東広島市の灰ケ峰に咲く「ヒメジソ」です。
『休耕田や湿地、溜池畔、用水路脇、湿った道端などに生える1年草。茎は直立し、4稜形、稜上に下向きの毛があり、節に白毛があり、盛んに分枝して、高さ20~60cmとなる。』と、説明されています。中国、台湾、日本などに分布しているそうです。☞HP[里山を歩こう]
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東広島市の灰ケ峰に咲く「ヒメジソ」です。
『休耕田や湿地、溜池畔、用水路脇、湿った道端などに生える1年草。茎は直立し、4稜形、稜上に下向きの毛があり、節に白毛があり、盛んに分枝して、高さ20~60cmとなる。』と、説明されています。中国、台湾、日本などに分布しているそうです。☞HP[里山を歩こう]
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先週、東京のD大の大学院に留学のために出掛けて行った「小朋友xiaopengyou」がいます(と言っても186cmもあります)。遼寧省の大学を終えて、専攻した「医療ロボット」の研究を継続して、身体に障碍を負われた方のために役立ちたいと、これから学ぼうとしています。
大学の寮は短期間だけしか居れないとのことで、友人夫妻が、都下に住んでいて、アパートを経営いますので、空き部屋があるか、私が聞いたのです。ところが、住み心地が好いのか、どなたも出て行く方がいないとのことで、この友人夫妻の提案で、しばらくご自分の家に住んで、小朋友の好みのアパートを、一緒に探してくださるとのことで、お願いしたのです。
お母様も同行して、友人の家に泊めていただいていました。市役所や学校の手続きも終え、好い部屋を、学校の近くに探し当てたそうです。家具などの必需品も、一緒に買い求めたようです。私がお願いした、見ず知らずの外国人の小朋友ために、この友人夫妻は、大きな犠牲を払ってくださったのです。歓迎の食事会を開いてくださったり、大歓迎してくれたようです。
この方は、退職してから、市の要請で、日本で働いている外国人、特に中国のみなさんに、日本語を教えておられます。また 息子さんの一人も、在京の外国人に、日本語学校で教えておられるのです。この息子さんは、以前、ここ中国で1年間、日本語教師をされていました。そんなよしみでの、彼の好意なのです。
今週の日曜日の朝、連れて行ってもらった倶楽部で、私の弟に、小朋友が挨拶をしたのです。その時、しきりに体を掻いていたので、不審に思った弟が、『今朝、何を食べましたか?』と聞いたら、蕎麦を食べたと言ったそうです。それで、<蕎麦アレルギー>との判断で、休日診察の病院を探して、市立病院に行き、点滴治療をしたのです。
留学早々のハプニングでしたが、小朋友は、今は元気になっています。食べ物の違いで、アレルギーが発見されたのですから、不幸中の幸いで、かえってよかったかも知れません。いろいろなことの起こるこの浮世です。
帰郷のたびに、わが家に来て、家内と日本語で交流して来ていた小朋友です。瀋陽の大学で学んでいて、日本語が分からなくなると、携帯電話を掛けてきては、家内に聞いていました。実に、爽やかな好青年で、友人夫妻も、そんな彼を大歓迎し、お世話くださっています。友人夫妻の愛や犠牲に、感謝しています。私たちも、こちらでみなさんに好くしていただいていて、何かして上げたいのですが、この友人が代行してくださっていて、感謝でいっぱいの涼しい朝です。
(上は東京駅、下は瀋陽站です)
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開け放った北側の窓から、南のベランダのある窓を通り抜けて行く風が、涼しく感じられる朝です。南のベランダの寒暖計は、午前7時の時点で、25℃でした。矢張り"いよいよの秋"です。買ったり貰ったりの巨峰のぶどう、柿、りんご、ボンタン(こちらでは柚子youziと呼びます)、龍眼(こちらでは龙眼longyanと呼びます)、オレンジなどが、冷蔵庫や食卓の上に、秋が溢れています。
次兄が明日、「心臓ペースメーカー」の植え込みに手術を行い、明後日は長女の主人が、「肩脱臼」のために手術を行うと、言ってきています。色々なことの起こる人生ですが、二人の主人の執刀に手が祝されるように願っているところです。何度も手術体験にある私は、痛みに耐えて回復するようにと、願っています。
手術が終わったら、兄も婿殿も、秋を楽しんで欲しいものです。今朝咲いた三輪の朝顔も、そんな願いの素振りを見せています。
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島崎藤村が、「椰子の実」を作詩したのが1898年でした。民俗学者の柳田邦男から、その椰子の実が流れ着いた、愛知県伊良湖での話をもとに、詩作したと言われています。それに大中寅二が作曲をしたのです。
名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ
故郷の岸を 離れて
汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)
旧(もと)の木は 生いや茂れる
枝はなお 影をやなせる
われもまた 渚(なぎさ)を枕
孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ
実をとりて 胸にあつれば
新(あらた)なり 流離(りゅうり)の憂(うれい)
海の日の 沈むを見れば
激(たぎ)り落つ 異郷の涙
思いやる 八重の汐々(しおじお)
いずれの日にか 国に帰らん
南洋の島から黒潮に乗ってやって来て、漂着した椰子の実って、どんなものなのだろうか、私も興味津々でした。周りを海に囲まれ、海洋民族の末裔であり、日本海軍の家系の父から生まれた私は、海の浪漫に憧れていました。そして、一度、椰子の実を割って、そのジュースを飲んでみたくて仕方がなかった日を覚えています。
四年ほど前に、ショッピングモールが近くにでき、日本料理店の店長と知り合って、わが家にもやって来る様になりました。この人が、引き抜かれて、「椰子营yeziying」という海南島で飼育された鳥肉の鍋の店の店長になったのです。彼に誘われて、そこで食べた鳥肉鍋が美味しく、「椰子の実」のジュースもサーヴィスしてくれて飲んだのです。
もちろん紙パック入りのジュースqが売られていて、飲んだこともあったのですが、皮を綺麗に剥いた実物に、小さな穴を開けて、ストローで飲んだのは初めてでした。先週、やって来た息子夫妻と、そこに昼食に行ったのです。二人とも喜んでくれました。椰子のジュースの中に、鶏肉や野菜などを入れ、炊き込みご飯もついているのです。
そういえば、柳田邦男が拾った椰子の実が、流れ出した元かも知れないシンガポールで、椰子のジュースを飲んだこともありました。南方では、子どもたちが木を揺すって、実を落として、鉈で割ってもらって、そのジュースで渇きを癒していたのでしょうか。この歌を思い出してしまい、口ずさんでみました。
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昨日は「秋分の日」、今日は「中秋節」、日本では、あまり盛んではありませんが、ここ中国の華南では、《二十四節気》の伝統的な行事が守られて、生活の節目となっています。この季節は、「月餅」を、家族や仲間でいただく様です。
次男夫妻が来た先週、何時も好くしてくださる方が、歓迎の宴を設けて下さったのです。子どもたちが来る度に、この様にしてくださるわけです。息子たちが帰国する前の晩に、「生きたアワビ」を、たくさん届けてくれ、夕食のおかずにとくださったのです。結局食べずじまいで、息子たちは帰ってしまったのですが。
それでも、「伊勢エビ」の料理をいただいて、彼らは満足だった様です。《もてなし上手》の国民性でしょうか、一度懇意になると、とことん好くしてくださるのです。《お返し文化》の中に、トップリつかって育った日本人の私たちは、どう応えてよいか悩むばかりです。
今宵は、満月が見られるでしょうか(追記;7時半ですが、雲が多くて月は見上げられないのは残念!)。猛烈な勢力の台風が心配で、沖縄の方に北進しつつある様です。無事を願う夕べです。
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「船頭さん」という童謡があります。歌詞は戦中版と戦後版があるのです。戦時色の強い歌詞は、戦後にふさわしくなかったので、詞が変えられたわけです。
村の渡しの 船頭さんは 今年六十の お爺(じい)さん
年はとっても お船をこぐ時は
元気いっぱい櫓(ろ)がしなる
ソレ ギッチラギッチラ ギッチラコ
雨の降る日も 岸から岸へ
ぬれて船こぐ お爺さん
今朝(けさ)もかわいい 仔馬(こうま)を二匹(にひき)
向う牧場(まきば)へ 乗せてった
ソレ ギッチラギッチラ ギッチラコ
川はきらきら さざなみ小波(こなみ)
渡す にこにこお爺さん
みんなにこにこ ゆれゆれ渡る
どうも御苦労(ごくろう)さんと いって渡る
ソレ ギッチラギッチラ ギッチラコ
《補作前の二番と三番の原詞は次のとおり》
雨の降る日も 岸から岸へ
ぬれて船こぐ お爺さん
今日も渡しで お馬が通る
あれは戦地へ 行くお馬
ソレ ギッチラギッチラ ギッチラコ
村の御用や お国の御用
みんな急ぎの 人ばかり
西へ東へ 船頭さんは
休むひまなく 船をこぐ
ソレ ギッチラギッチラ ギッチラコ
私は、五十九になった時に、この歌を、実感を込めて歌いました。独身を楽しんでいて、子どもたちが晩婚だったので、ちょっと遅めに「お爺ちゃん」になったからです。きっと父も上の兄に子どもができて、自分が「お爺ちゃん」になった時に、そう感じたのでしょう。そして六十になった時には、「船頭さん」の歌詞の替え歌を自分一人で口ずさんだのです。
子どもの頃にお会いした「お爺さん」は、ずいぶんと年寄りの感じがしたので、自分も、そう見られているのだと感じてしまったのです。どうすることもできなかったのは、こちらに来まして、バスに乗ったた時、若者や中年の方が、スッと立って、席を譲られる時でした。『不要buyao』と断ろうとしたのですが、これは《敬意》なんだと分かって、『谢谢xiexie!』と感謝して、その席に座ったわけです。
最近、この「六十の船頭さん」に比べて、この<万年青年>を嘯(うそぶ)く私は、少々元気が足りなくなってきているかも知れません。先週の木曜日、実家のない私の次男夫婦が、木曜日の夜から、《生きてる実家》である私たちを、三泊四日で訪ねてくれ、今朝の国際便で、日本に帰って行きました。昨日、息子夫妻は、知人が昼食に招いてくれ、高級中華料理をご馳走になり、その後、「古街」を案内してもらっていました。息子は5回目、嫁は初めての中国訪問でした。とても好い印象を、中国と中国のみなさんに、この二人は持った様です。
こんなことを書き込んでいたら、雷が鳴り始めて、雨が降り始めました。暑い一日の夕べ、少し涼しくなってきそうです。明日は「中秋節」、子どもたちは、三連休で大喜びしています。もう涼しい秋になるでしょうか。でも、<台風24号>が、台湾と大陸とに来つつありますが、沖縄にも向かいそうです。(9月22日夕べ記)
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よく、『あの方は心のある人だ!』と言います。その方の生き方が、愛とか親切とか優しさに溢れていて、善人や義人なので、そう言った表現をします。そうでない人は、『心の欠けた人!』と言ったりします。ユダヤの格言に、『顔が、水に映る顔と同じように、人の心は、その人に映る。』とあります。人の心にあることは、顔にも生活にも雰囲気にも現れてしまい、隠したり、誤魔化しができないので、そう言うのでしょうか。一体、人には、どんな「心」があるのでしょうか。
「向上心」 今よりも、少しでも、好くなろうとする思いです。これは年を加えてきた今でも、忘れまいとして、心がけております。`
「克己心」 自分の内にある<可能性>を信じて、昨日よりも今日、今日よりも明日に、自分を高めたいとする思いです。なぜなら自分の<弱さ>が、やっと分かり始めてきたからです。
「向学心」 どなたでしたか、ある文学作品を、原典で読もうと決心して、老境に達しながらも、その言語を、新しく学習し始めた人の話を聞いたことがあります。また老学者が、若い学徒に、『最近、やっと分かり始めた事が、多くあります!』と言っていました。
「執着心」 諦めないことでしょう。危機に直面した首相が、決して諦めなかったので、その国は敵の潰滅作戦に耐えて、国を守り抜く事ができたそうです。
「独立心」 謙遜は大切ですが、隷属する思いはいけません。従順は大切ですが、自分の力で立つ事もまた、人には必要です。
「競争心」 競ろうとする思いのない友情では足りません。好き競争相手としての友を持った人は、切磋琢磨されて成長します。老境に至って、その相手を眩しく見る時、好い人生だったと思い返せるに違いありません。
「自尊心」 卑下ばかりしててはいけません。それは謙遜ではなく、自己不信だからです。自分が、どんなに尊い存在であるかを知ったら、自分を大切に保とうとするからです。
「好奇心」 人、物、機会など、新しく出会うことへの関心を失ってはいけません。収容所を生き抜いた人たちの心には、新しく迎える明日への期待がありました。『ここを出られたら!』と。
「義侠心」 これは博徒の志の事ではありません。「正義」のために願い、行う原動力です。弱者を守ろうとする心意気を言ってるのでしょう。
「老婆心」 近所のおじさんやおばさんが、老婆の様な心で、bいたずらをしていると注意してくれたことが、よくありました。それで事の善悪を学べたのかも知れません。今は、他人の子への無関心が普通になっていますね。
「探究心」 どうしてエンジンのない地球が自転して、太陽の周りを動いてるのか不思議でなりませんでした。みなさんは答えを得たでしょうか。私は、分かったのです。きっと私の知りたいという思いが通じたからなのでしょう。
「競争心2」 脚が遅くて運動会が嫌いでした。それでも負けん気が強かったので、バスケットボール、ハンドボール、テニスをしてきました。でも今現在の最強の競争相手は、自分です。楽をしようとする私、欲をかこうとする私です。なかなかの強敵です。
「平常心」 時々慌ててしまうことが起こります。落ち着いていられないのです。何を食べたかを遡って思い出すといいと言われますが、なかなか思い出せません。でも上を向くことに気づきました。地上ばかり見てると、落ち着かないからです。
「愛郷心/愛国心」 魯迅は、同朋への強い思いを持った人でした。同国民が強い精神性を持つようにと、医学を捨て、文学に生きました。そう言った魯迅に共鳴するのが日本人なのだそうです。彼は、故郷や国を思う思いが強かったからだそうです。
「敵愾心(てきがいしん)」 敵に対する憤りや負けまいとする気持ちだそうです。相手への闘争心は、それが昂じてしまうと、民族間や国家間の戦争になってしまいます。<敵を愛する心>があったら、地上に争いはなくなるのですが。そんな心を持ちたいものです。
「猜疑心(さいぎしん)」 騙されるかもしれない、と人を疑う気持ち。自分が不利になるのでは、と相手を信用できない気持ちだそうです。私の父と母には、この心がなかったのです。それでよく騙されていましたが、平気でした。
「功名心(こうみょうしん)」 立身出世、名を上げ、身を立てる思いのことでしょうか。自分の生涯に欠けていたものです。でも、これで好かったと思います。低い所にいると、倒れても軽い怪我で済む様です。誰にも覚えてもらえなくても好いのです。自分が走るべき行程を走りきれば、それで好いに違いありません。
「射幸心(しゃこうしん)」 まぐれ当たりによる利益を願う気持ちのことだそうです。失敗の多い人生でしたが、人生に、運の良し悪しがあるとは思って生きてきませんでした。怪我をしたのだって、運が悪かったのではなく、不注意だったり、慌てたりしていたからに違いありません。人生は、サイコロやトランプカードの目の様に、良い悪いで、決まらないのです。一回きりの人生を、悔いなく生きたいだけです。
「虚栄心」 自分をよりよく見せようと、見栄(みえ)を張りたがる 心のことだそうです。自分の周りにある物を、見回すと、金銭的な価値のあるものは、全くありません。ただ、愛の籠った頂き物があります。精神的な価値のことでしょうか。持ち物の誇り、暮らし向きの自慢ができる物や人脈やタイトルや称号がないのは、身軽で好いものです。痩せ我慢でしょうか。
「依頼心」 人に頼ろうとしてやまない思いのことでしょう。これまで多くの人に助けられ、励まされ、強められて生きてきました。でも、彼らの持ち物や立場にすがろうとする思いはありませんでした。また自分を頼ってきた人には、貸したり、上げたりしてきました。特にお金を借りに来た人には、私に借金をして私の奴隷にならない様に、差し上げてきました。私には、信頼するお方がいるからです。
自分の心が、生き方に反映されると言うのは、ちょっと怖いことですね。でも正直に生きているなら、人生のどこを切られても、その切り口は、非難されることはないのでしょう。ユダヤの格言に、『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。 』とあります。自分の心は、見張り、見守る必要があるのですね。
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中国語には、多くのことわざがあります。例えば、「不耻下问(不恥不問)」です。
この意味は、『年令や地位が下の者に教えを乞う事は、恥ずかしいと思わない!』という意味です。解説は会話や会議の中で、自分がわからない時は、体裁を気にせず素直に聞くことが大切であるという戒めのようです。このことわざの出典は、「論語」の中に出てくるそうです。次の様な解説があります。
孔子の弟子の子貢(しこう)が、師の孔子に次の様に質問をしました。『衛(えい)の国の儀式を行う芸人のおくり名に、文という字が ありますが、これはなぜなのですか?』と聞きますと、孔子は、『彼は頭がよく学問が好きで 、自分よりも目下の者に質問することを恥ずかしいと思わなかったら!』と答えました。
日本で会議すると、若輩な経験の浅い人の意見を、聞こうとしない傾向が見られます。『嘴の黄色い者は黙っておれ!』という不文律があるからです。ほとんど無いですが、求められれば、言うことはあっても、率先して具申などしたら、《生意気》とか《でしゃばり》というレッテルをつけられてしまいます。
ところが、中国での会議では、年配者が、若者にも、進んで聞こうとするのだそうです。そう言った場面に出会ったことはないのですが、一般的に、子どもでも、大人の会話に割って入って、自分の考えを、堂々と述べているのを、よく見かけます。小学生が、自分の意見を話し始めても、『まだ子どもだから黙っていなさい!』と静止することは、ほとんどありません。
「長幼の序列」の社会の様にみられますが、そんな素晴らしい社会なのです。学校を出たばかりの私は、どこの県だったか忘れてしまったのですが、研究所の代表者として、研修会の準備の会議に行ったことがりました。会議の間に、『研究所の意向はいかがですか?』と意見を求められた私は、何か言ったのです。それは、研究所を代表した者としての発言でしたから、受け入れられたのでしょう。
多分、『生意気な若造め!』と思っていた理事たちが多かったのでしょう。それなのに、<親方日の丸>の私は、臆面もなく話したのを覚えています。日本の社会は、年齢的な序列社会でしたが、今でも同じでしょうか。三十代や四十代の学長や社長など、経営者の息子娘以外は、ほとんどんど知りません。
私の知り合いの方は中卒で、仕事のできる人でしたから、管理職になっていました。大卒の自分の部下に、『この字、何て読むの!』とか、『どういう意味?』と平気で聞ける人でした。『辞書を引くよりも、その方が早いから!』と言っていました。学歴の低さに臆することのない、潔さがあって、素敵な人でした。高学歴の部下にも、よく慕われていました。こう言うのって、日本では例外なのでしょうね。
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