メール

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昨日、東京に留学している学生さんからメールがありました。『東京は梅雨の季節に入って雨がずっと降っています。』と知らせてくれました。それで、「雨」の歌を思い出したのです。作詞が北原白秋、作曲が弘田龍太郎で、1918年に発表されています。

1 雨がふります 雨がふる
遊びに行きたし 傘はなし
紅緒(べにお)の木履(かっこ)も 緒が切れた

2 雨がふります 雨がふる
いやでもお家で遊びましょう
千代紙折りましょう 疊みましょう

3 雨がふります 雨がふる
けんけん小雉子(こきじ)が今啼いた
小雉子も寒かろ 寂しかろ

4 雨がふります 雨がふる
お人形寢かせど まだ止まぬ
お線香花火も みな焚(た)いた

5 雨がふります 雨がふる
昼もふるふる 夜もふる
雨がふります 雨がふる

「雨あがる」という映画を観たことがあります。大雨で、川止めになった旅人たちが、河畔の安旅籠(やすはたご)で過ごす数日を描いたものです。この「川止め」は、徳川幕府が、主要な河川に首都防衛のために、橋の架設を禁止していましたから、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠まれたように、ことに大雨の川は難所でした。

連日の雨降りで、旅を続けられない逗留客の間で、諍(いさか)いが起き始めるのです。『食べ物を盗んだ!』などと罵ったり、狭い空間に閉じ込められていますから、ある人は我慢の緒が切れてしまうのです。そんな遣る瀬無い状況の打開を願って、貧乏侍が、町の剣道場に行って、「賭け試合」をするのです。果し合いに勝った侍は、酒に魚に米など食材を買って、みんなの元に戻り、『さあ、みなさん、景気直しに一杯やりましょう!』と言って、宴を設けるのです。

その晩は、飲めや歌えで盛り上がり、雨降りの憂さを晴らすのです。『実に腰の低い、いいお侍さんだ!』と感謝されます。江戸期の庶民の、なんでもない数日の描写ですが、本当に、そんなことがあったに違いないと思わされる佳作でした。こちらは雨季が終わり、本格的な夏の到来です。今日も暑い一日かな!

(写真は、相模の国、神奈川県下を流れる「相模川」です)

珈琲館

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時々見かける光景です。それも同じような光景なのです。若い男女が、喫茶店でテーブルのコーヒー・カップを前に座っている、どこの国の街でも見かける光景です。

そう言えば、最近、この街でも喫茶店が増えているのです。以前は、師範大学の正門の道路を挟んだ反対側の貸店舗にあっただけで、ほとんど見かけませんでした。その近くに住んでいましたので、たまに入って、外国人の教師仲間と話したり、誘われたりして利用していました。街中で人と会ったりする空間が少なかったので、最近は、あちこちに出店していて、とても便利に利用させてもらえるのです。日本やアメリカの大学生がノートやパソコンを開いたりして、日がな座り込んでいるのを見かけたのですが、ああ言った光景を目にすることができます。

そう、若者たちでした。彼らは、じっと見つめあったり、話し合ったりしていないのです。何をしてるのかと言うと、「手机(携帯電話のことです)」の画面を覗き込んでいるのです。あんなに話し上手の中国人ですのに、会話がないのです。いえ、ジロジロと羨ましそうに眺めているのではありません。通りすがりに目に飛び込んでくる光景なのです。とくに男性が、そうしていますし、たまに二人ともそうしています。せっかく一杯15〜20元のコーヒー代を、二人分払っても一緒にいたい好きな人なのに、『何をしてるんだ!』と言いたくなるほどです。

二人だけの世界にいるのに、別々なことをしているのが、とても気になるのです。数十年前の若者時代、駅のそばに「ルノアール」というチェーン店の喫茶店がありました。帰国時に、新宿と恵比寿で見つけましたから、どこにでも、今でもあるのですね。学校帰りに、映画を見た後とか、試験前にはノート写しとかで二人で、または7、8人で話し込んだりしていました。ケイタイのない時代ですから、目と目を合わせて、なんとか自己アピールをしなければならないわけです。懸命に薄っぺらな知識やニュースを話題に話していたのだと思います。

あれは<古き好き時代>だったのでしょうか。機械に振り回されなかったからです。今日日、ケイタイやPCが主人になってしまって、酷使されている奴隷のように感じてしまいますし、ケイタイが<恋人>になっているような雰囲気が漂っています。これって、世界中の傾向のようですね。『人生を共にしたいほど好きなら、生きている恋人を優先せよ!』 昔の若者より。

(写真は、美味しいコーヒーです)

昨日今日の中国

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住んでいるアパートは七階建てで、一番下は貸店舗か駐車や駐輪スペースになっていて、一棟40所帯ほどです。それが40棟あります。大通りに面したものは27階建てが幾棟かありますから、単純計算をして見ますと、ざっと1800所帯ほどあるのです。それほどの規模のアパートは、「⚪️園」と名前がつけれれていて、私たちの区に、何十とあるのです。今も建築中で、小学校までもが九月の開校を期して建築中です。それだけの所帯の数ですから、人口の多さも相当なものになることでしょう。

そこに二年ほど前に、中国中に展開している「ショッピングモール」ができました。金曜日と土曜日の夜は、ものすごい人の波が、このモールに押し寄せ、押し出されています。世界中の有名ブランド名の店がひしめき、レストランも半端なくあるからです。その集客力、購買力を引き込もうと、その並びに、少なくとの二つの新しい「ショッピングモール」が、建築中で、一つは、九月開業だそうだそうです。

今や一大ショッピングエリアになってきています。全中国で二番目の売り上げがあったと聞いているモールです。でも、我が家は反対側の端にありますので、騒音はそれほどではありませんが。夕方になると大変なのが、車の渋滞です。片側三車線あるのに、モールができてからは、日に日に車が増えていることと、この大通りの先に、幾つものアパートができていますので、大変な状況です。交通規制や工夫がないと、どうにもならなくなってしまうのではと、外国人ながら憂慮しています。

それに、地下鉄の第一期工事が終わると、近くを通る第二期の地下鉄工事が始まるそうですし、市政府の庁舎も移転してくるとも聞いています。一体どうなることでしょうか。計画されてから、土地の持ち主との折衝と言った厄介ごとをしないで済むので、なんでも早いのです。日本では考えられないことです。

所用を済ませて、このモールで食事をしましたら、昨日の日曜日は、欧州の自動車メーカー(日本も含めて)の販売会社が、モールの催し場と一階のスペースで、モーター展示会を行っていました。家族連れが、乗り込んだり、説明を聞いていました。さながら日本の30年前のような光景です。でも人の多さからしますと、考えられないほどの数の車が、すぐにでも路上を走り始めることでしょう。豊かになってきているのを肌で、ひしと感じている昨日今日の中国です。

(写真は、大型のショッピングモールです)

喧喧諤諤

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「長幼の序」という言葉があります。年少者は年長者に、一歩も二歩も譲ることなのでしょう。ただ一日でも日数が多い人は、それだけ経験したことも多くあると言った意味で、『<一日(いちじつ)之長>がある!』と言います。goo辞書によりますと、「《「孟子」滕文公上から》年長者と年少者との間にある秩序。子供は大人を敬い、大人は子供を慈しむというあり方。」とありました。

週末の土曜日になると、小学生から大学生たちが5~6人、我が家にやって来ます。家内が日本語を教えているからです。授業の合間や終わった後に、彼らの話を聞いていて、新発見をしたのです。こういった場面は、これまでなかったからです。小学生が、大人でも大学生でも、彼らを相手に話をする時に、怖じたり遠慮したりしないで、しっかりと自己主張をしているのです。

自分が小学生の頃、大人の話し合いは、ただ聞いているだけでした。その話に口出しをすると、ジロッとみんなに睨まれて、『子どもは黙っていなさい!』と牽制されるのが落ちでした。そう言った社会でしたから、新中国の社会は、思ったことや感じたことを、率直に言い表せる社会なのだということを知って、感心させられたのです。

これは何時か読んだ本に書いてあったことですが、かつての中国でも、経験の少ない若者が、意見を言う機会があったのだそうです。位の高い人や年長者は、それを制止しないで、じっと聞いたのだそうです。建設的な意見なら、それを汲み上げて、高く評価をしたようです。若いからと言った理由だけで、無視しなかったのが、中国の社会だったのです。

92歳の方が、87歳の人に、『君、まだ若いなあ!』と言うのを聞いたことがありました。二人とも相当な年齢、同世代なのに、一歳でも二歳でも年下の人には、そう言った物言いをするのが、日本の社会の序列、人間関係なのだと再確認したわけです。

だからでしょうか、自己主張と言った点で、日本人は中国のみなさんに叶わないのではないでしょうか。人の話を聞いている間、『何を話そうか?』と、中国人は考えているように見受けられます。だから喧喧諤諤(けんけんがくがく)、あちらでもこちらでも話が交わされ、賑やかなのです。同席している私たち日本人は、聞き役に徹してしまうのです。遠慮ばかりではいけないと感じた昨日の土曜日でした。

(写真は、”ウイキメディア”の「万里の長城/発達嶺」です)

初耳

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中学校3年の国語の教科書に、「二つの悲しみ~戦争が残した出来事~」という一文が掲載されています(光村図書)。戦後、千葉市稲毛にあった「引き揚げ援護局」に勤務されていた、杉山竜丸氏が記したものです。昨年の7月に、その全文を、このブログに掲載しました。学校教育の中で、15歳になる中学生に、こう言った種類の「悲しみ」があることを伝えているのを知って、感じることが多くありました。

感じ入った私は、昨年度と今年度、二年に亘って、この文章を使って、日本語学科の学生のみなさんに作文をしてもらっているのです。息子をなくした父親の悲しみが、一つ目の悲しみです。肩を震わせて慟哭する父親の姿が印象的でした。また、食べ物が欠乏し、弱くなっていた祖父母に頼まれて、小学校3年生の少女が味わうのが、二つ目に悲しみです。メモを手に援護局にやって来ました。母親をなくした少女は、父の戦死の知らせを、この作者から聞くのです。『泣いてはいけない!』、二人の妹もいて、『しっかりしなくてはいけない!』と言われて来たのです。目に涙をいっぱいにしても、じっと我慢をして聞くのです。

戦後の日本で、こう言った経験をした人がいたことは、中国で教育を受けてきた学生にとっては初耳、新発見だったようです。「悲しみ」への共感を記していました。そういえば、私の小中高大のどのクラスには、「父なし子(ててなしご)」が何人もいました。<時代の子>なのです。彼らは、どのように戦後を生きてきたのでしょうか。お母さんが、八百屋の手伝いをしながら育てられていた「ターボー」はどうしてるのでしょうか。おじいさんとおばあさんに育てられていた「ショウチャン」、お父さんの遺品の帽子をかぶってチャンバラをしていた「ジュン」はどんな今を過ごしてるのでしょうか。

学生のみなさんは、「平和」、「和平」を希求しているのです。二度と再び、あのような「悲しみ」を味わうような時がこないように、切望しているのです。武力、軍事力を持つことによって、相手を威嚇し牽制することでしか保たれない「平和」なのでしょうか。刀をちらつかせる以外に、交渉できない外交なのでしょうか。驚くほどの科学的な思考をしている現代人もまた、愚かなのかも知れません。それでも、「地に平和を!」を願う<ハナキン>の夕べです。

(写真は、”ウイキメディア”、平和のシンボルの「ハト」です)

衣替え

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この土曜日に、『一緒に食事をしましょう!』とのお招きで、指定のレストランに公共バスに乗って行きました。バスを降りて、先に郵便ポストで手紙を投函したのです。その道のどこでだったでしょうか、上半身裸の男の人を見かけました。もうすっかり夏が到来したのだと思わされたのです。ここ華南では、時々見かける光景なので驚きませんが、みなさんの服装が小綺麗になり、色鮮やかさがましている中での裸は、ちょっとそぐわなくなってきています。私が長く過ごした日本の社会では、六月一日は、「衣替え」です。制服を着る学生や警察官のみなさんは、冬服から夏服に替える時なのです。

こちらのみなさんは、裸(最近は少なくなってきています)、Tシャツ、長袖、コートなど、実に自在に服装を選んで生きておられます。人によって気温の感じ方が違うのですし、社会制約もありませんから、自由でいいなと思います。それに引き換え、日本では、カンカンに太陽が照りつけているのに、黒の学生服を我慢してきている様子を、以前はよくみかけました。

日本で励行されている「衣替え」も、実は中国の宮廷で行なわれていた習慣を、日本の社会が受け入れて、6月1日から9月30日までが夏服、10月1日から3月31日までが冬服の着用期間になったわけです。地球温暖化、社会の多様化の中で、制服を着なければならないみなさんは、自由にはできないわけです。髪を切って、指定の制服に帽子と黒革靴、ズックの肩掛けカバンで、中学に入学しました。詰襟が、アゴにきつかったのですが、『もう子どもじゃないぜ!』と自覚が湧いてきたのを思い出します。

そう言えば、こちらの大学の先生たちの服装も自由でいいと思っています。これからはジーンズ、七分丈のズボン、ポロシャツ、Tシャツの方がいらっしゃいます。ですから私もネクタイなど締めなくなってしまいました。『来学年は、きちんとしよう!』と思っているのですが、果たしてどうでしょうか。でも空調の備わっていない教室もありますので、教室が決まってからのことになるでしょうか。冬には、厚手のコートは必需品ですし。

しかし、最近の若いみなさんの服装は、渋谷さながらで、秋葉原のファッションで身を飾っている若い女性もおいでです。女性のスカートの着用が、ずいぶん多くなっているのに気付かされております。それにひきかえ、『男性がお腹を出して歩くのだけはやめて欲しいのです!』、そう小声でお願いしておきます。そう、ご馳走になった、イタリアのローマで、日本人の板前に教わった店主の握ってくれた「江戸前ずし」は、とても美味しかったのです。

(写真は、”ウイキメディア”による「にぎり寿司」です)

20回目の家

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生まれてから今まで、住んだ住所を正確に数えて見ました。20ありました。父と一緒に5回、父から独立して今まで15回になります。それは荷造りをし、荷ほどきを繰り返した引越しの回数になるのでしょうか。生まれた家は、いつでしたか、母と兄たちと訪ねた時に、『ここであなたと徹ちゃんが生まれたの!』と、母に教えてもらって分かったのです。沢の谷間で、参拝客を止める旅館の離れで、日当たりの悪い家だったのでしょう。長く人が住まなかったので廃屋のようでした。それからだいぶ経って再訪した時には、崩れ落ちていました。

記憶が深いのは、八王子から越した街でした。そこで二十歳まで住みました。小中高大と、両親と二人の兄と弟と一緒に暮らしたのです。居室が二間と茶の間と台所の小さな家でした。そこに父が風呂場を大きく拡張していました。よく6人もで住んでいたと感心してしまうのですが、それだけ家族の距離が、物理的にも心理的にも近かったことになります。4人で喧嘩を繰り返した家ですが、それででしょうか、今も四人兄弟は人が羨むほど仲が好いのです。

所帯を持ってからでは、生まれ故郷と同じ街に引っ越して、一番下の息子が生まれてから、6人で過ごした家でしょうか。三間と台所で、道路を挟んで事務所がありました。一時期は、そこで10人で生活していたことのある家です。豊かではないのに、人の世話をやいて、同居者を迎えていたのです。近所のみなさんには、随分とゴチャゴチャと賑やかで、迷惑だったことでしょうか。子どもたちも、きっと思い出深い家ではなかったかと思います。

そういえば、長男が生まれて産院から退院してすぐの夜に、国道の工事中にガス管が破れて、消防士に『避難してください!』と言われて、着の身着のまま、長男を入れた衣装ケースを左手で抱え、家内の手を引いて逃げたこともありました。また、上の階でガス爆発の火災があって、被災したこともありました。3人の子と下の子がお腹にいた時でした。命からがら奇跡的に守られたのです。『引火しなかったことが信じられません!』と、現場検証をしていた消防士が言っていましたから。まさに、二回も火の危険の中からの<エクソダス>があったことになります。

20回目の家は、友人の同僚が、ご両親のために買われて、内装を綺麗にしてありました。でもご両親は田舎が良くて、越してこないまま空き家だったのを、お借りしたわけです。夜間の車や酔客の声がうるさいのが玉に瑕(きず)ですが、これまでのどの家よりも快適なのです。そんなこんなで感謝な日々を過ごしております。ご安心ください。

(写真は、前に住んでいた家の裏庭に咲いていた「花」です)

水無月

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「水無月」、六月の別名です。「梅雨」の時期をこう呼んだのには、訳があったのでしょうか。旧暦ですと、「五月」が梅雨の季節であったのですが、この「五月」を「皐月(さつき)」と言いました。梅雨の時期なのに、「皐月晴れ」と言ったわけです。雨の止み間の晴れのことだそうです。そう呼び始めた人は、「皮肉」で言ったのだと思ってしまったのですが、ちょっとネットの「語源由来辞典」を見ることにしましょう。

「水無月」は次のようにあります。「水の無い月と書くが、水が無いわけではない。<水無月>の<無>は、神無月の<な>と同じく<の>に当たる連体助詞<な>で<水の月>という意味である。陰暦六月は、田の水を引く月であることから、<水無月>と言われるようになった・・・」とありますが、後者の説の方が当を得てるようです。

「皐月」は次のようにあります。「<耕作>を意味する古語の<さ>から、稲作の月として<さつき>になった。<早苗>を意味する<早苗月>が約され<さつき>となった説もあるが、<早苗>の<さ>も耕作の<さ>が語源とされる。漢字<皐>には<神に捧げる稲>の意味があるため、<皐月>が当てられたと思われる。」とあります。

今日は快晴ですが、熱風ではなく、午後の帰宅したての部屋の中を通って行く風の動きは、爽やかで気持ち好いほどです。なるべくNHKのニュースを、ネットで聞くことにしてるのですが、昨日は、熱中症で救急搬送された方が大変に多く、亡くなられた方もいたと言っていました。これから梅雨、夏を迎えますが、去年の様な暴雨や異常高温にならないようにと、心から願っております。

こちらは、昨日から「児童節」、「端午節」の三連休です。朝でかけての帰りの道は、随分と混んでいました。遠出をしない家族連れの車が、町の北方にある近場の「森林公園」と「動物園」に行くのでしょうか、渋滞していました。お父さんたちは、子どもに、『どこか連れてって!』と言われて、家族サーヴィスの日になっているのでしょうか。その車の列を眺めながら、子どもたちを乗せて、あちらこちらと出かけた日々が、とても懐かしく思い出されたのです『お父さん、<イカの串焼き>買って!』と四人に言われて、『ダメ!』と言ったことが悔やまれてならないのです。もう二度とやってこない機会ですが、もし、また言われたら、財布の中を覗かずに、『いいよ、腹一杯食べな!』と言って奮発しようと思っている、「六一」の夕方です。

(写真は、”クックパッド”から、子どもたちが食べたかったのとはちょっと違う「イカの串焼き」です)

本籍地

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家内の独身時代の本籍地は、「東京都文京区湯島切通坂町」です。東京のど真ん中になります。江戸時代には、この近くに「昌平坂学問所」がありました。この学問所は、「昌平黌(しょうへいこう)」とも呼ばれ、1790年に、五代将軍・徳川綱吉の時に、徳川幕府直轄の学校として開所しています。当時の最高学府が、ここにあったわけです。明治維新以降は、東京大学、東京師範大学(現在に筑波大学)、東京女子師範大学(現在のお茶の水女子大学)に繋げられていきます。「昌平」とは、孔子の生地である「昌平郷(山東省曲阜)」にちなんで命名されているそうです。徳川幕府が、「論語」などを著した孔子に学ぼうとしていたことが分かり、日本の学問のルーツは、やはり中国にあるのです。

一方、私の本籍地は、「島根県出雲市今市町」です。日本有数の宗教色の強い街なのです。父は、母の住所を本籍地として選ぶほど、山陰の街への肝入りが深かったようです。独身時代の父は、松江や出雲で仕事をしていて、そこで母と出会ったようです。近所の若者を連れては、近所の小川に入って、「ドジョウ」を獲るのが好きだったそうです。それででしょうか、『雅、浅草へ柳川を喰いに行こうな!』と、何度も言ってくれました。しかし、それは<空手形>の約束で、果たさないまま父は天に帰って行ってしまいました。

こちらのスーパーには、ナマズやカエル、そしてドジョウが売られております。みなさんは、どう調理して食べるのでしょうか。実は日本で、上司にご馳走になって、一度だけ、<ドジョウ鍋>を食べたことがありました。骨が苦手で、美味しいと思わなかったのです。ですから、父の約束不履行に対して、責めるよりは、『かえってよかった!』と思っているほどです。

私の本籍地は、所帯を持った時に、間借りしていた家の街にしてあります。あれから何度も何度も引越しをしているので、戸籍の抄本や謄本を取り寄せるのに不便を感じながらも、そのままにしてあります。簡単に、本籍地を移せるのだそうですが。

日本から持ってきた重要書類に中に、家内と私の「戸籍抄本」があります。結婚した時に、届け出をするために取りせた二通の残りの一通です。パスポートがあれば十分なのに、なぜ持って来たのか不明なのです。それで先日、「国籍」が話題になって、こちらの方に、それを見せて上げたのです。不思議そうに、<青焼きの抄本>を眺めておいででした。当時は、ゼロックス式の普通コピーのなかった時代ですから、<青写真>なのです。

一体、故郷とはどこなのでしょうか。生まれた村でしょうか。そこは係累が誰も住んでいない村です。村の名称も変わってしまっています。それとも、小学校時代を過ごした街なのでしょうか、家のあった所には、中央道が走っています。それに父母もいなくなっています。そうか、きっと「天」に、私の故郷があるに違いありません!そこに帰って行くこと、それが私の希望なのだと思っている、異国の空の下の週末であります。

(写真は、「町名を探す会」の家内の本籍地の附近の住居表示です)

学び

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1563年に、ポルトガル人のルイス・フロイスが、日本を訪ねています。31歳で、長崎に上陸したのです。足利義輝の治世下でした。やがて織田信長、豊臣秀吉の時代にも日本で過ごしております。滞在中に、「日本通信」、「日欧文化比較論」、「日本史」を著しており、当時のヨーロッパに日本を紹介したのです。フロイスは、日本人について、次のようなことを言い残しています。

『日本人は、西洋人に匹敵する優れた民族である。この国の人々の性質や特質を思う時、布教に関わる喜びを禁じえない。純真で、素直で、よく言いつけを守り、飲み込みが早い。しっかりと規則を守っている。少しも無駄のないスケジュールで言葉を学び、文学、声楽、音楽の勉強に励んでいる。学ぶことにかけては天賦の才のある者ばかりだ。』とです。当時の日本人が、高い特質を持っていたことを語っているのです。

今の日本人は、500年も前と変わっていないことになりそうです。大航海の時代に入って、ヨーロッパの国々は、アジア、極東の国々に強い関心を向けていた時代でした。新しいことに興味を持ち、<進取の精神>に富んでいた青年たちが、異国の文化に目を輝かせて学んでいたのでしょう。確かに日本人は、かつては荒波を越えて出掛けて行って、中国に学んでいます。その後、ポルトガル文化に触れ、鎖国時代を経て、明治期になってからは、欧米諸国から学び取ろうとする貪欲なまでの知識欲が溢れていたようです。

<良いもの>を受け入れるについては、人種とか国家とか言語の違いを超えて拘わらなかったのです。それで、遅れを取り戻すのが早かったわけです。日英同盟を、1902年に締結していますが、このことは日本にとっては画期的なことだったのです。三等国が、一等国のイギリスと肩を並べられたからです。明治維新から30年で、それほどの国際地位を得たのです。どうもその自信や誇りが、大陸進出やアジア制覇への道に進ませたのでしょう。

まだまだ、私たちは学ぶことがあるに違いありません。かつてのように、波濤を越えて、門を叩いて新しいことの学びを請うたように、あの時の謙虚さに戻る時かも知れません。相手を知ることが、己を知ることなのです。私は、こちらに来てから、言葉だけではなく、私にない優れたものをお持ちのみなさんから、多くのことを学ぶことができました。感謝なことであります。

(写真は、”ウイキメディア”による、四川省成都にある「詩聖・杜甫像」です)