日々是好

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アパートの南側に、大家さんの田圃が、大家さんの住宅と挟んでありました。結構広くて、向こう側に見える大家宅が小さく見えるほどでした。田圃に水が張られ苗が植えられると、「大合唱」が始まるのです。そうです、蛙の鳴き声々です。幾重にも重なって、『グウオー、グウオー!』と聞こえてきました。この自然界の音というのは、決して騒音ではないのです。『すごくけたたましい和音だ!』と思っているうちに、子守唄に変わるのでしょうか、すぐに眠りに落ちていきました。

この水曜日の夕方、知人の家に行きました。その高級アパート群の正門の横に噴水があり、水が張られてありました。そこから、あの懐かしい、蛙の鳴き声がしてきたのです。雨期で、どこからやって来たのか、もともとが農耕地だったところで、子孫が帰郷して来たのかも知れません。こちらに来てから初めて気づいた鳴き声でした。それで、小さかった子どもたちといっしょに過ごした日本での生活の一コマを思い出したのです。

そういえば、この辺りには田圃が見られないのです。河を挟んだ旧市街に人が多くなって、郊外の農地が住宅に転用されて、アパートが林立し始めてきた地域ですから、農地は、さらに遠くに行かないと見られません。その農地も、郊外農業でしょうか、野菜の植え付けがほとんどです。朝早く、リヤカーを挽いたり、モッコで担いで、農家の人たちがやって来て、青菜や瓜を道端で売っているのです。

この辺りで、ついぞ見かけないのが、道路際にある「無人野菜販売所」です。子育てをしていた町の郊外に行きますと、野菜だけではなく、旬の果物が、プラスチックの袋に入れられて、百円、二百円と値が付けられて置いてありました。その横に「料金入れ」と書かれた箱も置かれていました。新鮮で美味しそうなので、よく買って帰ったことがありました。『そんなんで大丈夫?!』と思えるのですが、買い手をまったく信じていたわけです。

今朝は、真っ赤に熟れたトマト、キュウリ、バターとピーナッツバターとブルーベリージャムをつけたトーストに三角チーズ、それに紅茶、何時もの朝食でワンパターンなのです。美味しい日本式パンを、時々もらいます。何と昨晩は、ケーキも頂いてしまいました。アマンドやボンマルシェなどの老舗の味と遜色のない質と味なのです。ご安心ください。<喰う寝る遊ぶ>、そして仕事もボランティアもさせて頂いている日々を、楽しく生きております。

(写真は、”ウイキメディア”の「トマト」です)

ことば

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子育てをした街は、実に自然に恵まれた、いわゆる「自然の要塞」のようなところでした。夏の暑さと冬の寒さは、『暑いってこう言うことなのか!』、『寒いというのは温度の低さというよりは、山おろしの風とか底冷えを伴なうものなのか!』ということで納得させられたほど、はっきりと感じさせられたのです。春は春で溢れ、木も花も赤や緑や黄が色鮮やかで、目を楽しませるてくれました。秋は秋で満ち溢れていました。暮れなずむ頃には秋刀魚の煙がたなびき、とくに葡萄や柿が美味しかったのです。

台風が来ても、迂回してしまうのです。大雨が降っても、たびたび大きな被害をこうむったことから、防災の知恵に富んで、対策が講じられていましたので、河川が決壊するようなことはありませんでした。先人の知恵と努力の賜物に違いありません。人は保守的で、社会的には閉鎖性が強かったでしょうか、なかなか<よそ者>は受け入れてもらえなかったのです。でもいったん心が通い合うと、強い絆が生まれました。外部との交流が自然要塞で遮断されていたからでしょうか。

そこは私の生まれ故郷でもありました。今でも、自分で気づくほど、幼い日に覚えた方言の影響が、話し言葉に、ほんの少し残っているのです。運動会の競走は、『とべ!とべ!』と声がかかります。<跳ぶ>のですが、『走れ!』を<飛べ>と勘違いしてしまうようです。今住んでいるこの町の人々も、近隣の町や村から、仕事や結婚で移り住んでいる人が多いようです。携帯電話をとって話し始めると、<普通話>が、瞬間的に<ふるさと言葉>にシフトされてしまいます。話し相手が同郷人だからです。そうなると、100%分からないのです。この街にも特有の<方言>があります。

他郷の人に聞かれたくない話は、そうすることができるのです。『考えている時は方言ですか?それとも標準語ですか?』と、親しい方に聞きましたら、『十年近く留学して、日本から帰って来た当初は、日本語で考えていたんですよ!』と言っていました。でも一般的には、個人的な事は<ふるさと言葉>で、仕事のことなど公のことは<普通話>のようです。この方は英語も話せますから、言語環境は多様なわけです。私の父も母も、それぞれ<ふるさと言葉>を持っていたので、晩年は、生まれ育った当時に覚えた言語で、考えていたことでしょう。

子どもたちは家庭では<標準語>で、近所や学校は<方言>でしたから、育った街を出てしまった今は、どうしてるのでしょうか。思い出の中では<ふるさと言葉>、通常は<標準語>なのでしょうか。結婚してアメリカに12、3年いる次女は、夫や子どもたちを思っている時、両親や兄弟を思っている時、幼なじみを思い出す時は、思いの中で、それぞれ違った言葉を使い分けているのかも知れませんね。意思の伝達や思考のなかの言葉は、不思議なものを感じております。

(写真は、”ウイキメディア”から「ぶどう」です)

今週末

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山里から越してきて、落ち着いて住み始めたのが、中央線の日野駅を降りた、旧甲州街道沿いの家でした。その家の茶の間の一本の柱に、毎年、四人の背丈が刻まれていました。上の兄が、本とか箱を使って、三人の弟たちを測ってくれたのです。

海野厚が作詞をし、中山晋平が作曲をした「背くらべ」を歌うたび、そんなことを思い出します。

1 柱のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ
粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
はかってくれた 背のたけ
きのうくらべりゃ なんのこと
やっと羽織(はおり)の ひものたけ

2 柱にもたれりゃ すぐ見える
遠いお山も 背くらべ
雲の上まで 顔だして
てんでに背のび していても
雪の帽子(ぼうし)を ぬいでさえ
一はやっぱり 富士の山

その背丈を刻んだ柱を、記念に残そうと思ったのですが忘れてしまったのです。実は、この家が、「中央高速自動車道」のために立ち退かなければならなくなったのです。父に頼まれて、その家を解体したのが私でした。弟の同級生たちが手伝ってくれて、彼らの昼飯や夕飯、飲み物やおやつで、父からもらったお金は消えてしまったのです。で、その柱も焼却してしまいました。

父も母も、鯉幟をあげたり、武者人形を飾ったりして、「端午の節句(こどもの日)」の行事で祝ってくれませんでしたが、小綺麗に着せてくれ、栄養を考えて食事を作って食べさせてくれ、懸命に育ててくれました。日本では「異端」の家庭だったかも知れません。初詣とか、墓参りとか、盂蘭盆会だとかしませんでしたから。

どうして、月遅れのことを記事にしたのかと言いますと、今日、車で家まで送ってくれたご家族のお父さんが、『日本では、いくつまで子供の祝いをするんですか?』と聞いてこられたのです。こちらは、今週末から三連休の「端午節」だからです。児童福祉法とか学校教育法とか少年法などの「児童」、「少年」とかの年齢を、はっきり覚えていないので、適当に答えてしまったのです。

『端午節から、天気が安定してきますよ!』と、隣町出身のお母さんが教えてくれました。気候不順も解消するようで、よかった!

(写真は、”ウイキメディア”から、「端午の節句」に入る「菖蒲湯」です)

『君はどこにいる?』

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次の記事は、「感知中国」/2006年」に載っていた、「聶栄臻(NieRongzhen)元帥と日本人少女 美穂子ちゃん」の記事の転載です。
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1980年7月14日、北京人民大会堂で美穂子さんは聶栄臻元帥の手をしっかりと握り締め、涙を流した。40年間生き別れになっていた「父親」に会えたのだ。聶栄臻元帥も彼女の手を掴んで離そうとはしなかった。

1940年8月21日、戦闘を指揮していた聶栄臻将軍は、指揮下にあった部隊が戦火の中から両親を失った日本人の女の子を救出したという報告を受け、司令部にその子たちを連れて来るように指示した。聶栄臻将軍が、二人のうち年かさの女の子に優しく名前を尋ねると、女の子は「興子」と答えた。この年かさの女の子が美穂子さんである(後に美穂子に改名)。彼女の脅えた様子を見て、聶栄臻将軍は梨を取り出し、「このナシはちゃんと洗ってあるから、食べなさい」と、親しみを込めて言った。

「興子」ちゃんはやさしく接してくれる聶栄臻将軍に安心して近づき、ナシを受け取って食べた。聶栄臻将軍は、「敵は無数の同胞を残忍にも殺害したが、この二人の子供に罪はない。この子達も戦争の被害者だ。私たちはこの子達を保護しなくてはならない」と言い、二人を部隊で保護することを決める。聶栄臻将軍は、部隊を指揮しながら、自らの手で「興子」ちゃんに食事を与えていた。女の子も聶栄臻将軍を慕うようになり、将軍のズボンの端を握り締め、どこに行くにも影のように付いて行くようになった。敵味方を超えた愛情を注いだ聶栄臻将軍は、女の子の安全を考え、後に二人を日本の兵営に送り届けている。しかし、二人と別れた後も、聶栄臻将軍の脳裏からはあの小さな女の子のことが消え去ることはなかったという。

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1980年、『人民日報』は『日本の女の子、君はどこにいる?』という記事を掲載し、日本の『読売新聞』がこれを転載した。「40年も経って、命の恩人が見つかるなんて、感激して泣いてしまいました」。美穂子さんは、当時の写真を持った『読売新聞』の記者が訪ねて来た日の驚きと感動をこのように語った。この時、美穂子さんは都城市に家を構え、夫と3人の娘たちと幸福に暮らしていた。

北京で再会した時、聶栄臻元帥は美穂子さんに松竹梅の『歳寒三友図』を贈り、「寒い冬、百花が落ちても、松、竹、梅だけは生気を保っていられる。中日友好も松竹梅のようであってほしいと思う」と言った。美穂子さんは帰国すると、絵の大きさに合わせて自宅の玄関を改築し、この貴重な絵を飾った。

1986年、美穂子さんは夫とともに中国を再訪し、聶栄臻元帥を訪ねた。「父は私たちに日中友好事業のために力を尽くすことを望み、私が今住んでいる都城市と、自分の故郷の江津市が友好都市になることを願っていました」。美穂子さんは、聶栄臻元帥の遺志を実現しようと心に決めた。その後、聶栄臻元帥の生誕100周年に当る1999年、中国の江津市と日本の都城市は友好都市の関係を結んだ。両市の友好都市提携を積極的に働きかけた美穂子さんは、「ようやく父の遺志を実現することができました」と、感慨深げに語った。

(写真上は、聶将軍と美穂子さん、下は、戦時中の将軍と幼い美穂子さんです)

花の命は短くて夢幻の如し

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上の絵は、長女に送信してもらったものです。極めて印象的ではないでしょうか。どんなタイトルが付いていたのか分かりません。初めて見た時、じっと見入ってしまいました。『何と付けたらいいんだろう?』かと、考え込んでしまったのです。このご婦人には、夕日を浴び、嬉嬉として踊りながら家路をたどった日もあったわけです。

このご婦人は、地球一周分ほど歩いて来たかも知れませんね。お母さんの手につかまりながらヨチヨチ歩きをした日から、この日まで、様々な道の上を、様々な方角に歩いてきたことでしょう。笑いながら、あるいは泣きながら、歩いたのでしょう。好きな人を追って駆け足をしたかも知れません。子を抱き背負いながら病院に通ったかも知れません。戦火を逃れたこともあるかも知れません。この日、この塀の脇を、どんな思いで歩いているのでしょうか

私が、外出時に持ち歩く定期入れに、八葉(はちよう)の写真が入れてあります。その一つは、履歴書に添付するために撮った22歳になったばかりの私の写真です。なぜ持っているのかというと、髪の毛が薄いのは、生まれながらではないことを知ってもらうためなのです。もう一つは、家内の独身時代の写真です。彼女のアルバムから無断で持ち出してしまったもので、華の盛りの二十代のものです。

家内は、最近、『綺麗!』と、よく言われています。何人もの人に、そう言われているのですから、ほんとうなのでしょうか。彼女も、『これまで、そんなこと言われたことがないのにね!』と言いながら嬉しそうなのです。励まし上手な国民性のこちらのみなさんですが、とくに同性で同年代の人から、そう言われています。年寄りくさくなく、いつも喜こんで笑顔でいるからなのでしょう。病気でげっそり痩せたのが、今、元に戻りつつあり、健康が回復していますから、そのせいもありそうです。

気持ちは十八のままなのですが、鏡に映る自分を見つめてみると、青年期ははるか昔のことで、中年はとっくに過ぎ、初老も終え、もはや老齢期にある自分であることを認めざるを得ません。上の階の女子中学生が、結婚したてには、『おねえさん!』と言われていた家内を『奶奶(ナイナイ/おばあちゃん)!』、学生のみなさんが私を、『爸爸(イエイエ/おじいちゃん)』と言うのです。もう孫たちに言われるだけではなくなりました。さて、このご婦人も、そんな思いを抱いて歩いていることでしょうか。『花の命は短くて!』がいいでしょうか。

現代気質

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今朝も、今学期の一教科の早めの期末試験があって、学校に参りました。「大雨」の予報でしたが、傘をカバンの中に入れたままですみました。教え始めた頃のキャンパスは、伝統を感じさせる校舎、生い茂った樹木、ところどこの道が未舗装で、リスや野鳥をよく見かけ、フンを落とされることもありました。学生数なども小人数で、こじんまりしていたでしょうか。

あれから時が経って、年々歳々、キャンパスが整備されてきて、見違えるほどに変わってまいりました。「学生気質(かたぎ)」も同じです。教室にやって来る学生さんも着ている服装が、もう日本の大学生と全く変わらなくハイセンスで、カラフルになっていて、マニキュアをしている学生さんもいるほどです。そういえば、『バイバイ!』と言って帰って行く方もいます。初めの頃には、そんな別れの挨拶をする学生さんは皆無でした。今では緊張しないで、ごく自然に外国人教師と接することができている、やはり<現代っ子気質>なのでしょうか。

道の脇の宿舎の前に、多くの自転車が止めてあります。教室移動に使う代物(しろもの)です。初めの時期にもありましたが、あれらは、ギシギシガタガタの中古品で、卒業して行く先輩から貰い受けた年代物だったのでしょう。ところが、最近見かけるのは、高級なマウンテンバイクが三分の一くらいあります。携帯電話も、かつては一番安いものをご両親に買ってもらって使っていましたが、今は、<アイホーン>を使っている方も見受けます。好い時代になっているのは確かです。

自分が通った学校は、東京のど真ん中にあって、校舎の脇に<都電(路面電車です)>が走っていました。銀座には、それに乗ると15分くらいでした。渋谷も新宿も通学途上にあったのです。学校の正門を入ると、 文化財に指定されそうな名物建築物が左手にありました。マンモス大学と違って、二学部しかありませんから、学生数も少なく、女子が目立っていたのです。男子校から入りましたから、化粧の匂いが強かったのが印象的でした。彼女たちは、『もう大学生なんだから!』と洒落込んでいたのです。

思い返すと半世紀の隔たりがあるのです。バイトに精出していた学生生活でしたが、それでも書を読み、友と語り、知らない街に旅をし、結構楽しく過ごした時代、華の学生時代だったでしょうか。わが青春の日々は、記憶に鮮明なのです。

秋からの2014年度の授業計画の連絡が先日ありました。まだ教える機会が与えられているのは感謝なことです。もう孫と祖父、親の世代を跳び超えた世代なのです。それなのに、先日の授業中に、何と、『カワイイ!』、『カッコウイイ!』と言われてしました。そんな言葉で、年輩教師を激励しようとしてるのでしょう。クチナシが芳香を放ち始めた、五月下旬の華南の街です。

(写真は、”ウイキメディア”による「クチナシ」です)

ジャンクメール

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手紙やハガキを書いて出すよりも、利便性からしますと、電子メールの方が、はるかに優れていると思われます。ブラジルでもアメリカでもシンガポールでも、ほとんど瞬間的に送受信ができます。ですから、もう国際郵便の役目は、終わってしまったように感じられます。

今月は、次女の長男と主人の誕生日ということで、家内は、「誕生カード」を4月の終わりに投函していたのです。ところが今日、届いたとの連絡がありました。実に3週間もかかったことになります。もうとっくに誕生日が過ぎていますので、気の抜けてしまった”サイダー”のような祝福カードになっていたはずです。ところが、二人とも喜んで読んでくれた、と娘が言ってきました。

実は、何も言ってこないので、『届いた?』と、電子メールで聞いてしまったほどです。ところが、この二人には、「楽天グリーティング」も出していたのですが、これもまた、”ジャンクメール(迷惑メール)”に紛れ込んでいたそうです。ほとんど見ることのないところに隠れているという問題が、この電子メールにはあるのですね。

4月13日に、前回、帰国中に知り合った方に、電子メールを出しました。ところが返信が来なかったのです。『病気をされたのかな?』、『お仕事を辞められたのかな?』、『嫌われたかな?』とまで思ってしまったのです。一昨日、ある頼み事をされて、この方に連絡する必要が出てきたのです。それで、長男の知人でしたので、何か事情を知っているかと思って、用件とメールの顛末を、息子に知らせたのです。そうしましたら、今朝、その方からメールがあったのです。息子が、私に代わってこの方に知らせてくれ、その用件への返事が本人から届いたのです。全て杞憂(きゆう)でした。

結局、私が出したメールは、『届いていません!』ということで、”ジャンクメール”になっていたのです。昨日から、憶測と心配で悩んでしまったのですが、犯人は、「迷惑メール蘭」だったことで、一件落着でした。『便利なものほど、不便を感じることがある!』と言われますが、実に納得した次第です。大雨が降ったり止んだりの今日ですが、気持ちは晴れ渡ったてまいりました。やはり、郵便の方が着実、確実かな!

(写真は、”ウイキメディア”からの「雨」の降る様子です)

♭あめあめふれふれ♯

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雨の日が続いていましたので、「あめふり」という童謡を思い出してしまいました。北原白秋の作詞、中山晋平の作曲で、1925年に発表されています。

あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かけましょ かばんを かあさんの
あとから ゆこゆこ かねがなる
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

あらあら あのこは ずぶぬれだ
やなぎの ねかたで ないている
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かあさん ぼくのを かしましょか
きみきみ このかさ さしたまえ
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

ぼくなら いいんだ かあさんの
おおきな じゃのめに はいってく
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

兄弟が四人でしたので、『雨の日に、母のお迎えはなかったなあ・・・』と思い返しています。自分の「蛇の目」を、ずぶ濡れの級友に貸してしまう「優しさ」が歌われていて、他者を顧(かえりみ)る生き方が、ほのぼのとしていて素晴らしい歌ですね。この「蛇の目」は、番傘とも言い、和傘のことです。竹の骨に和紙が貼られ、雨が滲み通らないように油が塗られていました。私たちの世代の子どもの頃には、金属製の骨に布張りでできたものは高級品で、一般家庭では、ほとんどが、この「蛇の目傘」が使われれいました。コンビニで売られているようなビニール製のものは、いつ頃から出てきたのでしょうか。最近、こちらでも、時々目にするようになってきました。

以前から気になっていたのですが、傘を差してるのに、ズボンの裾や靴、そして差さない反対の腕などが、結構濡れてしまうのです。差し方が下手なのです。今日は、「中雨」の予報です。また夕方出掛けるのですが、車で迎えてくれると連絡がありました。また、ポツポツし始めてきたようです。こんな日は、読書に限ります。

(写真は、”ウイキメディア”の「番傘」です)

日本人

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英語に、「フレキシブル(flexible)」という言葉があります。「柔軟に」とか「融通がきく」との意味だったと思います。アメリカ人企業家と八年ほど一緒に働く機会がありましたので、彼の生活ぶりをよく眺めたつもりです。この方が、三十代半ばからのことでした。様々なことを教えていただきましたから、国際感覚、欧米人の生活ぶりや考え方なども見聞きできたのです。あの時期がなかったら、きっと狭い視野で、日本人だけの在り方、処し方、考え方だけに拘って生きてきたのではないかと感じます。彼も”フレキシブル”に生きていました。

今朝のニュース・サイトに、五十代の女性の中学教師が、NHKの「のど自慢大会」に、有給休暇を取って出場したことが物議を醸(かも)してるそうです。40年も前に、グアムに家内の姉夫婦がいて、訪ねた時のことです。日曜日に、車を改造した<屋台>でクッキーを焼いてる人がいました。義姉の主人が、小学校の校長をしていました。彼の話ですと、この人は、他の小学校の校長先生だと言うのです。全く悪びれずに、彼女の休業日に、その仕事を楽しそうにやっていたのを見て、驚いたのです。

私的な時間と公的な時間の区分があるのが、欧米社会のようです。立場や責任から、時間的に地理的に離れると、「個人」に戻れるのです。社会が、そう言った生き方を認めるわけです。ところが、日本の社会は、「教師」は、いつでも、どこでも「教師」なのです。それで、<パチンコ趣味>の先生は、電車に乗って、幾つも向こうの駅で降りて、人目のつかないパチンコ屋に、キョロキョロしながら入らなければならないのです。

堂々と生きられない、偏屈な社会なのです。社会の顰蹙(ひんしゅく)を買わないことなら、『自由に生きてもいいのに!』と思うのです。自分への要求を、他に押し付けてしまうのが、日本の社会の問題点ではないでしょうか。狭い国土、土地にへばりついた農村社会で、極力問題を起こさないように、ひっそりと息を潜めて生きてきたのが日本人でしょうか。

サングラスをして、得意に歩いていた時、『先生なのに!!!』と言われたことがありました。私だって、寝不足で、夏の日の光がまぶしすぎる時だってありますし、格好をつけたい願いもあるのです。この自由に、周りは干渉してくるのです。日本の社会が、もっと融通と柔軟性、そして「弾力性」を取り込んだら、もっと楽しく生きられるのですが。

『⚪️⚪️さん(先生付では呼びません!)、喜んでマイクロフォンを握って、また、ご自慢ののどを聞かせてください!』と、華南の空の下から応援している、元教員の私です。

(イラストは、サイトで見つけた「日本人」の特徴を捉えた戯画です)

躊躇

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「渡る世間に鬼はなし」と、ある人は人の善意に期待して生きています。ところがある人は、「人を見たら泥棒と思え」で、人を信用することなく、猜疑心で生きているようです。

先日、家内が、躊躇(ちゅうちょ)しながら言い出しました。言いたくはなかったのでしょうが、ちょっと悔しいことが、いつも行くスーパーのレジであったようです。後ろの人が、自分のカバンを、家内が買ったレジ済みの食品の横に、どさっと置いたのだそうです。支払いを済ませ、買い物袋に食品を入れて、送迎バスの乗り場に来て、バスの来るのをベンチで待っていました。

袋の中から、買ったジュースを飲もうとして、取り出そうとしたのですが、見当たらないのです。レジのレシートでチェックしたのですが、4元を払ってあります。時間があったので、そのレジに戻って、しまい忘れたジュースがあるか尋ねたのですが、『没 有(ありませんよ)』と言われたのです。しまい忘れた自分がいけないのですが、ちょっと悔しくて、私に事の顛末を話したわけです。私が聞き出してしまったのですが。

人を疑うことのほとんどない家内ですが、これまで被害者になることが、日本では幾度もありました。私は<抜け目>がないのですが、彼女は、<のんびり屋>で、ちょっと隙があるのです。一つの真理は、「そう言った機会を作った方が悪い」のです。彼女は、そのあと、こう言ったのです。『日本はかつて、多くの物を奪ったのだから、そのお返し!』とです。こう言った<わだかまりの解消法>って好いですね。

こっそり財布の中から、小銭を盗っては、駄菓子屋に飛んで行く、私の後ろ姿を、母は見ては何を思っていたのでしょうか。きっと『五右衛門のようになりません様に!』が、母のいのりだったに違いありません。お陰で、<昭和の五右衛門>にならず、人様に後ろ指をさされることなく、生きてこれました。直接謝らないまま、母は天国に帰ってしまったのですが、天に向かって謝罪をすることにいたしましょう。

(写真は、”ウイキメディア”による「ハイビスカス」です)