温泉歴、と言うよりは、「湯治歴」の方が良いかも知れません。高校2年の修学旅行で、北海道をバスで周遊したのです。高校生の温泉ホテル宿泊というのは、風紀上いいのでしょうか、近くで酩酊しておかしな大人たちの蠢く動きの中、「修学」ではななく、「社会探訪学」に変えた方が良さそうです。
函館の近くの湯の川温泉、大町桂月が名付けたと言う層雲峡温泉などは、あの1960年代の初め頃には、とても大きなホテルがあって、高度成長期といった活況を見せていたのです。その温泉浴場は、学校のプールが三つ分ほどの広さで、あふれるような温泉客がありました。
家族旅行などない時代でしたから、それが自分には初めての温泉体験だったのでしょう。謳い文句は、『〇〇に効く!』の効用だったのですが、温泉願望の年齢にはまだ達していなかったので、何も覚えていません。別府出身の同級生の紹介で、九州を旅した時に、別府温泉にも行ったことがありました。硫黄臭の強さに驚いた覚えがあります。
23歳の時に、神奈川県の県職員をしていた友人の寮に、招かれて訪ねた時、ビールを一緒に飲んだのです。キャッチボールをしようと言うことで、彼が暴投をして、塀の向こうに飛んで行っってしまいました。それを取りに、塀によじ登ったら、落ちてしまい、左腕を思いっきり地面に打ち付けてしまったのです。家に帰って、兄が通っていた整骨院に跳んで行ったら、『俺にはできないから、親父の所に行ってくれ!』と言われて、レントゲンを撮ってもらったら、複雑骨折でした。副木を当てて、ずっと固定し、息子さんの家でマッサージ治療を続けたのです。
ところが腕が固まってしまい、どうにもなりませんでした。再度、親父先生を訪ねましたら、さすが熟練の整骨師で、『エイッ!』で伸びてしまったのです。その機能回復で、温泉行きを勧められたのです。職場の上司が、増富村に、学校関係の温泉場があるので、紹介状を書いてくれて、温浴治療をしたのです。4日ほどいたでしょうか、効果覿面で、治って、いまだ問題なしです。
それから、温泉の効能を認めたのですが、39歳の時に、腎臓の摘出手術をしたのです。その後の養生に、温泉に入るのがいいと言うことで、上の兄が探してくれたのが、あの「信玄の隠し湯」と言われる増富温泉で、今では廃業してしまった古湯の宿、金泉湯でした。そこに一週間ほど湯治で滞在したでしょうか。
そこはラジウム温泉で、ラムネのような炭酸水が、細かな泡を体につけてくれ、『これが効くんです!』と、冷湯の中に、ジッと入り続けるのです。みなさん、お腹や胸や背中などに、手術痕があって、大手術の後、そこで湯治をしていたのです。癌治療のみなさんでした。人形峠にも同じ泉質の温泉があるけど、『ここが一番!』と言う湯治客が多かったのです。
ぬるい温泉が流れ落ちる、岩の出口に、タオルを巻いて、口をつけてラジウム臭のガスを吸うのです。みんな必死だったでしょうか、死なずに生きて来て、もう少し生きたいと願う人ばかりだったのです。39歳の自分には、想像のつかない熱心さに圧倒されたのです。
あれ以来、温泉病にかかったのでしょうか、時々、その増富温泉に出かけたのです。その部落の北側の峠を越えると、レタス栽培で有名な信州長野の川上村に行き着くのです。焼肉なんて食べたことはなかったのですが、村の中に焼肉屋さんがあって、お昼を、家内としたことがありました。放牧も盛んな地で、肉も野菜も新鮮で、あんな美味しいお昼は食べたことがありませんでした。あれから、数年の間、時々、休みの日に出かけたのです。「英気を養う」とは、あのことでした。
ただ、歳を取った父を案内して、ああいった山間の鄙びた温泉に、連れて行って親孝行をしたかったのですが、61歳はまだ若かったのですが、誕生日を過ぎてすぐに、主のもとに帰っていったのです。し残したことがあるのが、いまだに悔やまれています。
(ウイキペディアによる増富温泉の近くの「瑞牆山(みずがき)」、現北杜市の市花の「向日葵」です)
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