大地震、大津波、最近の頻発する地震のことを考えていまして、「竹箆返し」という言葉を思い出しました。weiblio辞書によると、『仕返しや逆襲のこと。「竹箆返し」と書く。竹箆(しっぺ・しっぺい)というのは、禅宗の修業で使われる竹などが素材の細長い棒のようなもののこと。「しっぺい返し」ともいう。』とあります。禅修行で、体が動いたり、集中力が途切れたりした場合、徳の高い僧侶が監督者となって、修行僧の背を打つのが修業の一つなのです。ところが打たれた僧侶が、役割交替で打つ場合があります。それを「竹箆付返し」といい、打たれた恨みを復讐したり、仕返したりすことこから、そう言い始めたようです。ゲームをした後に負けた者が、手首を人差し指と中指で打つことも「しっぺ」といい、よく子供の頃やり合ったものです。
今日、原子力安全委員会の試算により、事故後からこれまでに外部に放出された放射性物質の量は、推定で「63万テラベクレル」に上るといっています。国際評価尺度では、外部へ放出された放射性物質の量が「数万テラベクレル」以上で「レベル7」と規定されました。この数字は、チェルノブイリ相当、それ以上の数値になるようです。なぜ、この3月に、こんな大試練のただ中に、日本と日本人が投げ込まれたのでしょうか。今、東京の一等地の次男の部屋のコタツにあたりながら過ごしていますが、自分が揺れているのか、地面や家が揺れてるのか区別できないような感じがしてきて、揺れても、なかなか立ち上がったり、避難のために家を出るようなことが少なくなって、大分油断度が増してきているようです。
私の父は、1923年 9月1日(大正12年)に起こった「関東大震災」を経験しておりましたので、地震で家が軋(きし)み始めると、『雅、窓を開けろ!』と大声で叫んで、外に飛び出すのが常でした。子どもの頃には、この3月からのようにひっきりなしに地震が起こることはなかったと思います。時折の体験だったからです。東北地方の震災地の方は、『こう度々では、もう・・・・!』と言われていました。今や、東京でも、ひっきりなしに揺さぶられますから、同じ印象が口から出てしまいます。でも、みなさん、忍耐強いのには驚かされます。
さて、『この数年、地震、津波、火山爆発、酷暑、大雨の被害は普通ではない。今までとは、違ったレベルの厳しさの災害が起きている!』と思ってきました。なぜなのでしょうか。私が思うに、これは自然が追い詰められて《悲鳴》を挙げているのではないかなと思うのです。国土保全、地球保護の呼び声を掻き消してしまうような、自然破壊が、世界中で繰り広げられ続いてきています。ジャングルが切り倒され、草原が砂漠化し、川も空気も水も汚れに汚れてきています。便利で快適な生活をするために、19世紀から今世紀にかけて、常軌を逸した自然への冒涜が続いてきたのではないでしょうか。経済や工業が隆盛することに比例して、人の心が疲弊し荒廃し、大自然が破壊され、そのリズムを大きく狂わされしまいました。追い詰められた鼠が、追う猫を噛み、打ち叩かれた僧侶が、打った僧に「竹箆返し」をする、そういったことが地球規模で起こっているように思うのです。
『人が悪くても、そこまで追い詰めてはいけない!』ということを、私は学んできました。どんなに極悪非道な人を追い詰めても、《逃れの道》を残すのが人道上の配慮だということをです。ちいさな魚屋を営んでいる家族が、仕入れ値に2割3割を載せて得る、その僅かな収入で、子育てをしてきました。ところが大きなスーパーマーケットが、近くに大々的に開業して、彼らの客を一網打尽に奪ってしまいます。客を取られ魚屋は廃業に追い込まれて、再生の道などありえません。こう言った非人道的な商法が当然視され、自然界のバランス、次の時代を担っていく子や孫のために、豊かな自然を残すなどを考えるより、便利さや快適さが最優先されたため、自然を苛め抜いてきたのです。
だから、追い詰められた自然が、《叫び声》、《絶叫》を挙げているのではないか、と思えて仕方がないのです。鼠が追い詰められて、猫に向かって小さな牙を剥くようにしてです。またシッペをされたら、その《痛さ》を知って、仕返しをしないのが一番ですが、きっと自然は、『わたしたちの送るメッセージに耳を傾け、よく原因を見極め、どうすべきかの結論を出しなさい!』と、人類と地球の将来を思って、《痛さ》がどれほどのものかを知らせたいと願っての《竹箆返し》なのかも知れません。これほどの《痛さ》を経験したことは、未だかつてないのですから、3月以来の尋常でない《痛さ》から、地球の将来を見据えて、しっかりと習得し、反省(「悔い改め」のほうがいいでしょうか)したいものです。
(写真は、「大津波」、岩手県岩泉町の職員が110311に撮影されたものです)