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上智大学で、「死の哲学」を、長く講じておられた、アルフォンス・デーケン教授が、「人が持つ3つの特質」ということで、次の三点を上げておられます。
① 考えること
② 選択すること
③ 愛すること
どういう事を言おうとしておられるのかを考えてみました。私が人間であるのは、「考える」からなのだということでしょうか。いつも私は考えているのですが、空腹時には、食べ物のこと、ちょと寂しくなると、過去や子供たちや孫たちのことに思いを馳せます。事件が起きますと、なぜこういったことが起きたのだろうか、結果はどんな影響になるのだろうか、関係者の気持ちなどを考えるのです。そんなことを考えていましたら、北朝鮮の金正日死去のニュースが、先ほど、耳に飛び込んできました。そうしましたら、横田めぐみさんのことを思い出したのです。何時でしたか彼女の手紙を読んだことがありました。小学校5年生のめぐみさんが、旅先からご両親や弟たちにあてたものでした。そこには、
『たくや、てつや、お父さん、お母さん、もうすぐ帰るよ。まっててね。めぐみ。』
とありました。めぐみさんは、ご承知のように、北朝鮮に拉致されて、強制的に家族から引き離されてピョンヤンで生活していると聞きます。結婚もし、お嬢さんがいて、そのお嬢さんが日本にやってきたこと、そんなことを知っています。ご両親が、拉致被害者の会の責任をとっておられ、テレビのニュースになんども出ておられるのを見ました。お母様の手記も呼んだことがあります。犯罪によって分断された家族とは、どういったものなのかも考えてみたことがありますし、もし、これが自分や自分の身近にいる人だったら、どんなことになっているのだろうかとも考えたのです。もちろん、めぐみさんは、どんなことを考えながら、異国の地で生きてきているのだろうかとも思わされます。ご両親、二人の弟のことを考えない日などなかったに違いありません。
日本で生活をしていたら、自分の意志で学校も職業も結婚相手も、人生に関わる様々な、〈選択〉ができたのだろうと思うのです。そういった選択権を暴力で奪われて、思ってもみなかった、第三者や国の目的にために強制されて生きなければならなかったに違いありません。人である証の1つは、「選択すること」なのに、自分の願望を奪われ、他者の意思に従って生きるというのは、非人間的な取り扱いなのです。1977年に拉致された時が、めぐみさんの年齢が、13歳でしたから、今年47歳になっておられます。この年の春、「北国の春(いではく作詞、遠藤実さっきょく)」のレコードが発売されています。これを文章化してる時、道路の向こうから、この曲が流れてきたのに驚かされました。
めぐみさんの家族への手紙の中には、家族への思いが込められていますから、死亡との北朝鮮からのレポートの信憑性が疑われますから、生きていらっしゃれば同じ家族への「愛」の思いを溢れるほどにお持ちに違いありません。「愛すること」も「考えること」も、人の心の中に精神的な活動ですから、どんなに自由を奪われ、将来を奪われ、家族を奪われても、これだけは、誰によっても奪われることはないわけです。社会学者は、人間の基本的な欲求の1つに、「愛することと愛されること」を上げています。特にお母様の早紀江の思いを知ると、早急に帰国の道が開かれることを切に願わずにはおられません。
デーケン教授は哲学者ですから、言われることは意味深長です。私は、上智大学で、彼の講座を受講したことがあります。1959年に来日され、誰もが避けることのない「死」に対して、積極的に学ぶことを推奨され、「死に対する準備教育」に携わってこられました。私は、彼の講義を聞きながら、死を避ける傾向の極めて強い日本の社会の中で、覆いがかけられ、その上にほこりがうず高く積もった「死」を白日のもとに晒した貢献は大きいと思います。生きたいと願うなら、「死」を学ぶことが、きわめて重要であることを主張されているのです。もし私たちが、充実した生を生きたいと願うなら、生の終着駅の「死」に、真正面から立ち向かうように勧めておいでです。
誰の「死」も願ってはいけませんが、人道にもとる行為の人が、なくなることによって、新しい展開がなされ、抑圧された人々が自由を手にすることができるなら、それもありかなと、迷いながら考えております。帰りを30数年も待ちわびているご両親と弟さんたちの気持ちを考えますと、悲しい人の死が、希望の光となるのかも知れないなと、そんなことを思っている、「冬至」間近な日の午後であります。
(写真は、北国の春を告げる花の開花です)