コウシンソウ

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「わたらせ渓谷鉄道」の沿線の庚申山や、奥日光の男体山の山中に自生する花で、「庚申草(こうしんそう)」です。特別天然記念物に指定され、絶滅危惧種なのだそうです。先週、小遠足に行った「わたらせ渓谷鉄道」の電車の窓から遠くに眺めることができた山中に咲く、食虫植物です。この自然界には、まだ人に見付けられていないで、密やかの咲く花が、まだまだあるのでしょうか。

(〈日光旅ナビ〉掲載の「庚申草〈こうしんそう〉」です)

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舟を漕ぐ

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私の育った多摩地区の街に、昔、「渡し」がありました。江戸期、徳川幕府は架橋を禁じましたから、川の流れを、渡し舟や渡人足が、人や馬や荷を運んだのです。1941年、戦時歌謡として、作詞は武内俊子、作曲は河村光陽で、「船頭さん」が歌われ始めました。

1 村の渡しの船頭さんは
今年六十のお爺さん
年を取つてもお舟を漕ぐときは
元気いっぱい艪がしなる
それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ

2 雨の降る日も 岸から岸へ
ぬれて舟漕ぐ お爺さん
けさもかわいい 子馬を二匹
向こう牧場へ 乗せてった
それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ

3 川はきらきら さざ波
渡すにこにこ お爺さん
みんなにこにこ ゆれゆれ渡る
どうもご苦労さんと いって渡る
それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ

この歌詞は、戦後、軍事色を除いて改作さたもので、長閑(のどか)な、風景を思い起こさせてくれる歌です。六十になると、男は、この歌を思い出して、自分に当てはめて、こっそりと歌うのだそうで、私も例外ではありませんでした。『もう六十、還暦!』と、ショック気味になって、切なく歌いました。

夏休みになると、兄の後の追っかけで、川に行って泳いだり、潜ったりしました。高学年になると、友だちや近所の遊び仲間と連れ立って、川泳ぎを楽しみました。

江戸に行くには、その川を渡らなければなりませんでしたから、高速道路で一っ跳びで通過する現代人には、想像のつかない悠長さと煩雑さがあったのでしょう。川の水の増水で、足止めになることもしばしばのことだったのでしょう。ちょうど今頃の梅雨の時期には、急がなければならない旅人はやきもきしていたに違いありません。

江戸川を、柴又と下総(しもうさ)の松戸の間の「矢切の渡し」は、どこにでもある渡し場で、特に有名でもなかったのですが、伊藤左千夫の小説「野菊の墓」の舞台であり、また歌で歌われた昭和になってから有名になってしまいました。ここ栃木の巴波川は、舟運でこの江戸川(新利根)を上り下りしていたことでしょう。

もう少し若かったら、盥舟(たらいぶね)かゴムボートで、巴波川、渡良瀬川、利根川と下ってみたいのですが、無謀な計画だと言って、誰からも非難されることでしょう。華南の街の新旧市街を分けている川は、いつも誘惑でした。上流に世界遺産があって、小舟で遡上するなら行くことができそうで、貨物船の船長をされていた方がいて、この方を誘惑したのですが、ただニコニコされていただけで、相手にしてくれませんでした。

六十の船頭さんだったら、艪をしならせて、自在に舟を操ることができるでしょうね。ところで政治家も官僚も、国を動かす人は、五十代くらいでないと務まりません。ある時、国会の様子を撮った写真に、われわれ世代の代議士さんたちが、椅子の上で舟を漕いでおいででした。寝ずの番をしなければならない激務に携わるのは、もう年齢的にも、体力的にも、もう無理だということでしょうか。殊の外、一国の首長も、若く俊敏でないと無理に違いありません。老害と言われる前に、職責を譲らなければいけません。

先月のことでした、この歳になって、家内の付き添いで、病院の待合室で、生涯初めての居眠りをしてしまいました。不徳よりも、年齢、さらにコロナでマスク装着で、酸欠気味もあったかも知れません。もう私たちの時代は、過ぎた証拠です。かの国では、処刑ですからね。涎(よだれ)を手で拭って、ニコニコなどしてはおられません。目の下がたるんできたら、もう時節到来、引退の〈潮時〉なのでしょう。

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乖離

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常々思っていることです。心理学を学んでカウンセラーになろうとする人、社会福祉学を学んで心身に障碍(しょうがい)を持っておられる人の援助者になろうとする人、また様々な分野でのボランティアをしようとする人には、やはり独特の動機付けがあります。これは全ての人を言っているのではなく、そう言った傾向があるという意味でです。

例えば、身内の兄弟姉妹や家族や親族が、様々な必要を持っていますと、そうでない人に比べて、社会的な精神的な肉体的な弱者に同情的に、献身的になられる様です。それで職業選択についても、普通の会社勤めをするよりは、医療や福祉関係を選ぼうとする傾向が強くなるのかも知れません。

もちろん優しい心の持ち主で、どうにかして助けて上げたい、一緒に生きていきたいと思う方が多くおいでです。アメリカ社会は博愛精神が溢れるほどにあって、様々なボランテアが行われています。賀川豊彦は、神戸の新川という、当時のスラム街(貧民窟)に、1909年に入り込んで、窮民救済のために労し続けました。彼の生活ぶりを、一人の慶應義塾の学生が、次の様に記しています。

『・・・当時神戸で、新川といえば、市内最大の細民街を意味するように、いつのまにかなっていたのである。一年中乾くまもない低湿地帯だったこの辺は、すこしの雨でも、たちまちあたり一面水浸しになった。そうした不衛生な自然の環境に、畳が一戸あたり二畳から四畳ぐらいしかない棟割長屋が庇(ひさし)と庇をくっつけて幾十と並んで、その戸数は約2000戸(明治末)あったという。だから、狭い家には、一日中、陽があたらず、つねに暗く、2メートルもない狭い路地には、浅い溝から汚水があふれ出て、ところどころ水溜りをつくっていた。

そこには、何らかの労働災害で不具になり、働き場所から放り出された人たちや、失業者、寡婦、事業に失敗した人たち、生活能力を失って転落して来た人たち―その犠牲になった人たちが、さまざまな差別をうけ、何の保護もあたえられずに住みついていた。彼らは、にわか仕込みの技術で、たとえば、履物直し、皮革職人、手伝い、掃除夫、葬式人夫などをやって飢えない程度に糊口をしのいでいた。マッチ工場の職工や沖仲士のように、職のある者はいい方である。大半は、その日その日をようやくしのぐ生活であった。明治末年で約8500人ほど住んでいたといわれる。その後、新川の住人は、日増しにふえていったようだ。』

賀川は、困窮し、不衛生な生活をしている人を見捨てられませんでした。実は、この人は、「芸者の子」として誕生していました。そう言った生まれの背景の人が、みなさん同じだとは言えませんし、それを私は嫌っているのではありません。なぜなら、彼が選んだ境遇ではないからです。その様な生まれの背景も、社会的弱者に心を向けて生きていく、一つの動機であったかも知れません。

長じて明治学院や神戸の学校で学んでいますが、社会的な弱者への同情は強烈でした。今、どこの街にもある、「生活協同組合(コープ)」を始めた方でもあります。そう言った誕生の背景が、彼のやっていた社会事業との間には、強い関係がありそうに思われるのです。

これは、思想的にも言えそうです。精神的に辛い経験をしている人の洞察や考えは、今まさに同じ境遇にある人に受け入れられ、共感する様になります。『類は友をもって集まる』と言うのでしょうか、中国語にも、「物以类聚=wù yǐ lèi jù」と言う言葉があり、英語にも、“ Birds of a feather flock together “ と言う表現があります。同じ羽を持っている鳥は群れるわけです。

これには《強さ》もありますし、〈弱さ〉もあります。それで、自分と同色、同類の集まりから出て、全く違ったものの感化を受けようとする人もおいでです。『何か惹かれるものがある!』と言って惹かれていくと、けっこう狭量な世界に入り込んでしまい、広く、高く、公平に考えたり、結論づけたりできなくなることがあるからです。それで、無理に、そう言った風にするのです。

偏り過ぎた思考や行動から自由になることは、どうしても人には必要です。発想の転換と言うものは、自分の趣味や性向や傾向を、よい方向に変えさせてくれます。私も偏向傾向の考え方に囚われていましたが、そうでない考え方を理解することによって、偏執から出ることができたのです。

同じ傾向や思想の書籍ばかり読まないで、同意見の論者の論に傾倒ばかりしないで、全く違った観点や考え方に、私も学んだことで、均衡が取れた様に思えるのです。病質者の思考は、素晴らしくとも、その方の根本の問題が露わにされると、『やっぱりそうだったのか!』と思えるのです。思想や思考の形成期や背景に、気をつけなければいけない点です。

教育論で優れた方が、その論とは裏腹に、自分の何人もの子の子育てを放棄していた事実を、後になって知らされて、私は、そう言った考え方をすべきだと軌道修正したのです。その人の思想と、その人の実態とが、もし大きくかけ離れているなら、どんなに優れた思想でも論でも、受け入れない様にしたのです。一度慣れ親しんだものから、出るのはけっこう骨ですが。

賀川豊彦についても、そうでした。戦時下での彼の変節、戦後の無反省を知った時、いかに素晴らしい社会事業家であったとしても、『どう言う人だったのか?』を知って、人物像も偉業も、見方を変えてしまったのです。幾度もノーベル平和賞候補になりながら、受賞に至らなかった理由が、その辺にあったのかも知れません。もちろん、だれにでも弱さがあります。『何をしたか?』、『どんな思想だったか?』が、《人となり》と大きく乖離(かいり)していたら、気をつけるべきだと学んだのです。あくまでも、これは私の意見であります。

先日、この生活協同組合の会員になり、自転車でちょっと遠いのですが、COOPに出掛けて買い物を始めました。もう一つ、宅配サーヴィスの「よつ葉生協」にも入っていまして、けっこう好い物が精選されていて、食が安全に保たれそうで感謝しています。これは主夫の弁です。

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果して

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2010年5〜11月まで、上海で、「世界博(上海国際博覧会/世博shibo)」がありました。その開会のセレモニーで、谷村新司が、「昴(すばる)」を歌ったのです。

1 目を閉じて何も見えず
  哀しくて目を開ければ
  荒野(こうや)に向かう道より
  ほかに見えるものはなし
  嗚呼(ああ) 砕け散る
  運命(さだめ)の星たちよ
  せめて密(ひそ)やかに
  この身を照らせよ
  我は行く 蒼白(あおじろ)き頬のままで
  我は行く さらば昴よ

2 呼吸(いき)をすれば胸の中
  凩(こがらし)は吠(な)き続ける
  されど我が胸は熱く
  夢を追い続けるなり
  嗚呼 さんざめく
  名も無き星たちよ
  せめて鮮やかに
  その身を終われよ
  我も行く 心の命ずるままに
  我も行く さらば昴よ
  Mmmm……(ハミング)
  嗚呼 いつの日か 誰かがこの道を
  嗚呼 いつの日か 誰かがこの道を
  我は行く 蒼白き頬のままで
  我は行く さらば昴よ
  我は行く さらば昴

これ以前に、谷村は、上海の音楽学院に招かれて、教授として教えてきておりました。この「昴」は、谷村と同世代の中国の人たちの圧倒的な指示を受けていますが、若い人たちにも、大変人気な日本人歌手、音楽家として評価されています。

『この日本人の先生は、本物の音楽を教えてくれた。本物の音楽は、心で歌われ、心を響かせるものだ。それに比べ、万博開幕式に出演した中国人のスーパースターたちには、すっかり失望した。自分が感動していない歌で、人に感動を与えられるわけがない。谷村先生アリガトウ!』とまで、ある方は言っていました。

私は、その日、華南の街の学校で、日本語を教えていたのですが、学生さんが、次の様に言っていました。『あんなお爺さんが、精一杯の声で歌っているのは素晴らしいです。私たちの国では老人が、人の前で歌を歌い、そんな風に溌剌とすることなどないからです!』と。

谷村は、この時、62歳でしたし、私は66歳だったのです。『自分たちの国に来て下さって、中国人を愛し、仕え、教えてくださるのに感謝してます!』と私の学生さんも、感謝を表してくれました。かつて日本がしたことにしたら、感謝など受ける資格などはなく、私は、ある面で、《償い》の気持ちで、学校や倶楽部で奉仕させていただいていただけでした。

それにしても、「世博的开幕式kaimushi(開会式)」で、日本人の歌手が招かれて歌ったことに、驚かされたのです。実行委員会が、そう言った「選び」をされた、その懐の深さが感動的でした。果たして逆に、そう言ったことが私たちにはできるでしょうか。

(上海の世界博の会場です)

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父として遇する

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 今日は「父の日」で、午後3時に、コーヒーを淹れて、飲もうとしていたら、玄関のインターホンが “ピンポン!” となりました。郵便配達の方が小包を届けてくれたのです。嫁からのギフトの菓子箱でした。このタイミングが不思議で、嬉しくなって家内とコーヒーで、美味しく頂いたのです。それで、自分の父を思い出しました。

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     「父は父なるが故に父として遇する」

 中国で日本語を学ぶ日本語学科の教科書の中に、日本の歌がいくつか掲載されています。その中で、学生のみなさんの誰もが知っている歌の一つが、「四季の歌」です。

 一緒に歌ったりしますが。荒木とよひさが、学生時代に怪我をして、湯治をしていた妙高高原で、あたりの風景を眺めながら作詞したのです。それに、彼自身が曲を付けたのが、この歌です。芹洋子などの多くの歌手が歌っていました。

    春を愛する人は 心清き人
    すみれの花のような ぼくの友だち

    夏を愛する人は 心強き人
    岩をくだく波のような ぼくの父親

    秋を愛する人は 心深き人
    愛を語るハイネのような ぼくの恋人

    冬を愛する人は 心広き人
    根雪をとかす大地のような ぼくの母親

 四季の移り変わりを歌った、実に清楚な歌です。やはりハイネの詩に憧れる気持を表現しているのですから、青年が詠んだものであることが一目瞭然ですね。

 とくに「父親像」がいいのです。毅然とし、確固としている「父」は、このところ流行りの「友達のようなお父さん」でないのがいいのです。〈ゲンコツ親爺〉、〈ガミガミ親爺〉、それでいて〈涙もろい親爺〉の方が、男の子のうちに〈父性〉を築きあげていくのに、二人の息子を持つ父親として理想的ではないかと感じるのです。

 さらに女の子にとっても、理想の「男性像」は、先ず父親から始まるのですから、〈男気〉が旺盛な方が、いいのではないかと、二人の娘を持つ父親として感じるのです。

 今月は、父の誕生月でした。晩婚だった父の三男として、中部山岳の山の中で生まれた私は、誰もが、そうであるように、〈父の背中〉を見ながら育ったのです。祖父に連れられていったことのある集会で、歌い覚えた、『主我を愛す・・・』を、よく口ずさんでいた父でした。旧海軍の軍港の街で生まれ育った父は、〈ゲンコツ親爺〉でした。

ところが拳骨だけではなかったのです。出張に行っては、「温泉まんじゅう」や「崎陽軒のシウマイ」を買って帰ってき、会社の帰りには、「ショートケーキ」、「ソフトアイスクリーム(ドライアイスで凍らせたもの)」、「あんみつ」、「カツサンド」、「鰻」、「玉木屋の佃」などなどを買ってきては、『さあ、みんな喰え!』と進めてくれたのです。

 この冬休みに帰国して、次男の所で過ごしたのですが、彼が、『お父さんが作ってくれた、サンドイッチが美味しかったよ!』と言ってくれました。それは、8枚切りのパンをトーストしたものにバターを塗り、バターと塩コショウで味付けした牛肉、炒めた玉ねぎか長ネギ、輪切りにしたトマトとキュウリ、薄焼き卵を挟んだものでした。4人の子どもたちに、何かといっては作ってあげたのを思い出します。

 そう言えば、父は、「カルメ焼き」を、時々作ってくれたことがありました。七輪に金属製のおタマをのせ、そこに水とザラメを入れて割り箸で溶かし、タイミングを測って重曹を割り箸の先につけて、ザラ目液に入れると、膨らんできて固まるのです。あの味は、スーパーの菓子コーナーに並ぶ市販のものと比べて、及びもつかないほどに美味しかったのです。舌や胃袋に感じた〈親爺〉が、やはり懐かしく思い出されます。

 『大波に微動もしないで巌としてる「岩」のような父』、自分だったら、そんな言葉で〈父〉を表現して、春到来の華南の地で、心から感謝したいものです。『父は父なるが故に、父として遇する!』(2013年3月に掲載した分に少し加筆しました)

(崎陽軒のシウマイです)

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穏やかさ

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現代では、ほとんど使わないのですが、「意趣(返し)」という言葉があります。“ コトバンク “ に次の様にあります。

1 恨みを含むこと。また、人を恨む気持ち。遺恨(いこん)。
「意趣を晴らす」
2 心の向かうところ。意向。
「格調高雅、―卓逸」〈中島敦・山月記〉
3 無理を通そうとすること。意地。
「二人はわざと―に争ってから」〈有島・生れ出づる悩み〉
4 理由。わけ。
「神妙に―を述べ、ものの見事に討たんずる」〈浄・堀川波鼓〉
5 「意趣返し」に同じ。
「昨日の―に一番参ろか」〈浄・矢口渡〉

この言葉から、「意趣返し」と言ったりします。「恨みを返すこと」で、「仕返し」をすることと同じです。

子どもの頃に、「トニー谷」と言われる芸人(よく” ボードビリアン ” と言われたのです)がいて、テレビの司会などで活躍していました。ソロバンを片手に歌ったり、踊ったり、司会をしていました。国籍不明の英語化した日本語を喋りまくって、人を煙にまいていました。

人気があったのでしょうか、この人の子どもさんが誘拐された事件が起こったのです。彼を知る芸人仲間は、まことしやかにテレビの前で泣いて、子を返してくれる様にと、必死に泣きながら訴える姿を見て、「狂言誘拐」だと言って、信じませんでした。この人は、芸風はともあれ、同じ芸人仲間にも嫌われていて、『それも芸の内!」だと思われていたほどの芸人でした。

ところが1週間ほどして、犯人は逮捕され、無事に息子さんが帰ってきたのです。事件は落着したのですが、これには後日譚がありました。トニーが、『子どもを大事に扱ってほしい!』と犯人に要求した通り、子を大事にしてくれた誘拐犯に、感謝の思いで、お金や衣服をあげたのだそうです。だいたい、こんな事態では、「意趣返し」を考えつくのに、このトニーは、そんな風にできた人でした。この犯人にしたことは秘されいて、ずいぶん後にな分かったことでした。

早くに両親を亡くし、親戚にいじめ抜かれて育った過去を、この人は通ったそうです。芸人としては面白く、人気がありながら、人間性が問題視されていた人でもありました。もしかしたら、それも芸の内だったのかも知れませんが。様々な事件の被害者の肉親が、記者会見をしますと、恨みや殺意であふれているのですが、この人は、そんな風に振る舞うことをしなかったのです。

ある時、めぐみさんの弟さんが、北朝鮮に向かって、殺意を表した言葉を放った時に、お父様の滋さんは、『そんなことを言うもんじゃあない!』と、厳しく息子を窘(たしな)めていたのです。お父さんにも憤り、怒りだってあったはずです。ところが滋さんは、「意趣返し」をすることなく、穏やかに帰天したのです。きっと再会の望みが、そうさせていたのでしょう。

(一話のすずめです)

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わたらせ渓谷鉄道の旅

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昨日は、『出掛けてください、あなた!』と言う家内に押し出されて、栃木駅から両毛線で桐生駅に行き、桐生駅で「わたらせ渓谷鉄道」に乗り換えて、足尾駅まで出掛けてきました。全線41.1kmの、ジーゼルエンジンの気動車でした。この鉄道事業について、日光市の案内などに、次の様にあります。

『足尾銅山を支えた物流システムは、当初は近世街道を主要経路とし、馬車道や鉄骨橋梁(古河橋)の整備、簡易軌道、馬車鉄道、架空索道、足尾鉄道の開通まで、多様な方法が行われました。地表の軌道や道路のみならず地下や上空も利用して、立体的かつ複雑な物流ネットワークが形成されました。また、足尾銅山は、日本で民間初の私設電話が架設された場所であり、足尾銅山全域と関連施設を対象に独自の電話網が整備されました。

わたらせ渓谷鐵道の前身である足尾鉄道は、足尾銅山の貨物輸送を目的として1911(明治44)年4月15日に下新田~大間々間で開業しました。その後、神土(現・神戸)まで、沢入まで、足尾までと部分開業を重ね、1914(大正3)年8月26日に足尾本山まで全通しました。最初に開業した下新田~大間々間が、まもなく2011(平成23)年4月15日に開業100年目を迎えるのを皮切りに、2014(平成26)年8月26日まで開業100年目ラッシュが続きます。足尾鉄道~国鉄~JR~わたらせ渓谷鐵道と続いた鉄路は、貨物輸送から観光客輸送へと形を変えながら、今なお輝き続けています。・・・平成21年には、足尾駅や通洞駅などが、「国登録有形文化財」に指定されています。』

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単線の鉄道ですので、途中駅で、上下線の待合停車時間が、5分ほどあって、電車の運転手の方に話しかけて、お話を聞かせてもらいました。「わたらせ渓谷鉄道」には、31年の歴史があり、この方が入社した当時、旧国鉄・足尾線時代に運転手をされていた方がいて、この鉄道にまつわる面白い話を聞かされたそうです。

『みなさんには楽な仕事に思われるんですが、神経を大変使って運転しているんです!』、『夜間走行時には、カモシカや日本シカが線路上に出てきて、轢(ひ)いてしまうことが、3週間に一度くらいあるんです!』、それで質問を私がしました。『事故処理は、どうされるんですか?』と、すると、『電車を止めて、線路上に降りて、自分でするんです!』と話されて、その為の道具の入ったカバンを示してくれました。

私の下の息子ほどの年齢の運転手さんで、いききと強い責任感をもって、輸送業務に当たられていて、実に爽やかな方でした。田舎の第三セクターの小規模の鉄道事業に従事されているのですが、JR新幹線の運転手に負けず劣らず、素敵な笑顔と凛々しい男の顔を見せて運転されておいででした。

足尾駅からは、日光市営バスに乗車し、山道を走って、東武鉄道日光駅で下車し、そこから東武日光線で帰ってきました。行きの電車には15人、帰りのバスには、途中で降りたご婦人を含め5人の乗客でした。前日が雨でしたから、緑が映えて、渓谷に流れも豊富で、何よりも空気が美味しかったのです。『あなた!』と言って送り出して家内に感謝した1日でした。家内は、訪ねて来られて友人と女子会でした。

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例幣使街道かみなりに扈従され 平畑静塔

「扈従(こしょう/貴人や主人に従うこと)」とは、難しい言葉を詠み込んだものです。ほとんど毎日、私は、この令和の「例幣使街道」を通ったり、横切ったりしていますが、うやうやしく行き来する、京の都の公家の一行を、この街の人は眺め続けていたんだと思うと、自分も江戸期に引き込まれていきそうです。

そんな行列に、情容赦なく雷光を放ち、雷鳴を轟かせ、雷雨を降らせ、軒や木下に身を避けたんでしょうか。昨晩は、夜空に雷光が走り、天の大太鼓を打ち鳴らし、車軸を流す様な大雨でした。

昔から、雷嫌いの人が、この時期は蚊帳の中に隠れ込んだりして、けっこう多いのだそうですが、私は、煌めきも、大音も、大雨も大好きなのです。アルバイト中に、突然の雷雨を避けて、雨宿りした木に、そこを私たちが立ち退いた後に、落雷があって、木の下に避難した人が、打たれて亡くなったことがありました。それなのにです。

大陸の雷を、昨晩は思い出して、窓を開けて、閃光の走る夜空を、しばらく見上げていました。あれに比べると、昨夜のは、まだ〈丁稚ドン〉、まだ未熟な雷さまでした。中国大陸の空が広いからでしょうか、大太鼓を打ち鳴らしている様な、憂さを大払いする様な、遠慮の綱を切り捨てた様な、轟わたる雷鳴を、腹の底に感じて、わだかまりがみんな飛び出ていく様でした。

その雷雨の雨脚も半端ではありませんでした。瞬く間に道路を溢れさせてしまい、河のような流れを作ってしまいます。車軸を流すなんて半端なことではありません。何でもかんでも押し流していくほどです。鳴り止み、降り止むと、何もなかったように平然としてしまうのがいいのです。

お陰で、昨夜は、よく眠れました。峠を越したのでしょう、遠雷を子守唄のように聞いているうちに、眠りについたのです。

下野の梅雨の雷住まいおり
雷にさあねんねしなと子守唄

今朝は、もう夏の日が照り始めてきています。雷一下、酷暑の季節の到来です。また家内の手をとって、大陸に轟わたる雷鳴を聞きに戻りたいと願う梅雨の晴れ間です。

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このところ一ヶ月ほど、〈虫〉が騒ぎ続けて、止むに止まれず、先週、市内バスに飛び乗って出掛けてしまいました。何の〈虫〉かと言いますと、「カツ丼虫」でして、仕切りに食べたくなってしまったわけです。

在華の折にも、時々、この〈虫〉が騒ぎ始めて、困ったことがありました。バスに乗って出掛けても、煮ても(?)似つかない〈カツ丼もどき〉では、〈虫〉が収まらないのです。子どもの頃に、父が食べさせてくれた記憶が、ムズムズと騒ぎ出したからなのでしょう。

東京オリンピックが開催された年、1964年に開店した「食堂」を、ネットで見付けたのです。ここの市内バスは、利用者が少なくて、行きも帰りも私ひとりの貸切でした。昼前に着く、ちょうどの便があって、それに乗ったのです。勇んで入店し、『カツ丼ーン!』と注文したのです。市の北の外れで、過疎化も進み、コロナ禍もあり、一組の客と私と、しばらくしてやってきた男性客だけでした。

ご多分に洩れず、近づかない距離に席をとって、座っていました。切り盛りが上手なのでしょうか、ものの五分もたたずの『おまちどうさま!』でした。農村地域にあって、隣町への幹線道路沿いで、トラックの運転手さんが常連なのでしょう。体を使う人の濃いめの味で、爺さんの私には、ちょっと濃いめでした。が、やはり人気店とあって、美味しかったのです。開業以来のたれに、55年も継ぎ足しているとかで自慢の味に偽りはありませんでした。

また6月1日、『身の回りの世話をしてくれるので、休ませて上げたい!』と家内が言って、この正月に家族会をした施設に、二泊三日のお泊り遠足に行ったのです。コロナ緊急事態宣言明けで、営業を再開した初日で、私たちの他には、どなたもいませんでした。借り切り状態で、二人っきりでも、好い賄いもしてくださって、好い時を持てたのです。

その余韻と甘えでの「カツ丼」でした。『たまに出掛けて!』と言われて、その気になっています。家内が、長らく飲んできました、痛み止めも、だいぶ前から4mm錠から2mm錠に減り、毎日が二日に一回の服用薬になってきています。その他の薬も様子待ちで、休む様になったりして、何となく安心がやってきているのです。発病以来、一年半が過ぎ様としています。みなさんの応援と、お支えに感謝しております。ところで、このカツ丼は、今のところ家内には、味が濃過ぎて一緒には無理の様です。いつか一緒できるでしょうか。

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八仙花

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外出を控える日々ですが、たまに買い物や通院での外出時、道端の庭の植木に、「紫陽花(あじさい)」が綺麗だと思ったら、案の定、北関東も梅雨入りとなりました。

どうして、だれも読めない様な漢字をあてて、「あじさい」を表記したのかなと思うのです。“季節の花300”に次の様にあります。

『開花時期は、 6/ 1 ~ 7/15頃。ちょうど梅雨時期と重なる。紫陽花は日当たりが苦手らしい。

名前は、「あづさい」が変化したものらしい。「あづ」は「あつ」(集)、「さい」は「さあい」(真藍)で、青い花が集まって咲くさまを表した。「集真藍」「味狭藍」「安治佐為」 いろいろある♪

日本原産。本来の「紫陽花」とは、唐の詩人の白居易さんが命名した、別の紫の花のことで、平安時代の学者、源順(みなもとのしたごう)が今のあじさいにこの漢字をあてたため誤用がひろまったらしい。(でも、いい雰囲気の漢字)中国では「八仙花bāxiānhuā」または「綉球花」と呼ぶ。 

色がついているのは「萼(がく)」で、花はその中の小さな点のような部分。しかしやはり萼(がく)が目立つ。「萼(がく)紫陽花」の
 ”萼”は ”額”と表記することもある。

花色は、紫、ピンク、青、白などいろいろあり。花の色は、土が酸性かアルカリ性かによっても変わるらしい。酸性土壌→ 青色っぽくなる、アルカリ性土壌→ 赤色っぽくなる。

また、花の色は、土によるのではなく遺伝的に決まっている、という説もあり、また、定点観測していると、青 → 紫 → ピンク、とゆるやかに変化していくものもあるので、決定的な法則はないのではないか、と思います。

江戸時代に、オランダ商館の医師として、日本に滞在したシーボルトは、この花に魅せられ、愛人の「お滝さん」の名前にちなんで、学名の一部に、「オタクサ」otaksa の名前を入れたとのこと。(でも実際には、それより前に既に学名がつけられていたため、シーボルトがつけた「お滝さん」の学名は、採用されなかったらしい)』

紫陽花やはなだにかはるきのふけふ

これは、正岡子規が詠んだ句ですが、「はなだ」とは聞きなれない語です。紫陽花の花の色を、そう言うのだそうで、「薄い藍色」のことです。「灰色がかっている青」を、そんな色の名を決めた、昔の人の観察眼には、驚かされてしまいます。色が微妙に変化するのを、子規は詠んだわけです。明治人の国語力にも驚かされます。

梅雨入りと紫陽花は、一対の様です。私たちが住んでいた華南の街の北の山間部に、清の時代のおわりごろからでしょうか、外国人が華南の街にも住み始めて、避暑地として利用した小高い山の部落があって、そこに紫陽花が綺麗に咲いていました。今頃は、日本と同様に、最盛期でしょうか。子規の「昨日今日」を、「きのふけふ」と記すのもいいですね。

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