年の瀬に思う(8)

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「地球」を乗り物に見立てて、「地球号」と呼び始めたのは何時の頃からでしょうか。衛星からみれば、空中に浮く「飛行船」や「宇宙船」のように見えることでしょう。24時間かけて自転しながら、決まった軌道を正確に運行するためのペダルやエンジンや翼を持たないのに、太陽の巡りを一年かけて回っていることほど、神秘なことはありません。虚空に浮いていること自体が、不思議でなりません。子どもの頃に、『どうして?』と思っていたのですが、まあ故意に忘れたふりをしながら、生活の必要を満たしながら生きてまいりました。ですが、答えを得られないまま、年月が過ぎてしまい、納得しないままでいるのです。きっと、「大いなる意志」があるに違いありません。

そんなことは、つゆも思わないで、人は人と、国と国は、小競り合いをし、関係を恢復させ、それをまた繰り返しながら過ごして、一年一年と過ぎて行き、人だけは七十年、八十年のサイクルで消えていくわけです。支えも、ホックもなく浮いている地球、これをどう考えたらいいのでしょうか。太古の昔から、人はこんな疑問を持ちながら、天空を見上げて、考えあぐねてきたわけです。この「太陽系」のようなものが、無数、小学校の授業で<黄河砂>という単位を学んだのですが、とてつもない数で、この十本の指では数えきれない「無限大」の数量だったわけですが、それほどに大宇宙にあるのだそうです。

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先日、中国の無人衛星が、月に着陸したというニュースが伝えられていました。またNASAに探査機が、月の裏側を撮影した映像が配信されていました。大宇宙の広大さから言いますと、それは、ほんのお隣の様子に過ぎないのですね。「お隣」といえば、一番近いのは、この「自分」です。これこそが、一番、「未知」の存在なのです。光学電子顕微鏡は、何億光年もの彼方の惑星を捉えることを可能にしました。ところが、人間こそが、「知られざる世界」で、『何?』、『どうして?』、『それで?』と研究未分野なわけです。

生命の起源、生きること、死ぬこと、記憶、願い、意思、知性、感情・・・・・、分からないことだらけで、まったく『人間、この未知なる者!』です。科学万能の時代、こう言ったテーマについての研究がなされていないのか、できないのか、人は、そのままで死にゆく以外に仕方が無いのでしょうか。きっとこれは、哲学や宗教の主題なのでしょうね。昔、何処かの王様は、長寿や富を求めないで、「知恵」を願い求めたのだそうです。その王様のように、未知なることを解き明かす「知恵」や「理解力」が欲しいものです。『俺って何で、誰で、どうして生きていて、あれやこれやと思い巡らしたり、喜んだり悲しんだり怒ったりするのか?』と、考えている年の瀬の私であります。

(写真上は「アンドロメダ銀河」の像、下は「人間学の祖・哲学者カント」です)

年の瀬に思う(7)

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昨日、窓辺で書き物をしながら、ふとベランダに目をやりますと、雀が三匹遊んで(?)いました。いえ食べ物を探していて、わが家に寄って、一休みしていたのでしょうか。人の気配を感じたのでしょうか、しばらくして飛び去って行きました。

我と来て遊べや親のない雀

雀を見て、遊んでるのか食べ物を求めているのか、そんなことしか想像できない私に比べて、一茶は、親鳥からはぐれてしまった子スズメの孤独を感じ取っていたのです。自然観察の目は、驚くほどに鋭かった俳諧師だったのです。

雀の子そこのけそこのけお馬が通る

棒を持って追い掛けいる悪戯小僧から、『馬に蹴られて死んじまえ!』 と、罵り言葉を浴びせかけられていたのでしょう。そんな雀に、『さあ、お馬がくるよ。危ないからおどき!』と言葉をかける一茶の優しい心に、ほっとさせられてしまいます。

おとろへや榾(ほた)折りかねる膝頭

「榾折り」と言うのは、お風呂をたくのでしょうか、竈(かまど)にくべるのでしょうか、薪を膝で二つに折ることだそうです。若い時のように、そうしてみるのですが、年老いてしまった今は、『ああ、わしも衰えてしまった!』と嘆息している一茶の顔が見えるようです。先日、ちょっと高いところから飛び降りてみたのですが、膝がガクンとしてしまいました。『こんなことなかったのに!』と思ったことですが、何時までも若いと思っていてはいけないのでしょう。

ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)

当時も、年の瀬には、誰もが追いかけられているように感じ、『し残したことがないか?』とか、『新しい年をどう迎えるか?』と言った思いをしていたのでしょう。ところが、この一茶には「人任せ」な年末を過すごす、ゆとりと落ち着きを感じていたのかも知れません。貧しさが彼を、決して卑屈にはしていなかったようです。命の保持者に、すべてを任せて、新しい年を迎えることにしましょう。

(写真は、「雀(ウイキペディア)」です)

年の瀬に思う(6)

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私たち四人兄弟は、祖父母と一緒に生活をしたことがなかったのです。ただ母のふるさとに出かけた小学校一年の時に、4、5日一緒に生活したことがあっただけでした。もちろん友人の家に、遊びに行くと、奥におじいちゃんやおばあちゃんがいたのが窺えただけで、話をした覚えがないのです。ただ、父が『○○!』と呼び捨てしていた、父の養母の葬儀に行ったことがあるだけでした(その養母を『さん』付で呼んで、『料理が上手な人だったよ!』と懐かしんでいた数週間後に父が召されました。憎んでいた「継母」を赦したのです。人の一生には、色々な愛憎劇があるのだということを、父や母から学んだのだと思います)。

昔の日本映画界に、おじいさん役をすると抜群で、喋りも独特な名優がいました。この俳優の演技は、間延びがしていて、のんびりと悠長な雰囲気に満ちていたのです。ところで「中国のみなさん」を、何かの絵で見たことがありました。それは、長いキセルをくわえて、牛の手綱を引いている絵だったのです。実際に会ったこともなく、近くで一緒に生活もしていない私は、「中国人」のイメージを、その俳優で作り上げていたのです。つまり、「のんびりした中国人」でした。子どもの頃に作り上げたイメージというのは、いつまでも引きずるのでしょうか。2006年から中国で生活し始めて、あのイメージと違って、中国のみなさんは、日本人よりも勤勉で、働き者だということが分かったのです。何処でも、何時でも昼寝をするので、「怠け者」と誤解しているようですが、これは生活習慣であって、仕事の合間、休みの時には、のんびるするだけなのです。ですから、「意外」だったのです。

『中国人のみんなが日本人を嫌いなのだ!』と思われるかも知れませんが、これも誤解です。少なくとも、天津の一年、きちらに来てからの六年半、出会った人から、『日本鬼子!』と呼ばれたことも、石や卵を投げつけられたことも、ツバをかけられたこともありません。一目で日本人と、さとられてしまいますから、分かっていても、そういった行為を受けたことは、全くないのです。私が、「のんびり中国人」だと決めつけていたのが誤りであったように、「鬼子の日本人」だと聞き、学んできたのに、実際に目にする日本人は、『違う!』と思っておられるのです。

『日本には鬱の人が多いそうですね。どうしてでしょうか?』と、時々聞かれることがあります。確かに日本の精神風土からすると、多いのです。ところが、最近では、こちらでも精神的な疾患が多くなっているそうです。国や国民によってではなく、そう言った時代になっているのでしょうか。どの国にも、「精神衛生」が必要な時代なのでしょうか。そんなことを考えている年の瀬です。

(写真は、十二月の花の「セイタカアワダチソウ」です)

年の瀬に思う(5)

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『子ども叱るな来た道じゃ。年寄り笑うな行く道じゃ。』

これは、有名な標語です。子どもの頃は悪童で、いたずらばかりしていて、親や近所のおじさんやお巡りさんに叱られていたのに、親になった途端、『俺みたいになったらいけない!』との自己反省から叱ってしまうのです。私たちの最初の子が男の子でした。『俺に似ないように!』と子育てを決心して、ずいぶん要求が多かったのではないかと、今、反省しています。もう一度、彼を育てる機会が与えられたら、もっと余裕を持って育てたいものです。初めての親をして、意気込みも強かったのでしょう。また、ある親は、子供の頃のことを、すっかり忘れてしまって、生まれてきた子に、必要以上に何かを要求したりするようです。そう言ったことのないように、親に気付きを与えているのです。<来た道>にあったことを忘れないことなのでしょう。

一方、年配者は、足腰や握力などが弱くなってしまい、物を落としたり、転んだりして、粗相(そそう)することが多くなります。『また、やってる!』と、子や孫が顔をしかめるのです。若い人も、今は力に満ち溢れていても、年を重ねると弱くなるものなのです。『それは<行く道>なのだから、忍耐して接してあげなさい!』との勧めなのです。最近、時の経つのが極めて早いのです。この2013年は、特別でした。おっちょこちょいの私ですから、子どもたちに笑われないようにしなければなりません。

この数年、中国のみなさんの「旅行熱」が高まって、世界中に出掛けて行かれています。素晴らしいことです。でも、外国の生活習慣が分からないので、ちょっとトラブルになっていると聞いています。これって、私たち日本人が<来た道>なのです。豊かになった日本人が、大挙して欧米諸国に出かけて行きました。<○○様御一行>という小旗を振ってパリやロンドンやローマの街を闊歩して、ブランド品を買いまくった時に、顔をしかめて非難されたことが多くありました。国際問題にもなっていました。若者が、落書きをして、親と一緒に、それを消しに出かけて行った、とのニュースを聞いたのは、つい昨日のことです。私たちには、非難したり批評する資格はないのです。

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今、<礼儀正しい日本人>だと高い評価を諸外国から頂くようになりました。中国のみなさんは、もうすでに、<行く道>の途上にあるのではないでしょうか。私たちは、様々な物事を、中国から学んできました。その最たるものは、「礼儀」でした。学んで、生活の中で実践してきたのです。源は、「中華思想」、「儒教」にあるわけです。ですから感謝こそすれ、非難などできないのです。日本を越して、「礼儀大国」になりつつある現今であります。

足が擦り切れることもなく、ずいぶん長く歩き、生きて来たものです。これからも、許される限り、感謝な心と、尊敬の思いをもって、中韓両国の友好のために、精一杯生きようと、この年の瀬に、切に思うのであります。

(写真上は十二月に咲く「プリムラ・マラコイデス」、下は「礼記」です)

年の瀬に思う(4)

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今年のいつ頃からでしょうか、街中の多くの塀に、「中国夢」と幼児の絵の横に印字されたポスターが掲出され始めました。英語ですと、”China Dream”でしょうか、今年のスローガンのようです。案の定、中国版「今年の十大流行語」の一つに、これが選ばれていました。また、中国版「ツイッター」の「微博」で多く使われた言葉は、「逆襲(これは日本の人気テレビ番組で流行った『倍返し!』の翻訳)」、また、「オヤジギャル」の翻訳の「女汉子(<汉子>とは男を卑しめていうことば)」が選ばれたようです。フェイスブックの 『いいね』を意味する「点賛」も入っていました。

日本と中国は、漢字文化ですから、共通の思い、共有する文化があるわけです。特に中国の青年たちに、日本から発信された文化が受け入れられていることは確かです。外交的に高い垣根や塀があっても、それをを超えて行く力あるからでしょうか。文字のなかった日本が、中国から漢字をお借りして、この漢字の偏や旁や冠から「ひらがな」と「カタカナ」を作り出し、日本語の文字としたわけです。明治期以降は、ヨーロッパの言語を翻訳した多くの言葉、「和製漢字」が、中国に向けて逆輸出されてもいます。魯迅は、日本文学をよく読まれたので、自分の作品の中で、中国の漢字ではなく、日本漢字を多用しています。

いつの日にか、中国と日本の両国で、「今年の共通流行語」、「今年の共通漢字」が共同で選ばれ、両国で同時発表される日がくると好いですね。そんな夢を見ている年の瀬です。

(写真は、上海万博で復元された「遣隋使船」です)

年の瀬に思う(3)

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戦国の世を平定し、最後に天下を統一したのは徳川家康でした。江戸に幕府を置き、260年に及ぶ「徳川幕府」の支配を確立したのです。キリスト教を禁教とし、海外渡航の禁止、海外貿易の独占、武家御法度(参勤交代など)の諸政策を整えたことに、長きにわたる政権を確かにできた理由があります。鎖国の中で、長崎の出島のみを、海外と通じる唯一の場所として定めたのですが、もう一つ、「朝鮮通信使」の出入りを許可し、対馬藩を窓口として送迎していたのです。

この「通信使」は、室町時代に始まっており、150年ほどの中断の後に、豊臣秀吉の時に迎えております。再び1607年に、徳川秀忠の時に再開され、1811年まで、都合12回も来日しています。これは、徳川幕府の将軍の代替わりの祝賀のための表敬訪問でした。一回の使節団の数は、450人ほどの人が平均的にやって来ており、100人ほどの水夫は大阪に留まり、350人の大所帯で、江戸に入ったと言われております。文化や習慣習俗の違いによる軋轢があり、殺傷沙汰もあったそうです。朝鮮半島の南端の釜山から船出し、対馬、瀬戸内海を経て、大阪に入港し、そこから陸路を江戸にいたったのです。4ヶ月から半年ほどの時間を要する旅だったそうです。

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通信使のメンバーは、「正・副使」のほかに、「書記」、「通訳」、「画家」、「書家」、「医者」、「僧侶」、「楽隊」などが随行したのです。トラブルの記録が残っていますが、朝鮮側は、それらを『日本の故意による捏造だ!』としているようです。将軍への祝賀の反面、「倭人」と言って蔑みましたが、京都や大阪や江戸の整備された街の豪華な様子に驚嘆していたとの記録が残されております。また当時の日本から、多くのことを学んで帰国したのです。

生活習慣の違いによるトラブルがあったのですが、すぐに解決していたのです。ですから今のような険悪な関係はなかったのではないでしょうか。古くからの両国の歴史を振り返って 、好い国交の回復がなされることは可能なのではないでしょうか。前大統領は日本で生まれながら「嫌日」に終始し、現大統領は父君が親日家であったのに、日本嫌いを表明して止まないでいます。竹島や日本海や慰安婦の問題の解決の努力をしたいものです。いつも思い出すのは、「京城(ソウル)」で仕事をしたことのある父が、時々、その頃を懐かしんで歌っていた「アリラン(峠)」」の歌詞です。問題になっている「峠」を、こちら側から、あちら側から、共に越えて行きたいと願う年の瀬であります。

(写真上は、十二月に咲く「磯菊」、下は、「朝鮮通信使」の絵です)

年の瀬に思う(2)

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江戸の三百年間の鎖国の時代には、『日本人とは?』という問いかけを自らにする必要はなかったのでしょう。長崎の「出島」だけが、外の世界、中国やオランダとの接触の場でした。たまに、台風による難破船が漂着し、肌の白い、鼻の高いヨーロッパ人を救助した漁民たちが目撃した程度でした。一般人は、全く外の世界との接触を持たないまま過ごしていたわけです。ところが「大航海時代」がやって来て、スペインやポルトガルやイギリスなどが、海外交易に乗り出し、植民地をアジアやアフリカに求め始めたのです。

日本の近海にも、度々やって来るようになり、船の乗組員が、水や食料の供給を求め、やがて「開国」を迫るようになってきたわけです。もう「太平の世」のままではいられなくなってきました。その頃、長州藩の高杉晋作は、江戸幕府の派遣員として、清の時代の「上海」を訪ねます。そこで見たのは、イギリスによる植民支配の惨状でした。不公平な貿易による搾取、財政の混乱、人々の阿片中毒、「太平天国の乱」による混乱、そのような隣国の様子に、衝撃に覚えたのです。『このままだと日本も同じように植民地化してしまう!』という怖れを抱きます。時代の流れに抗うことができないで、日本も開国し、「明治維新」を経て近代化の道を突き進んで行きます。「遅れ」を取り戻そうとして、「欧化政策」に躍起とし、産業も軍事も教育も医学も、ヨーロッパ諸国から学び始めるのです。

こう言ったヨーロッパ人との接触が多くなった時期に、『いったい、われわれ日本人とは何か、誰か、この時代をどう生きるか?』という問いかけを自らに課します。特に、日清戦争と日露戦争に勝利した時期に、次のような「日本人論」が論じられていきます。内村鑑三が「代表的日本人(1894年)」、志賀重昂の「日本風景論(1894年)」、新渡戸稲造が「武士道(1899年)」、岡倉天心が「日本の目覚め(1904年)」と「茶の本(1906年)」です。内村と新渡戸と岡倉の書いた四冊は、「英語」で書かれたのです。つまり読者は、欧米諸国の人たちで、彼らに向かって書かれたわけです。『俺たち日本人とは・・・』と言った、日本と日本人の認識を認めたことになります(岡倉以外は、「札幌農学校」に学んだ人だったのです)。

「アイデンティティ」という言葉があります。アグネス・チャンによると、この言葉の意味は、『私は誰?』、『どうして此処にいるの?』、『これから何をするの?』の答えを求めることだと言っています。この三つの問いに、『答えを持っているだろうか?』、明治の人々は、それを考え始めたのです。「平成」の御世(みよ)の私たちにも、この答えは必要です。ですが、この「全地球」規模で関わり、考えなければならない今、自分の国以上の広がりの中で、外の世界を見ないと、行く道を誤りそうでなりません。一国の繁栄や安定だけではなく、国境を越えた広がりでの中で考えていくべき時代なのではないでしょうか。「大気汚染」、「食糧と人口」、「領土や資源やエネルギー」、「青少年問題や犯罪」などは、すでに国境を越えた課題になってきているからです。そうしないと、明日の地球はなくなるかも知れません。

それ以上に、『人間とは何?』を、考える時ではないかな、と感じている年の瀬であります。

(写真は、メキシコ原産の「ポインセチア」です)

年の瀬に思う

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農耕民族の生活は、お天気任せで、蒔いた種や植えた苗の成長は、ただ手を合わせて祈りながら、水をやったり草を引いたりして、作物の生長を見守りながら世話をしてきたのです。冷害や、日照りの水不足、病害虫の異常発生、働き人の病気と、様々なことに見舞われながら、耐えて、そうし続けてきた営みなのです。ですから、豊作の秋を迎えた年の喜びは、言葉に言い尽くせないほどだったのでしょう。

わが家では、父が会社勤めをしていましたから、農家の生活ぶりを知らないで、私たち兄弟は育ちました。それでも、生活の中には、農耕民族の慣習や伝統が、多く残っていたのです。その際たるものが、「正月」の朝食でした。父は、明治の最後の生まれでしたから、大晦日には、「年越し蕎麦」を、きちんと食べて新年を迎える人でした。元旦の朝は、暮れに近所の米屋さんに注文しておいた「延べ平餅」を、物差しで測りながら切って、専用の木箱に収めて置いた餅を、父が焼き、母が、鳥肉と小松菜と三つ葉の入った醤油味で作られた「お雑煮(ぞうに)」を食べました。それに、母が何日もかけて作って「重箱」に、飾るようにして入れてあった「おせち料理」を、家族六人で炬燵に当たりながら食べたのです。当時は、どの家庭でもこう言った光景が見られたのでしょう。

紅白の蒲鉾、伊達巻、ごまめ、昆布巻、数の子、黒豆、栗きんとん、酢だこ、小魚の串さし佃煮、なます(大根と人参の酢の物)、煮里芋、煮ごぼう、それにハムなどが、重箱に詰められていました。今思い返しますと、彩りが鮮やかで、まるで「芸術品」のようでした。ある時、「お屠蘇(とそ)」の代わりにぶどう酒を、父が飲ませくれました。酒を飲まなかった父が、ほんのり赤ら顔になっていたことがあったのです。ああ言った家族の団欒があって、愛され、世話され、叱られ、褒められて成長できたのです。

農家の女性が料理をしないで、作り置きの料理を食べて、年の初めを愛でて過ごして、雪が溶け、北風が止む春の到来を待ち望んだのです。だから、「正月」は特別で、独特な習俗や食文化を残したのでしょう。この辺に、「日本文化」の独自性があるように思われます。正月からスーパーが営業している現代では、「おせち料理」も出来合いが売られ、お肉も惣菜も豊富ですし、大所帯から核家族になっていますので、少々濃い味で作り置きをしておく必要がなくなってしまいました。一緒に「情緒」も消えてなくなってしまっているのは、ちょっと寂しいものがあります。家の中にも外にも、伝統宗教の飾りも用具もまったくない、スッキリしていた育った家が懐かしい年の瀬です。

(写真は、暮れに出回る「シクラメン」です)

感謝の思い

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『もう一度肺炎になったら死ぬことを覚悟し、十分に注意して生活して下さい!』と言われてから、何度目の誕生日でしょうか、異国の空の下で、昨日、迎えることができました。小学校入学前に、風邪をこじらせて肺炎にかかり、街の国立病院に入院しました。どのくらいの期間、入院したのか覚えていませんが、木造の古い建物で、人が歩きますと、床がギシギシと音を立てていたのです。この街にあった連隊の兵舎を利用した病舎だったのだと、父から聞きました。入院中の私を、母はつきっきりで献身的に世話をしてくれたのです。その甲斐があって、退院することができ、今日まで生き延びることができました。

入院中のベッドが寒かったので、父の祖父が、イギリス海軍に技官として遣わされて学んだ帰りに、お土産に買ってきた「純毛の毛布」を、実家から取り寄せて使わせてくれたのです。退屈していた私は、ハサミとか紙を家から持ってきてもらって、工作をしていたのですが、しまいにはシーツとか毛布まで切り刻んでしまったのだそうです。ある時、大勢の人が病室に入ってきました。後で聞いたら、この県の知事さんが、私を見舞ってくれたのだそうです。偉そうな人がいたのだけ覚えています。

すんでのところで落雷を避け、台風で荒れた海で溺れかけ、上の階のガス爆発で九死に一生を得たり、交通事故をすんでのとこで避けたり、自転車の転倒で車道に投げ出されないで歩道に倒れたり、まだまだ数え上げるますと多くの危険や死に直面したことがあるのです。こういう私のことを、「しぶとい奴」と言うのでしょうか、いつも思うのですが、『自分は<おまけ>を生きてるんだ!』と。母が生きてる時に、自分に誕生日が来るごとに、『産んでくれてありがとう!』と電話をかけて、産んで育て、死線をさまよった時にしてくれたお世話に、心から感謝をしてきました。母が召され、去年も今年も、もう、それが叶えられなくなった自分の誕生日になりました。でも四人の子どもたちが覚えていてくれて、『おめでとう!』と今年も言ってくれ、教え子も同僚の教師も言ってくれたことが、また嬉しかったのです。

今の時を、このように異国で過ごすことは、祖国に何も持っていない私にとって、最善の生き方に思えるのです。これは強がりではなく、自分の「生き始めたこと」の仕上げを、ここでしているつもりでいます。あ、訂正しなくてはなりません。祖国には、素晴らしい友人や父母を同じくする兄弟たち、息子たち、娘たちがいることを忘れてはなりませんね。健康で、満ち足りて、年が越せそうです。父が、『雅、死ぬなよ!』との思いで、欠かさないで買っておいてくれた「バター」を病後に食べていたのを思い出します。それででしょうか、今日も、近くのスーパーで、「黄油」と呼ばれるバターを買ってきました。

(写真は、「バター」です)

地産地消

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こんな「川柳」が、ある新聞に載っていました。

鎖国して地産地消でやれた江戸 

実に面白いと、感心してしまいました。「地産地消」というのは、住んでいる地域で生産した食料で、その地の人々の「食」を賄うことを言っています。つまり、江戸の街に住む人たちは、近郷近在のお百姓さんが作る米や野菜、漁民の獲る海産物、家内工場で作る味噌や醤油、油や豆腐や油揚げなど、薪や炭と言った燃料、生活の上下水、トイレの汲み取りに至るまで、生産と物流の都市機能が十分に発達していたことになります。

当時のパリやロンドンに比べても、江戸の都市機能は、大変に発達していたのです。近在のお百姓さんが、荷車に野菜を積んでやって来ます。「厠(かわや)」のものと、その野菜を交換して帰って行きます。それで「堆肥(退避)」を作って、美味しい野菜生産のための「土作り」をするのです。この「循環機能」が、上手に働いていたことも、驚くべきことだったわけです。自然農法として普通のことだったわけです。少し臭い話をしましたので、今度は、「生活用水」のことに触れてみましょう。太宰治が入水して有名な「玉川上水」は、江戸市民の生活用水として、1653年に工事を開始し、人工的に作られたものでした。おどろくべき、「水道事業」だったのです。これは「江戸六上水」の一つで、多摩川から取水して、江戸市中に供給され、「飲料水」として使われていました。

江戸の街作りは、驚くべきもので、「百万都市」を機能させたわけです。幕末にこの江戸を訪れた外国人を感心させてやまなかったそうです。土木の技術も水準も、雲泥の違いの現在よりも、かえって優れていたのではないでしょうか。モッコに土を盛って、人力で担いで土砂を運んで、河川や上水道の掘削や埋め立てをして、あのような事業をしたのですから驚かされるのです。江戸幕府に、それほどの財力と人材があって、そのような首都機能を円滑にしたことは特筆すべきことです。

もちろん、長崎の出島から、ヨーロッパの近代工法などを学んだことは確かですが、「鎖国」という制限の中で、知恵を振り絞って国づくり、街作りをしたことは、私たち現代に生きる日本人の「国の誇り」であってよいと思うのです。きっと私利私欲に捉われない役人たちがいたからでしょう。東京は、「首都高」などの改修や改築の時期だと言われています。古い文献にある記録を見直し、江戸から学ぶことをお勧めします。

(写真は、現在の立川市砂川を流れる「玉川上水」です)