『だれが好きか?』と聞かれて、『織田信長!』と答える中国人の学生が、意外と多いのです。ゲームの主人公であることも否めませんが、日本史に登場する人物の評価として、内外を問わずに高いのが、やはり織田信長のようです。日本史を学んでいまして、群雄割拠の戦国時代が実に興味深いものがあります。国同士のせめぎ合い、領地の拡大、親子の確執、養子縁組、姻戚関係の樹立、内通策謀、下克上、立身出世物語、栄達など話題が実に豊富なのです。裏切り、謀反を防ぐために、娘を息子たちの妻に迎えるのは、戦国武将の常套手段でした。信長の妹・お市も、その一人だったのです。近江国の浅井長政に嫁ぎ、後には、柴田勝家の妻になっています。子に、秀吉の側室となった茶々(淀殿、秀吉との間の子・豊臣秀頼がいます)、江(秀吉の甥・豊臣秀勝の妻、後に第二代将軍となる徳川秀忠と正室として再婚)がいますが、その人脈や家系は、こんがらがってしまった綾の糸のように複雑怪奇です。
政略結婚でありながらも、『女は子を生むことによって救われる!』ということばがありますから、母や祖母としての喜びが、悲しみの狭間にはあったのでしょうか。でも37歳での夫・勝家と共に自刃の最期は、戦国武将の娘ならではの悲しいものがあります。NHKの大河ドラマは、お市と同時代に焦点が当てられることが多いのは、得心がいきますね。私の父の誇りの鎌倉武士の家系は、戦国時代には何をしていたのでしょうか。私がいるということは、何代も何代も前の祖が、それぞれの時を生きて、何かを生業(なりわい)としていたわけですから、不思議な感覚に襲われてしまいます。きっと三浦半島の片隅で、農地を耕して、三浦大根でも栽培したり、菜の花を植えて菜種油を抽出していたか、ミカン園を切り盛りしていたのかだと思われます。父と同じように、『今は土を耕しているが、わが家系は由緒ある鎌倉武士の末裔で・・・・』と言っては、農民の身分に甘んじていたのでしょうか。
日本史を学んでいて、実に悲しいのは女性の生き方だけではなく、《人身御供う(ひとみごくう)》とか《人柱》になった人たちが多くいたということです。民俗学の研究の中に、東北地方には、「座敷わらし(童子)」という風習が残っています。座敷や蔵を守る精霊、守護神で、幸運や富を来たらせると言って、鄭重(ていちょう)に祀られていたようです。民俗学者の佐々木喜善が、『座敷童子は、圧殺されて家の中に埋葬された子供の霊ではないかと思われる。』と言っています。前に、「水に流す」で取り上げたように、岩手県下を南北に流れる北上川では、口減らしのために間引かれた子どもが川に流されて、流れの蛇行地点には地蔵が多く祀られていることについて触れましたが。ある家では、石臼の下敷きにして殺し、墓ではなく土間や台所などに埋める風習があったようです。そのように死んだ子の霊が雨の日に縁側を震えながら歩いていたり、家を訪れた客を脅かしたりといった話が伝えられ、それで、その迷える霊を鎮めるために神として世話をしてきたのでしょう。うわー、悲しい話の連続で恐縮です。この類の話は世界中にあるようです。
そういった犠牲だけではなく、たとえば、『雲州松江城を堀尾氏が築く時、成功せず、毎晩その邊(辺)を美聲で唄い通る娘を人柱にした。』という話を、南方熊楠(くまぐすく)が、「南方閉話」で紹介しています。こう言ったことを思い出したのは、福島原発の収集のために、現場に駆り出された従業員の「被爆量」の調査のために、調査対象としてあげられた人の数が、3639人だということがわかったのだそうです。しかし、何と杜撰(ずさん)なのでしょうか、69人の今日現在の所在が分かっていないのだそうです。この種の業務を担当するのは、子会社、孫会社、その下請け、そのまた下請けと、劣悪な賃金と労働条件で働く人達が多く、きちんと名前や住所などの記録を残していないような労務管理が、東電の現場でなされていたことが暴露されたのです。
まさに、これって平成版の「人柱」、「生け贄」ではないでしょうか。使い捨ての労務者、昔、「タコ部屋」という牢獄もどきの現場に収容されて、極悪の条件下で働かされていた労務者の方々の話を思い出したのです。「背広組」と「現場労務者」との、あらゆる面での格差の大きさが、この企業の収益の根底にあるのではないでしょうか。その杜撰さには、呆れてしまいます。「人柱」のように、働く人があって、想像を絶するような報酬をもらう役員がいるというのは、社会主義者でない私でも腹が立って仕方がありません。腹がたったので、昼ご飯にしようと思います。信長だって、これには怒るに違いありません!ちなみに中国語で、「怒る」を、「生気了(sheng qi le)」と言います。