時代の要請

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イギリスのチャーチル、フランスのドゴール、日本の吉田茂、中国の周恩来、インドのネルー、インドネシアのスカルノ、アメリカのアイゼンハウワーなど、これらの方々は、第二次大戦後の世界の政治指導者たちの名前です。

戦争の終結とともに、一応は武器を下ろして、自分の国の再建のために、これらの方たちが手腕を振るったのです。どの国にとっても、果たすべき役割を担って、彼らは選ばれた人材でした。人格的にはどうかは、よく知りませんが、時代が要請した人であり、その課せられた責務を果たした方たちです。
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戦争中に、チャーチルが、“ Never give up ” と、ドイツ軍の攻勢の前に、国民を鼓舞激励した言葉を知った時、口にくわえた葉巻が印象的でした。またドゴール大統領が、凱旋門を徒歩でくぐった映像の中には、フランス国民の歓喜の声が聞こえました。焦土となった日本の再建のために、吉田茂はよい指導を果たしました。頑固な反面、ユーモアーに富んだ、落語好きな方だったそうです。
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天津にあった、周恩来とその夫人の記念館に行きました時に、結婚間近の何組もの中国人カップルが訪ねていました。そのお二人の夫婦愛にあやかりたいという願いで、若者たちに大人気でした。周恩来が亡くなられた時、口座も住居も箪笥も、そこは無一物だったそうです。彼は日本の明治大学にも留学経験があります。

中学校で3年間担任だった恩師が、「父が子に語る世界歴史」を読むように勧められて、買って読みました。娘のインデラに伝えたくて、ネルーが語り執筆した本でした。この方も、難しい時代の舵取りをした有能な指導者でした。「愛国の花」という国威発揚の歌が、日本の戦時中に歌われたのですが、この歌が好きだったスカルノは、よく自ら口ずさんだのだそうです。欧米に敢然と伍した日本に、深い敬意を抱いていたのです。

第二次世界大戦で、日本の敗戦が決定的になった時、原子爆弾の使用を、強硬派が主張する中、軍の指導者であったアイゼンハウワーは、反対の立場をとり、時の大統領のトルーマンに、原爆投下を強硬に反対して進言しています。

歴史を大きく動かし、安定させた功績は、どなたも大きかったようです。政治や行政だけではなく、教育界でも企業界でも、こう言った優れた人材が、若い人たちの間から、今も立ち上がって、一国だけではなく、世界大に目を向けられる指導者が誕生してほしいものです。地球が、世界が抱えている問題は、多岐にわたって極めて深刻だからです。

(チャーチルとドゴール、周恩来とネルー、田中角栄とです)
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脱走

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“ JET( 語学指導等を行う外国青年招致事業 The Japan Exchange and Teaching Programme)” と言うプログラムで、高校英語の補助教師として、長野県の南信の公立高校で、娘婿が教えていました。通勤の帰り道で、捨て猫を見捨てられないで、家に連れ帰って飼い始めたのです。そんな境遇の猫を、一匹ならずも二匹も飼っていたのです。3年間教えた後に、帰国することになって、その二匹の猫の世話を、私たちが頼まれたのです。猫嫌いの私でしたが、それを承知したわけです。

飼っている間に、慣れたのでしょうか、可愛くなっていってしまったのです。迷惑をかけないため娘婿は、不妊手術を施していました。猫社会では、そう言った猫は仲間はずれと、攻撃の対象で、よく悲鳴をあげて逃げ回っていました。それで、家に閉じ込めて飼っていたのですが、時々、〈脱走〉をしたのです。

猫も、広い世界へ出て行きたいのだと分かったのです。16才の時、作詞が永六輔、作曲が中村八大で、「遠くへ行きたい」と言う歌が、若者たちの間で歌われていました。

知らない町を 歩いてみたい
どこか遠くへ 行きたい
知らない海を 眺めていたい
どこか遠くへ行きたい
遠い街 遠い海
夢はるか 一人旅
愛する人と めぐり逢いたい
どこか遠くへ 行きたい

愛し合い 信じ合い
いつの日か 幸せを
愛する人と めぐり逢いたい
どこか遠くへ 行きたい

青年期の特徴の一つは、現状への不満が強い時期なのでしょうか。〈今〉と〈此処〉から飛び出したい誘惑があります。規則や伝統に縛られたくない思いがあって、 “ タッカー(オスの方の猫の名前です)”の様に、〈脱走願望〉があるのでしょう。遠くに行って仕舞えば、時計の針の様に、同じ枠の中で、来る日も来る日も、同じ動きしか続けなければならない様な生活から抜け出られるからです。

まだ売っているのでしょうか、交通公社の「時刻表」ですが、これを見るのが好きでした。知らない駅が、線路の続きにあって、降りて駅頭に立って、その辺りを眺めてみたくなるのです。今、わが家から見える鉄道線路の「両毛線」も「東武日光線」も「東武宇都宮線」も、かつて一度も乗ったことはありませんでしたし、乗っても限られた駅しか旅行していないのです。

日光線、鬼怒川線を乗り継ぐと、「白虎隊」で有名な会津に行くこともできるのです。両毛線で小山に行くと、水戸にも行けます。同じ小山から、また栃木からも、湘南(宇都宮や新宿)ラインで小田原までも行けます。もちろん大船や江ノ島や逗子にだって行けるのです。でも、そう言ったはやる気持ちを納めて、今の責務を果たすことを第一にしている、この8ヶ月です。

(隣県福島の奥会津の風景です)
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山桃草

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この花は、「ヤマモモソウ」です。島根県鹿島町に咲く花で、[HP「松江花図鑑」8月31日撮影]が送信くださったものです。別名を「ハクチョウソウ」と言うそうです。北アメリカ中南部やメキシコが原産で、明治の中期に移植された外国種です。

外国種の植物に、和名をつけるテクニックは実に興味深いものです。「山桃」に似ているからだそうです。あの「アツモリソウ」だって、ベラルーシ東部から温暖な東アジアに分布している「シノニム」の和名です。花の形状が、平敦盛の背負った母衣(ほろ)に似ているので、そう命名されているわけです。
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母のふるさとに咲いている花を見て、亡き母を思い出してしまいました。母の住んでいたのが「今市」という町名で、先週、栃木県下にもある「今市市」の蕎麦屋に寄りましたら、その味が美味しくて、「出雲蕎麦」を思い出してしまいました。
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ヒーロー 2

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昭和33年(1953)2月24日から、次に年の7月5日まで、KRTテレビ放送(現在のTBSテレビ)系列で放映されたドラマ『月光仮面』に、次の様な主題歌がありました。

1 どこの誰かは 知らないけれど
誰もがみんな 知っている
月光仮面の おじさんは
正義の味方よ よい人よ
疾風(はやて)のように 現れて
疾風のように 去ってゆく
月光仮面は 誰でしょう
月光仮面は 誰でしょう

2 どこかで不幸に 泣く人あれば
かならずともに やって来て
真心(まごころ)こもる 愛の歌
しっかりしろよと なぐさめる
誰でも好きに なれる人
夢をいだいた 月の人
月光仮面は 誰でしょう
月光仮面は 誰でしょう

3 どこで生まれて 育ってきたか
誰もが知らない なぞの人
電光石火(でんこうせっか)の 早わざで
今日も走らす オートバイ
この世の悪に かんぜんと
戦いいどんで 去ってゆく
月光仮面は 誰でしょう
月光仮面は 誰でしょ
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この『月光仮面』は、川内康範原作・脚本による児童向け冒険活劇でした。現在も子どもたちに人気のある〈仮面・変身ヒーロー番組〉のはしりというべき作品です。放映開始の夕方6時(途中から7時からに変更)前には、広場や銭湯から子どもの姿が消えたといわれるほどの大人気作品でした。

家にテレビのない時代、これを見せてくれる食堂や雑貨屋さんに行っては見せてもらった、胸踊らせるテレビ番組でした。白装束でオートバイにまたがった「正義の味方」、「よい人」、「誰でも好きになれる人」、「夢をいだいた月の人」でした。弱きを助け、悪しきを砕く《ヒーロー》だったのです。悪者を懲らしめるのですが、命を奪う様なことを避けるヒーローでした。
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多くの子どもが、風呂敷のマントを肩にかけて、跳びはねて真似をしていました。日本版の「スーパーマン」だったのでしょうか。主人公は正体不明で、隠されていましたが、子どもたちはだれかを知っていたのです。佐賀の洪水の時に、お忍びで《スーパーボランティア》の尾畑春雄さんが、軽自動車にまたがって駆けつけたとニュースが伝えていました。まさに、《令和の月光仮面のおじさん》ではないでしょうか。売名ではなく、マントも仮面もなく、〈ねじりハチマキ姿〉で困っている人に、そっと手をのべて、黙って去っていく、神出鬼没の男の中の男です。
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あさがお

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花壇の隅の鉢の中で、水色の朝顔が、遠慮がちに小さく花を開かせています。四色の朝顔が、それぞれに上の方に咲いているのです。“オーシンツクツク “ と鳴く蝉の声もしています。やはり日曜日の朝、週日よりも、あたりは静かです。先ほど、救急車がサイレンを鳴らしながら、向こうにある救急病院に走って行きました。ここは一日中、路上を走るサイレンの音が聞こえるのです。

この街にも、いろんな人の営みがあり、様々な出来事があって、人の生活があります。一日に一、二度は、獨協医科大学病院のドクターヘリも、上空を飛ぶ姿と音がします。たまにですが、自衛隊の双発の軍用機が、けっこう低空飛行で、西の方に飛んで行きます。

週の初め、そろそろ友人たちがやって来ることでしょう。5歳の小さな友人は、風邪気味で来れないのだそうです。ここでの生活が、9ヶ月目を迎えました。私の兄弟たちの招待で、出掛けた小旅行で疲れた家内は、やっと回復してきた様です。

新しい週が始まりました。好い一週でありますように!
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朝顔/8月31日

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今朝は、家の中から、朝顔を撮影してみました。水曜日から昨日まで、私の兄弟たちが、闘病中の家内と私を、二泊三日の温泉旅行に連れ出してくれたのです。留守中の水遣りを心配していましたら、次女から、『自動給水ノズルがあります!』と言われ、百均に跳んで行って買ったものをセットしましたら、枯れたり萎れることなく、この朝の開花です。

好い週末をお過ごしください。

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苦楽

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ユダヤの格言に、「友はどんな時にも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生れる」があります。素晴らしい友がいて、訪ねてくれ、見舞ってくれ、病状を聞いてくれる友が、闘病中の家内には大勢いて、その友愛は羨ましい限りです。

さらに家内には、二人の姉、二人の兄、そして妹がいます。兄二人は、すでに病気で亡くなっていますが、懐かしい思い出が、たくさんある様です。学校の寮に住みながらで学んでいた頃、下の兄が、よく訪ねてくれて激励してくれたそうです。子どものいない伯父の家に、祖母の権威で養子に行かされ兄だったのです。その弟を、弟思いの上の兄が連れ戻しに行った一大事件があった様です。

この上の兄は、高校を卒業と同時に、ブラジルに移民しています。書類上での契約と現地での現実とが違っていたそうで、随分と苦労をしたそうです。移民仲間が、異国での生活に耐え切れずに自死し、その亡骸をスコップで掘った穴に、自分の手で埋葬しなければならなかったのです。その農園を離れ、手が器用だったので、ある人から「時計修理」の技術を教えてもらい、サンパウロの近郊の街で、小さな店を出して、生活をやり直したそうです。

家内は、子育て中の娘たちを連れて、この兄に招かれて、その街を訪ねたことがありました。勤勉に働き、いく棟もの家と、広大な敷地を手に入れて、長兄は、街の成功者になっていたのです。二人とも、妹思いの優しい兄でしたが、病には勝てなかった様です。

二人の姉は、国際結婚をしてアメリカで生活をしたのですが、アメリカンドリームとは程遠い、厳しい現実を生きた様です。二人とも、妹には優しい姉で、今の上の姉は、息子の経営する医療施設で、老後を過ごしています。下の姉は、ハワイで生活していたのですが、弱くなったのでしょうか、本土に住む長男に誘われて、近々移り住むそうです。

妹は、中部圏の街に住んでいて、独身生活を謳歌してきましたが、若い頃から住んだサンパウロに戻る準備をしている様です。時々、家内を見舞ってくれています。戦争中から、厳しい戦後を共に、多くの兄弟姉妹と過ごしたのは、家内には、「宝石の様な日々」だったそうです。

上の兄が、弟妹を連れて、新聞配達や養鶏で売った卵の代金を手に、「豊島園」に連れて行ったそうです。電車賃や入園料を払って、帰りに電車賃の他に、「かき氷」のお金を残していたそうです。それで、4人分の代金を払おうとしたら、足りなかったのです。家の近く比べると、豊島園のかき氷の代金の方が、はるかに高かったのです。売り子のおばさんに叱られている苦渋の兄の顔を、家内はハラハラして見ていたのです。

それも、これも、あれも、みんな懐かしい思い出なのでしょう。まさに「苦しみを分け合う兄弟」が、家内にはいたわけです。今週、義理の兄弟が、家内を激励しようと計画し、予約を取ってくれて、温泉旅行に招待してくれたのです。兄たちは夫妻で、20年ほど前に愛ー妻を亡くした弟は一人で、弟運転のレンタカーで迎えてくれて、この街の北にある鬼怒川温泉に連れ出してくれたのです。

家内の目は輝いていました。友人が、友愛で提供してくれた家やベッドの生活空間から離れて、二泊三日の小旅行、温泉旅行は、嬉しいギフトでした。親く語り合い、静かに流れて行く時を共有し、食べ物を分け合い、みんな丸く、白く、穏やかになった兄弟たちと、その夫人たちで過ごした時は、家内を朗らかにし、輝かしてくれたのです。

(静かに瀬音を聞いた鬼怒川の流れです)
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ヒーロー

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「ヒトラーを憤慨させた黒人のヒーロー(ジェシー・オーエンス)」
[投稿者:T. Konagai Blog- ドイツ に投稿]

平和の祭典でもあるオリンピック。当然、どの時代も『平和』だったわけではない。1936年のベルリンオリンピック。当時ドイツを支配していたのはナチス。ヒトラーはこのオリンピックでアーリア人の優秀さを世界に知らしめようと気合が入っていた。そんなヒトラーの顔に泥を塗った黒人のヒーローがいる。アメリカの陸上選手、ジェシー・オーエンスだ。

ナチスと言えばユダヤ人迫害で知られているがいわゆる白人至上主義であったため
非白人に対する差別もひどいものであった。スタジアムにいる全員が総立ちでナチス式敬礼をする異様な雰囲気の中、まず、オーエンスは男子100Mで10秒03という世界新記録で優勝。白人の優秀さを見せつけるはずだったヒトラーはおもしろくない。

次の走り幅跳びではルッツ・ロングがドイツ政府の期待を一身に浴びていた。金髪で背が高く、ハンサムな彼は正にヒトラーの掲げる理想の白人だ。予選ではそのロングが新記録を出すがオーエンスはファールで後がなくなってしまう。そんなオーエンスにロングが『もう少し手前から飛ぶといい』とアドバイスをしたと伝えられている。
ヒトラーの目の前で黒人を助けたのだ。オーエンスは見事に予選突破し、そのまま決勝でロングを破り2つ目の金メダルを手にする。 表彰台から下りた二人は仲良く腕を組んで歩いた。
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ドイツでもアメリカでも黒人が差別される中での2人のスポーツマンの友情である。
あのルドルフ・ヘスから『2度とニガー(黒人)と抱擁するな』と言われたロングが
オリンピック銀メダリストであるにも関わらず前線に送られ30歳で戦死しているのはこの出来事が関係しているのかもしれない。

続く200Mでも2位の選手に体2つ分差をつけて優勝。3つの金メダルを獲得したオーエンスはヒーローとなった。彼にサインを求め、賞賛する民衆の姿を目の当たりにし、ナチスは、ヒトラーは憤慨する。

更に400Mリレーでアメリカ代表として出場するはずだったマーティン・ドリックマンとサム・スティラーが直前になって交代させられたのだ。二人はユダヤ人だった。ユダヤ人を走らせるくらいなら黒人を、ということ。結局オーエンスはリレーでも金メダルを獲得し一人で4つの金メダルの快挙を成し遂げた。本人はマーティンとサムに申し訳ないとあまり喜びは表さなかった。

オリンピックの後、アメリカ本国でヒーローとして迎えられたが結局差別はなくならず、ホテルに入るときも従業員用の入り口から入らなければならなかったり、馬と競争させられたりと扱いはひどかったという。

Jesse Owens – Der schnellste Mann der Welt
*この内容はARDの”Jesse Owens – Der schnellste Mann der Welt”
の内容を簡単に日本語でまとめたものです。
上記のリンクから本編(ドイツ語)が見れます。

朝顔/8月28日

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佐賀や福岡では、強烈多量の雨が降っていると、ニュースが伝えています。ここ北関東では、小雨、曇り空、薄日が射すなど、ちょっと不安定な天気です。

今日の午後、二人の兄夫妻、弟の招待で、近くの鬼怒川温泉に、家内と私を二泊三日の招待をしてくれるというので出掛けます。四人兄弟で、それぞれ忙しく働いてきましたが、すでに退職して、やっとみんなで温泉旅行が実行できる様になりました。父や母も一緒できたらと、すでに天に帰って行った今は、ただ思いの中で、そんな願いが湧き上がってきます。

家を空けるので、心配なのは、朝顔やハイビスカスの水遣りです。そんな心配を、子どもたちに伝えたら、〈自動給水ノズル〉が、100均で売っていると言ってきましたので、即、出かけて買ってきて、セットしたのです。こんなに便利なものまで売られているのに、驚いたり嬉しかったりの今です。

今朝も、たくさんの朝顔が咲いています。8つほどの鉢のゼラニュウム、ホットリップス、プリンセスダイアナは、庭に植え替えました。何か生き生きとして庭に収まった感じがします。大雨の被害のないことを願う、水曜日の朝です。
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ユーモア

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アルフォンス・デーケンと言われる哲学者がいます。長く上智大学で「死の教育」、「死の神学」の講座を担当された方でした。私は、大変な興味を持って、この教授の公開講座を受講したことがありました。週に一度、特急電車に乗って、四ツ谷駅まで通ったのです。実に有意義な学びの時でした。

とくにデーケン教授は、「悲嘆の作業(グリーフワーク)」の重要さについて教えてくれたのです。先年、私の娘婿の母君が、惜しまれて亡くなられました。二人の息子と娘、そして一人の幼女のお母さんで、64歳で召されたのです。家庭の事情がある何十人もの子どものお世話をし続けてこられた方でした。私たちが訪ねた時も、乳飲児の赤ちゃんの世話中でした。優しくて愛が深く、誰にも愛された妻であり、母であり、そして芸術家でした。

愛する人との死別というのは、どなたにも経験がありますし、将来においてあり得ることですし、また自分の《死》も迎えねばならないわけです。それは避けることのできない《万人の体験》です。とくに、愛する人との決別を、十二分に悲しみ嘆くことが必要だと、デーケン師は言うのです。それを確りと果たした後は、正常な生活に戻り、悲嘆体験を超えて、自分の定められた《生》を責任をもって生きて行く、そう言った心の作業が必要なのだそう です。

デーケン教授に、講義で教えていただいた「悲嘆のプロセス」には、12段階があって、次の様です。

1段階 精神的打撃と麻痺状態 
 愛する人の死という衝撃によって、一時的に現実感覚が麻痺状態になる。頭が真空になったようで、思考力がグッと落ち込む。心身のショックを少しでも和らげようとする本能的な働き、 つまり、防衛規制。

2段階 否認 
 感情、理性ともに相手の死という事実を否定する。 「あの人が死ぬ訳がない、きっと何かの間違いだ」という心理状態。 

3段階 パニック 
 身近な死に直面した恐怖による極度のパニックを起こす。 悲嘆のプロセスの初期に顕著な現象 。なるべく早く抜け出すことが望ましく、またこれを未然に防ぐことは、悲嘆教育の大切な目標のひとつと言える。
 
4段階 怒りと不当感 
 不当な苦しみを負わされたという感情から、強い怒りを感じる。  「私だけがなぜ?」「神様はなぜ、ひどい運命を科すの?」 
 ※ショックがやや収まってくると「なぜ私だけが、こんな目に…」という、不当な仕打ちを受けたという感情が沸き上がる。 亡くなられた方が、長期間闘病を続けた場合など、ある程度心の準備ができる場合もあるが、急病や災害、事故、自死などのような突然死の後では、強い怒りが爆発的に吹き出す。 故人に対しても、また自分にひどい仕打ちを与えた運命や神、あるいは加害者、そして自分自身に対する強い怒りを感じることもある。 

5段階 敵意とルサンチマン(憤り、怨恨、憎悪、非難、妬み) 
 周囲の人々や個人に対して、敵意という形で、やり場のない感情をぶつける。 遺された人のどうしようもない感情の対象として、犠牲者を必要としている場合が多く、また病死の場合は敵意の矛先を最後まで故人の側にいた医療関係者に向けられるケースが圧倒的。 日常的に患者の死を扱う病院側と、かけがえのない肉親の死に動転している遺族側との間に、感情の行き違いが起こる場合が多い。 

6段階 罪意識 
 悲嘆の行為を代表する反応で、過去の行いを悔やみ自分を責める。 「こんなことになるなら、生きているうちにもっとあれこれしてあげればよかった」という心境。 過去の行いを悔やんで自分を責めることになる。
 
7段階 空想形成・幻想   
 幻想ー空想の中で、故人がまだ生きているかのように思い込み、実生活でもそのように振る舞う。 
 例1:亡くなった子供の部屋をどうしても片付けられず何年もそのままにしている 
 例2:いつ子供が帰ってきてもいいよう、毎晩ベッドの上にパジャマまで揃えおく 

8段階 孤独感と抑うつ  
 健全な悲嘆のプロセスの一部分、早く乗り越えようとする努力と周囲の援助が重要 葬儀などが一段落し、周囲が落ち着いてくると、紛らわしようのない寂しさが襲ってくる。 

9段階 精神的混乱とアパシー(無関心)  
 日々の生活目標を見失った空虚さから、どうしていいかわからなくなり、あらゆることに関心を失う。 

10段階 あきらめ・受容  
 自分の置かれた状況を「あきらか」に見つめて受け入れ、つらい現実に勇気をもって直面しようとする努力が始まる。 
※「あきらめる」という言葉には「明らかにする」というニュアンスが含まれている。

11段階 新しい希望・ユーモアと笑いの再発見  
 ユーモアと笑いは健康的な生活に欠かせない要素で、その復活は悲嘆プロセスをうまく乗り切りつつあるしるし 。
 ※悲嘆のプロセスを彷徨っている間は、この苦しみが永遠に続くような思いに落ち込むものだが、いつかは必ず、希望の光が射し込んでくる。 こわばっていた顔にも少しずつ微笑みが戻り、ユーモアのセンスも蘇ってる。 

12段階 立ち直りの段階・新しいアイデンティティの誕生  
 愛する人を失う以前の自分に戻るのではなく、苦悩に満ちた悲嘆のプロセスを経て、新しいアイデンティティを獲得し、より成熟した人格者として生まれ変わることができる。 

デーケン師も、子どもの頃に、ごく親しい人との死別をされていて、悲嘆の体験があって、そう言った学びをされたのだそうです。悲しみの中で、もし《ユーモア》、《微笑み》があるなら、それを上手に超えて、正常な生活の戻れると、師は勧めています。デーケン流の《ユーモア》の定義は、「にも関わらず笑う」なのです。

(デーケン教授の出身地のドイツ・オルテンブルクの風景です)
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