病室名主

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 『われらが年をふる日は七十歳にすぎず あるひは壯やかにして八十歳にいたらん されどその誇るところはただ勤勞とかなしみとのみ その去ゆくこと速かにしてわれらもまた飛去れり。(文語訳聖書 詩篇90篇10節)』

 病院の外来模様について、先日投稿したのですが、私は、家の近くに、掛かり付け医がいます。このお医者さんに決めた理由が、いくつかあるのです。病院の壁に掲げてある絵が unique で、それは、イギリスの人気画家、マッケンジー・ソープ(Mackenzie Thorpe )の描いたもので、「希望」、「愛」、「喜び」を伝える画家だそうです。とても貧しい幼児期を過ごしたそうで、その幼い日々の慰めは、絵を描くことだったのです。そんな背景や思いの画家の好きな医師を知って、私は安心したわけです。

 また通院日に、早めに参りましたら、駐車場の周りに植えてある花壇に水遣りをしておいででした。私が、自転車で来院したことを知って、ホースの水の栓を止め、そままにして、医院の裏の入り口から入って、カーテンを開け、テレビにスイッチを入れ、病院の玄関を開けてくれたのです。定刻時前でしたから待たせればいいのに、わざわざそうしてくれたのです。

 もう一つは、待合室に自分で出て来られて、患者の名を呼んで、一緒に診察室に案内をしてくれるのです。そんな経験がなかったので、嬉しくなったこと、そんなことがあって、「主治医」をお願いして、昨日も、雪の中を、長靴を履いて出かけたのです。

 目を向けて顔も見ないで、書類や計器の数値ばかりを見ている医者もいます。そんな中で、みんな資格を持った技術者や医療者も、ただの人なのですね。人当たりのよい方もいますし、そうでない方もおいでです。《赤ひげ先生》もいれば、ヤクザまがいの方もいるようです。だから患者は、好い方を選べばいいわけです。

 そう言った安心感があって、診察をしてもらうと、きっと治癒力も上がってくるのではないでしょうか。

 それで、久しぶりに、昨年の11月に入院生活を一週間しました。それで、入院にまつわる母の話をしてみたいのです。私が高校二年生の時に、母が、ダンプカーの車輪のボルトに、両足が触れて、大怪我をしたとがありました。担ぎ込まれた街の医者の応急手当てが悪くて、細菌のために切断の危険性がありました。それで、隣町の共済病院に転院して、一年近く入院生活をしたのです。

 その入院生活の病棟は長期入院患者たちがいて、母の病室には、10人以上がいたでしょうか。そこには、「病室名主」、あの「牢名主」と同じで、親玉がいたのです。取り巻きの子分患者たちがいて、仲間になって、新入りの患者に干渉し、いじめるのです。内科病棟だったのでしょうか、外科の母も、長期だったので、そこにいたわけです。

 母は我慢強くて、意に介さない強い心を持っていたので、馬耳東風で、聞き流していたりしていたのです。古い入院患者には、もうお見舞い客が少なく、稀にしかなかったのですが、私は、毎日のようにバスに乗って、母のもとに出かけ、父が作る「野菜スープ」」などを持って見舞ったのです。それも気に食わない名主が、陰険にいじめていたのです。

 長期入院で、治る見込みのない患者さんは、気も塞ぐし、否定的なものの考え方をし、暇に明かして新参者をいじめる、その心理は分かるのですが、その当事者は溜まったものではないわけです。そんな病室で、お湯をくんで、母にタオルを渡し、母の体拭きの助けをしていたのです。そう言った妬みもあって、やはり病室の社会というのは独特でした。

 怪我などで、何度も自分が入院したのは、多くが外科病棟でしたから、回復に望みがあって、明るかったのです。とくに札幌の整形外科に入院していた時には、道内のあちこちから来ている方たちばかりで、子どもの頃の話や仕事の話など、食事に時は花が咲くほどでした。夜中になると、こそっとカップラーメンをいただいて、『これって美味いんです。どうぞ!』で二、三度ご馳走になったり、見舞客からいただいた食べ物のお裾分けもあったり、まあ和気藹々でした。

 それでも、いじめられて、病室を移って来た方がいて、励ましたり、慰めたりもあったでしょうか。土地の世話をするから、近くに越してくるように、強く勧める方もいたりでした。

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 さて昨年11月には、心房細動(不整脈のことです)が原因で、脳梗塞を起こして、家内の入院した同じ獨協医大病院に入院したのです。処置が早かったために一週間の入院でした。『もう来ないでください!』と看護師さんに言われ、『来ないで済むように注意します!』と笑って返したのです。

 今月に入って、その折の入院治療費の総額を、県後期高齢者医療広域連合から知らせて来たのです。89万円でした。驚くばかりの高額だったのです。保険制度がなかったら、大変だったのに、一割負担で済んだのにも驚きます。そうしましたら先日、高額医療費の申請を、市役所でするようにと連絡が来たのです。それで、市役所に出向いて、手続きを済ませましたところです。支払った分が返ってくるようです。

 そうしましたら、市の健康福祉センター(保健所です)の一人の婦人職員から電話がありました。『先週、お受けになられた「検診」の結果で、緊急にお知らせしたいことがあるのでお邪魔したいのですが?』と言うのです。担当医師の指示で、「精密検査」の必要を伝えに来てくれたのです。実は、雪の昨日、ちょっと心配でしたので、電話を入れて急遽、主治医の診察を受けたばかりだったのです。『異常はみられないので、様子をみましょう!』との診察でした。そんな保健所が知らせをしてくれるのにも驚いたのです。次回の通院の折、精密検査を大きな病院でしたいむね、相談してみるつもりでいます。

 もう、ラジオ体操のみなさんとの話題も、同世代ですから、病気や医者や薬、健康食の勧めなどで溢れています。病気と無関係な若い世代が、どなたにもあったのですが、もうそれは戻ってはきませんし、あちこちボロが出てきている、そんな世代になりました。この心臓ですが、生まれてから動き続けて、今に至っているのは、驚くばかりです。主治医は、『もう八十に近いんですから!』と、老いや病と仲良くやっていきなさいと勧められているこの頃です。

(ウイキペディアによるマッケンージ・ソープに出身地イギリスのヨーク地方の風景、心臓です)

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情熱、責任感、判断力を

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   地方でも国でも、その職員になりたかったり、教員になりたかったら、政治家さんや県の幹部職員さんに、『小判を底に、隠し入れた菓子折りを届けるべし!』と言う昔ながらの賄賂方式があるようです。

 江戸時代だけではなく、令和の御代にも通用するそうです。実力がないのに、〈金力〉で機会を掴めるイチバンの方法のようです。就職を頼むだけではなく、昇格や昇給時にも、結婚だってそうかも知れません。利かせ薬をするのだそうです。その賄賂や利かせ薬も、「裏金」と言うのでしょうか。闇の中で動く、最も効果的な働きをするモノです。

 その裏金には、政治献金の中から、別にされて、闇の中で、隠し使われるお金のことなんだと、今回ニュースで知りました。国の政権を担ってきたJ政党の議員さんたちが、未申告で、政治資金として隠して手元に置き、「利き薬」として、票集めや私的な遊興に、自在に使える汚れたお金であります。

 話は、150年も遡りますが、明治のご維新で、尊王攘夷のもとに、明治維新政府が、欧米に真似て始まります。有能な人材が病没、暗殺、戦役で亡くなってしまって、近代日本の政党政治による政府が誕生して、その要に座ったのは、某藩の農民の子で、足軽の身分を掴み取った父親の子で、下級武士でした。松下村塾での学びを、教室の外で、正規外で立ったままで、学んでいた男でした。結局、ハルピンで、朝鮮族の革命家に狙撃されて死んでいったのです。

 もちろんお百姓さんだって、志が高く、高潔な人格で、有能な人はたくさんおいでです。身分にはよりませんが、野卑さを持ったままの人が、野心に燃えて、権威の座につくと、やはり問題はおきかねません。

 英雄ではないのに、色を好んだ男で、そう言った女色好みというのは、〈お金好み〉と共に、日本の政治家のDNAに受け継がれたのかも知れません。そういった輩が、政権を担い、国家を動かしていかなければならない立場に就いているのが、おかしいのです。

 聖書は、『さればわれ第一に勸む、凡ての人のため、王たち及び凡て權を有つものの爲に、おのおの願・祈祷・とりなし・感謝せよ。(テモテ後書21節)』と、「凡て權を有つものの爲に」、良い意味でも悪い意味でも祈ることを命じています。国や都道府県や市町村の政権を委ねられている政党、首長のために祈るべきなのです。

 日本で、「オッペケペー節」を唱えて、壮士芝居をした川上音二郎と、同年生まれのマックスウェーバーと言う社会学者が、次のように言っています。

 『政治家に必要な資質は、情熱、責任感、判断力である。』

 政治不信、政治家不信の元凶の中で、「金力」や「派閥」や「縁故」や「名門」や「血筋」などを表看板にしない、真に、情熱にあふれ、責任感に長け、判断力が明敏で、無欲な人が、政治家になって欲しいと願うのです。

 『精神なき専門人、心情なき享楽人、この無なるものが、人間性のかつて到達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れている。(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」から)』

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 実業家も、教育家も、政治家も、精神や心情を欠いて、自惚れてしまうと、情熱が冷め、責任を放棄し、判断力が鈍ってしまい、傲慢になってしまうのです。ちなみに、川上音二郎が唱えた「オッペケペー節」は、次のような揶揄するような歌詞で歌われていたのです。

♯権利幸福きらゐな人に自由湯をばのましたい
オッペケペ オッペケペッポーペッポーポー
堅い上下角とれて マンテルヅボンに人力車
意気な束髪ボンねット 貴女(きじょ)に紳士のいでたちで
外部のかざりはよけれども 政治の思想が欠乏だ
天地の真理が解らない 心に自由の種をまけ
オッペケペ オッペケペッポ ペッポーポー

不景気極る今日に 細民困窮みかへらず 目深に被ふた高帽子
金の指輪に金時計 権門貴顕に膝をまげ 芸者たいこに金をまき
内には米を倉につみ 同胞兄弟見殺か
幾等慈悲なき欲心も 余り非道な薄情な 但し冥土の御土産か
地獄でゑんまに面会し わいろ遣ふて極楽へ 行けるかえ ゆけないよ
オッペケペ オッペケペッポーポー

亭主の職業は知らないが おつむは当世のそくはつで
ことばは開化の漢語(かんご)で みそかのことわり洋犬(カメ)抱いて
不似合だ およしなさい なんにも知らずに知ったかほ
むやみに西洋をはなにかけ 日本酒なんぞはのまれない
ビールにブランデーベルモット 腹にもなれない洋食を
やたらに喰ふのもまけおしみ なゐしょで後架(こうか)でへどついて
まじめな顔してコーヒのむ おかしいね
エラペケペッポ ペッポーポー

儘になるなら自由の水で 国のけがれを落したい
オッペケペッポヘッポーポ
むことけ島田に当世髪 ねづみのかたきに違いない
かたまきゾロゾロ 引づらし 舶来もようで りっぱだね
買う時ア大層おだしだろう 夏向アあつくていらないよ
其時ァおっ母が 推量(すいりょ)して お袖に隠して一走り
細工にいてくるよ ヲヤ大きなこゑでハ いわれない
内証だよぶたいハ結構(けつきやう)だ ごめんなさい
オッペケペ オッペケペッポ ペッポポ ♭(以下省略)

 一国の国民を、誇りある国民として、平和を享受できるようにと、公平な政治に献身し、政(まつりごと)に従って欲しいと、令和の政治家のみなさんに、政治家を目指すみなさんに願ってやみません。もちろん、素晴らしい軍人も政治家も少なからずいたことは事実です。でも、注意すべきは、軍人と政治家の「驕り」ではないでしょうか。明治以降の今世史をみると、そのことが警告的に分かるのです。

(ウイキペディアによる慶長小判、川上音二郎夫妻です)

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春立つ

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 明日は「立春」です。文化遺産の一つと言われるのが「二十四節気(にじゅうしせっき)」でしょうか。占いとか方位とは関係がなさそうで、中国大陸の黄河流域の一年間の気象や植生などをもとにしてでしょうか、春夏秋冬の四季の移りによって定められていて、たとえば「立春」と聞きますと、『あっ、春!』と思わず思われてしまうのですが、そうしますと、どうしても心の中がポカポカしてくるではありませんか。

 この二十四侯は、それぞれが三区分されて「七十二侯」になっているのです。これからの248日頃を「東風解凍(とうふうこおりをとく)」、2913日頃を「黄鶯見睆(こうおうけんかんす)」、21418日頃をl「魚氷上(うおこおりにのぼる)」と、三区分されています。この日曜日からは、東風(こち)が吹いてきて、結氷した氷を溶かし始める時を言っています。

春立ちて まだ九日の 野山かな   芭蕉

 芭蕉は、どこを訪ねたのでしょうか、山を見渡して眺めていたのでしょう。まだ九日しか経っていないのに、野山の木々の芽や、枯れ草の中に新しい若芽が生い始めているのを見つけたのでしょうか。きっと、春というのは、感覚的なもので、先取りしたい思いが反映しているのかも知れません。それほど、寒い冬を超えてきたので、期待感が強いからでしょうか。

 「暖冬予報」だったのが、実際は、厳冬だった今冬ですが、そういえば、もう陽の光は強くなり、空気は冷たく風は寒風が吹いていても、暖かさが感じられます。位置的には、ずいぶん違う大陸の黄河流域の気象による一年の区分なのですが、そう思わされ続けてきた遠い日本の現代人の私たちは、移り変わる気象を、同じように感じてしまうのでしょうか。大きな被害をもたらせた能登半島地震のあった元旦に比べて、1ヶ月経った今は、春が待ち遠しくて、明るく暖かな春に期待するのでしょう。

春立つや 山びこなごむ 峡つづき   飯田蛇笏

 暦を見ると「立春」、昨日と今日はほとんど違いがないのですが、立春だと思うほどに、山側に立って、その山に向かって叫んでみると、山びこが返ってきたのです。その山まびこの響きも、何やら心が弾むような、和むような感じがしていたのでしょうか。

 十七文字で、季節を謳う俳人のみなさんの感性には、驚かされ、日本語の素晴らしさを感じずにはおかれません。

春立つと 聞けば聞くほど 暖かく

1 春よ来い 早く来い
  あるきはじめた みいちゃんが
  赤い鼻緒(はなお)の じょじょはいて
  おんもへ出たいと 待っている

2 春よ来い 早く来い
  おうちのまえの 桃の木の
  蕾(つぼみ)もみんな ふくらんで
  はよ咲きたいと 待っている

 作詞が相馬御風、作曲が弘田龍太郎の「春よ来い」ほど、春待望を強く願った歌はありません。メロディーも春立つ感じにあふれているようです。

(ウイキペディアによる春に花「さくら」です) 

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最近の病院外来模様

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 一日、平均して数千人の患者さんが、家内も含めてですが、五十年の歴史のある医科大学病院にやって来れられておられます。みなさんは、穏やかな面持ちで、《待つこと》に徹しておられるのです。7、8分ほどの診察のために、順番を待っているわけです。こんな忍耐深い国民は、世界でも珍しいのかも知れません。

 今は病院も電子機器や電光掲示板の時代です。まず検温機の前に立って、手の消毒をし、受付機に診察券を入れますと、患者番号が印字された番号札が出てきます。受付順番の番号と、受診番号の二つの番号が印字されてあるのです。2枚同じものです。一枚には、このまま採血、採尿、レントゲン撮影に直接行くようにと指示されてあり、もう一枚は、受診時や支払い時に、掲示板に自分の番号を見つけて、診察室に入ったり支払い機の前に立つ時に必要な番号なのです。その一片の印刷紙が、一日コースをとどこおりなくすまさせてくれるわけです。

 受診業務を円滑にするために、この5年の間には、工夫と改善がなされているのに、驚かされます。研究している部門があるのでしょう。透明ファイルを持ち歩くことが少なくなってきています。

 病院医療事務というのは、大変なことのようですし、医療に携わる医師や薬剤師や医療技師や清掃や運搬や警備など、様々な分野に、数千人の従事者がいるのです。病院社会は。肥大化しているのです。

 もう様々な人が往来する病院世界に、圧倒されるのですが、まれにしかないと思えるのですが、高い声を上げて、自己主張している患者さんが、この五年間、何人かおいででした。これだけ多くの人の社会の中では、実にわずかな割合なのです。ほとんどの患者さん、私たちのように付き添い人も含めて、《待つ》のです。

 先週の家内の通院日に、 支払いをしようとしていましたら、七十代ほどの人が、声を荒げて、『50分も待たせやがって!』と、カウンター側に立って、中の事務員のみなさんに向かって、初めは小声だったのですが、激昂していくうちに、大声に変わって、『さっき、俺を睨んだだろう!』と言い始めたのです。聞き流していた女子事務員の方は、無言で仕事をしていたのですが、『こういう顔なんで、すみません!』と言ってしまったのです。

 そうしましたら、『責任者を出せ!』と言い始めたのです。その事務の方が、『私が責任者です!』と言ったら、しばらくゴモゴモ言と口ごもりながら、何か言って、悪態を吐きながら去っていったのです。退屈な病院受付で、一悶着を眺めていて、間に割って入ろうとしましたが、どうも自分の介入する仕事ではないなということで、傍観していたのです。

 病情が重かったり、で、なかなか待つのが厳しくなったりするのでしょうか、2年ほど前には、四十代ほどの人が、『お待たせしました!』と名を呼ばれたのです。最近は、名前では呼ばなくなっていますが、番号だけで呼び、確認は小声で名前を聞いています。『お待たせじゃあねえや。何十分も待たせやがって!』と、周りに緊張が走るようなやり取りをしていたのです。

 なかなか待てない時代になっているのかなと思いますが。大人の世界にも、様々なことがあるのでしょう。その他の週日、他の時間帯には、もっと激しいことがありそうです。華南の街の市立総合医院に、家内が入院していた時には、医師と患者がつかみ合いの喧嘩を目撃しています。あちらの医院は、前払いで治療が行われているのです。故意に支払わないのを防ぐためなのでしょうか。治療をやめられて、耐えられずに、患者が医師につかみ掛かったのです。

 どこもかしこも、人の集まる所は、悶着、不和、争い、闘いが起こるのでしょう。でも、ほとんどの人は、忍耐深く生きておいでです。胃が痛かったり、偏頭痛があったりしたら、堪忍の緒が切れてしまうこともあるのでしょうか。だから、世の中は面白いのかも知れませんが、そんな面白い光景を見せてしまわないように、自分はしたいものです。

(ウイキペディアによる獨協医科大学病院です)

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この日によろこびたのしまん

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 二月になりました。陽の光が、強く感じるようになってきて、窓から入る陽に、いよいよポカポカさを感じるようになってきました。昨日は、通院で、宇都宮まで東武宇都宮線の電車で出かけましたが、車窓から入る陽が強く、日除けが下されるほどでした。

 私たちの国では、二月を「如月(きさらぎ)」と呼んできています。中国の古語辞典には、「二月を如となす」とあり、「従う」、「赴く(おもむく)」と言う意味が、この「如」の漢字にあると言われています。それで、中国では、「如月」と呼ぶそうです。

 この月の「如月」の名の由来には、いくつも説があるようです。最も有力なのは、「衣更着(きさらぎ)」だそうです。実に昨夜は、いつもの夜具では寒かったので、夜中に、一枚重ね着をしてしまいました。暖かさへの期待は大きいのですが、現実はまだ寒いので、そうするのでしょうか。実感として、衣更着の昨夜でした。

 また別名もあります。「木芽月(このめづき)」や「梅見月(うめみづき)」、さらに「雪消月(ゆききえづき・ゆきげつき)」などがあるそうです。俳人や歌人が言ったのでしょうか、そんな風に思えるのも楽しいもので、暖かな春への期待が大きく膨らみそうです。

 そう言えば、中国の華南で過ごした年月が長かったので、中国のみなさんの新年を迎える気持ちの大きさを、いつも感じていました。旧暦で定める「春節」を迎える、高揚感、期待感が大きいのを痛切に感じたのです。今年は、210日が春節なのだそうです。

 晴れ着を用意し、ご馳走を作り、親族が集まるのです。子どもたちは、「紅包(hongbao お年玉)をもらえるのです。四人ものおじいさんやおばあさんから、親戚から、訪問客からももらえるようです。「紅」の色はお祝いの色彩で、スーパーマーケットなどの売り場には、真っ赤な下着が山のように積まれていて、赤一色に飾られていたのは圧巻でした。

 寒い冬が終わる区切りだったのでしょう。また新しい年、その年への期待感が大きかったのです。自分たちの子どもの頃、昭和は、お正月を迎える気持ちは大きく膨らんでいたのです。お雑煮とおせち料理、お年玉、追い羽根つき、駒回し、凧揚げなどに興じたのです。

 能登半島での地震による被害の大きさに驚かされ、ウクライナやイスラエルなどでの戦争、そのほかの紛争など、国内でも騒がしくも暗いニュースが溢れていますが、私を励まし続けてきた聖書のことばがあります。

 『これヱホバの設けたまへる日なり われらはこの日によろこびたのしまん。(文語訳聖書 詩篇11824節)』

 記念日だけではなく、365日のすべての日を、感謝をもって喜び、楽しむことを願っています。きっと暗い日も、涙の日も、苦しみを味あう日もありますが、「主への期待」を、心に溢れさせていたいと思っています。

(ウイキペディアによる紅梅です)

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Sunrise

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  アメリカのウエストコーストの “ sunrise “ の写真と、ここ栃木の朝ぼらけの写真です。日の出は、一日への期待があふれ出てくる時でしょうか。聞くのが辛いニュースの多い昨今、好いことへの期待で一日を迎えたいものです。

 『日の出る處より沒る處までの列國の中に我名は大ならん 。又何處にても香と潔き獻物を我名に獻げん 。そはわが名列國の中に大なるべければなりと萬軍のヱホバいひ給ふ。(マラキ書111節)』

 「日の出づる国」と呼ばれた日本から、ハワイでしょうか、「日の沈む国」に至る全ての国で、万軍の主、栄光の王の御名が、高らかにほめたたえられると言う預言のことばです。

世界中どこででも
新しい歌をささげよ
主に歌え ほめたたえよ
御救いの知らせを告げよ
まことに主は大いなる方
賛美されるべき方
威光と尊厳と栄誉 光栄と力
ただ主だけを礼拝せよ
天をつくり 支えている主 

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古代への浪漫 下野国版

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 東京の大森に、「大森貝塚」があり、モースによって発見され、「日本考古学の発祥の地」とされています。モースは、東京大学の教授でしたが、横浜から新橋への汽車の窓から、外を眺めていて、この貝塚を発見し、その発掘に従事しています。18776月のことでした。動物学に学者で、進化論者でしたが、三十代のモースのモースの興奮が想像されます。

 彼の日本滞在記の「日本その日その日」を、上手なスケッチ入りで残していて、講談社学術文庫として出版販売されていて、今でも購読することができます。明治初年の出来事を、外国人の目でみ滞在記を、ペンで記したもので、実に興味深い一冊です。

 この「大森貝塚」は、教科書で、私たちは学んできています。ところが、栃木県の大田原市湯津上地区に、「侍塚古墳(上下二箇所あります)」があるのです。那珂川の西側段丘の上に位置していて、それを、元禄51692)年に、あの徳川光圀が、発掘調査させているのです。

 今は国指定の史跡となっていて、「大森貝塚」よりも遥か以前に調査が行われていますので、ここが、「日本考古学発祥の地」と言われるのです。

 私は、多摩川の西岸に、「七つ塚古墳」があることを、級友に聞いて、跳んでいって、土を木の枝で掘って、土器の破片や鏃を見つけて以来、古代への浪漫に目覚めしまったのです。中学に入ってからは、担任や社会科教師が顧問の高校の考古学発掘班に加えてもらって、日野市の日野小学校の校庭、府中市のJR分倍(ぶばい)河原駅の近くの空地、調布市の国領にあったミシン会社の敷地で、発掘調査の手伝いをしたのです。

 興味津々で、スコップや小箒を手に、先輩たちに倣って、土を起こして、貝塚や住居跡を掘り当てたのです。あんなに楽しかったことはありませんでした。あのまま考古学にのめり込んでいたら、きっと研究者にでもなっていたかも知れません。

 それで、栃木に住み始めてから、地図を眺めていましたら、隣町の壬生町にも、「古墳」があるのを知ったのです。入院中の家内の病院に行く途中、東部電車宇都宮線の沿線に、古墳らしい一廓を見つけたのです。それで、家内の退院後に、そこに出掛けてみたわけです。

 「牛塚古墳」と、「車塚古墳」で、すでに案内板が置かれていて、発掘調査も行われていたのです。壬生町の「歴史民俗資料館」にも行ってみました。「三つ子の魂百までも」で、小学生の頃の興奮が、蘇ってしまい、「古代への浪漫」、自分の祖先たちが、どんな風に生きていたのかへの興味が、いまだに尽きないのです。

 これからの課題は、「上侍塚古墳」に行ってみることです。車の運転をしなくなった自分には、交通の便が悪いので、自転車を輪行袋に入れて、電車で行ってみようと考えているところです。暖かな日が待ちどうしい浪漫ジイジです。

(ウイキペディアによる2021年発掘調査時の上侍塚古墳です)

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そこまで教えてくださった恩師方

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 社会への関心、世の中のことへの興味を呼び起こしてくれたのは、小学校5、6年の担任の先生、中学校3年間、「社会」の授業を担当し、地理や日本史や世界史などを教えていただき、担任だった先生でした。とくに、中学校の担任の先生のお宅に、5人ほどの同級生でお邪魔したことがあったのです。あの中で、後に教師になったのは自分だけだったでしょうか。仕事を選び、それを決めるのにも、強い影響力を与えてくれた教師でした。

 JRの路線の駅名にもあるお名前で、後に高校の女子部の中学校の校長をされておられたのです。高校受験を控えていた長男に、自分の出た学校を見せて上げようと、息子を連れて、訪ねたこともありました。

 ある授業で、戦争のことを学んでいる中で、「日本軍の軍人の特徴」について触れられたのです。世代的には、この先生も従軍経験がおありだったと思います。授業で、ご自分の体験談を話されることはなかったのですが、『日本人ほど、軍人になるのにふさわしい国民はないのです!』と言われたのです。軍人に最適な資質を備えていると言うわけです。

 それは、「死を恐れない」、「命令に絶対服従」、「罪悪感がない」、「残虐な行為ができる」と教えてくれました。私の父は、兵士として戦った経験はありませんでしたが、戦前の軍事教育を、学校で受けた世代でした。そう言った教育がつちかったのが、「日本精神」だったのでしょう。誰もが、そうだった、そうあるべきなのは、その時代の子たちだったのを思い出したのでしょうか。

 「忠君愛国」の日本人であることを、戦前の日本は、教育でも政治でも行政でも、広く国民に求めたのです。あの長い戦争が敗戦という形で、終戦を迎え、平和の時代に、自分は育ったのですが、神風特攻隊や予科練の勇姿に憧れていたのです。どうも「日本精神」の残り滓を持っていたのです。

 『貴様と俺とは同期の桜!』と平気で歌う少年だったのです。日本人の優等性にこだわり続けていたのが、今思うに不思議でならないのです。担任の同乗する遠足のバスの中で、「軍隊小唄」、

 (一)
いやじゃありませんか 軍隊は
カネのお椀に 竹のはし
仏さまでも あるまいに
一ぜん飯とは なさけなや

(二)
腰の軍刀に すがりつき
連れてゆきゃんせ どこまでも
連れてゆくのは やすけれど
女は乗せない 戦闘機

(三)
女乗せない 戦闘機
みどりの黒髪 裁ち切って
男姿に 身をやつし
ついて行きます どこまでも

(四)
七つボタンを 脱ぎ捨てて
いきなマフラー 特攻服
飛行機枕に 見る夢は
可愛いスーチャンのなきぼくろ

を歌ってしまったのです。担任が、難しい顔で振り返って、自分を見たのが分かり、『しまった!』と思いながら、最後まで歌い切ってしまったのです。そう言った「日本精神」を、8年の間、私を育ててきださった宣教師さんは、取り扱ってくれたのです。路傍伝道で、声を振り絞って得意がっていた私に、

『かれは叫ぶことなく聲をあぐることなくその聲を街頭にきこえしめ。(文語訳聖書イザヤ書42章2節)』

を示してくれたのです。イエスさまは、路傍で、叫び声を上げることなく、穏やかな口調で、人々を教えられたことを、二十代の私に教えたのです。そんな恥体験を思い出すのです。神の国を継ぐ者には、ふさわしくないもの、「日本精神」を、取り除く務めを、教会の主は、宣教師、しかもアメリカ人の宣教師を通して、その業をなさったのを思い出すのです。

 ずいぶん前になりますが、台南の教会に参りました時に、その教会の牧師さんとの交わりの中で、その街で、日本人の宣教師が奉仕をされていたそうです。ところが、途中で帰国をされたのだそうです。『何かあったのですか?」とお聞きしましたら、『この方が持っていた「日本精神」が原因だったと思います!』と言われたのです。

 ところが私の家内は、「日本人」へのこだわりのない家庭で育って、子供の頃から英語を父親から学び、アメリカ人が出入りする家で育ったのです。結婚して彼女は、『何人(なにじん)なんてこだわらないで、同じ〈人〉としてみるべきだと思うわ!』と、よく私に言いました。そんな彼女の忠告と、八年間の私の師匠の忍耐によって、「日本精神」から自由にされることができたのです。

 今も、あの怪物が、怪しく動き始めてはいないでしょうか。日本製品や、日本人の資質の優秀さを自ら誇る心に、蠢いているかも知れません。日本がかつて支配した近隣の国が、経済力をつけて、その国々の誇りが、似たような精神を誇示しているように感じます。それがぶつかり合うような危機も感じているのです。防衛費の予算規模が膨らんでくるのは、国防という名の戦争準備でしょうか。わが父の世代が駆り出された戦争、その「大東亜」という言い方が、近隣の国にも意識され過ぎているかも知れません。こんな思いが、思い過ごし、杞憂であって欲しいのですが。

(この日曜日の朝の東の平和な空です)

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真冬の朝空に

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 何か感じたのでしょう、玄関を開けたら、空に気球が見えたではありませんか。快晴の冬空に、二つの気球が見えたのです。悠々と飛ぶ姿を、鴨が追って跳んでいました。自分たちの領域への闖入者に驚いたのでしょう。

 『後に生きて存れる我らは、彼らと共に雲のうちに取り去られ、空中にて主を迎へ、斯くていつまでも主と偕に居るべし。(文語訳聖書テサロニケ前書417節)』

 子どもの頃の夢の一つは、あんな風に空を飛ぶことでした。翼がなくては飛べませんが、やがて、主が迎えにきてくださる時、空中に携挙されることを、今朝も思い出したのです。ある祈祷院の玄関の壁に、この携挙を描いた、一幅の絵が掲げられてありました。間もなく、その時がくることでしょう。

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