かれていたので、その推薦をお断りして、家族と宣教師の元に帰ったのです。

 これが私の暗闇の世界からの《exodus/エクソダス(出国とか脱出)》でした。あの学校の現実がなければ、また、あの兄の強引な働きかけがなかったら、その決心は鈍っていたに違いありません。それもこれも、憐れみと恵みに満ちた神の接近だったの違いありません。そんな中での聖霊体験だったことになります。
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 「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。(1テモテ1章13節)」

 喧嘩ばかりし、堕落の道をつき走って、奈落の底に落ちかけていた私の暴走を押し留めた聖霊体験でもあったのです。母に宿った信仰を受け継いで、受けた恩寵は計り知れません。聖書信仰も贖罪信仰も、子とされることも義認も聖化も、やがて栄光化されることも、浸礼も聖霊のバプテスマも、復活も再臨も空中携挙も千年王国も神の永遠の統治も、教えられた様に、学んだ様に信じられているのです。

 「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。 (哀歌3章22節)」

 滅びかけていた私に働いた力は、多くの罪人を聖徒としてきた聖霊の御業に違いありません。一方的な恩寵、無価値な者への憐れみ、絶望していた者への将来への啓示でした。あの兄の家の留守番に誘われたことも、兄夫妻の愛に動機付けられた策略だったのを後で知りました。出世や成功を夢見て生きていこうとしていた私を、兄夫妻に、まんまと嵌められて、いえ、神の憐れみの差配、導きによって変えられ、生かされ、そして文句なしの今があります。

 あのA宣教師のもとに8年間いました。それは、私の厄介な「日本精神」を取り扱う日々だったのです。子どもの頃の ” give me chocolate!” 世代の過去を、少年期から青年期にかけて、「恥」に思い出されて、アメリカ人への敵対や憎しみが湧き上がって来たのです。そんなことを子どもの頃にしてしまったのを、後悔したわけです。それでアメリカ兵に喧嘩を挑んだり、アメリカ人への不遜な態度を露骨にして、その過去の恥をすすごうとして躍起になっていたわけです。アジアに侵略を仕掛けるヴェトナム戦争を繰り広げるアメリカと米兵を憎みました。

 そんな私への聖霊の取り扱いは、続いたのです。私の中の「日本精神」を、A宣教師は初めから見抜いていたのです。彼への反抗、悪い態度があって、関係の決裂の危機にありました。断られましたが、愛媛県にいた老牧師を訪ねて、弟子志願したこともありました。そんな時、兄や、静岡県下にいたB宣教師が仲介してくれて、決裂を避けることができました。やがて、変えられた私に、宣教師は、教会の責任を任せて、他の宣教地に移って行かれたのです。

 神学校ではなく宣教師、しかもアメリカ人のもとで学び、訓練を受ける決断をさせたのも、神さまの働きだったに違いありません。あんなに嫌っていたアメリカ人のもとに、8年も踏み留まらせたのは、私の内に潜むものを、神さまが取り除くためであったのでしょう。それがなければ、中国での13年はなかったに違いありません。

 明治生まれの父も、クモ膜下の出血で入院中に、期待を裏切られた長男に導かれて、信仰を告白したのです。『俺の腰から出た息子が聖職に就いたのか!』と、期待への反面を、母に、そう語ったのだそうです。間もなく、入院先で脳溢血で亡くなりました。その兄の最初の葬儀の司式が、父でした。遂に妻の積年の祈りに、神さまが応答されて、永遠の命の救いを、父も受けられたのです。幼い日、父は、祖父に連れられて、横須賀市内の教会に連れて行かれていたそうです。それででしょうか、「主我を愛す」を、炬燵に横になりながら口ずさんでいたことがよくありました。

 一人の信仰者への溢れるほどの恩寵が、夫と子どもたちを「救い」に導いたことになります。いえ憐れみと恩寵に満ちた神さまによったのです。今も感謝が尽きません。以上が、私の魂が解き放たれた信仰上の歩みなのです。

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80年代

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 この写真は、写真家の秋山陵二氏が、1980年代の中国で、子どもたちを写したものです。写真集「你好小朋友」に掲載されていて、中国のサイトに載っていたものです。40年も前ですから、この少女は今では五十代になっているのでしょう。

 図書室の壁際に座った少女が、書物に目を向けています。室内の照度も佇まいも八十年代の中国を感じさせられるのです。彼女の頭の上の壁には、読書する少年少女の絵が掲げられ、読書や学習の奨励がなされています。また、その上には、「静」と書かれた漢字が掲げられています。『静かに過ごしましょう!』と勧めているのでしょう。物音のしない室内で、彼女がじっと見入っているのは、どんな本なのでしょうか。
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 華南の街で、師範大学の古い教員住宅に住んでいた時に、となりの家の小学一年生が、大学教授を退官したおじいちゃんの指導で、こんな写真の様に、宿題をしていました。石の台を机にしていたのです。もう今頃は大学生になっていることでしょう。
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 買い物も、配給券を持って、この様に並んで食料品や日用品を買っていました。その後、日本のスーパーが、大都市に出店し、今では個人経営の大型ショッピングセンターが、全国展開しています。私たちのお世話をしてくださったご婦人も、よくこうして並んで買い物をしたと、子ども時代を語ってくれました。
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 上手にポーズをとって、撮影者の前に、この少女は立っています。キラリと輝いた目を見せています。素晴らしい将来を、こんな眼差しで見て、子ども時代を生きていたのでしょう。ずっと、こんな目で、自分の祖国が変わっていく様子を見続けたて行ったことでしょう。まさしく、今や豊かな国が出来上がっています。
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 お父さんの愛が、十二分に注がれて、屈託無く生きているのが分かる子どもたち、兄弟です。ヒョウキンに戯けていたり、やんちゃな表情を見せていますが、そんな子どもたちに、優しい目を向けているお父さんがいて、この子たちは幸せそうです。もう社会の中堅として活躍している世代になっていることでしょう。
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 この様な街の様子は、もう、どこへ行っても見られません。煉瓦の家は壊され、高層アパートに立て直され、自転車は少なくって、電動自転車と車が、ビューンと走り抜ける様になりました。道路の整備も、瞬く間に出来上がっていき、高速網も高速鉄道網も、全国展開しています。物質文明の渦中に、今や中国もあるのです。

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ありがとう!

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 四月、和名で「卯月」になりました。作詞が佐々木 信綱、作曲が小山 作之助の「夏は来ぬ」、暦の上では、「卯月」は夏の月になりますが、実際には、日本人にとっての「実感の春」の月になります。先週、日光の山里で、鶯の鳴く音を聞きました。

1. 卯の花の におう垣根に
ほととぎす 早も来啼きて
忍音もらす 夏は来ぬ

2. さみだれのそそぐ山田に
早乙女が 裳裾ぬらして
玉苗植うる 夏は来ぬ

3. 橘の かおる軒場の
窓近く 蛍飛びかい
おこたり諌むる 夏は来ぬ

4. 棟ちる 川べの宿の
門遠く 水鶏声して
夕月すずしき 夏は来ぬ

5. 五月やみ 螢飛びかい
水鶏なき 卯の花咲きて
早苗植えわたす 夏は来ぬ
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 三月が「別れ月」なら、四月は「出会い月」でしょうか。島崎藤村が作詞、作曲の「惜別の歌」があります。藤村の「若菜集にある「高楼(たかどの)」の詩に、藤江英輔が曲をつけましたが、原詩は次の様です。

  高 楼
 
わかれゆくひとを をしむと こよひより
とほきゆめちに われやまとはん

   妹
 
とほきわかれに たへかねて
このたかどのに のぼるかな
かなしむなかれ わがあねよ
たびのころもを とゝのへよ
 
   姉

わかれといへば むかしより
このひとのよの つねなるを
ながるゝみづを ながむれば
ゆめはづかしき なみだかな
 
   妹

したへるひとの もとにゆく
きみのうへこそ たのしけれ
ふゆやまこえて きみゆかば
なにをひかりの わがみぞや
 
   姉

あゝはなとりの いろにつけ
ねにつけわれを おもへかし
けふわかれては いつかまた
あひみるまでの いのちかも

   妹

きみがさやけき めのいろも
きみくれなゐの くちびるも
きみがみどりの くろかみも
またいつかみん このわかれ
 
   姉

なれがやさしき なぐさめも
なれがたのしき うたごゑも
なれがこゝろの ことのねも
またいつきかん このわかれ
 
   妹

きみのゆくべき やまかはは
おつるなみだに みえわかず
そでのしぐれの ふゆのひに
きみにおくらん はなもがな
 
   姉

そでにおほへる うるはしき
ながかほばせを あげよかし
ながくれなゐの かほばせに
ながるゝなみだ われはぬぐはん
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 春が、ウキウキするのは、新しい出会いがあるからに違いありません。私にとっては、生涯の伴侶との出会い、1971年4月4日、神さまの前に誓約をして、結婚式を挙げました。まさに《男子佳人との出会い》、それは私にとっての人生最高の出来事だったのです。

 その日から五十年が経ちました。キンコンカンの鐘の音が聞こえそうな「金婚」に漕ぎ着けたのです。その日から今日まで、全く家内が、私の七の七十倍ほどの忍耐をして、共に過ごした年月だったと言えます。何よりも素晴らしいのは、四人の子に恵まれたことです。聖書的に言うと次の様です。

 「幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。(詩篇127篇5節)」

 戦に出るわけではありませんが、四人四様に、矢筒(家庭)から放たれて、それぞれの矢の落ちた地で、この世との闘いの中で、「恥を見ることがない」生を生きています。それぞれに素敵な配偶者と出会って家庭を作り、社会的な責任を果たしているのです。ただ「ありがとう!』の四月、人生上の真の「入学式」の月、佳き日でした。

(卯の花、小諸城址、毛利家の矢筒です)

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