先生

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 明治から大正にかけて活躍した、添田唖然坊という演歌師が歌って、大変人気を得た「のんき節」に、「先生」が歌われています。先生は「偉い」のですが、それよりも、「えらい(『たいへん!』という意味で)」が、甲信地方でおもに使われますが、仕事をしたり、生きたりする大変さで、言うのかも知れません。

學校の先生は えらいもんぢやさうな
えらいから なんでも教へるさうな
教へりや 生徒は無邪氣なもので
それもさうかと 思ふげな
ア ノンキだね

 でも、「好い先生」がいてくれて、柳の若枝のように柔軟な小学生や中学生、高校生や大学生の私を教えてくれた、学校の先生に出会い、教えられて今日があります。

 蛍狩りに出かけて、捕ってきたホタルを、『どうしても担任の先生に見せたい!』と、小学生だった次男が言って、一緒に先生のお宅を訪ねたことが、わが家の子育ての出来事の中にありました。喜んで持っていきましたら、先生は、とても喜んでくれたのです。

 そんな話を、family chat に、先日送信しましたら、自分の担任の先生のことが話題になって、とくに娘たちから、にぎやかな応答があったのです。

 田舎から転校してきた私を、小学校2年の2学期から担任してくださった先生でした。幼稚園も行かず(山奥に住んでいてなかったからですし、入院したりでしたが)、病気がちで登校日数の極めて少なく、井の中の蛙(かわず)の私は、登校した日には、じっとイスに座ることができずに、立ち歩いては同級生にちょっかいを出していました。どうも世間知らずで、しかも多動性の問題児だったのです。

 国語の授業の時でした。教科書の記事の擬音、『ガタカタ、ゴットン!』だったと思うのですが、その音を、『電車の線路の切り替えの分岐する箇所で起きる音です!』と私が答えたのです。それを聞いて、『よく分かったわね!』と、先生は褒めてくれたのです。それから自分が変わったのを覚えています。褒めるって、褒められるって、すごいことなのだと、今でも思い返すのです。

 学校に行き始めて、叱られたり、立たされたこと(いろいろ思い出して、教室の後ろ、廊下、校長室の他に、校庭、自慢ではないのですが林間学校でお寺に泊まった時に、墓のそばの山門に夜中に立たされことまでありました)などばかりなのに、一度だけほめられたことは、大きな生きていく励みになったのです。

 これまで、〈立たされ坊主〉なのに、二度、教師の仕事をさせてもらいました。信じられなかった同級生たちに、『俺が確かめ役に選ばれた!』と言って、学校に訪ねてきたことがあったのです。会ってすぐに、『準、お前、本当に先生やってるんだな!』と、目をマンマルくしていたのです。

 よい先生に出会ったのですが、自分は良い教師ではなかったようです。それでも、恩師の真似をしたことがありました。中国の教室は、掃除が行き届いていなかったので、朝イチに行って、教室の床や机の中のゴミを拾ってゴミ箱に入れ、学生用机や教卓をティッシュペーパーで拭いて、学生さんたちの来るのを待っていました。

 もう一つは、みなさんに挨拶をする時は、中学の三年間、担任をしてくださった先生が、朝礼終礼、授業の初めと終わりに、教段から降りてしておられたのに真似て、それをしたのです。あのようになさった教師は、他にはいませんでした。

 この先生は、先生でありながら、無言で、そんなことを教えてくださったのです。また社会科の授業を担当されて、読むべき本の紹介をホームルームで紹介されたり、どう大人と関わるかなども教えてくれたのです。恋愛のチャンスの捉え方まで教えてくれました。教師になりたいと願っていた私の前に、その機会が開いてくれたのです。

 教会の中で、牧師さんを、『先生!』と読んでいるのですが、私たちの宣教師さんたちは、その呼称を呼ばせなかったのです。ご自分を、ジャック、チャック、ジョージと呼ばれるのを、喜んでいました。偉さではなく、謙遜さで、人は測られ、呼ばれ、関わるのです。キリストのゆえに、罪を赦されて、教会の主に選ばれ、任じられて主の御用に当たっておられた宣教師さんたちは、ご自分のタイトルに、reverend を使われませんでした。

 『じゅんさん』と、牧師さんの孫で、今年小4になったお嬢さんは、私を、そう呼んでくれます。そう呼ばれて、実に、いい気持ちなのです。天国に行ったら、多くの人たちに会うのですが、グレシャム・メイチェン、バクストン、竹森満佐一のみなさんを、きっと〈先生なし〉で呼ぶのではないでしょうか。

 呼ばれたみなさんが、ただ《罪赦された》ことの感謝でいっぱいだから、きっと抵抗なしに聞いて、お互いに感謝し合うのではないでしょうか。

 そういえば、〈信徒訓練〉で、教会では、〈先生〉と呼ばせるのだと言っていた若い伝道者の顔を思い出しています。そう呼ばせて、教会の中で、秩序を保つためだとも言っていました。キリストの教会には、そんな秩序が必要とは驚いたのです。でも、天国で、父や母と再会した時に、『おとうさん!』、『おかあさん!』と呼んでしまいそうで、どう呼びかけるのでしょうか。

(Christian clip artsによる、人に目を明けられたイエスさまです)

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[人]研鑽し合ってきた仲間たち

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同じ伝道者の道に導かれた方たちと、交わりがあって、何度も一緒に集まっては、交流会を持ってきました。「仲間」と呼ぶのがいいのではないかなと思うのです。互いに励まし合いながら、緩い決まりの中での切磋琢磨の交流でした。

 テキサスの街の教会で、定期的に持たれていた “ conference “に、多くの若者がやって来たそうです。日本から戻って、そこで日本宣教の報告を聞いて、啓発されたようです。そこで出会って、同じような vision に立って、学び合い、励まし合った宣教師さんたちが、日本にやって来られたのです。

 みなさんは、大きな宣教団体には属さないで、母教会の応援で、地味に宣教をされておいででした。戦後のしばらくした時期に、来日されて始まった東京の教会で、奉仕をした後に、日本の各地に出掛けて行き、福音宣教をされたみなさんだったのです。ヨーロッパから来られた宣教師さんも、その交わりの中に加えられていたのです。

 各地に建て上げられていった教会で献身し、または、その宣教師さんたちを慕ってやって来られて、献身したみなさんが、長く交わりを続けてきていました。そに他には、宣教師さんのご子息たちもおいででした。宣教師さんたちの母教会の牧師さんたちや、神学校や聖書学校の教師のみなさんが、よく訪ねて来られると、seminar が開かれ、主の務めを志した方たちが集っていた、素晴らしい交流会だったのです。

 そう言ったみさんと研鑽し合いながら、自分も挑戦されながら歩んできました。ある時、その宣教師さんの中のお一人が、『あなたがたmatureな働き人は、自分の城を築き上げるのではなく、若い兄弟に務めを任せて、新しい地に出て行きなさい!』と言われたのです。

 自分が、宣教師さんたちと同じような奉仕ができるなどとは思いませんでしたが、教会の主が、導いてくださって、私と家内も隣国に出かけて行ったのです。そこへの門戸が、目の前に開かれたわけです。一般社会では定年年齢の六十になってからでしたが、これ以前に出て行こうとすると、怪我をしてしまったり、様々な必要があって行けず仕舞いだったのです。

 大きな怪我をし、手術をした後でしたが、2006年に、ある団体で、隣国で奉仕された方の勧めもあって、出掛けますと、そこで出会いがあって、道が開かれて行ったのです。結局十三年間、そこにいさせていただいて、家内が病んだ段階で帰国したのです。

 それから時が過ぎて、6年目になりました。宣教師さん方は、主の元に帰られ、一緒に交わった兄は引退をしたりで、あの交わりから疎遠になってしまい、思い出ばかりになってしまいました。個人的には、ある方と交わりは続いていますが、一緒に学び合い、話し合ったりした日々が懐かしいのです。

 教会の主が、出会わせてくださった交わりであって、人が作り出したものではなかったと思うのです。編み物の横糸と縦糸が編み合わされるようにされた交わりだったのでしょうか。時が過ぎ、歳を重ね、健康状態も変化し、様々の要因で、その交わりも変化するのでしょうか。どうしても人として寂しさを託(かこ)つ今日この頃であります。

(  Christian clip arts のイラストです)

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初夏の道端で

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 「万葉集」に、

浅みどり 染めかけたりと 見るまでに 春のやなぎは 芽(も)えにけるかも

とあります。

 「浅緑」が芽生えていく様子を、そう詠んだのです。晩春の季語の柳ですが、「立夏(五月五日)過ぎの今は、もう夏なのでしょう。散歩道の川に流れ込む池の淵に、芽吹きの時期は過ぎてしまいましたが、この柳の木があります。万葉人の感性に驚かされ、鳥の鳴く根も、芽え出る若芽や若葉に感動したように、自分の心にも、その感動が残っているを感じて、春をほめたたえ、夏を歓迎する今であります。

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[街]清里

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 信州と甲州の境に「八ヶ岳」があって、その南麓に、「清里」という高原があります。70年代から90年代にかけて、若い女性誌の “ an-an “ や “ non-no ” に特集されて、脚光を浴び、とくに若い女性で大変賑わっていたのです。JR小海線の清里駅の周辺には、芸能人の店などが出店して、春や夏や秋、冬でさえも、大変な賑わいを見せていました。

 それは “ boom ” でした。まるで『高原の原宿だ!』と称されるほどだったのです。その80年代、バブル期の社会現象でした。この周辺の公的施設で、牧師会や教会学校の夏季キャンプ、ハイキングなどを、よくしたのです。

 ここに「清泉寮」を中心に、農場、研修所、宿泊施設などがあります。「キープ協会(Kiyosato Educational(清里教育実験計画)の頭文字 )」が、1938年に開設されたのです。これに先立つ1934年には、東京の奥多摩に、小河内ダムが建設されるに当たって、そこの住民が、集団で移住して入植した地でもあったのです。

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 戦後の日本の酪農業を牽引し、この地に若者たちを集めて、研修が行われたのです。その清泉寮の近くにキープ教会の記念館があり、開設に力を注いだポール・ラッシュの過ごした家も残されていて、一般公開されています。そこには、農業開拓史の様子が分かる資料も残されているのです。冬季の生活は、ことのほか厳しかったようです。

 私を指導してくれた宣教師さんが、この清泉寮の売店で売られている soft cream が好きで、これを食べていた姿が懐かしく思い出されます。American taste だったのでしょうね、大好物で、一緒に訪ねるたびに、ダブルで食べていたこともありました。

 家内は、この近くの宿泊施設に、二人の上の子と、お腹の中の赤ちゃん(次女です)とで、ちょっと内々の事情ででしょうか、内緒で出掛けたことがあって、そこで泊まったのです。翌日は、気を治して帰って来て安心した日もありました。その子たちが、もう五十代前後になっているのですが、わが家の珍歴史の一ページであります。

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 その清里が、ゴースト・タウン化して、多くの年月が過ぎています。日本中で、一時期の繁栄を見せた街、温泉街、観光地が、以前の姿に戻っているのです。栄枯盛衰、きっと今住む、ここ日光例幣使街道の栃木宿、江戸を結ぶ舟運の河岸で栄えた商業の街も、われわれ世代の年配者の多く住む町になって、静かな佇まいを見せています。子どもたちの姿が見られないのが寂しいのですが、静かに住むには快適なのです。

 もうしばらく訪ねていない清里ですが、中国から帰国した時に、一度、懐かしくて,家内と一緒に清泉寮に一泊したことがありました。学校の冬休みでした。それにしても、あのソフトクリームは、実に美味しかったのです。もう一度、思い出しならら頬張ってみたいものです。

(ウイキペディアの清里の街風景、清泉寮、ソフトクリームです)

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Challenge

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 昨日は、若い友人の運転で、美しい自然の中に行きました。春の大雨で、屋根を叩く雨音の強い中、12、3人の方との交わりがあって、コーヒーとホットサンドのお昼を食べて、とても好い時を持ちました。

 今日は一転して、晴れて、栃木市運動公園への道を散策し、そこにあったブランコをこいだのです。幼い日に、山の中にはブランコが見当たりませんでした。それででしょうか、都会の子は上手にこげるのに、自分はできなかったのです。

 大きな広場の脇に立って、だれもいないのを幸いに、思いっきりブランコに近づき、ブランブランしてみたのです。一週間ほど前にものって、2度目でした。こいでもこいでも高くならなかった子どもの頃に、のるのを諦めていたのですが、この歳になって、足を振ってこぐと、高く振られ、空も地面も見えたではありませんか。

 何事も《challenge 挑戦》なのでしょうか。子どもたちが、こいでいるのを横目で見るだけでしたが、やってみてよかったなと思ったのです。『やればできる!』、まだまだ挑戦の課題を見つけてみようと思った、雨もよし、晴れてもよしの五月の栃木です。

(ウイキペディアの雨降り様子、運動公園のブランコとタンポポと木立です)

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Aurora

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 北米大陸の西海岸で、夜空に見えた「Aurora オーロラ」です。カナダやアラスカに出かけて、マス釣りやオーロラ見物をしようと、約束した方がいました。闘病中に、何度も病院に送り迎えをさせていただいて、そんな約束をしたのが、昨日のようです。

 神秘的な自然現象、気象現象です。昨秋、大学生になった孫が、一昨日、撮った写真です。神の創造の世界は、驚嘆させられてしまいます。実際に目で観たら、どれほどでしょうか。

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満州と那須高原の開拓者たち

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 栃木県の北部、那須塩原地方に、那須町があります。その豊原丙の千振(ちぶり)地区には、戦後の昭和21年に、政府の肝入りで、旧満州(現中国東北部)からの引き揚げのみなさんが、戦後を生き抜くために入植されたのです。大変な苦労をして開拓をされてきたそうです。

 初期には75戸の入植があって、雑木林の開墾から始まったそうで、現在は65戸の酪農家が、農場経営をされておいでです。私の兄は、旧満州、旧南満州鉄道の「満」に由来して、父が命名していて、あの時代の明暗、多くの開拓民のみなさんの辛苦が偲ばれます。そのような開拓村は、全国に数多くあったのだそうです。

 1937(昭和12)年に日中戦争、1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まっています。戦勝を願ってでしょうか、戦中は、「勇」、「武」、「士」、「勝」、「功」、「勲」と言う漢字が好まれて、日本男児の名に用いられたのです。同級生には、「征夫(征服からでしょうか)」とか「紘一(八紘一宇からでしょうか)」とかの名を付けてもらっていたのです。五族共和を掲げた、海外に領土を持とうとする動きの中ででした。

 戦中から戦後にかけて、中部山岳の山の中で育った私たち兄弟を、父が、街でテントを張って興行するサーカスに連れ出してくれたことがありました。あのテントの中の様子が、おぼろげに時々、思い出されるのです。『ジンタッタ、ジンタッタ!』と言う、ジャスやマーチなどの曲を演奏する音楽隊の賑やかな音が、耳の中に響くのです。子どもの頃の激励歌のような音でした。

 それ以外の日は、兄たちは学校に通い、弟と私は、戦時中には石英を運び、戦争が終わってからは、木材を運んだ索道(ケーブルカー)の終点の櫓の上で遊んだりしていたのです。時々山に行く兄たちの後について行き、「木通(あけび)」狩りをしたり、小川で魚を追ったりしたのです。

 家の前の通りを、ずっと上ったところに、開拓団の部落があったのです。上の兄の同級生がいたのを、後になって話を聞いて知りました。きっと那須の地で開拓した人と同じように、旧満州から帰ってこられた人たちの開拓部落だったのでしょうか。子どもの足では、遠かったので、そこには行ったことはありませんでした。

 父も、旧満州で若い日々を働いたと言っていました。おじさんも関東軍の主計将校だったそうです。戦争が拡大していく中で、父は、朝鮮半島や山形の鉱山で働き、終戦間際は、「軍需工場」で、軍名に従って、石英の採掘をして働いていたのです。

 「開拓者たち(北川恵著 幻冬社刊))」を読んで、そのようなことを思い出したのです。この本の主人公は、旧満州開拓団の結婚適齢期を迎えた開拓者たちに、写真一葉で、海を渡って、嫁入りした女性なのです。開拓の辛苦、終戦間際のソ連軍の侵攻、想像を絶する逃亡と帰国の物語なのです。

 この繁栄の時代の只中にあって、戦時下にあったことごとなど、絵空事のように思えるのですが、私たち四人兄弟は、戦争孤児たちと同世代で、そうなり得たことを考えると、他人事とは思えません。

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 大陸で、軍人として没したお父さんの軍帽をかぶって、九州の温泉町で、チャンバラで遊んだ級友の話を聞いていました。その戦争で父を失った彼が、わが家に泊まりに来て、お父さんと同世代の私の父と話していたのですが、どんな思いが去来していたのだろうかと、今になっても思うのです。多くの年月が過ぎていきました。

(ウイキペディアによる那須・茶臼ヶ岳、日本陸軍軍帽です)

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ヒマワリみたい!

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 『汝の父母を樂しませ、汝を生る者(母)を喜ばせよ。(文語訳聖書 箴言23章25節)』

 アメリカの教会で始まった、五月の第二日曜日の「母の日」、私たちの国でも、母親への感謝の日として、産んでくださった母を思うのは素晴らしいことです。

 母は母であるがゆえに、母として敬い、感謝し、喜び、愛する想いは、どなたにもおありでしょう。

 季節を先取りした、夏の花「向日葵(ヒマワリ、sunflower )」です。幼かった次男が、『お母さんみたい!』と言ったのを思い出しました。

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音楽の持っている力について

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 作曲が八洲秀章で、「あざみの歌」を、先月末、「まちなかmedical cafe  in 宇都宮」の10周年記念会で、会を始められた方の一人で、医師をされている方が、ハーモニカ演奏で、哀調に満ちたメロディーをお聞きしたのです。この歌を聞かれた病と闘い、死期の迫っていた方が、この歌を聞いて、元気付けられて、持ち直したのだそうです。歌ってそんな人を元気づける役割を持っているのですね

山には山の 愁(うれ)いあり
海には海の かなしみや
まして心の 花園に
咲きしあざみの 花ならば

高嶺(ね)の百合の それよりも
秘めたる夢を 一筋に
紅燃ゆる その姿0
あざみに深き わが想い

いとしき花よ 汝(な)はあざみ
心の花よ 汝(な)はあざみ
運命(さだめ)の道は 果てなくも
香れよせめて わが胸に
あゝ あゝ

 信州の下諏訪・霧ヶ峰八島高原に住み始めた横井弘が、アザミの花に自分の理想の女性像を重ねて、その恋心を詠んだ詩なのだそうです。戦争が終わって、兵役を解かれた1945年、作詞者が十八歳の時でした。

 このあざみの花は、綺麗なので手に取ると、棘に刺されたからでしょうか、「欺(あざむ)かれた)」ことからの命名なのだそうです。中国では、「大薊(daji)」と言って、中薬(中国漢方)で、止血などに用いられる薬草でもあるのです。

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Louis Gallait (Belgian, 1810-1887). ‘Power of Music,’ 19th century. oil on panel. Walters Art Museum (37.134): Acquired by William T. Walters, before 1878.

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 一般的には、「のあざみ(野薊)」で、日本列島の平地から高山に至るまで分布していて、空き地にでも、6〜9月の間に咲いている花です。100種以上があって、野の花として代表と言えそうです。信州の野山を山歩きをした時に咲いていたのが、印象的でしたが、子どもの頃に遊んでいた広場の隅にも咲いていたでしょうか。

 ガンと闘病中の方のベッドの脇で、童謡を歌って差し上げたことも、何年も何年も前にありました。私たちの教会に、養護学校に教師をなさっていて、音楽療法の必要を感じられて、専門的に学ばれて、修士になられた方がおいででした。私たちの属している老人会でも、公民館で「カラオケ」が開かれていて、家内と二人で、「もろびとこぞりて」、「きよしこの夜」を歌ったことがありました。

 悲しい時も、喜びの日にも、歌を聞いたり楽器演奏を聴くことは、激励や慰めになるので、人は古代から、歌い演奏し続け、聴いてきています。母が、結婚前に流行った歌を歌うのを聞いたことがありました。讃美歌しか歌わないのに、無理にお願いして、歌ってもらったのです。母の青春の日の歌謡だったのです。童謡も歌謡曲も演歌も、ラジオから、聞いて私は覚えました。

 満州の地で、開拓民のみなさんも、よく歌を歌ったそうです。この「あざみの歌」も戦後に人気のあった歌でした。それを、令和の代になって聴けたのは嬉しかったのです。うる覚えで覚えていて、吹かれたハーモニカの音色で思い出しました。

(ウイキペディアによるあざみのはな、ルイ・ガレ作の「妹に兄が聞かせる慰めのヴァイオリンの写真です)

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母由来の味がしてきて

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 『子たる者よ、なんぢら主にありて兩親に順へ、これ正しき事なり。 『なんぢの父母を敬へ(これ約束を加へたる誡命の首なり)。 さらばなんぢ幸福を得、また地の上に壽長からん(文語訳聖書エペソ書6章1-3節)』

 「汽水湖(きすいこ)」とは、海水と淡水とが混ざり合う湖のことで、有名なのが「宍道湖(しんじこ)」です。山陰の島根県の県都・松江市と古都・出雲市との間にあって、日本海と奥出雲から流れ下る斐伊(ひい)川の作り出す湖です。

 この湖の特産が、「蜆(しじみ)」で、父の家での味噌汁の具では、これを具材としたものが、母の手で作られて、夕食に供されていたのです。母自身が、このしじみ汁で育ったからでしょうか、母の四人の子は、よく飲みました。

 華南の街の超市(chāoshì/スーパーマーケット)で、このしじみが売っていて、さっそく買って、上海から仕入れた日本味噌で、家内に作ってもらったことがあり、それ以来、何度か飲んだのです。ところが、勤めていた大学の横を、一級河川が流れていて、授業の合間に、昼食に出た時に、その川で、しじみ漁をしてるのを見たのです。その川に流れ込む、生活排水、ドブ水に悩まされていた私は、それ以降、しじみを買うのをやめたのです。

 このしじみですが、今は、お隣の茨城県の涸沼(ひぬま)産が、この街のスーパーで売られていて、時々、青森の十三湖産もあります。この2つとも汽水湖なのです。そして、出雲の宍道湖産も、店頭で見かけるのです。飼い慣らされた《お袋の味》は、とくに男の児にとっては、母亡き後になってしまったからこそ、忘れえぬ味なのでしょう。

 また母の故郷は、蕎麦が名物なのです。江戸時代初期に、松江藩主になった松平直政が、前任地の信州から松江へ移ってきた際に、そば職人を連れて来たことによって、この「出雲そば」が誕生のきっかけとなったと言われています。中国山地の奥出雲で、蕎麦が栽培されて普及したようです。

 「割子(わりご)」と呼ばれる丸い漆器に、三から五段作りで、そばを盛り分けて、何種類もの薬味で、蕎麦つゆで食べるのです。二十代の始めの頃に、鳥取に出張した折に、母が弟のようにしていた方、予科練から生還して、父のもとで働いていた方を訪ねたのです。歩かないで駄々をこねた私を、泣きながらおんぶして、山奥の家に運んでくれた方なのです。

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 そんな話を、母や兄たちから聞かされ聞かされ育って、社会人になり、近くに行きましたので、表敬訪問をしたわけです。この方の家の近くのお蕎麦屋さんで、ご馳走してくださったのです。信州そばに馴染んできた私でも、弟分出雲そばは格別な味でした。

 この方を連れ、父が、その出雲の街の小川で、泥鰌(どじょう)獲りに、『よく連れ出されて獲ったのです!』と言っておいででした。そう言えば、出雲の安来(やすぎ)には、「安来節」という民謡があって、和手拭いでほっかむりをし、笊(ざる)をかかえ、腰にカゴをつけて、ひょうきんに「泥鰌獲り」をするのです。

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 ここ栃木から、東武線の終点が浅草、いや、始発が浅草と言うべきでしょうか、その浅草には、泥鰌を食べさせる老舗の店があるのです。『準,駒形へドジョウを喰いに行こうな!』と、何度か言ったまま、逝ってしまった父を思い出すのです。それで浅草に行きかけるのですが、いつも遠慮してしまって、時が過ぎております。

 この辺りの人は、年に一度くらいは、浅草に出て行くのでしょうか。浅草名物の「志゙満ん草餅」を、家内のために、下の息子が来るたびに買って持参してくれるのです。それを隣家にお裾分けした時に、この草餅を知っておいででしたから、やはり、この辺りのみなさんの浅草行きは、江戸行きの目的地だったのが分かったのです。

 明日は、しじみ汁にでもしましょうか。生鮭の切り身が冷蔵庫にあるので、それを焼いて、栃木産のお米を炊いて,夕食に供しましょうか。

(ウイキペディアによる宍道湖、十三湖、涸沼、割子蕎麦、泥鰌踊りの服装の写真です)

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