くさや

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このところ仕切りに食べたい物があります。海洋民の性(さが)なのでしょうか、《干物》です。開きの鯵やホッケ、丸干しの鰯を、時々買っては食べていますが、「くさや」の味が思い出されて、蜆の味噌汁とぬか漬け漬物とご飯で食べたら美味しいでしょうね。というのは、父が美味しそうに食べていたからだと思います。

昔は、ちょっと奮発すれば食べられたのですが、今や高級魚で、たまにスーパーの干物売り場の端っこに置かれていますが、魚の専門店でないと置いていません。伊豆諸島の新島に伝わる、独特な「液(魚醤に似た発酵液)」に浸けた魚を、天日で干し、江戸に運ばれ、できの良い物は、将軍に献上されたそうです。

漁民の知恵が生んだ優れものです。飛び魚、むろあじ、しいらなどの魚が用いられ、秘伝の「くさや液(発酵液)」が味と栄養価の秘密なのだそうです。知人が伊豆利島で教師をしていて、一度、家族で訪ねたことがありました。船着場から高台の教員住宅に行くまでの間に、加工小屋があって、その中に、「くさや液」のプラスチック製の風呂桶の様な桶がありました。まさに、くさやのニオイがしていました。

そう今では、通販で買う時代になっていて、指一本で発注できるのですが、どれを選んでよいのか迷ってしまいます。どうして「くさや」なのかと言いますと、『くさや 新島における方言で魚全般を指して「ヨ」と言われており「臭い」+「魚」=「クサヨ」が転じて「クサヤ」になったと言われている。また、新島ではくさやを製造している水産加工業者を指して「イサバヤ」と呼んでいる(ウイキペディア)。』のだそうです。

中国の街の食品売り場に、「臭豆腐choudoufu)」が置いてあります。二度は食べませんでしたが、一度、もらって食べたことがありました。きっと、「くさや」も同じ様に敬遠されるのでしょう。でも食べ慣れたら、きっと好物になって、虜になってしまことでしょう。

利島に呼んで下さった方は、今、どうされておいででしょうか。東京都の教師でしたから、利島から多摩地区の中学校に転勤されたとは聞いていたのですが、もう退職しておられることでしょう。同じ学校の後輩で、肥後熊本出身でした。とても穏やかな方で、子どもたちによくしてくださいました。

(伊豆七島の「利島」の全景です)

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正月

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ふるさとの海の香にあり三ケ日 鈴木真砂女

真砂女は、生まれ育った海浜の故郷に帰って、正月を送ったのでしょう、海の香、潮の香に懐かしく触れた思いを詠んでいます。潮風が、潮騒が過ぎ去った幼き日の出来事を思い出させてくれたに違いありません。真砂女の故郷は、千葉鴨川で、大きな旅館の娘だったそうです。

私の父は横須賀、昔は漁村だったのでしょうが、明治以降は軍港となり、海に面した街の出身です。母は出雲、旧国鉄の駅からほど遠くない地方都市の街で育ちました。そして私は中部山岳の山の中、山と山がせめぎ合った奥深い、神社の参道にあった旅館の離れで生まれた、と親に故郷を知らされていました。何度かその家の前を車で通り過ぎましたが、何度目にかは、家屋は倒壊してしまっていました。

吹き下ろしてくる風に揺れる葉の音、参拝客の靴の音がし、山影ですから降り積もった雪は、溶けなかったことでしょう。沢違いの村に越して、そこで小学校入学から一学期が終わるまで過ごしました。その光景を覚えています。策動を動かすモーターの音、家の前の沢の水音と魚影、木材を運び出すトラックの砂埃、小学校の鐘の音、LALA物資の脱脂粉乳の臭い、家の裏から林を超えて山に通じる道、陽の光も風の匂いも記憶の中にあります。

そこから越して住んだのが、東京都下の八王子でした。浅川にかかった大和田橋、甲州街道の橋のたもとで、鉄製のベーゴマを磨く、すぐ上の兄の横で、真似してベーゴマを磨いていました。そこに、日本自動車の工場から、試験運転する米軍に納品するトラックがUターンして戻って行くのでした。戦争中の高射砲陣地があって、そこに連れて行ってもらったこともありました。一、二度、立川の飛行場に着陸しようとした米軍戦闘機が、家の近くに落ちて、その残骸を見に行ったり、拾ったりしたこともありました。

そこに一年いて、隣町に越しました。木製の駒やベーゴマを回したり、凧を揚げたり、そり遊びをしたり、鬼ごっこや馬跳びや馬乗りや陣取りなどに興じました。男兄弟で喧嘩をし、弟をいじめ、上の兄に殴られ、学校に行っても喧嘩をし、悪戯をしては廊下や校長室に立たされたのです。正月の空は抜けるように高くて、澄んでいました。父がいて、母がいて、兄たちや弟が、何時でもいました。

父が四角く几帳面に切った餅を七輪で焼いた餅を、母が小松菜と鶏肉で醤油味の関東風に仕立てたお雑煮を、来る正月ごとに毎年、お腹がふくれるほど食べました。暮れに母が煮て作ってくれ、重箱やお皿に盛られた「オセチ(御節)」が、美味しかったのです。伊達巻、かまぼこ、暮れに決まって母の故郷から送られてきた野焼きがありました。その他に、ごまめ、黒豆、数の子、大根と人参のなます、栗きんとん、昆布巻き、筍や蓮や里芋などの煮しめ等々、高級なハムもあったでしょうか。農家ではなかったのですが、それを食べて正月を過ごしたのです。

子どもの頃は、そんな「三ヶ日」だったのです。子育て中、家内もよく「御節」を作ってくれました。何時でしたか、暮れの弟からのメールに、『賀状を書き上げたので、これから御節を・・・・』と言っていました。義妹が亡くなって何年になるでしょうか、独り身で3人の子を育て上げ、御節まで作っていたのです。

すでに退職し、週二ぐらいで顧問として、長く働いた学校に出勤し、若い教師の指導に当たっています。さらに、もうずっと、青少年の街頭指導をしているのです。去年の暮れには、内閣府から表彰されています。75歳までやるそうです。そして、ホームスクールの教師を、もう何年も続けています。元旦には、孫たちにお年玉を上げたいと、姪と一緒に訪ねてくれ、娘たちの作ってくれた御節を、美味しそうに食べてくれ、昼食と夕食をともにしました。

(今の家の巴波川を挟んだアパートの屋根の上の白鷺です)
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イエイエ

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初めて会った方に、日本人が一番気にすることが何かというと、「年齢」ではないでしょうか。人種は一目瞭然、職業は同じか同系列と出会うことが多いので、問題にならない場合が多そうです。学歴程度も、隠されていることで、問題にはしたくありません。ただ年齢は、前後十歳ほどの幅があって、十歳上か下かで、二十歳の幅があると言われています。それで、〈長幼の序〉が根底にある私たちの社会では、大切な関心事です。

『どうして、そんな個人的なこと聞くんですか?』と、アメリカ人の青年が、日本女性に言いました。彼が独身だったので、婚活の範囲内かどうかを、この女性は知りたかったのかも知れません。〈個人主義〉の中で育った彼には、気になったのでしょう。私たちは、踏み込んではならない領域があることを知るべきでしょう。

または、どう接するか、自分の立場を、相手のどこにおいて接したらいいのかが、気になるのです。「失礼」のないようにと願うからでしょうか。どんな言葉遣いをしたらいいかも知らなくてはなりません。ジャックジョンとか、苗字以外で呼び合うアメリカの社会には、私たちには戸惑いがあります。

私の恩師は、フアミリー・ネームで呼んでいましたが、他の方には、チャックジョージと、「さん」をつけて呼んでいました。ちょっと壁の高さや低さが気になりましたが、まあ賢くお交わりができたかなと思っております。私の学んだ学校は、医師として幕末に、横浜にやって来られたアメリカ人が始められた学校でした。

その学校では、昔は、先生も学生も、“ Mr . ” で呼びかわしていて、立場の違いの壁を低くする配慮がなされていたそうです。わが家にやって来る、おしゃまな五歳の女の子は、家内を『ゆりさーん!』、私を『じゅんさーん!』と呼んでくれます。子どもには大人の社会的な立場や年齢も関係がないのです。

その割には、学生は、教師に〈渾名(あだな)〉を付けるのが得意です。小学校時代にはなかったのですが、中学に入ると、上級生や先輩からの申し送りの〈渾名〉がありました。高校3年間を担任してくださった先生は『オジイ!』でした。兄を教えていた先生は『ちょろ!』、『ガンちゃん!』、『さぶちゃん!』など、愛されていて名付けられる以外に、嫌われ教師には、それなりに辛辣な名、『ゲジ!』と呼ばれていた体育教師がいました。

自分も、短期間でしたが、教員をしたことがありましたから、きっと付いていたのでしょう。陰で、渾名で呼んでは、『クスクス!』と笑っていたかも知れません。中国では、渾名ではなく、砕けて『ジュン先生!』でした。アッ、ありました。『イエイエ(爷爷)!』と呼んでいると、同僚の中国人教師が教えてくれたことがありました。それは、ただの『ジジイ!』ではなく、親しみを込めた呼び方で、羨ましいと、同僚が言っていました。

そんなことを思い出していました。私の担任は、朝礼でも終礼でも、授業の始めも終わりも、教壇から降りて、私たちと同じ床板に立って、けっこう深めに頭を下げて挨拶をしていました。『君たちと僕は、立場こそ違え、同じなんだよ!』と、身をもって示しておられました。私の教員志望の動機は、このことにありました。

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温もり

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早朝6時、雪のちらほらと降る中、玄関を出て、まだ灯のともっていない別棟の湯屋に向かいました。やっとのことで、外の露天風呂の灯りをつけて、薄明かりの中、一人湯船に浸かりました。憧れの冬場の温泉、ぬるくない《雪の露天》を、贅沢にも独りで、静寂さを満喫させてもらいながら過ごした1月5日の日光の朝でした。

昨年末、4人の子が、退院した母親を加えて、久々の交わりを、正月にしようと、長男が企画し、日光、男体山の近くのスポーツ用品店の社員用の温泉休暇施設を会場に選んだのです。そこに14人が集まり、共に食事をし、交わり会をもったのです。長男夫婦と2人の孫、長女夫婦、次女夫婦と2人の孫、次男夫婦、それに私たちバアバとジイジで、とても感謝な一泊二日の時でした。

「幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。」

昨年、家内の入院中に、友人からお借りしていたお宅に、子どもたちが、それぞれの家族で、一堂に集まったのですが、どうなるか分からない病状の家内は、生死の間を彷徨(さまよ)っていて、不在でした。今回は、奇跡的に退院した母親、バアバが加わったわけです。幹事長の長男の司会で、ウクレレとピアノの伴奏で数曲を歌い、過ぎた一年と、迎えた新年の抱負を、順次一人一人、全員が語ったのです。

家内は、生かされている今を感謝して、多くの友人や親族の支え、家族の示してくれている愛に、《至福の幸せ》を噛みしめていました。4人の孫たちは、バアバからお年玉をもらって大喜びでした。次男夫婦は、日光から直接帰京したのですが、家内のたっての願いの《家族写真》を、明治五年創業の写真館で撮影しました。後日、次男夫婦の写真を合成してくれるのだそうです。

4人の子を持つ《子沢山》を笑われ、借家を借りるのに、それが理由で借りられない経験を、幾度となくし、結局、市営アパートや県営アパートを借りたりして、過ごしてきたのです。その巣を、一人一人巣立って行き、残された《空の巣》に、子どもたちは家族を伴って《帰巣(きそう)》 して来たことになります。

この《帰巣》は、人の本能に違いありません。故郷回帰、原風景を求める思いはどなたにもあるのです。たとえ故郷や祖国は荒廃したり、奪われても、記憶は、何者によっても消されることはありません。源泉42度の掛け流しの温泉の《温もり》に、私が満足したのは、母の胎内の十ヶ月を、全身で感じたことを思い出していたからなのでしょう。子育て中に感じた家族の《温もり体験》が再現した様でもありました。

私たちには、最終ゴールの《巣》があるのです。この世では、貧しい巣に住んでいても、不便を感じても、狭くとも、心楽しく生きているなら、永遠の故郷が約束されている、だから高望みもせず、がっかりもしないで、今を感謝して、喜んで生きていくのです。

憂国

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藤井武が、次の様な文を書き残しています。1930年7月に、「亡びよ」という題でした。

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日本は興(おこ)りつつあるのか、それとも滅びつつあるのか。
わが愛する国は祝福の中にあるのか、それとも呪詛(じゅそ)の中にか。
興りつつあると私は信じた、祝福の中にあると私は想(おも)うた。
しかし実際、この国に正義を愛し公道を行おうとする政治家の誰一人いない。
真理そのものを慕うたましいのごときは、草むらを分けても見当たらない。
青年は永遠を忘れて、鶏(ニワトリ)のように地上をあさり
おとめは、真珠を踏みつける豚よりも愚かな恥づべきことをする。
かれらの偽(いつわ)らぬ会話がおよそ何であるかを
去年の夏のある夜、私はさる野原で隣のテントからゆくりなく漏れ聞いた。
私は自分の幕屋(まくや)の中に座して、身震いした。
翌早朝、私は突然幕屋をたたみ私の子女の手をとって
ソドムから出たロトのように、そこを逃げだした。
その日以来、日本の滅亡の幻影が私の眼から消えない。
日本は確かに滅びつつある。あたかも癩(らい)病者の肉が壊れつつあるように。
わが愛する祖国の名は、遠からず地から拭(ぬぐ)われるであろう。
鰐(ワニ)が東から来てこれを呑(の)むであろう。
亡びよ、この汚れた処女の国、この意気地(いくじ)なき青年の国!
この真理を愛することを知らぬ獣(けもの)と虫けらの国よ、亡びよ!
「こんな国に何の未練(みれん)もなく往(い)ったと言ってくれ」と遺言した私の恩師(内村)の心情に
私は熱涙(ねつるい)をもって無条件に同感する。
ああ禍(わざわ)いなるかな、真理にそむく人よ、国よ。
ああ◯よ、願わくば御心を成したまえ。

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藤井は、明治20年(1888年)、北陸金沢に生まれた人でした。警察畑で働いた後、将来を嘱望されていたのに、官職を退職し、内村鑑三の弟子となります。師にも勝るとも劣らない器でしたので、碩学(せきがく)と碩学の考え方の違いで衝突し、後になって和解するを何回か繰り返しています。しかし、師の死に際しては、告別の任をとっています。彼自身も、42歳で没してしまいました。

私は、若い日、友人の紹介で、彼の全集を買い求めて読み始めましたが、その思想や、生き方や、あり方が潔く、はっきりと主張してやまない様子が好きだったのです。「憂国の士」で、日本の将来を危惧しますが、この様な主張の15年ほど経った時に、日本は米英との戦争に負けて、焼土と化します。

今の日本は、何かしら、藤井が心配した時と、同じ様な国情、国際上の諸国との関係にあって、多くの問題が孕んでいて、同じ轍(てつ)を踏まないか、ちょっと心配です。人心も乱れて、〈民意の高さ〉など、誇れない時代ではないでしょうか。私は、この国を逃げ出しませんが、務めがあるなら、外に出て、そこから祖国を執り成したいと思ってもいます。

(金沢の「銘菓」です)
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world map illustration (globe / sphere). focus on Japan and east asia.

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「職人」、もう少し適格な日本語表現をすると、「匠(たくみ)」ですが、その「匠の技」を見たことがあります。日光東照宮や二条城などでの建造物ではなく、東京都下の農家の屋根裏に上がった時に、この目にした時でした。屋根裏の骨組みをなしている建築材(母屋〈もや〉)が、真っ直ぐではなく、自然の曲がりのまま使われていて、その曲がりに合わせて、屋根を支える縦の木材(小屋束〈こやづか〉)が、「枘(ほぞ)穴」に、「枘」が寸分の隙間もなく組み込まれていたのです。

建て売りの家の普請しか見たことがなかった私は、すっかり驚いてしまったのです。宮大工でもない、二百年も、いえ、もっと前の、田舎の村で名前などないに等しい大工さんが、それほど精緻に大工仕事をしていたことに、驚いたのです。そこは見られることなどない隠れた箇所であって、興味深い私の様な者でなければ、見ようとしない陰の部分でした。

小学校を過ごした街の通学路に、二軒の桶屋がありました。プラスチック製品など無い時代でした。風呂桶や手酌や寿司桶などを、何種類もの独特な鉋(かんな)や鋸(のこぎり)や鑿(のみ)などを使って、板床に座り込み、木屑にまみれて作業をしていたのです。水を張ると、一滴の水さえ漏れない様な作業をしていました。檜の木の匂いが好きで、座り込んでは、おじさんの手の動きを眺めていたのです。

出来上がった、この方の作った桶を、わが家でも風呂桶に使っていたのです。井戸水を、ポンプで汲み上げて、薪で沸かして柔らかく揉まれたお湯が気持ちよかったのです。ただの大工のオヤジ、桶屋のオヤジの磨き上がった手の技は、子どもの私にも、興味が尽きませんでした。工場で大量に作るのではない、コンピューターなんかない時代の手作業の「匠の技」には、度肝を抜かされてしまったのです。

地球の位置は、どうでしょうか。太陽の熱量の恩恵は、絶妙な距離に保たれているのです。もう少しでも近ければ、金星の様に砂漠化してしまいます。遠ければ火星の様に凍りついてしまうに違いありません。地球の重力の大きさも重要です。重力が小さ過ぎると、月のように無重力になり、不毛の地になってしまうのだそうです。また大き過ぎると、木星の様に、生命体がいたとしても、有毒ガスが発生して窒息してしまいます。

まさに絶妙なバランスに、宇宙はあるわけです。そのバランスには、知恵があり、計画があり、目的があるのです。家や桶や鉋に作り手があるなら、それらに勝る地球や太陽系や宇宙に、「造り手」がいないはずはなさそうです。桶屋のおじさんは、独特な寸法を測る道具を持っていて、驚くほどに研ぎすまされた技を持っていました。地球は、《何をかいわんや》です。

今年も、この地球の上で、時々、揺れ動く日本で、このところ想像を絶する様な量の暴雨が降り、エアコンの効かないほどの暑さに見舞われそうですが、「正宗の職人」の「匠の技」、「創造の業」の上にある安心感は、まだまだ大丈夫で、持ち堪えそうです。

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駅伝とアメフト

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今年も、とても面白かったのです。シード校10校と予選を勝ち進んだ10校の20校、そして学生連合チームを加えた21チームが参加して、正月の二日、三日と、東京と箱根を結ぶ200kmを、往路5区、復路5区の10区を、襷を繋いで競う「箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)」が、今年96回目が行われました。

往路も総合も、青山学院大学が優勝しました。娘たちの家族がいるのに、テレビを持たないわが家で、朝から昼過ぎまで、ラジオにかじりついて、私は中継放送を聞いていました。母校の名誉のために、自分の学校の襷を、次走者に渡して、ゴールを目指す奏者たちの姿が、実に素敵なのです。13年振りになるでしょうか。

もう一度、スポーツができるなら、箱根駅伝の走者として、走ってみたい思いが、ずっとしています。力尽きてしまったり、足がつってしまったりで、棄権することもあります。緊張のあまり寝不足だったり、風邪をひいたりで体調管理ができないこともあります。それでも、襷をつなごうとする思いがあって、その思いが積まれて、走り切るのです。
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第1回大会は、1920年に行われ、東京高等師範大学(現在の筑波大学)が優勝しています。オリンピックに出場した金森四三は、『オリンピックで日本を強くするには、長距離、マラソン選手を育成したい!』と考えて、この「箱根駅伝」が始められたそうです。その考えの中には、かつて東海道を飛脚が、宿場と宿場を走って、繋いでいたことと関係もありそうです。

かつてはマイナーだったのが、年々人気が高まり、テレビ中継が行われる様になり、爆発的な人気を博して、もう《国民的正月行事》となっています。個人の人気もありますが、母校の名誉をかけて走る下向きさがいいのでしょう。もう根性で走るだけではなく、科学的にも一年をかけて準備をしていくチーム作りに、コーチングスタッフの指導も欠かせなくなってきています。

アメリカでは、一月一日に、百年以上の伝統のある、アメリカンフットボールの「ROSE BOWL」が行われ、14才の孫と婿殿と一緒に、ネット中継の試合を観戦しました。オレゴン大学とウイスコンシン大学の対決で、1点差で、彼らの地元のオレゴン大学が勝ったのです。このスポーツ競技もアメリカでは、野球と双肩を競うほどのものです。勝って、狂喜しないで、冷静に孫が喜んでいていました。このチームは彼のお父さんの母校なのです。

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小さな幸せ

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「団欒(だんらん)」、暮に実家に帰って来た娘たちの家族と、8人で、正月気分を味わっています。お雑煮、おせち料理、温州蜜柑を、娘たちが用意してくれて、その味に馴染んで過ごしてきた「正月」を、肩を触れ合う様な狭い洋間に、テーブルと炬燵を囲んで、和気藹々(わきあいあい)で迎えています。

口から食物を摂れない家内が、窮余の治療で、首の血管から、栄養剤を入れるようにされた姿を見て、家内の最期を予測した私にとっては、この元旦に、テーブルで、娘たちの作った「お雑煮」を口に運んで、『美味しい!』と言っているのを眺めて、感無量です。

鶏肉、小松菜、三つ葉、醤油鰹節味の祖父流、関東風仕立てで、食べて育った娘たちが、同じ味を受け継いでいるのです。ヨーロッパ移民のアメリカ人家庭で育った二人の婿殿たちが、それを上手に箸を使いながら、たづくり、なます、松前漬け、数の子、蒲鉾、伊達巻、昆布巻きなども、躊躇しながら口に運んでいました。さらに二人の孫たちも、文句なしで食べていたのです。

孫たちは、イワシの丸干が並んでいるテーブルを囲んでいました。幼い日に、スーパーの魚売り場を、鼻をつまみながら走り抜けていた初孫が、高校生になった今、家内が焼いた干物の匂いを懐かしんでいる母親を横目で眺めながら、昨晩の食卓を、鼻をつまむこともなく囲んでいたのです。

元旦には、私の弟が、姪の運転で、この家を訪ねてくれ、お昼を一緒にし、夕食には、元旦営業のスーパーで、高級ずしと有名店のシュークリームを買ってくれて、それに娘たちの料理を加えて、「新年会」を持つことができました。弟と元旦に、同じテーブルを囲むのは、半世紀ぶりになるでしょうか。

昨日は、巴波川の河岸を、一緒に散歩をし、婿殿や孫たちの放る餌に群がる鯉や鴨を相手にしながら楽しんでいる様子を、家内が微笑みながら眺めていました。歩けるのに、婿や孫に、車椅子を押してもらって、私には見せない満面の笑みを浮かべていたのです。

お昼は、スーパーの弁当売り場で、それぞれの好みに応じて、弁当やサンドイッチや唐揚げを買って、フードコートですませたのです。婿たちが、前の番に美味しく食べたシュークリームが気に入ったのか、また買ってくれて、たい焼きもデザートにしてくれて、一緒に過ごしました。

実に感謝な時を、共にしながら、「小さな幸せ」を、最大限楽しんでいる家内は、満ち足りて、心溢れております。明日は、二人の息子が家族で訪ねて来ます。日光の近くの宿泊施設で、泊りがけで、過ごす予定になっているそうです。そして明後日は、ついぞしたことのない、《家族写真》を14人で、明治五年開業の老舗の写真館で撮ることにしています。これは家内の《たっての願い》によります。

こんな素敵な「2020年」を、共に迎えられて感謝でいっぱいです。娘たちは食後、孫たちの要望で「ユニクロ」に行きましたが、先に家内と家に戻った私は、また〈転寝(うたたね)〉をして、正月早々、家内に叱られてしまいました。

(“アートバンク”の正月風景です)
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音と臭い

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毎朝、朝6時になると、鐘の音が六つ聞こえてきます。近くのお寺の鐘です。鐘楼の鐘を突く音だと、もっと情緒があっていいのでしょうけど、スピーカーの合成音の様です。なんだか百年ほど、タイムスリップしている様に感じてしまいます。元旦の朝も、同じように聞こえてきました。

♭ ゆうやけこやけで ひがくれて
やまのおてらの かねがなる
おててつないで みなかえろ
からすといっしょに かえりましょう

こどもがかえった あとからは
まるいおおきな おつきさま
ことりがゆめを みるころは
そらにはきらきら きんのほし ♯

空気が澄んだ日は、踏切の列車通過を知らせる音も聞こえてきたりします。ひっきりなく聞こえてくるのは、救急車の患者搬送のサイレン音です。消防署と救急病院の間に住んでいるからです。

♭ 昨日の夢 流行の唄 君の言葉 響く靴音
町のざわめき踏切の前立ち止まり

頭の中真っ白になるまで考えてたいんだ
それは君の事でも僕の事でもなんでも構わない

目の前をいつの間にか通りすぎていた
八月の風を感じながら

気がつけばそこは人ゴミ溢れ
かき消されたため息さえもう何も届かない

何が何だか もうさっぱりだ声を聞かせておくれ
一体何だって言うんだ!?何か言っておくれ

交差する電車猛スピードで目の前を加速する
一瞬僕から音が遠ざかる…

気がつくと踏切の前
同じ場所にいる僕がいた
何も変わらない何者でもない
僕がここにいただけ ♯

また最近は、夕刻になると、拍子木を打つ音がしてくるのです。『火の用心、しゃっしゃりませ!』の口上はないのですが、冷たい空気の中に響いてくる音も、随分と懐かしく感じられます。

♭ チョキチョキ チョッキン 火の用心 ♯

子どもの頃に聞いた音で、もう聞くことのできない音が、いくつもあります。〈焼き芋売り〉の呼び声です。自転車に乗った〈トーフ屋〉のラッパ音、〈納豆売り〉の呼び声、〈竿竹売り〉の呼び声、〈ちり紙交換)の呼び声、〈包丁とぎ/鍋穴の修理/傘の修理〉の呼び声なんか、もうどこでも聞こえなくなってしまいました。

華南の街には、一組の竹の板や茶碗を片手で打ち鳴らして、何ていうのか知りませんが、伝統のお菓子を売り歩くおじさんがいました。一度だけ買って、興味津々で食べたことがあったのです。きっと故郷の懐かしい味なのでしょう。長葱と独特の味噌と小麦粉で作った物を、リヤカーに独特な窯を載せて、そこで焼きながら売り歩いている知人がいました。家内が、それを頂いて帰ってきたことがありました。

音だけではなく、臭いが思い出され、幼い日が蘇ってきそうです。アッ、カーバイトのアセチレンの臭いがありました。電池のない時代には、携帯ランプとして使われたり、お祭りの屋台の照明に使われたりしていました。あの匂いは、もう一度かいでみたいものです。

今年は、どんな珍しく、郷愁を誘う懐かしい音を聞くことができるでしょうか。華南の街の音楽堂で、演奏会があって、何度か招待状をいただいて、聴きに行ったことがありました。音楽大学の教師が、そんな機会を設けてくださったのです。懐かしい正月の雰囲気が、何と無くして来る朝です。

(カーバイトランプです)

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人生にイエスと言う!

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迎えた新しい2020年、私はどんな人と出会うのだろうか、どんな時を過ごすのか、どこに行くのか、何が起こるのか、ワクワクしたり、驚いたりするのだろうと、寝床の上で、年明けの今、考えています。

人には、先が知らされていないのが好いのだそうです。将来が誰の前にも、秘密にされて見えないわけです。もちろん願いや希望はありますが、人はそうやって生きて来たわけです。

私の誕生に関わった両親、その両親から生まれた二人の兄と、ひとりの弟のいる家族の中で育ったこと、終戦間近の暮れに、父の赴任地の山奥で生まれたことは、全部偶然ではなく、なるべくしてなった必然でした。それから年を重ね、多くの人と時と出来事と出会い、自分の意思だけではなく、何か大きな力に押されたり、引かれたりして生きて来ました。

昨年末、新しく住み始めた家、親元に、長女夫婦が帰って来ました。翌日、次女家族四人が続いてやって来ました。長男は、嫁御の実家に帰る所だと、高速道路のサーヴィスエリヤから連絡があり、正月四日にはやって来ることになっています。次男も、嫁御の実家で正月を過ごして、ここに来ると電話してくれました。彼らの親になったことも、育てたことも、不思議な出会いであり、配剤だったに違いありません。

私に最高、最善の伴侶が与えられ、次々と生まれて来た四人の子どもたちと一緒に、同じ家で過ごし、同じものを食べて、家族として、同じ空の下で過ごし、時至って、それぞれに彼らが独立して、各自の人生を生き始めて行ったのです。親子や兄弟や結婚の絆とは、不思議さ、言い知れない導きがあったと思い返してます。

私の学んだ中学の校長が、『離合集散常ならず!』とよく、全体朝礼の講話で言っていました。人、時、出来事の出会いや別れは、不可思議な力に押されたり、引かれたりしていると教えられた通り、今を迎えています。

私の愛読書に、『見よ。わたしは新しいことをする!』とあります。繰り返されることではない、《真新しいこと》、これまで経験したことのないことが起こると言うのです。《新しい人》、《新しい時》、《新しい出来事》との出会いがあるのです。

これまで、そうであった様に、喜んだり、あるいは悲しんだりするのでしょう。それら全てをひっくるめて、人の一生があるわけです。臆せず、慌てず、意気阻喪しないで、喜び、躍り上がったりもするのでしょう。あらゆる境遇に対処する秘訣を身につけ、人生の機微を楽しみ、耐えて生きたいものです。

みなさんの今年が、意味や価値のある一年であります様に。健康も病気も、出会いも別れも、それらを引き受けて、助けられ、励まされ、また叱責されたりして、何でも起こりうる人の世で、すべてのことを感謝して、「温故知新」で生きて行きたいものです。フランクルが言った、『それでも人生にイエスと言う!』、そんな一年を生きたいと、空(から)の巣に帰って来、帰って来ようとしている子たちを、家内と共に迎える正月です。

(福寿草です)
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