カタカナ語

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<カタカナ語の氾濫>を嘆く人のブログ記事を読んで、これまで書き続けて来た、ブログを読み返してみました。やあー、実に多いのに驚きました。中国伝来の漢語は、カタカナ表記はしませんが、これらも外来語です。中世以降のポルトガル語(「カステラ」が有名)明治維新以降の英語やフランス語やドイツ語が、混ざりに混ざって、今の日本語が成り立っているわけです。

中国語では、外来語を、どのように表記しているのかが面白いのです。アメリカのことを、日本語では「米国(亜米利加)」、中国語は「美国」です。ニューヨークは「紐育」で「紐約」です。中国の方が、欧米諸国との接触が、鎖国中の日本よりも早かったので、中国語表記の影響を、日本語がおおきく受けているのです。「リンカーン」は、「林lin」に「肯ken」のように、地名や人命の発音に似ている漢字が使われているのです。

台湾に行った時に、ある所でお話をさせてもらいました。話の始めに、『廣田さん、カタカナ語を使わないでいただきたいのですが、よろしいででょうか?』と言われたのです。話の原稿を見ますと、何箇所にもカタカナ語があるではありませんか。それを日本語に言い換えなければならないわけで、ちょっと戸惑ってしまったのです。通訳者が、英語をご存知でも、日本語化されて使われている英語を類推することは、台湾の方にはできなかったからです。カタカナ語は、英語ばかりではなく、フランス語もあるのです。例えば、「ニュアンス」は英語ではなく、フランス語なのです。

実は、『カタカナ語は極力使わないで文章を書く!』と決心して、このブログを書いて来たつもりですが、その決心を忘れ てしまって、実に多いのです。同じように、国会議員の質疑応答、文筆家の文章にも多いのです。難しいので、辞書を引くのですが、綴り(「スペル」と書いたのですが<綴り>に書き改めてしまいました)が分からないのでうやむやになってしまうことが多いのです。

「繰り返して訪れるお客」を、”リピーターrepeater” と呼んでいますが、英語本来の意味は、「連発銃」か「常習犯」や「落第生」なのだそうです。馴染みのお客さんが来た時、『あっ、連発銃を持った常習犯と落第生が来た!』では、実に失礼になってしまうわけです。綺麗な日本語、大和言葉があるのですから、極力使いたいと再決心の「長月」の七日です。さて「ブログ」は,何と日本語で書き表したら好いのでしょうか。

(写真は、福砂屋の「カステラ」です)

中秋節の休み

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今週末から、来週始めまで、「中秋節」で休みになると連絡がありました。新年度、新学期が始まったばかりですのに、予想外の休みに、緊張気味の気持ちが、少々緩んでしまいました。でも、この休みは好いものです。

日本にいたら、<ジジババ>をしているのでしょうか。もう学校に行き始めているので、両親や祖父母よりも、友達が一番好くなっている孫たちですから、けっこう煙たがれて、時間を持て余してしまうことでしょう。それで、ボランティアに出かけたり、自転車に乗って知らない小道を走ったり、図書館で読み物をして過ごすのかも知れません。昔、釣り竿を担いで出かけたりした魚釣りも、けっこう楽しめそうです。

ところが、こちらにいることで、きちんと学期学期に、週ごとに、果たすべき社会的な責任が与えられていることに、感謝しているのです。先々学期まで、一緒に仕事をしていた二人の同年輩の教師が退職してしまって、自分独りになってしまいました。なんだか存在価値や責任が大きくなっているのかも知れません。最近の学生には、『爷爷(イエイエ/おじいさん)!』と呼ばれるようになっています。もう、『叔叔(シュウシュウー/おじさん)!』の年代ではなくなっていますから。もちろん、『廣田先生!』とか『雅仁先生!』と、学生にみなさんは呼ぶのですが、彼らのお父さんやお母さんは、私の長男の世代ですから、当然でしょうか。

高校三年間、担任をしてくれた教師は、兄たちの学年を担任した方で、その学年で渾名された、『オジイ!』が通称でした。慶応ボーイのお洒落な英語教師でした。終礼に出るのをサボって、終わってから教室に戻ると、『雅仁、オジイが、また怒ってたぞ!』と言われるのです。それで職員室に行って、『先生、何でしょうか?』と言うと、『おう、廣田来たか!』と言って、怒ったことなどなかったように、世間話をして、『頑張れよ!』と言うのが、何時もの繰り返しだったのです。教育実施に行った時には、もう退職されておいででした。

「休み」と聞いたので、この<オジイ>を思い出してしまいました。好い先生だったN先生の年齢をはるかに超えてしまっている今の私ですが、『もっと真面目に勉強しておけばよかった!』と、これも何時も繰り返し思いにやってくる、<今オジイ>の自己反省です。

(写真は、”百度”による「秋桜(こすもす)」です)

健康志向

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私の散歩道が、幾つかあります。このアパートには、南と西と東に、門が三つありますから、それぞれの門を出て、右左に行くだけで六方向あるのです。最近気づいたことは、この地域の<運動公園>に向って歩いて行くのが一番好いということなのです。なぜかと言いますと、思い思いに歩いたり、 走ったり、後ろ向き歩きをしたりしていて、仲間と二人、三人と連れ立って、励まし合っている、同好者が、そこに大勢いるからです。

他の道で、散歩している方と会うのは、一時間半ほどの間に、一人くらいで、ほとんど朝早く出勤の電動自転車に乗って急いでる方たちばかりです。運動公園では、若者たちが、10面もあるバスケットボール場で、ゴールに向って、ボールを放ったり、ゲームをしています。年配者たちは、鉄棒にぶる下がったり、歩行練習機のようなもので体を動かしたりして、まあ様々に運動をしているのです。さらに400mの陸上競技場を、何周も走っている方もおいでです。

今朝、見付けたのは、公園の隅にある「テニスコート」です。何と三面も、全天候型のコートがあるではありませんか。篠竹が通り道と分け隔てた中に、隠れているようにあったのです。誰も使っていませんでした。『えーっ、もったいないな!』と言うのが実感でした。『近くにテニス好きの同世代の御仁がいたら、一緒にできるのになあ!』とつぶやいてしまいました。

そうですね、一人でやっていると、時々言い訳が出て来て、サボってしまうのですが、早朝や夕刻に、こうやって運動に励んでいる仲間がいるだけで、『みんな頑張っているんだから!』と、自分を励まして続けられるのでしょうか。そう言った意味で、運動公園の存在の意味があるのでしょう。何人か肥満体の方もいますが、切実に思っている人もいるようです。

そこにいる人の平均年齢が、男女ともに高いのは、<健康志向>だからでしょうか。私も同じですが、<老い>に挑戦状を叩きつけているのでしょう。朝が、だいぶ涼しさを感じられるようになって来ました。『友達百人できるかな!』、と思ってみたりしています。

(写真は、”WM”による、秋の花「桔梗(ききょう)」です)

人恋しい秋

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やはり、人恋しくなるのでしょうか、今朝、ある方のことを思い出していました。私と二十歳違いで、同じ誕生日、同じように腕時計の文字盤を腕の内側に向けてはめるアメリカ人の実業家がいました。一緒にテニスをしたこともあり、よく彼の家に、家族ごと招いてくれた方でした。夫人の両親がパン屋でしたので、美味しいパンやクッキーを焼いて食べさせてくださいました。病気になられて、しばらく闘病をされていましたが、召されてから、もうだいぶ年月が経っております。

先日、この方の写真が、回り回って、私のメールボックスに、添付されて送られて来ました。まだ二十歳前の<美男子>、太平洋戦争に従軍されていた時のものです。北欧系の青い目で、息子さんが、お二人健在ですが、よく似ているのです。

北欧からの移民の子で、ワシントン州の出身で、私が一緒に働いた方の友人でもありました。 私の知る限り、よきアメリカの伝統を受け継ぐ、<アメリカ市民>のモデルにような人でした。<gentlemanジェントルマン>と言う英語を絵に書いたような穏やかで、堅実で、暖かな心の持ち主でした。

父には少し若く、兄には年齢差が大きかったのですが、人間的に見て、<父的な存在>だったでしょうか。『どうして、こんなに穏やかなのだろうか?』と、誰もが思っていたのです。一緒に寝泊まりをしたことはありましたが、生活の全てを見ていたわけではありませんでした。出会って来た沢山の人の中でも、特に思い出深い人です。喧嘩ぱやい短気な私にとっては、感情の抑制の効いた理想的な人だったのです。

ところが、ある時(告別式の時です)、弟さんが若い時の兄の思い出話を話したのです。それを、又聞きしたことがありました。この方が、十代を送った街では、大変有名(!?)だったそうです。それが、全く変えられたのです。戦場での体験が、彼を変えたのか、途轍もない誰かとの出会いがあったのか、私が出会った時には、ニコニコと両手を広げて迎え入れてくれる人でした。奥様は、この話は、<寝耳に水>だったそうで、彼は、自分の心の中で、過去を封印して、愛する夫人にも語らなかったのです。

変えられたお父さんの彼に、五人の子供さんがおられます。みなさんを知っていますが、彼らが、まだ子どもだった頃、家族で訪問した時に、自分たちの寝台を、私たち家族に与えて、何処かに寝場所を見付けて寝てくれ家族ぐるみで歓迎してくれた方たちでした。そんな好い経験をした私たちの子どもたちも、そんな生き方を真似て、それぞれが、今を生きているのは感謝なことです。

(写真は、”HIS”による、ワシントン州シアトルの名物の「クラムチャウダー」です)

学びつつ教えつつ

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昨日は、5時10分起床、顔を洗い、トマトとキュウリを刻み、饅頭(こちらのマントウ)にバターとピーナッツ・バターとチーズ、紅茶を淹れて、ゆっくりと朝食を摂りました。6時40分に家を出て、 近くのバス停から公共バスに乗って、学校のバス停で降り、東門から構内を横切って、キホク楼の405番教室に着いたのが、7時15分でした。

授業の主要点を板書し、空調を入れて、学生たちの来るのを待っていました。90分授業で二学級を済ませたのです。今学年最初の新3年生の「作文」の授業でした。1年生の時に「発音」と「会話」を教えた学年です。そうやって待機する緊張感は、けっこう好いものなのです。

さすが、2年間の学びは、学生さんたちを大きく成長させているようです。机の端に、「経貿」と印刷された教科書がのっていました。入学時に、チンプンカンプンだった彼らが、よく聞き取れ、自分の思いを日本語で表現できるようになっているのです。前期16週、後期16週で、立派な文を書けることでしょう。過去の学年を見ますと3年の終了時には、日本人とほとんど遜色ない文章家が、毎年、4、5名はおいでです

教え子の中には、旧国立大学(旧帝国大学)の大学院に進み、超一流企業に内定した方もいます。しっかりと学びを継続させている卒業生がいることになりますね。前回帰国中に、渋谷の<ハチ公>の前で落ち合って、夕食に、一緒にハンバーグを食べ、珈琲を飲みながら、留学経験の悲喜こもごもを聞いた卒業生です。そこで一緒に食事をした教え子も、大学院への進学準備中でした。

幼稚園、小学校、中学校、高等学校が、今日から始まりました、大きな希望をもって、しっかりと知的にも人間的にも自分を作り上げて、社会に貢献で来る人となって頂きたと願っております。人生の後半に、このような機会が開かれたことを不思議に思うのです。『もう、やめようかな!』と思うこともありましたが、続けられての昨日でした。そんな生きる励みがあることは感謝なことです。

今学期が終わる頃は、「春節」も間近かな時期になります。そこに向って、好い始まりができたようです。学びつつ、教えつつ、精一杯にと決意を新たにしたところです。

(写真は、”Early Morning"から「紅茶」です)

気質と言葉

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関西圏と関東圏との違いを、端的に言い表している言葉があります。比較例が、好くないのをおゆるし頂きたいのですが、「アホ」と「バカ」と言う言葉です。昔、ある総理大臣が、『バカヤロー!』と口を滑らせて、国会が解散したそうですが。関東人が言う『バカ!』には、棘があり、言われた人の感情を甚だしく傷つけてしまうようです。通りすがりで、肩が触れ合って、『気をつけろい、馬鹿野郎!』とでも言うなら、テレビや映画でなく、普段の街中でも殴り合いになるのです。

ところが関西人が言う、『アホ!』は、喧嘩まではいかないのではないでしょうか。関東で育った私が、よその言葉を聞く感じ方の違いで、そう感じているだけなのでしょうか。大阪の人に聞いて見ないと、そう言われた実感を理解できません。関西の漫才で、時々聞く限りでは、軽い響きがあって、『なんでやねん?』と、受け答えできそうに思えるのですが。気質の違いが、言葉の違いでもあるようです。

船で帰国したり、戻って来たりするたびに、上海の街を、何度か歩いたことがあります。旧日本人街のあった辺りを、「虹口(ホンキュ)」とか「四馬路(スマロ)」と、昔の歌で歌われていたのですが、そこに「福州路」があって、地下鉄を降りて、しばらく歩きますと、「外灘waitan」に出られます。世界有数の港で、船の行き来も多くて、観光客の数も驚くほどです(この辺りしか上海を知りません)。

私が泊まったのは、古いホテルでしたので、もしかしたら、戦前からあったものを改装したのではないかと思ったのです。ちょっと<懐旧的>な趣を楽しめたからです。上海の外灘の「古写真」を見たことがありますが、波止場を作っている<黄浦江>の流れの曲がり工合が、今も同じで、そこに写っているのと同じ建物(時計の付いた建物が有名です)が、今も現役で使われているのが分かります。

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この<上海>が大阪で、首都の<北京>が東京のような感じなのでしょうか。上海語と標準語の違いがありますが、言葉の響きの違いも、きっとあるのではないかと思われるのです。こちらの方に言わせると、北の人と南の人では、食べ物の味だけでなく、<気質>がだいぶ違うのだそうです。そう言えば、天津でよく見た取っ組み合いの喧嘩が、華南では、ほとんど見られないことと関係しているかも知れません。

気候が厳しいか穏やかか、肉か魚か、味が辛いか甘いかなどによっても違いがあるのでしょうか。<◯◯気質>と言ったりするようですが、広大で多民族の中国では、言葉や表現の仕方の違いも大きく、多様なのでしょうね。狭く小さな日本でも、その違いがはっきりしてるのですから。

(写真は、”百度検索”より、1930年代の上海の「外灘」、下、北京の胡同<下町>の昔の様子を描いた絵です)

百万一心

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広島の土砂災害の被害者の捜索に、警察庁と自衛隊と消防庁のみなさんが当たっておられると、ニュースが報じています。<2800人>とか<3500>もの陣容で行われているようです。人のいのちの尊さに対する畏敬の念を、その職務に感じさせられています。今朝のニュースですと、もう二人の方が、残っておいでだと言うことです。二次災害の恐れの中を、スコップを手に創作作業に当たっておられる、警察官と自衛官よ消防署員のみなさんには、<仕事>以上の<使命感>を覚えさせられるほどです。

新潟、淡路と阪神、東日本などの大震災の折に、速やかに派遣され、死の危険を恐れずに、その職務に当たっておられる、警察、自衛隊、消防庁の職員のみなさん、『本当に、ご苦労様!』、『ありがとうございます!』と心の中でつぶやいております。

特に、自衛隊が発足して、防衛大学校の第一回卒業式に、時の総理大臣・吉田茂が、次のように言っています(「2011年4月8日付「悠然自得」にも掲載)。

『君たちは自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり 、歓迎されることなく、自衛隊を終わるかもしれない 。きっと非難とか叱咤ばかりの一生かもしれない 。御苦労だと思う 。しかし 自衛隊が国民から歓迎され、ちやほやされる事態とは 、外国から攻撃されて、国家存亡のときとか、災害派遣のときとか 、国民が困窮し、国家が混乱に直面しているときだけなのだ 。言葉を換えれば 、君たちが日陰者であるとき、国民や日本は幸せなのだ 。どうか、耐えてもらいたい !』
(昭和32年2月「防衛大学校第1回卒業式」訓示)

これは<名訓示>と言われているものです。今回、広島市の災害地に災害派遣されたみなさんのヘルメットに、「百万一心」と言うステーカーが貼られてあります。これは、毛利元就の故事に倣って、[「日を同じうにし、力を同じうにし、心を同じうにする」と言うことから、国人が皆で力を合わせれば、何事も成し得ることを意味している(ウイキペディアの解説)]と言う意味だそうです。そんな思い出、復旧と捜索に当たっておいでなのです。

平時の任務に、真心から従うみなさんのご無事を、心から願っております。

(写真は、”MSNニュース”による、戦国時代の大名毛利元就が吉田郡山城(安芸高田市)の拡張工事(普請)の際に人柱の代わりに使用した石碑に書かれていた言葉「百万一心」を記した「ヘルメット」です)

 

父と母にまつわる味

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仕事か出張で出かけて,その帰りに,父は必ずと言って好いほど,お土産を手にしていました。お腹を空かせた育ち盛り四人の男の子のために、その土地土地の<名物>を買って来てくれたのです。コケシだとか、飾り物などでは、買って来てくれたためしがありませんでした。何時も「食べ物」でした。ですから、帰って来た父の顔ではなく、手の先にぶら下げている物に、最初に目が行ったのです。

横浜回りで、東海道線で帰って来た時の<名物>がありました。駅のホームで、『えー、弁当、弁当!、お茶に弁当!』と言いながら、売り子が売りさばいていた、横浜名物の「シュウマイ」です。「シュウマイ」が入った折詰に、陶器でできた醤油入れと小皿と洋辛子が入っていました。美味しかったのです。当時、中華料理で知っていたのが、醤油味で鳴門巻きとシナチクと海苔の入った「中華そば(または支那そばで、ラーメンなんていうのは、そのあとのことでした)」だけでしたから、『中国の人は、こんなに旨い物を食べてるんだ!』と言うのが、「シュウマイ 」を食べた時の感想だったのです。

この八年間、多くの種類の中国料理を食べて来ましたが、父が持ち帰った<最初の中華味覚>の「シュウマイ」と同じ味を、こちらで探し当てたことがありません。あれは、独特に日本人好みの中華料理、幼い日の<懐旧の味>だったのでしょうか。今日の昼にも、知人と一緒に食事をしましたが、その料理に、似ていた物がありましたが(美味しかったのですが)、あの味とは違っていました。

もう一つ、懐かしい中華料理があります。母親の自分流のレシピでこしらえてくれた、<かた焼きそば>でした。中華麺を油で上げ、それに、豚肉、白菜、人参、もやし、筍もあったでしょうか、それを炒めて片栗粉で、ドロっとさせたアンを掛けた、<門外不出>の逸品でした。育ち盛りの息子たちの食欲の的だったのです。あの味も、こちらで出合ったことがありません。唯一無二の<お袋の味>だからです。あの母の工夫してくれた料理で、この体が作られたのだと思い返している、まだ日中の温度が34度もあった夕刻であります。

(写真は、”崎陽軒”のホームページにあった「シュウマイ」です)

赤とんぼ

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夕方の散歩の道で、トンボが二匹、私の前を横切って行きました。『赤とんぼかな?』と思いましたが、日本で見慣れた色よりも、少し薄かったのですが、メスだったかも知れません。夕方の風を受けて、スイスイと飛んでいたのです。やはり秋なのでしょうね。トンボを目にすると思い出されるのは、作詞が三木露風、作曲が山田耕筰の「赤とんぼ」です。

1 夕焼小焼の赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か

2 山の畑の桑の実を
小かごに摘んだは まぼろしか

3 十五でねえやは嫁にゆき
お里のたよりも 絶えはてた

4 夕焼小焼の赤とんぼ
とまっているよ 竿の先

工業化や都市化が進んで、里山や野原や小川が少なくなったり、防虫や除草のために農薬が多く使われたからでしょうか、虫や鳥や野花が生息できなくなって来ているのでしょうか、子どものころに、野原や田んぼの上を、無数に飛んでいた赤とんぼを、最近では見かけなくなってしまいました。こちらでも同じなのかも知れません。

<トンボとり>、<トンボつり>などと言ったでしょうか、棒の先に止まっているトンボの目の前で、人差し指を蚊取り線香のようにくるくる回して、気絶させて採る方法もあったのですが、採れたためしがありませんでした。この歌の二番にある、「桑の実」のことを、小学校時代を過ごした都下の街では、<ドドメ>と呼んでいました。好く熟した実は、甘くてとても美味しかったのです。

まだ農家は、養蚕(ようさん)をしていましたから、桑畑が広がっていて、ある木には、たくさんの実をつけていたのです。桑の木の前に座り込んで、口いっぱいに放り込んで食べたものです。こちらでも、一斗缶に入れて、道端で売っているのですが、夏前に出回っていたようです。<赤とんぼ>、<桑の実>は、懐かしい子どもの頃の風物詩であります。

(写真は、”実業之日本社”による復刻版「赤とんぼ」です)

達観

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都市部から離れた辺鄙(へんぴ)な「田舎」を、漢語では「乡下(郷下)xiang xia」と言います。また自分の「故郷」を、「老家laojia」と言います。先週、訪れた郊外の幹線道路を車に乗せていただいて通りました。その沿道風景は、都市部から郊外に抜けて行く、日本の風景と、そっくり、な様子を見せていたのです。

所々に農家や商店があり、夏の花が綺麗に、道路沿いに咲き、アパートの中の植え込みにも咲いていました。春先に咲く花の色に比べて、色の濃さが増し加わって、夏の感じが溢れていました。懐かしかったのは、泊まったホテルの庭に、<百日紅(サルスベリ)>の木の花が咲いていたことです。日本の知り合いの家の玄関に、植えられていて、本当に猿が滑ってしまいそうな幹や枝だったのと、まったく同じでした。ピンクでしょうか、薄紅色でしょうか、綺麗な花をつけていました。

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そ言えば、『カナカナ!』と聞こえる蝉の声がしていたのです。あの暑さを掻き立てる『ジージー!』とは違っていました。田舎だったからではなく、季節が移ろっていたからなのでしょう。街に戻って来ましたら、蝉の声が聞こえてきません。やはり、秋なのでしょうか。秋は、夏と共、そっとやって来ていて、猛暑の中に隠れているのだそうです。そう言えば寝苦しい夏の夜が、明け方近くなると、若干温度が低くなっているにではないかと感じさせられるこの頃です。

夏草や 兵(つわもの)どもが 夢のあと

奥州藤原三代の栄誉を、思いながら、「奥の細道」を旅しながら、芭蕉が読んだ俳句です。中一の国語で習ったのですが、『人の盛りの時期と言うのは、短いのだ!』と解説されて、これから生きていこうとしていた十三の私には、『へー、そんなものなのか?!』と思っただけでした。この中国大陸も、数限りない武将たちが群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)し、東西南北に兵を走らせ、民を追ったのです。

今まで、どんなに暑かった夏も、必ず終わって、秋が到来しています。何事にも移ろいと終わりがあるのですね。いやー、ちょっと達観してしまいました!

(写真は、”奥の細道画巻・平泉”による「芭蕉」、下は「サルスベリ」です)