礼服

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 ある時、フィリピンから、小さな小包が届きました。送り手は、私たちの街で、しばらく働いていて、日曜日になると、私たちの事務所にやって来られていた方からでした。実は、ビザが切れていて、不法滞在が摘発され、強制送還されて、帰国されてから、しばらくたった時でした。

 それは、フィリピンで、公の席に出る時に着用する《礼服》の贈り物でした。” Thank you card “ が添えられていました。この方との出会いは、当時、学校を卒業して、今後、どうするかを待っていた長男が、家に帰って来ていて、街中で会い、事務所にお連れした6、7人のフィリピン人の中で、一番の年配者でした。私とほぼ同世代だったでしょうか。

 日本で働いて、祖国に残してきた妻子を経済的に支えていたのです。小柄で、穏やかな顔をされていた方でした。彼が、ポツリと話されたことがありました。ご自分のお父上のことでした。太平洋戦争時、日本軍はマニラ侵攻を遂げたのですが、その時、『私の父は、日本軍に殺されました!』と言われたのです。

 兵士たちは、軍の命令で行動をしていて、意に沿わないこともしなければならなかったのです。彼のお父上は、その犠牲者だったわけです。言いにくそうに、そう言われたのです。決して憎悪にもえて語ったのではありませんでした。

 私の父親は、軍命で、軍事軍需工場の責任者として、爆撃機の防弾ガラス用の原料の石英の採掘を、中部山岳の山の中でしていました。軍属として戦争に加担した責はまぬがれませんが、戦時下の第二世代同士が、戦後の出会いと、語らいでした。

 家内は、食事を作ってもてなしたのです。韓国からの方、中国からの方にも、食事で歓迎したりしていました。そう言ったことへの感謝があったのでしょう、それで思いの籠った礼品を送ってくださったのです。

 実は、その《礼服》は、小さ過ぎて着ることができなかったのです。どなたかに差し上げようと思って、タンスの奥に仕舞っておきましたが、中国行きの折に、どうしても処分せざるを得ず、申し訳ないことをしました。これは多くの人との出会いのひとコマです。

(フィリッピンの国花の「ジャスミン」です)

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Go to Nikkou !

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 日光市の山間の村落にある、温泉施設に来ています。スポーツ用品のチェーン店を経営される企業が、社員用の保養のために作られた休暇村です。山間にありますので、実に静かで、余暇を静かに過ごすには、最適な自然がいっぱいの地です。温泉があって、コロナの影響でしょうか、利用客が少なくとも、受け入れてくれてくれています。

 最寄駅への出迎えが原則なのですが、エレベーターのある駅まで出迎えていただきました。道筋に、赤や白の彼岸花が咲いたり、リスが林に走り込んだりの山道をたどって、保養所に着きました。そこで三食の賄いを受け、談話室には図書庫があって、本を読んだり、鳥の鳴く声や虫の声を聞きながら、杉林を散策したり、家内と語らいながら時を過ごしています。

 庭に栗の木があって、今朝は、栗の実を拾ってしまいました。実が小さいのですが、茹でて食べると甘いのだそうで、家に持ち帰ることにしました。キノコも出ていましたが、食用ではないので遠慮しました。

 実は、今年の正月に、4人の子どもたちが、それぞれ家族を連れて、ここを会場に、総勢14人で「母を励ます会」を持ったのです。ちょうど日曜日でもあったので、みんなでゴスペルを歌ったり、それぞれに思いを分かち合ったり、長男の司会、嫁や下の息子の奏楽で賑やかで、穏やかで素敵な家族の一時を過ごしました。

 その印象を追ってでしょうか、家内がこの保養所が気に入って、やって来たわけです。3人の男性スタッフが、家内の母親の故郷の九州の出身者で、一仕事終えて、第二の人生でしょうか、保養所を守っておられるのです。この会社の会長が、私の同窓で親しみやすさもあって、今回は3泊4日の “ Go to Nikkou “ なのです。

 昨年は、台風19号の洪水で罹災を経験したのですが、今年も台風12号が近づく中、こちらに来たのですが、上陸を避けることができ、雨量も大したことがなかったのは幸いです。

 もう、この保養所の庭の木々が、紅葉し始めています。川の瀬音も聞こえて、桃源郷とまでは言えませんが、「栗源郷」とでも言ったらよいでしょうか。今日は、近くに、ご婦人たちが始めた「蕎麦屋」があると聞き、案内してくださるとのことで、お昼に出掛けて、舌鼓を打って帰ってきたところです。

 福岡の直方(のうがた)の出身で筑後弁、長く仕事をして覚えた関西弁の交じった話をされる方が案内してくれ、鬼怒川の大きな吊橋にもお連れいただきました。あいにくの雨でしたが、秋の風情をた楽しむことができました。

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友、真理

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 「万有引力」を発見したアイザック・ニュートンが、次の様なことを言っています。

『プラトンは私の友、アリストテレスは私の友。しかし、最大の友は真理である(Plato is my friend, Aristotle is my friend, but my best friend is truth.)!』
  
 ニュートンは、大英帝国のヨークシャの出身で、未熟児で誕生し、体は小柄で、病弱な幼少年期を過ごしています。トリニティ・カレッジに入学して学び始めますが、当時、ヨーロッパに「ペスト」が、数度目の大流行期を迎えていました。学校が休校になってしまいます。その18ヶ月の間、帰郷を余儀なくされたニュートンは、家に籠ることが幸いして、「微分積分」や「引力」の研究に没頭することができたのです。

 将来の研究の基礎を築くことができたと言われています。科学者は、自然界に働く原理と出会うのですが、不変の「真理」の探究に励み、その「真理」を、生涯の友としたのは、素晴らしいことだったわけです。科学する人の究極の関心は、その「真理」の探求なのかも知れません。

 明哲のプラトンやアリストテレスを、ニュートンが《友》と呼んだのも、驚くに当たらないのでしょう。プラトンの哲学は、普遍的で完全な真実の世界を思弁によって認識しようとする哲学だと言われました。また、アリストテレスの哲学は、人間の霊魂が、理性を発展させることが人間の幸福であると説いた(幸福主義)と言われています。ニュートンは、この二人の友から学んで、「真実(真理)」を、自分の友と呼んだのです。

 順天堂大学病院で、「がん哲学外来」を担当する、樋野興夫(ひのおきお)医師がおいでです。「癌」を、病理で捉えるだけではなく、「哲学」によって捉え直して、がんを病む人たちが、死を待つだけの日々から、残された日を意味あるものとして、積極的に生きることを勧めています。次の様なことをおっしゃっています。

 [『最も剛毅なる者は、最も柔和なる者であり、愛ある者は勇敢な者である』とは「高き自由の精神」を持って医療に従事する者への普遍的な真理であり、「他人の苦痛に対する思いやり」は、医学・医療の根本であると考える。「科学としてのがん学」を学びながら、「がん学に哲学的な考え方を取り入れていく領域がある」との立場に立ち、『がん哲学』が提唱されるゆえんである。そこには、「考え深げな黙想と真摯な魂と輝く目」が要求される。この風貌こそ、現代に求められる「がんに従事する者の風貌」ではなかろうか。『何かをなす( to do )前に、何かである( to be )ということをまず考えよ』ということが大事になってくる。]

 この方の著作を、友人に紹介されて、がん治療をしている家内が読んでいます。この樋野医師が、新渡戸稲造や矢内原忠雄の思想的な感化を受けておられて、人間理解が深い方なのです。その様な彼が、「まちなかメディカルカフェ」と言う、患者と家族と医療従事者とボランティアの交流会を始めらておいでです。今では全国に多くの交流会があって、栃木県の宇都宮にもあります。

 昨年暮れに、家内を連れて、その月例会に参加しましたら、歓迎されて、続けて参加をしたのですが、コロナ騒動の中で、カフェを開くことを避けて、ネット上の交流会に、今は変わっています。自分の抱えている病を、医師との問答を介して捉え、ボランティアの助けで同病のみなさんと励まし合いながら、日常を語り合いながら時を過ごしています。1月26日のカフェの様子を次の様に報告しています。

 『暖冬の影響なのか道端では早くもオオイヌノフグリが咲き始め、春の足音が聞こえ始めました。

 1月のカフェには相談者16名(初参加3名)、スタッフ22名、見学者2名が参加しました。初めて参加された女性はがんになっても自分には夢があると話され「地元でこのようなカフェを開きたい!自分にはまだ世の中に役立つことができると思っている」と大変力強いメッセージをくださいました。

 
 昨年、母様をがんで亡くされた女性は「母を亡くしてグリーフケアに興味を持ち、自分も何かできるのではないか」とカフェに参加されました。

 
 また、高校一年生の女子学生は、お友達のお母さんががんで何も食べられなくなった時に、食欲のない時にも食べられるようにと自分で考えたカラフルな琥珀糖の飴を可愛いレシピと共に持参し、皆さんに配ってくださいました。最近の中高生は世界に通用する才能を発揮する子もいますが、他人への思いやりと行動力には驚くばかりで、感激しました。
 クールダウンはスタッフによるストレッチ。心も体もほぐれて笑顔で終了いたしました。』、諦めや運命だけで、病を捉えずに、残された日々が輝く様にと願っています。』

 そうですね、ニュートンに倣って、「真理」を友として探求し、永遠不変の天然の理念、人の世の真実を尋ね求めて、健やかでも病んでいても、一日一日を、人生の「基礎研究」をしたり、もう少し哲学的な思考をしながら、意味あるものにして生きて行きたいものです。

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ダンダン

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 「毎日新聞」に、以前、自分の母親を語る欄がありました。また「文芸春秋」には、今でも「オフクロ欄」があります。そこでは著名人が、亡き母や老いた母を、思い思いに語っているのです。千差万別、様々な母親の思い出や影響があることを読んで、けっこう面白い記事だと感心しています。

 近くのドラッグストアーの本売りの棚の「文藝春秋」の、この欄を、たまには立ち読みしているのです。『この人にはこんなお母さんがいたんだ!』と思うこと仕切りです。 年配者が、自分の母を語る語り口は、実にほほえましいものがあります。

 とくに誰にとっても母親は、《特別な人》に違いありません。造物主が極めて親密さの中に置かれた関係でして、9ヶ月間その母の胎の中で育み、誕生するや自分で飲んだりすることの出来ない赤子だった私たちを、実に献身的に世話をしてくれた育児者であったわけです。その記憶は全くないのですが、体が覚えているわけです。さらに初めて身近にした女性でもあるわけです。

 月の輪熊の母子の様子がテレビで放映されているのを観たことがありますが、その関係の影響力は、その子熊の一生を支配するほどの重要な意味が、母子の関わりの中にあるのだそうです。生きていくことを学ばさせ、子はそれを習得しているわけです。ペンギンでも狼でも猫でも、その母子関係は実に細やかで、実務的な教育がなされいます。

 もちろん病死などの離別で、母親の思い出や影響の全くない方もおられるのですが、それが許されたれたことを認めるなら、欠けたるところを、充分に補ってもらえるに違いないのです。
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 ある方が、『おかあちゃんに会いて-よー!』と泣いているのを見させて頂いた時、いくつになっても、母は母なのだと確信させられました。〈マザコン〉と揶揄(やゆ)されたことが、以前、私にもありました。自分の母を誇ったのが、その方にはずいぶんと迷惑だったわけです。

 人には様々な過去と背景がありますから、決してどなたかを傷つけようとしたのでも、無配慮にでもなく、母の教えや存在に感謝して語ったのですが。同じ母の子でも母に対する思いや評価は、兄弟でも様々に違うわけですから、仕方がなのかも知れませんね。

 私の愛読書に、「あなたの年老いた母をさげすんではならない。あなたを産んだ母を楽しませよ。」と記されています。人生の晩年に、自分の母親が、老いを迎えて、息苦しくなったり高血圧であったりして弱くなっていくのを見ていました。2度の大病を越えて生きた母がひと回り小さくなっていくのです。その母の通院に付き添ったことがありました。

 駐車場から診察室まで遠かったので、帰りに、母を負んぶしたのです。負ぶってもらった記憶はありますが、今まで母親を背負う機会がなかったのです。〈平成の啄木〉の様に、砂浜ではなくビルの谷間を二百歩ほど背負ったでしょうか。『このおじさん何してんの?』といった顔を向ける若者の間を歩みました。やはり軽いのです。その時「砂の上の足跡」と言う有名な詩がありますが、その詩を思い出してしました。

 14才の少女の時から、いえ母親の胎に形作られた時から、絶対者に負ぶってもらって、95年の天寿を全うしました。時々、出雲弁が出てしまった母を、父がからかっていたことがあります。この出雲弁で、『ありがとう!』を表すのに、『ダンダン!』と言うのです。そうすると私にとっての母親は、《ダンダンの母》になるのでしょう。

(島根県花の「牡丹」、出雲市の一畑電鉄の電車です)

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国境と祖国

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Lille, France – June 26, 2012: The Pasteur Institute of Lille building is a research centre and member of the Pasteur Institute network.

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 疫学者のパスツールのことばを、アメリカのハーバード大学で主任研究をされた吉田知史(よしださとし/現在は早稲田大学教授)氏が紹介しています。

『科学には国境はない!』

 欧米の大学や研究室は、外国人の研究員に、広く門戸を開いています。そう言った意味で、科学の進歩に、日本人も貢献することができたのです。北里柴三郎が、ネズミを研究台にして、破傷風の研究をしたのも、フランスのパスツール研究所でした。科学の世界は、東洋の優秀な研究者に、国境や人種や民族の壁を設けずに、そう言った研究の機会を開いたわけです。この言葉には続きがありました。

 『しかし科学者には、祖国がある!』

 多くの日本人研究者を、国籍や人種の違いにこだわることなく受け入れ、研究者間で刺激し、協力し合いながら共に研究を続けたのです。それが大きく人類全体に貢献することになったのです。それでも、それぞれの国の期待を担いながら、援助を受けながら、そこにあったのですから、祖国を考えることも忘れてはならなかったのです。

 北里柴三郎には、共同研究者がいたのですが、二人ともに「ノーベル賞」の候補に上がったのですが、諸般の事情で、柴三郎は、その機会を得ませんでした。北里に続いた、秦佐八郎は、ドイツのコッホ研究所、フランクフルト国立研究所などで、抗梅毒剤の研究を始めます。しかしノーベル賞にノミネートされますが、エールリヒと共に受賞を逸します。エールリッヒが受賞前に亡くなったからです。

 エールリッヒは、常に愛弟子たちに こう 言っていたそうです。

 『科学研究者に必要なことは、4 つのG、すなわち《資金(Geld)》、《忍耐(Gedult)》、《手練(Geschick)》、《幸運(Gluck)》である!』でした。でも《健康 (Gesund)》も大きな要素であったのですが、エールリッヒは病没してしまうのです。

 そう言った、日本人研究者の過去があって、今では、毎年の様に、日本人がノーベル賞を受賞する時代を迎えています。地道な研究で積み上げられたものがあっての「今」なのでしょう。このパスツールの言葉を紹介した吉田氏も、東京大学に籍を置きながら、ハーバード大学で研究に携わっているのです。自分の栄誉が、やはり祖国の誇りになると言った面を持ち合わせて、国際社会で活躍している人たちが、多数いることになります。

 よく言われるのは、『◯◯先生の下で!』、『☆☆研究室で!』とかで、師弟関係が、とても大きな部分を持っているわけです。私自身にも、恩師からの期待がありました。彼が纏め上げたある研究を、『ジュン、あなただったらこれを理解してくれるでしょう!』と言われて託されたものがあるのです。

 研究を敷衍(ふえん)して、発表することを願われたのですが、私の内で、その師の労作を咀嚼( そしゃく)して、自分のものにしておきたいのが、私の思いなのです。まだ若かった時、『この主題で本を書いたらどうですか!」と言われたこともありました。でも自分には、本を刊行して世に成果を問うと言う願いは全くありませんでした。

 今日も、多くの研究者が、コロナワクチンの研究をしています。国益が大きく期待されて、〈抜け駆けの功名〉でしょうか、しのぎを削る様な研究競争が繰り広げられています。それは莫大な収益が得られるからです。しかし、一人や一国の利益や栄光や栄誉のためではなく、人類が共通している厳粛な課題や問題を、国境を越えて、全人類の益のために、協力し合えないかと思わされてなりません。

(「パスツール研究所」です)

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名陶工

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 「一芸は道に通ずる」という言葉があります。人間性の高さも兼ね備わっていることも言うのでしょうか。この私が、一芸に通じているとします。そして、その道では誰よりも優れて、優秀なのだと最高に評価をされるのです。そんな、ある日、「人間国宝」の推薦を受けてしまいます。それを私が聞いた瞬間、舞い上がってしまって、南半球のハブエノスアイレスまで飛んで行ってしまうに違いありません。人間性が備わっていないからです。

 陶工の河井寛次郎という方が、「人間国宝」に推挙された時に、何と言ったかご存知でしょうか。寛次郎は、『地方に行けば自分よりも立派な腕を持って宝物を作っている方がおられる。自分の順番はまだ・・・』と言って、そんな誉ある機会を蹴ってしまったのだそうです。

 それではと言って、今度は、「文化勲章」に推薦されたのです。その選考委員をしていた、当時の松下電器の松下幸之助が、使いを立てて、河井のもとを訪ねさせたのです。当時、発売されたばかりの<トランジスターラジオ>を持参させたのだそうです。そうすると河合は、『このほうが受賞ものですよ!』と言って、トランジスタラジオだけはもらって、勲章は鄭重にお断りをしたのだと言う話が、残されています。

 『男は、一般的に、金仕掛け、色仕掛け、名誉仕掛けに弱いので、十分に気を付けて生きなさい!』と、若い頃に何度も、恩師とその友人たちに、《釘を挿す》様に言われました。大先輩たちが、その誘惑に晒されながら、教訓を胸に、生きてきた証詞を聞かせてくれたのです。

 アラブ系アメリカ人の方は、『机を飛び越えて、ドアーに向かって突進して難を逃れることができた!』と言っていた顔と、何十年も前の忠告が思い浮かんできたのです。そう言った誘惑に抵抗できる力を、人は誰も持ち合わせていないからです。ただ一つできる事は、グズグズしていないで《逃げる事》なのです。

 多くの人を見てきて、お金のできた人は、色に走り、色を手に入れると、次は、名誉なのです。「人間国宝」とか「文化勲章」と言うのは、日本の国では最高に栄誉ある褒賞でした。河井寛次郎は、それを欲しなかったのですから、すごい人だった事になります。

 小学校6年生の時に、街の文化祭で、描いた絵と創作した工作品が銅賞をもらっただけの私には、文化庁が間違っても機会などありません。街の文化展への出展だって、きっと担任が間違えて選らんで、街に提出してしまったのでしょう。兄たちや子どもたちは級長をしましたが、どの学年も、私には無縁のことでした。

 <ないない尽くしの人生>でしたが、けっこう楽しく、面白く、納得して生きてこられたのだと、今思うのです。覚えていない〈些細な事〉が、天に積まれているのかも知れません。それで満足とすべきでしょうか。借家ですが住む家があり、貰い物ですが履く靴や被る帽子だけはたくさんが持っています。それに食べる物、日毎の糧があるだけで、それで人は満足できるものです。

 妻がいて、子がいて、婿や嫁がいて、孫がいて、友人や兄弟がいるのですから、こんな幸せ者ではないでしょうか。この河井寛次郎ですが、島根の安来の大工の子で、お嫁さんは宮大工の娘で、京都で創作に明け暮れた人でした。栄誉や褒賞を求めない名人だったのです。地方にいる私は、無名人ですが、孫たちには、ジイジです。アッ、忘れていました。もう一つ《永遠の命》の約束を握りしめております。

(河井寛次郎の作品です)

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Morning Gloly

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 ” Morning Gloly “ 、天に向かって、終わりの時季の夏の花が咲いています。俳句に季語で、「秋」なのが不思議でなりません。ベランダの朝顔は、葉は黄ばんで、落ち葉を見せていますが、花はしぶとく咲き続けているのです。先ほど、茨城北部を震源地とする、震度3の地震がありました。『地震だってあるんだ!』と、自己アピールをしてる様です。北関東の風は、冷たさを含んで、昼過ぎは雨になるのでしょうか。

 好い一週であります様に!

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詫び状

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 以前、一人のお母さんが、わが家に来られて、こんな話をされていました。ご主人は穏やかで、慌てたりしないのだそうです。ところが彼女は、その反対なのだそうで、どうしてもご主人に、厳しく要求をしてしまうのだそうです。ある時、彼女は、ちょっと怒りを、ご主人にぶつけた様です。その様子を見ていた小学生の息子さんに、『怒りを遅くする者は勇士に勝る、んだね!』と言われて、彼女は<ギャフン>とされたのだそうです。

 わが家は、この家族と逆で、家内は、おっとり・のんびり・ゆっくりなのに、私は、せっかちで、慌て者で、性急なのです。彼女は、ほとんど失敗とか怪我をしないのですが、私は、躓いたり、転んだり、ぶつかったりの連続で生きてきました。そう言った私を見聞きしながら、『ほら、見たことないじゃあないの!』とつぶやく様なことは、彼女はしません。

 私が短気して、家内ともめている時、わが家の4人の子どもたちは、『またやってる!』と遠巻きに眺めていて、いつでも家内の味方をしていました。それで、バツが悪くなって、私は<不貞寝(ふてね)>をしたり、車で出掛けてしまうのです。そうやって、何度も何度も子どもたちに助けられて、今があります。今は秋、叙勲の季節なので、《表彰状》を上げなくてはなりませんが、49年連れ添った《糟糠の妻》には《詫び状》を、4人には《感謝状》を上げたい思いでおります。
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 江戸の昔も、そんな夫婦がよくあったのでしょうか、《子は鎹(かすがい)》と言われていました。この《鎹》は、近代建築では使うことが、ほとんどない様です。自分たちの事務所の建設をしていた時に、大きな《鎹》を打ち込んだことがありました。きっちりと打たないと効果が半減してしまうので、なかなか難しいのです。今日日の建築物は、昔の建築にはかないません。ほとんど金属の釘や鎹などは使わずに、耐震装置のきっちり機能する木造建造物を作れたのです。

 天井裏に上るのが、私は好きで、中学の木造校舎や、農家の天井裏に上がって見たことがありますが、木と木を組み合わせるための技術には驚かされました。曲がった自然木に、鑿(のみ)で、《ホゾ穴》を彫り、そこに刻んだ《ホゾ》をはめ込んで、屋根を支えてありました。よく見ますと、何十年も、100年も経つのに、一ミリの狂いも隙間もないのです。コンピューターなどなくとも、伝来の道具を使って、それほど正確に仕事をこなしていたわけです。

 自分の人生を振り返って、どんな構造に仕上がっているのか思い巡らす必要がありそうです。そこかしこに、《ホゾ穴》が彫られたり、《鎹》が打ち込まれてありそうです。昨日は、掛かり付けの町医者に勧められて、MRI検査を大きな病院に行って撮影してもらいました。初めての様な、強い頭痛があったので、念のための検査でした。ドームの中で、ヘッドフォンから流れる曲を打ち消してしまう様に、ガンガンという音を聞かされながら、多くの人のことを思い返していました。みなさん、私の組み立てに必要な方たちだったと思わされ、感謝した時でした。

 
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 2006年10月3日、オーストラリアのメルボルンで、一人の人の葬儀が行われました。上に掲げたのは、その葬儀の一場面です。二人のアフリカ系アメリカ人が、棺を担いでいます。それがトミー・スミスとジョン・カーロスです。彼らは、メキシコで開催されたオリンピックの陸上競技200mで、優勝と第三位を獲得したランナーでした。

 そして、その棺の主は、64年の生涯を終えたピーター・ノーマンでした。彼は、第二位の銀メダリストで、スミスとカーロスと競い合った仲で、競技終了後も、強い友情で結び合わされていたのです。

 人類史上、歴史の時々に、語り継がれる「名場面」がたくさんあります。この写真は、その表彰台の場面を記録したものです。星条旗が掲揚される中、若き日のスミスとカーロスは、黒の手袋をして、それを天に向かって突き上げ、黒人差別に対する反対の拳(こぶし)をあげたのです。
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 ノーマンは、白人ながらも二人の行動を支持しました。それで、同じ表彰台で「人権を求めるオリンピック・プロジェクト(Olympic Project for Human Rights 略称:OPHR)」のバッジを胸に着けて表彰台に上がったのです。彼は、『肌の色など関係ない。人間はみんな平等なんだ。それを忘れてはいけないよ!』と、父に言われて大きくなった人でした。

 1964年当時、アメリカでは、アフリカ系の人たちが、まだまだ酷い差別を受けていたじだいで、それへの抗議のための示威行動でした。その行為が、「オリンピック憲章」に抵触し、その後の選手生命や、その後の活躍を封じられる結果を招きます。最も手ひどい仕打ちを受けたのは、白豪主義のオーストラリア選手のノーマンでした。二度とオリンピック選手に選ばれることなく、オーストラリア政府の公務員として奉職しますが、その俸給だけでは生きていけず、その他にアルバイトをしなかればならないほどでした。

 そんな境遇に耐えながら、一信仰者として64年の生涯を生き抜きます。ノーマンの死後、6年が過ぎた日に、オーストラリアのオリンピック委員会は、1972年に開催されたミュンヘンオリンピック大会に、13回も参加標準記録を挙げたノーマンを出場させなかったことなどの不当な扱いを、公式に謝罪しています。

 私たちの国にも、原住民のアイヌのみなさんへの差別、部落の人たちへの偏見と虐待、ハンセン氏病のみなさんへの不当な扱いなど、多くのことがあり、今だに残されています。

 子育てをした街の高校で英語を教えていたアフリカ系アメリカ人のご婦人が、私たちの事務所においでになられていました。日本人の偏見に悩まされていることを話してくれました。私たちの家においでになったり、食事に招かれたりの交わりの中で、偏見のない私たち家族に会うと慰められたとおっしゃっておいででした。

 今、オレゴン州ポートランドなど、アメリカの多くの街で、警察官の射殺事件への抗議が行われ、暴動にまで発展しているニュースを見聞きして、思い出した言葉があります。『先ほど通り過ぎて行った人が、白人であったか黒人であったかを思い出せなくなる時の到来こそが、人種差別の終わる日です!』と言っおられらのを聞いたことがあります。そんな時が、間も無くやってくるでしょうか。

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潔い人

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 誰でも叩くと、埃が立つのですが、立場をとると、ああでもない、こうでもなくと色々言われてしまう様です。退任される安倍晋三首相に、心から『ご苦労様でした!』と労を労(ねぎら)いたい思いでおります。

 中国にいました時に、よく学生さんたちに質問されたのは、『日本の総理は、どうして変わってばかりいるのですか?』でした。中国は、一度、総主席が決まると、8年の任期をし通します。今の主席は、終身総主席になろうとしていますが、テロや政変がない限り、立場を堅持し続けます。

 でも、自分たちが領導を選ぶことのできないジレンマで、日本の政権の短さを、そう言ったのです。ところが、安倍首相は、七年有余、歴代最長の任期を遂げたのです。それでも、アメリカは、一般的に八年、今の中国が終身なのに比べると、短期です。私は、第52、53、54代を務られた、鳩山一郎首相を覚えています。新聞で、子どもの目で見た温厚なお顔が印象的でした。

 今回、新しく菅首相が選任されることになりましたが、新しい首相が選ばれるごとに、私は、思い出してしまう方がいます。それは、第32代内閣総理大臣をされた広田弘毅氏です。戦時中の首相を務められ、戦後の東京裁判で、A級戦犯で裁かれ、文人で唯一死刑の判決を受け、処刑された方でした。ものの本でしか知りませんが、その名の如くに、その《毅然さ》に驚かされたのです。

 この方は、いわゆる秀才でした。石屋の子として生まれ、石屋になるように、親に願われていましたが、周りの人の勧めで、上級学校に進学して行きます。子どもの頃から、『日本のためになろう!』という願いをうちに秘めていたそうです。当時は、軍国主義が勢いを増していた時代で、軍人志向が強かったのですが、この方は、優れた「外交官」になろうと考えていました。

 父からもらった名は、「丈太郎」でしたが、論語の『士不可以不弘毅(士は弘毅ならざるべからず)』という教えに感銘を受けて、「弘毅(度量が広くて意志が強いこと)」に変えています。「高等文官試験外交科」に主席合格するのですが、名門の出ではないとの理由で、冷遇されてしまうのです。それで重要国でないオランダに赴任しますが、その時、こんな句を詠んでいます。

 風車 風の吹くまで昼寝かな

 そんな待遇に中、昼寝ではなく、読書三昧(ざんまい)で時を過ごした人でした。結婚も、家柄がよく、出世の助けになるような女性ではなく、無名の人の娘を、郷里の福岡から、妻に迎えて、生涯愛し続けています。結局、敏腕な外交官でしたから、戦局が拡大して行く中、手腕を買われて、外務大臣の職を任せられます。そして、総理大臣の重責を負います。後に問題とされた、「満州事変」や「南京攻略」の時の「虐殺事件」の時期に政権の最高責任者であったのです。

 その責を問われ、裁かれ、死刑判決を受け、処刑されたのです。法廷では、自分に有利な証言をするように、弁護人に勧められても、他の被告の不利にならないようにと勧められますが、泰然自若、助命嘆願など一切しないで、慌てふためくことなく自己弁護を一切しませんでした。驚くことに、広田弘毅氏が亡くなる前に、静子夫人は、自死されます。

 妻を愛し、子を愛した人でした。一番は、「自ら計らぬ人」であったことでしょうか。私は、自分の祖父の時代人である広田弘毅が、「潔(いさぎよ)い人」であったことに感じること大であるのです。それで、私のペンネームは、「広毅」なのです。名門出でない新首相に、広田流の「潔さ」を求めたい秋の朝です。

(福岡市の市花の「芙蓉(ふよう)」です)

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